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深堀城山の陸軍省要塞標探しと新ルート整備  2014年3月

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深堀城山の陸軍省要塞標探しと新ルート整備  2014年3月

2014年3月2日(日)晴。深堀城山(標高350.4m)の陸軍省要塞標探しと新ルート整備。みさき道歩会の例会。参加7人。
江川総合運動公園9:35—船舶装備尾根9:42—小ピーク10:36—炭焼き釜跡10:46—城山登山道出合12:35—愛宕神社跡12:40(昼食)13:20—竿浦下山路分岐13:30—竿浦14:50—江川総合運動公園15:10(徒歩距離 約 8km)

今回の目的は、次を参照。「長崎要塞第二地帯標」の竿浦の八郎岳側「第十一号」「第十二号」の現存が判明したから、深堀城山側の「第九号」「第十号」の調査である。
2−特 竿浦町大山祇神社北上の尾根  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十二号)
https://misakimichi.com/archives/3853
2014年1月19日(日) 竿浦から八郎岳一周とかき焼き新年会
https://misakimichi.com/archives/3907

竿浦や平山から深堀城山へ登る道はあまり知られていないが、数ルートの昔からの赤道が残る。城山山頂八幡宮へ正月参りや、愛宕神社の毎年6月の祭りには、神楽が舞いかがり火がたかれる。竿浦や平山からも地元民はこの道を利用して、昔は参拝が多かったと思われる。
陸軍省要塞標探しを兼ねて、私は先般からこの赤道調査をしていたが、標石はまだ見つかっていない。

「第九号」「第十号」とも竿浦集落内里道に建っていた(戦後、撤去された?)可能性があり、山中に標石が残るのはあまり期待していないが、調査だけは進めていた。
最後に残ったのが、竿浦サイクリング道路脇の「第十一号」と、深堀城山山頂の「第八号」を線で結ぶと、船舶装備尾根となる。赤道こそないが、こればかりは歩いて調査してみないとわからない。

ナフコ先の船舶装備尾根から城山山頂へ登られるように、新ルート整備のつもりで少し切り開き、陸軍省要塞標探しをしたが、やはり見つからなかった。難路で急登な尾根が続き、登山には無理があるだろう。城山山頂から言うと、愛宕神社跡の少し手前の登山道に出て、昼食とした。
午後はお水場分岐のところから、反対側の斜面へ知られている竿浦下山路があり、赤テープを伝って竿浦へ下った。 

川原慶賀が稲佐山から描いた「長崎眺望」図は、どんなものか

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川原慶賀が稲佐山から描いた「長崎眺望」図は、どんなものか

長崎新聞の2014年(平成26年)1月5日付第1面トピックス記事「川原慶賀の作品に道教の寺」、及びNBC長崎放送が2014年2月6日午後6時15分から”報道センターNBC”で放送した特集「川原慶賀の風景画 道教の寺が長崎に?」については、私たちの疑問を本ブログで前に展開した。

江戸時代の絵師、川原慶賀が長崎市街と港を描いた「長崎眺望」図は、出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられる。
川原慶賀「長崎眺望」図は、「道教の寺?」関係のため、弥生町高台ピーク(私たちの推定地点 長崎女子短大背後の丘)から描いたと思われるものを、これまで紹介してきた。

川原慶賀の作品は、これと対をなすようなあと1枚の、稲佐山山頂からの「長崎眺望」図がある。長崎港を東と西からまさに対面をなして山なども描いている。
もはや「道教の寺?」と関係なくなるが、写真がまだない時代、長崎全体をこれも正確に描いた貴重な大作である。原田博二氏著「図説 長崎歴史散歩」1999年河出書房刊から図版を掲げてみる。sat*mo*a*emo2*08氏が、主な地名や山名などの書き込んでくれた。

長崎市西部の「稲佐山」(標高342m)は、長崎観光の名所。長崎市街と港など大パノラマが広がる。写真が発明された幕末・明治期となり、次のような古写真も残っているので、時代の対比として見てもらいたい。現在のパノラマ写真を添えた(ズーム拡大)。
きのう稲佐山へ出かけた。なかなか同じように写せる場所がなく、推定場所の間違いも考えられる。写真写りも悪いので、そのときは後日差し替えたい。

「プロセイン・ドイツが観た幕末日本」300・301頁に掲載。「ⅤⅠⅠ−51 長崎全景のパノラマ写真」1861年。(これは山頂でなく中腹、現在のホテル清風あたりからの撮影と思われる)
https://misakimichi.com/archives/3568
「写真の開祖 上野彦馬 −写真に見る幕末・明治ー」産業能率短期大学出版部昭和50年発行の126頁に掲載。上野彦馬撮影「稲佐山から長崎の港を俯瞰」。撮影年代は未詳。(これはほぼ山頂からの撮影と思われる)
https://misakimichi.com/archives/2804

川原慶賀の作品は、このほか金比羅山から長崎港入口を向いて描いた有名な「長崎眺望」図がある。プロセイン・ドイツ、F.ベアト、上野彦馬らも、同じようなフォトリトグラフや古写真を残している。これらについては、本ブログですでに個別に紹介しているが、この記事と同じように、そのうち対比をまとめてしてみたい。

長与町に残るアーチ式石橋めぐり (2)  2014年2月

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長与町に残るアーチ式石橋めぐり (2)  2014年2月

2014年2月16日(日)晴。西彼杵郡長与町に残るアーチ式石橋めぐり。参加6人。みさき道歩会の例会。岡郷5橋、中尾城公園1橋、川平道路入口1橋を訪ねる。
(1)は午前、(2)は午後の写真。
岡郷下岡バス停10:25—旧国道現役の橋10:28—その上流小橋10:33—おこ川上流橋
10:45—四釜橋10:56—その上流橋11:05—舟津橋11:45—広瀬酒本舗煙突11:49(昼食)12:40—法妙寺12:53—長与焼古窯跡皿山13:02—中尾城公園14:03—ゆりの橋14:36—長与駅前—川平道路入口橋15:36—本木バス停15:55(徒歩距離 約12km)

(1)からの続き。名物煙突で昼食後、長与川左岸車道をなお遡る。寺の下バス停すなわち古刹法妙寺がある。背後の山が長与氏の居城睡飲城(浜城)跡。寺前に見えるのが、長与焼古窯跡皿山。有川石材ではゴジラが手袋していた。
皆前橋を渡り、長与町公民館、長与町役場の方へ入る。長崎西高長与分校跡が役場敷地である。裏通りを進むと中尾城公園が見えてくる。

中尾城公園は、JR長与駅の東側に位置する。中世の山城跡にできた公園。スパイラルスライダーは、らせん状のすべり台で、7階建てビルに相当。珍百景に出た。脇にミニモノレールが新設されていた(65歳以上は無料)。
梅の見頃とあって、人出が多い。山頂の山城跡には土塁が残る。谷間へ下ると、百合野団地から移設されたアーチ式石橋「ゆりの橋」がある。

JR長与駅前の国道を道の尾方面へ黙々と歩く。途中から線路右側の遊歩道に入ったりして、本木の川平道路入口まで行く。きょうの最後の石橋が、ここの洗濯工房店裏の川に残る。
アーチ部分の礎石のみが、水害にも流されずにある。なぜここにかと思うが、昔の街道の位置だった証拠だろう。散歩の途中に発見した人は、2年前にすでに亡くなり、思い出の橋となった。道の尾までの予定は、午後4時近く。ここで終らせた。この石橋と「百合野橋」は、次を参照。
長与インター入口近くでアーチ石橋が見つかる  西彼杵郡長与町高田郷
https://misakimichi.com/archives/708

長与町に残るアーチ式石橋めぐり (1)  2014年2月

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長与町に残るアーチ式石橋めぐり (1)  2014年2月

2014年2月16日(日)晴。西彼杵郡長与町に残るアーチ式石橋めぐり。参加6人。みさき道歩会の例会。岡郷5橋、中尾城公園1橋、川平道路入口1橋を訪ねる。
(1)は午前、(2)は午後の写真。
岡郷下岡バス停10:25—旧国道現役の橋10:28—その上流小橋10:33—おこ川上流橋
10:45—四釜橋10:56—その上流橋11:05—舟津橋11:45—広瀬酒本舗煙突11:49(昼食)12:40—法妙寺12:53—長与焼古窯跡皿山13:02—中尾城公園14:03—ゆりの橋14:36—長与駅前—川平道路入口橋15:36—本木バス停15:55(徒歩距離 約12km)

大波止9:34発堂崎行乗車。長与町下岡バス停から歩き出す。総合公園後ろとなる旧国道へ入り岡郷に集中して残るアーチ式石橋5橋(旧国道現役の橋、その上流小橋、おこ川上流橋、四釜橋、その上流橋)をまず見学。地元の人や長与町教育委員会も、その存在はあまり知らない。町文化財に小さな石橋群として指定して良い。石橋の詳細と所在地図は、次を参照。
長与町に残るアーチ石橋  西彼杵郡長与町岡郷ほか
https://misakimichi.com/archives/628
岡郷「四釜橋」及び「旧国道の現役の橋」上流のアーチ式石橋
https://misakimichi.com/archives/2855

旧国道から舟津へ出る。途中の住宅地内の旧家、森宅庭で、同じ幹から下は紅、上は白と2段咲きした珍しい枝垂れ梅を見た。こんな品種があるのだろうか。ここにはガレージを利用した写真ギャラリーがあった。
舟津橋の対岸へ渡り、長与川沿いの車道を行くと、広瀬酒本舗の煉瓦煙突が立つ。「鶴乃港」の酒造元だった。長崎県のまちづくり景観資産に指定されている。「長与町郷土誌 上巻」による紹介は、次を参照。この釜跡は原爆被災者の救援炊き出しに活躍しているが、これも記録してほしい。古写真の右側木橋は、酒造りの水を対岸の山手から引いていた自前の橋という。
名物煙突? 広瀬酒屋「鶴乃港」の煙突  長与町斉藤郷
https://misakimichi.com/archives/2850
煙突の後ろの庭で昼食。以下、午後は(2)へ続く。

『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (2)

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『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (2)

前の記事、『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録(1)に続き、これはまた、たいへん示唆に富む解釈と感想の、貴重なご教示をいただいた。
「肥前国 深堀の歴史」著者。現在は芦屋市在住で、みさき道研究では「関寛斎 長崎在学日記」(北海道陸別町同資料館所蔵)の解読に、たいへん協力いただいたKT氏である。
私信内容は次のとおり。長崎の道教の寺「崇玄観」解明の手がかりとなるので、あえて公開させてもらった。

先日来の崇玄観論争、興味深く拝見しています。
拝見する限り、原田先生の御説は分が悪いように思えます。新聞記事にも「田上方面の山あいにあった」とあるのに、どうして先生は大浦椎の木町に比定されたのでしょうか。本日UPされた『先民伝』を読むかぎり田上にあったことは動かし難いと思います。

sat*mo*a*emo2*08さんの読み下しのとおり、
①(大江宏隆は)晩年田上に道観を構え<田上は奉行所の南にある>、真武廟を建てた。
②そこで修練をおこなった。
③享保11年に長崎に来た高学士但賢がその道観を崇玄と呼んだ。
④長崎奉行日下部丹波守が親しく崇玄観の三文字を書いて(大江に)与えた。
とあるので、「長崎の田上には、真武廟を持つ道観があった」ことはたしかのようです。

もちろん慶賀の絵に描かれていればベストですが、長崎に道観が存在したことを言うのに無理に慶賀の絵を結びつける必要はなさそうです。ましてみなさんが論証されたように比定地に疑問があるならなおさらではないかと思います。以下は蛇足です。

『先民伝』の在鎮正南は田上の位置についての注釈だと思います。鎮正南が鎮の正南なのか鎮正の南なのか、よくわかりませんが、国会図書館本は鎮正の南と読んでいます。つまり田上は長崎の南方だと注釈を付けているのではないでしょうか。
于は於と同じで、于田上で「田上に」と読むのだと思います。
以はもって。
〆に似たメは正しくは二画め突き抜けないで、シテの合字、「して」です。

事を奉して(奉じて)崎に在り、其の観を顔して崇玄と曰ふ、
「顔する」はよくわかりませんが、字書からすると扁額に書くことではないでしょうか。その道観を崇玄と呼んだという意味ではないでしょうか。
親はラと送り仮名があるので、「みずから」と読ませるようですが、「したしく」と読んでもいいと思います。(注 訂正したような線から「親テ」、つまり「したしみて」と読むこともできる、との解釈もあっています)
いずれにしろsat*mo*a*emo2*08さんが読み下しておられるとおりだと思います。

最後に、出家とその弟子さんが言われるように北の神様真武廟がどうして南にあったのかは疑問です。真武に関係する妙見さんでもあったのでしょうか。わかったら教えてください。

(追 記 2014年2月11日) 
次はKT氏から、解釈について追記です。稲佐山からの眺望図関係は、コメント内容から必要な絵図・写真を見てもらうため追加しました。

親の送り仮名はラともヲともテとも見えます。国会図書館HPを拡大してラと読みましたが、断定できません。「みずから」でも「したしみて」でも意味は同じだと思われます。
なお在鎮正南については、鎮正という言葉が字書になく、「鎮の正南に在り」と読むのかも知れません。いずれにしろ田上についての割注だと思います。真南ではないと思いますが。割注が三か所とも固有名詞に付いていると思うからです。

『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (1)

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『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (1)

以下は、sat*mo*a*emo2*08氏から、2月9日メールによるご教示である。『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録を、国立国会図書館デジタルコレクションから調べてくれた。
川原慶賀「長崎眺望」図において、同氏からは金比羅山や西山方面を描いた右側1枚の続きや、私たちが慶賀が描いたと推定した地点、現弥生町の長崎女子短大背後の標高240mピークから対象の山などとの位置関係を、現在の地形図へ線引きして確認するなど、たいへん協力いただいている。

長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述は、本ブログ次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3909
「121 崇玄観  大江操軒が建てたが、廃絶歳久しく、その趾は不明である。〔長崎先民伝の操軒大江宏隆の項を引用してあるが略す〕」
これは、文化文政期の図絵執筆当時、長崎奉行の命を承った長崎聖堂助教の儒者ら編者が、「田上に崇玄観趾はすでに不明」とはっきり記している。〔 〕書きは現代語訳著丹羽漢吉先生が、先民伝引用の掲載は略したという注釈である。

Re: 報道センターNBCの特集

『先民伝』について「出家とその弟子」 様が述べられていたので、私も調べてみました。テレビ画像は『先民伝』の写本のようですが、木版本が国立国会図書館にありました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543340    コマ番号31〜32に書かれています(ズーム拡大)。以下書き下し文です。( )内は私が補いました。

大江宏隆(おおえ ひろたか)。字ハ意敬。操軒ト號ス。
(中略)
晩年自ラ道観ヲ(于)田上ニ構。鎮正ノ南在。真武廟ヲ建。修練ヲ以事ト為。享保丙午(享保11年
1726年)。高学士但賢(深見 有隣ふかみ ありちか1691年〜1773年)。字ハ松年。事ヲ奉メ崎ニ在。其観ノ顔メ崇玄ト曰。鎮台日下部博貞(くさかべ ひろさだ長崎奉行1717年〜1727年)。字ハ文如。丹波守。親テ崇玄観三字ヲ書以賜。後三年己酉(享保14年1729年)病卒。時年六十一。

メは〆で、…にして か? いくつかの文字の読みは判りませんが、これが問題の発端の文章です。最初に「出家とその弟子」 様は、その時点で原文を読まれた上で、慶賀の絵に関する原田氏の見解に疑問を感じ、「道人」様に調査依頼として問題提起されました。
原田氏は「鎮正の南に在り」という部分にこだわり過ぎて、真南にある丸尾神社と崇玄観を強引に結びつけておられるようです。『長崎名勝図絵』にも書かれているように、大江宏隆没後九十年を経て、志を継ぐ者も出ず、寂れて跡を留めぬこととなったと思われます。
慶賀の絵も『長崎名勝図絵』とほぼ同時期に描かれているようなので、絵には崇玄観が存在しないはずです。

NBCのニュースは独自取材も無く、長崎新聞記事に追随したことは明らかです。「道教の寺が長崎に!」ではなく「道教の寺が長崎に?」と断定していないところに、まだ救いがあります。
川原慶賀の絵は稲佐山からの絵も含めて、今から190年程前の長崎を描いた正確なパノラマの絵は全国的に評価されてしかるべきと思います。

NBC長崎放送「川原慶賀の風景画 道教の寺が長崎に?」

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NBC長崎放送「川原慶賀の風景画 道教の寺が長崎に?」

NBC長崎放送が、2014年2月6日午後6時15分からの”報道センターNBC”で、特集として「川原慶賀の風景画 道教の寺が長崎に?」を放送した。
この項の、本ブログや私たちの考えは、次を参照。
川原慶賀「長崎眺望」全図と、どこから描かれたか再考
https://misakimichi.com/archives/3911
川原慶賀「長崎港眺望図」は、どこから描かれたか
https://misakimichi.com/archives/3908
長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述
https://misakimichi.com/archives/3909

長崎新聞と長崎放送の報道姿勢は問題がある。放送内容の全部は紹介できないが、絵図と現在の写真の対比放送画面は載せたので、みなさんで考えてもらいたい。論理は全くの誤認があるだろう。正しい文献調査や現地調査を行った結果の発表となっていない。
長崎学はこれでよいのだろうか。ライデン博物館、椎の木町自治会、日本道教本部、中国メディアまで及んだニュースとなっている。高名な先生だけに、慎重な研究をくれぐれもお願いしたい。
テレビ画面は、著作権法で認められた範囲で引用し公開したつもりだが、誤りがあったら画像は削除したい。

「広助さんの丸山歴史散歩」による丸尾神社の解説は、次のとおり。
C-267:丸尾神社(まるおじんじゃ)
椎の木町14(旧 大浦元町/戸町村大浦郷)
この神社がある付近は起伏が激しく、ちょうど神社付近が尾っぽのように丸くせり出ている様子から丸尾という地名が誕生したものと考えられます。また、丸尾神社の創建は定かではありませんが、祭神は稲荷神で、鳥居に明治20年(1887)と刻されているところから、そのころに創建されたものと考えられます。また、創建後の大正9年(1920)に再建られ、境内に小さな祠が点在しているところから当時の厚い信仰の様子が伺えます。
〇御大典記念碑:昭和天皇即位記念に昭和3年(1928)に建立。

八郎岳登山口の登山者用駐車場などの整備と、手造りアーチ式石橋「乙女橋」

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八郎岳登山口の登山者用駐車場などの整備と、手造りアーチ式石橋「乙女橋」

長崎市へのご意見・ご提案等の紹介
ご意見(要旨) 八郎岳登山口の登山者用駐車場、公衆便所などの整備 【2013年12月受信】
長崎市南部の山、八郎岳は標高589.8m。長崎市内の最高峰。野母半島県立公園で、九州百名山の1つです。市内外から訪れる登山者が多く、2011年8月から、再三、長崎市平山町の八郎岳登山口に登山者用駐車場、公衆便所、国道側案内標識などを設置するよう、長崎市及び長崎県にも要望しましたが、納得できる進展がありませんでした。
周辺案内図が設置されただけで、ほかはそのまま放置されています。財政的な理由は、たしかに理解できますが、あまり予算をかけず実現できる方法をぜひ考え、実行してください。今回このことを再要望したのは、最近、市民農園関係者が休みのたびに、農園駐車場に張り込み、登山者の駐車を厳しくとがめていると聞いたからです。
登山や農作業は、お互い気持ち良く楽しみたいはずです。このような険悪な事態は、長崎市政の評判と評価を落すだけです。公衆便所は、農園利用者も必要としていると思います。以上のことを良く理解し、長崎市において早急な実現をぜひお願いします。

回 答  農林整備課・農業振興課 【2013年12月24日回答】
平山市民農園は、駐車場も含めて長崎市が地権者から土地を借り上げ、入園者は使用料を負担して市民農園を利用しておりますので、入園者以外が農園駐車場を利用することは、ご遠慮いただいています。登山者の方も駐車されている場合がありますが、植え付け時期や収穫時期は多くの方が来園されますし、また、仕事の都合上、土曜日、日曜日だけしか農園に来られない方もおられ、駐車区画が不足することもあり困っている状況ですので、農園利用者以外の駐車はご遠慮いただいております。
登山者のための駐車場及びトイレ等の整備は、財政的に困難でありますので、国道沿いなど周辺駐車場などをご利用いただきますよう、ご理解とご協力をお願いします。また、案内標識などにつきましては、前回、回答いたしておりますとおり、八郎岳登山における必要な情報を判りやすく表示する観点から、山岳連盟などの専門家のご意見をお聞きしながら、引き続き検討しており、必要に応じてできるものから修正、新設を行っていきたいと考えています。

以上がその回答だが、単なる現状問題点の解決先送りである。再回答を求めたところ、長崎市農林整備課長から、次のとおり個別回答があった。

平成26年1月22日  農林整備課長
長崎市におきましては、中期財政見通しにおいて、厳しい財政状況が続くと予想されることから、事務事業の抜本的見直しや収入増対策を徹底することにより、歳入歳出両面から収支不足の圧縮に努めることとしています。(詳しくは、長崎市のホームページをご覧ください) このため、選択と集中の観点から、市民生活に直結する事業について、緊急度や重要度を考慮した上で十分な検討を行い、優先順位をつけて計画的に事業を進めることとしています。
ご提案の登山者用の駐車場や公衆便所につきましては、日常的に市民生活に直接関わる施設とは言い難く、八郎岳登山ルートが数多くあるなかで、平山からの往復を限定するものであり、土地の確保や維持管理も困難であることから、現状におきまして、整備はできかねますので、ご理解いただきますようお願いいたします。
また、長崎市内の多くの山でも、登山者自らが、登山ルートや交通手段等を検討されておられますので、八郎岳への登山者におかれましても、自家用車を使用される場合は国道周辺の駐車場などをご利用いただくか、公共交通機関をご利用いただき、登山を楽しんでいただきますようお願いいたします。
一方、長崎市内の各所において、地域の皆様や志を共にされる仲間の皆様が、あらゆる分野で様々な活動をされていますが、このうち、多くの市民の皆様に有益な活動につきましては、長崎市として内容等を精査した上で、支援させていただいている事例がございます。
したがいまして、貴方ご提案の内容につきましても、登山に関わる組織や仲間の皆様と自ら活動される内容を含めてご検討され、皆様の総意として活動されることとなりましたら、長崎市としてご協力できることもあろうかと思われますので、ご相談いただきますようお願いいたします。

これが長崎市長の見解であり、最終回答として理解して良いのだろう。その後、回答はない。これを公表し、みなさんの判断を仰ぎたい。市政への提案回答として、私だけではなく、市民全体のみなさんへわかるよう、必ず公開をお願いしたい。
財政上の理由はわかるが、必要性はやっと理解されたようだから、今後、実現に向けて財政当局とぜひ折衝していただきたい。

当面の措置として、市民農園や元宮公園の駐車場は、どうしても開放はできないのだろうか。上記の回答文の後段は、おかしな回答である。
本来ならば、長崎市が当然しなければならない施策の実現を、私へ活動を押し付けている。財政上の理由は別として、必要性はやっと認めたのだから、皆の総意があっているものとして、事業を先へ進めて良いはずである。
何も私ひとりの要望ではない。協力できることは、相談がなくても早急に実現できるということではある。こんな回答はしないようお願いしたい。

少しはましな回答となったが、いつまでも市の見識のなさにあきれる。現状ではとにかく、長崎市政の評判と評価を落しているだけである。長崎市長がまずこのことを深く認識して、早急な対応をお願いしたい。つまらない回答はさておき、八郎岳の沢に手造りした石橋へ話題を変えよう。

「今晩は。今日後半は好天予報でしたので、平山墓地前を午前10:15に出発して、八郎岳・小八郎岳・乙女峠を回ってきました。山頂は残念ながら雲におおわれて視界はあまりよくありませんでした。乙女峠を下ってから、自然石の石橋「乙女橋」がしっかり健在であることを確認できました。完成後何年経過しましたかね? 堅牢な出来栄えですね。写真を撮りました」

きのう2月2日(日)、八郎岳へ登った○里氏からのメール。道歩会の仲間。駐車場の最近の実状を知らせてくれたのも、同氏である。
手造りの自然石アーチ式石橋「(第2)乙女橋」(仮称)の記事と場所は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2911
「(第2)乙女橋」は2011年10月完成だから、完成後、2年3か月経過している。
久留米市の「美幸さんの日記」も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/a10412007/34212523.html

宮川雅一氏の長崎郷土史・新“岡目八目”  ピースミュージアム

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宮川雅一氏の長崎郷土史・新“岡目八目”  ピースミュージアム

長崎の明治・大正・昭和を紹介する「宮川雅一氏の長崎郷土史・新“岡目八目”」が、ナガサキピースミュージアム(長崎市松が枝町)で開催されている。
同ミュージアムの企画展資料は、次のとおり。

期  間 *2014年1月28日(火)〜2月23日(日) 入館無料
開  館 *9:30〜17:30  ※最終日は14:00まで
休  館 *2月3、10、17日(月)

郷土長崎をこよなく愛する宮川さんが、宮川家に残る古写真を中心に出版したエッセー<「郷土史・岡目八目」長崎新聞社2013年9月刊>を膨らませて明治・大正・昭和の長崎を紹介します。
親族に写真の元祖上野彦馬に師事した写真家もおり、明治から大正期の中国・上海「街並み」の貴重な写真などを公開します。

長崎学の第一人者である宮川雅一さんは、1986年に長崎市助役を退職後、長崎都市経営研究所を設立するなどして、ふるさと長崎を盛り立てて来られました。
現在も長崎史談会相談役、長崎近代化遺産研究会会長、長崎聖福寺大雄宝殿修復協力会世話人代表など多くの役を担っておられます。

2014長崎ランタンフェスティバル開幕前夜

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2014長崎ランタンフェスティバル開幕前夜

開幕前夜、1月30日午後6時と9時頃のメイン会場、新地湊公園などの様子。長崎観光・宿泊ガイド”あっ!とながさき”は、次のとおり。

2014長崎ランタンフェスティバル

長崎の冬の灯りの祭典である、長崎ランタンフェスティバルが今年も華やかに開催されます。約15000個もの中国提灯(ランタン)や、その年の干支のメインオブジェをはじめとする大型オブジェなどがところ狭しと飾られ、長崎の街を極彩色に彩ります。
期間中は、龍踊りや中国雑技などの中国色豊かなイベントも行われます。毎土曜日は清朝時代に皇帝、皇后が民衆と一緒に新しい年を祝う様子をイメージした皇帝パレード、毎日曜日には江戸時代に長崎に入港した唐船の乗組員達が、航海安全の神である媽祖を媽祖堂まで安置する様子を再現した「媽祖行列」が行われます。

〈開催期間〉 1月31日(金)〜2月14日(金)
〈点灯式〉 1月31日(金) 17:30〜18:00 新地中華街会場、中央公園会場にて行います。
〈皇帝パレード〉 2月1日(土)・8日(土) 14:00〜16:30
〈媽祖行列〉 2月2日(日)・9日(日) 14:00〜17:20
〈会 場〉 新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、興福寺、鍛冶市会場、浜んまち会場、孔子廟会場
※ステージイベントの時間は各会場、イベントによって異なります。