『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (2)

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『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録 (2)

前の記事、『先民伝』による長崎に道教の寺「崇玄観」の記録(1)に続き、これはまた、たいへん示唆に富む解釈と感想の、貴重なご教示をいただいた。
「肥前国 深堀の歴史」著者。現在は芦屋市在住で、みさき道研究では「関寛斎 長崎在学日記」(北海道陸別町同資料館所蔵)の解読に、たいへん協力いただいたKT氏である。
私信内容は次のとおり。長崎の道教の寺「崇玄観」解明の手がかりとなるので、あえて公開させてもらった。

先日来の崇玄観論争、興味深く拝見しています。
拝見する限り、原田先生の御説は分が悪いように思えます。新聞記事にも「田上方面の山あいにあった」とあるのに、どうして先生は大浦椎の木町に比定されたのでしょうか。本日UPされた『先民伝』を読むかぎり田上にあったことは動かし難いと思います。

sat*mo*a*emo2*08さんの読み下しのとおり、
①(大江宏隆は)晩年田上に道観を構え<田上は奉行所の南にある>、真武廟を建てた。
②そこで修練をおこなった。
③享保11年に長崎に来た高学士但賢がその道観を崇玄と呼んだ。
④長崎奉行日下部丹波守が親しく崇玄観の三文字を書いて(大江に)与えた。
とあるので、「長崎の田上には、真武廟を持つ道観があった」ことはたしかのようです。

もちろん慶賀の絵に描かれていればベストですが、長崎に道観が存在したことを言うのに無理に慶賀の絵を結びつける必要はなさそうです。ましてみなさんが論証されたように比定地に疑問があるならなおさらではないかと思います。以下は蛇足です。

『先民伝』の在鎮正南は田上の位置についての注釈だと思います。鎮正南が鎮の正南なのか鎮正の南なのか、よくわかりませんが、国会図書館本は鎮正の南と読んでいます。つまり田上は長崎の南方だと注釈を付けているのではないでしょうか。
于は於と同じで、于田上で「田上に」と読むのだと思います。
以はもって。
〆に似たメは正しくは二画め突き抜けないで、シテの合字、「して」です。

事を奉して(奉じて)崎に在り、其の観を顔して崇玄と曰ふ、
「顔する」はよくわかりませんが、字書からすると扁額に書くことではないでしょうか。その道観を崇玄と呼んだという意味ではないでしょうか。
親はラと送り仮名があるので、「みずから」と読ませるようですが、「したしく」と読んでもいいと思います。(注 訂正したような線から「親テ」、つまり「したしみて」と読むこともできる、との解釈もあっています)
いずれにしろsat*mo*a*emo2*08さんが読み下しておられるとおりだと思います。

最後に、出家とその弟子さんが言われるように北の神様真武廟がどうして南にあったのかは疑問です。真武に関係する妙見さんでもあったのでしょうか。わかったら教えてください。

(追 記 2014年2月11日) 
次はKT氏から、解釈について追記です。稲佐山からの眺望図関係は、コメント内容から必要な絵図・写真を見てもらうため追加しました。

親の送り仮名はラともヲともテとも見えます。国会図書館HPを拡大してラと読みましたが、断定できません。「みずから」でも「したしみて」でも意味は同じだと思われます。
なお在鎮正南については、鎮正という言葉が字書になく、「鎮の正南に在り」と読むのかも知れません。いずれにしろ田上についての割注だと思います。真南ではないと思いますが。割注が三か所とも固有名詞に付いていると思うからです。