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「四郎ケ島台場跡」国史跡指定と、「神の島低砲台跡」

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「四郎ケ島台場跡」国史跡指定と、「神の島低砲台跡」

「四郎ケ島台場跡」の国史跡指定について、長崎市市史編さん室編集「長崎市史だより」平成
26年3月発行第9号4頁に、次のとおり記事があった。
「国の文化審議会は平成25年11月15日、国史跡「長崎台場跡魚見岳台場跡」に「四郎ケ島台場跡」を追加し、「長崎台場跡魚見岳台場跡四郎ケ島台場跡」と名称を変更しました。…今回、追加指定された四郎ケ島台場は年代が少し下った嘉永6年に作られました。…」との内容。
なんでこんな大事なことが「コラム」なのだろうか。「トピックス」ならまだわかる。「広報ながさき」や「長崎市の文化財」HPでは、今もって大がかりな広報がないようである。はたして答申を文部科学相がいつ正式に追加指定したのか、わからない内容の記事である。きょうの新聞は報じていなかった。(市文化財課に確認すると、文部科学省から3月18日決定と通知があったという)

次は、3月2日(日)午前実施された、長崎市文化財課主催「−文化財めぐり− 国史跡指定答申(?)記念〜長崎台場跡四郎ケ島台場跡とその周辺をめぐる〜」の参加者配布資料。私は参加していない。2頁に「神ノ島台場跡(埋蔵文化財)」があるが、その説明は不備である。
「明治に至り、四郎ケ島台場を含めた長崎台場の役割が終わったのち、明治31年(1898)に神ノ島は28cm榴弾砲8門を有する「神ノ島高砲台」が竣工され、「神ノ島低砲台」とともに近代の要塞へと化しました。現在も高砲台跡の一部は神ノ島公園内に残っています。…」

この項は、本ブログ次を参照。浄法寺朝美氏著「日本築城史」原書房昭和46年発行228〜
234頁に記した「長崎要塞 2)神の島低砲台」の調査がまったく行われていない。
神の島公園の西南部、すぐ下の堂の下部落の民家前に、庭のようにして遺構が現存するのを、ピースバトン長崎学さるくも知らないのだろう。長崎市文化財課は、文化財めぐりで参加者を案内していない。佐賀から大勢が参加している。答申資料に重大な記載洩れではないか。
https://misakimichi.com/archives/1694
https://misakimichi.com/archives/3878

「神の島低砲台」跡は、私たちが陸軍省要塞標の調査で、現地写真のとおり早くから遺構を確認していた。場所は神の島公園から四郎ケ島へ下る車道右脇の民家道に入る。カトリック墓地下となる。地元の年配者ならだれでも知っている。「日本築城史」による記録は、次のとおり。
2)神の島低砲台
神の島の西南部、堂の下部落の西約100メートル、海岸線より50メートル、標高18メートルの地に、明治31(1898)年8月着工、同32年7月竣工した、スカ式9センチ速射カノン4門の砲台である。備砲は34(1901)年3月着手し、35年2月に完了した。備砲費は3万8100円であった。首線方向はSE10°で、長崎湾口に向いている。射界は120°である。(略)

なお、長崎市文化財行政に対する同じような疑問は、次の例にもあるので、コメントとも参照。
深堀陣屋跡の現況 (5)
https://misakimichi.com/archives/3922
深堀景観まちづくりガイドライン (タッちやんブログ報告)
http://blogs.yahoo.co.jp/turbobf1516/54606782.html

船石町に残るアーチ式石橋と巨木めぐり (2)  2014年3月

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船石町に残るアーチ式石橋と巨木めぐり (2)  2014年3月

2014年3月16日(日)快晴。長崎市東長崎地区の船石町に残るアーチ式石橋と巨木めぐり。参加6人。みさき道歩会の例会。
JR肥前古賀駅9:47—古賀ラカンマキ9:55—船石「下大野橋」11:39—並松翠鯉の苑12:00(昼食)12:35—「千歳橋」12:38—二双舟タブの木13:05—旧本田家住宅13:38—藤棚13:51—つつじが丘入口バス停14:05(徒歩距離 約8km)   

時津町に続く船石町に残るアーチ式石橋と巨木めぐり。所在場所は、本ブログ次を参照。次回は4月20日に喜々津町を予定。 https://misakimichi.com/archives/604
午前(1)からの続き。第二のアーチ式石橋「千歳橋」は、昼食をとった「並松翠鯉の苑」のすぐ先にある。標石によると明治45年3月架設。県営バス古賀木場終点前を通り、二双舟まで行く。高い石垣の旧家の入口にタブの大木がある。石垣を背景に樹形が見事な木だったが、今は幹先がだいぶん伐採されていた。

川沿いの市道へ戻り鞍部の峠を越し、下って行くと長崎自動車道に出る。左側へ向い高架下のトンネルをくぐって、国指定重要文化財「旧本田家住宅」を訪ねる。すぐ手前のところで、花が白・赤・紅白の珍しい椿の木があった。ハマグリそっくりの石もあった。
「旧本田家住宅」から「古賀の藤棚」までは、遊歩道を歩くとすぐ近くである。日本三大土人形とされる「古賀人形」工房はここにある。旧長崎街道を長崎へ少し戻り、つつじが丘入口バス停へ出た。バスの便は団地発着なのでここが良い。

船石町に残るアーチ式石橋と巨木めぐり (1)  2014年3月

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船石町に残るアーチ式石橋と巨木めぐり (1)  2014年3月

2014年3月16日(日)快晴。長崎市東長崎地区の船石町に残るアーチ式石橋と巨木めぐり。参加6人。みさき道歩会の例会。
JR肥前古賀駅9:47—古賀ラカンマキ9:55—船石「下大野橋」11:39—並松翠鯉の苑12:00(昼食)12:35—「千歳橋」12:38—二双舟タブの木13:05—旧本田家住宅13:38—藤棚13:51—つつじが丘入口バス停14:05(徒歩距離 約8km)   

時津町に続く船石町に残るアーチ式石橋と巨木めぐり。所在場所は、本ブログ次を参照。次回は4月20日に喜々津町を予定。 https://misakimichi.com/archives/604
長崎駅9:24発諫早行乗車。「七つ星」は駅事務室前のポスター。肥前古賀駅から歩き出す。駅から下ると、赤瀬宅庭に日本一のラカンマキがある。親和銀行保養所「迎仙閣」正門庭には、滝の観音道「たきみち」の標石があるが、門を閉めていて見学できない。国道34号線を渡り、旧長崎街道の道を歩く。古賀殉教地の碑やキリシタン墓石(水樋石?)がある。

石橋調査で和仁会病院の谷間を登ったので、福端寺は訪問もれ。病院から下ると、古賀庄屋屋敷跡の民家玄関前に、藩境石「大村領」が2本ある。水害で移設している。
いよいよ船石町に入る。現在の木場橋をまず見て、干束野へ上がる。九州新幹線(西九州)のトンネルがここにできるのか、測量表示があった。集落へ向うと、第一のアーチ式石橋「下大野橋」がある。昭和35年架設。

運動公園へ回って並松へ下ると、田嶋邸「並松翠鯉の苑」がある。かつての石橋「木場橋」を架けた当家。長崎大水害で流された橋の欄干片側をここに移設し保存している。
水苑脇で昼食。ザボン漬はいつものO氏宅特製。以下(2)に続く。

史談・史論「深堀小学校の文化財」  平 幸治氏稿

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史談・史論「深堀小学校の文化財」  平 幸治氏稿

平 幸治氏は芦屋市在住、長崎新聞社刊「肥前国 深堀の歴史」著者。2014年(平成26年)2月9日(日)付長崎新聞文化欄カルチャーサロンの寄稿記事。深堀地区の景観まちづくりに貴重な資料となるので、筆者の了解を得て再掲する。
詳述は、「肥前国 深堀の歴史」(新装版)教育の項352〜357頁にある。扁額の写真も、同
353頁から。

後の写真は、現深堀小学校の校庭に展示されている旧校門石橋の遺構と、武家屋敷通り樋口家の石塀改修工事の様子(見学会は開催済み。タッちゃんブログが載せていた。)
この項は、本ブログ「深堀陣屋跡の現況(5)」も参照。長崎市の対応は、重大な禍根を残した。  https://misakimichi.com/archives/3922

史談・史論「深堀小学校の文化財」  平 幸治
豊かな教育史示す額

筆者の母校、長崎市立深堀小(同市深堀町)は長崎市内で最も古い歴史を有する小学校である。同市内ではふつう勝山小(現桜町小)が最古といわれる。たしかに近代的な学制により明治6(1873)年3月に設置された向明学校つまり勝山小が翌7年7月設置の深堀学校より古い。しかし深堀学校はそれ以前の佐賀藩深堀領の郷学校を継承したもので、こういう前史を有する小学校は長崎市内では深堀小のみである。
江戸時代、佐賀藩領であった深堀や諫早、神代にはいずれも藩校に準ずる郷学があった。深堀では既に寛永年間(1624〜1643)には学舎を創設し家臣子弟の教育を行っていたが、幕末ごろには領主邸内に学館を構え校名を羽白館(うはくかん)と称した。羽白は論語の「学而時習之」から習の字を分解したものである。安政7年(1860)に校名を謹申堂(きんしんどう)と改めた。領主鍋島茂精(しげきよ)の要請で佐賀藩儒学者草場佩川(くさばはいせん)が「孟子」の章句から名付けたものである。深堀小には佩川筆「羽白館」と「謹申堂」の扁額(へんがく)が現存する。
謹申堂では漢学・洋学・算法・筆道・習礼および槍剣(そうけん)を教授し文武両道を学ばせた。また維新後には英学教員一名がいて、いち早く英学も教授したことは特筆すべきである。生徒数は通学生約80人、寄宿生20人、生徒からの束脩(そくしゅう)謝礼は不要で生徒のうち15人は官費生であった。春秋2回試験を行い優秀者には賞を与えた。領主茂精も佐賀から帰領するたびに生徒にテストを試み督励したという。また上進者は佐賀の藩校弘道館に遊学させた。
明治維新後は佐賀藩深堀郷学校、長崎県官設移管、深堀義塾に改称と変遷した。さらに政府の学制発布をうけ明治7(1874)年、第五大学区第一中学区深堀学校として継承し現在に至っている。また同19(1886)年、高等小学校の制度発足により野母半島18カ村の共立として第三高等小学校が置かれたのも深堀で、当時の深堀は教育の要地でもあった。
深堀小には前述の扁額の外にも副島種臣筆「深堀学校」、時の文部少輔九鬼成海筆「天任徳」の扁額が遺る。これらは教育史上貴重な文化財と言ってよい。
しかし同校が160年以上の歴史を持つことや、同校に伝来するこの貴重な資料の存在はあまり周知されていないようである。
豊かな歴史を有する深堀は地区内に多数の史跡も残る。こういう生の教材を活用して子どもたちが郷土の歴史に学び、郷土に対する愛着と誇りを育むことは、地域の活性化のためにも極めて大切ではなかろうか。  (六史会会員)

あご雛?  長崎県平戸市

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あご雛?  長崎県平戸市

ブログ”gonbeyaの部屋”2014年3月11日の記事から。私の先輩。これは傑作。

gonbeでーす。

まだまだ寒い日が続いてますね。(T_T) ウルウル

今三月、各地でおひな様の祭りをやってます。九州だと日田が有名だし、柳川のさげもんなども綺麗です。
昔の城下町で、武家屋敷がある地区での商店街でやってるのが多いようです
長崎も島原、大村、平戸などでやってるので、天気も良いので平戸へ行ってみました。
佐世保まで高速で行き、あとは一般道を走ったのですが、なぜか時間ばかりかかったみたい・・・
そんなに混んでる訳でもないのに・・・・やはり県北となると遠いのかな??

丘の上に立つ平戸城はこじんまりしてるけれど、港から見上げるといい感じのお城です。
藩主の松浦氏の資料館にはポルトガル関係の資料などたくさん展示してありました。
のちにオランダとの貿易で賑わってたのが、キリスト教禁止令に絡んで日本の貿易は長崎に移ってしまったんですね。

街中のお店には、通りから見えるようにおひな様が飾ってあり、店内に自由に入ってみることもできました。
古いのでは101年経つのがあり、そのひな飾りを贈られた本人もまだ元気でいて、偶然に同じ日にひ孫もできたと言ってました。
傑作だったのは、平戸の特産品「あご(トビウオ)」をひな飾りにしてるのがありましたよ。
ひな祭りの後は食べてしまうのでしょうかね??

ではでは、また〜(^^)/~~~

三和のみなとメディカルセンター?  長崎友愛病院

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三和のみなとメディカルセンター?  長崎友愛病院

長崎市布巻町の長崎友愛病院が、昨年7月起工し別館建設工事中。3月の竣工を目指しており、その後も本館の改修を約3ヵ月をかけて行う予定。
写真と記事は、たっしゃかかい(地域の健康と医療を考える会)第11号から。

ハウステンボス 花と光の王国「チューリップ祭」(2) 2014.2.15〜4.13

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ハウステンボス 花と光の王国「チューリップ祭」(2) 2014.2.15〜4.13

世界最大級のイルミネーション、日本最多品種のチューリップ、桜と芝桜の競演など、ご来場日によって様々な楽しみ方ができる特別な「春」。
さあ、あなたはいつ訪れますか?  2014年3月7日(金)の様子。妻が出かけた。

ハウステンボス 花と光の王国「チューリップ祭」(1) 2014.2.15〜4.13

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ハウステンボス 花と光の王国「チューリップ祭」(1) 2014.2.15〜4.13

世界最大級のイルミネーション、日本最多品種のチューリップ、桜と芝桜の競演など、ご来場日によって様々な楽しみ方ができる特別な「春」。
さあ、あなたはいつ訪れますか?  2014年3月7日(金)の様子。妻が出かけた。

3 網場砲台 2014年3月の現況  [所在地:長崎市春日町]

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3 網場砲台 2014年3月の現況  [所在地:長崎市春日町]

本ブログ「橘湾沿岸の戦争遺跡」2007/6/20(水) 午後 5:00 の次記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/7

・四五口径三年式十二糎砲を1門設置(吉岡さん証言)
・老人ホーム「橘の家」付近の県道下の海岸部に、コンクリート砲台1基の格納壕を確認
・左奥砲側庫には鉄板施工、通用坑、換気孔2基、鉄環1基
(高谷氏資料から)

それから7年近く経過したおととい2014年3月3日(月)午後2時過ぎ。東長崎の織田武人先生からSOS電話があった。地元岩崎さんと2人で、網場砲台を先日2時間かけ、きょうも昼から探しているが、どうしても見つけきれない。現地へ直行を頼むという電話だった。
場所は、県営バス春日車庫下の谷間。県道がカーブする手前からその谷間の小さな畑道を下れる所まで下る。川の脇に杉の植林がある。右手の雑木斜面の方へ回り込むと、まずやや大きな土穴(壕横からの出入り口?)があり、その先にコンクリート造の砲台壕が現存する。

海岸部から約50m位の高地にある砲台。照準は牧島の弁天島付近と考えられる。7年前、上記資料「玉名荒尾の戦争遺跡をつたえるネットワーク」玉名市の高谷先生、及び織田先生も案内したことがあった。私も場所がもううろ覚えになっていた。いっときは探しきれなかった。
織田先生は、長崎市東公民館で歴史講座を持っている。この下調べで急に思い出し、私の研究レポート第3集204頁の記録をもとに、現地調査を再び2人でしていたということである。
受講生を近々、講座で現地に案内するらしい。

網場砲台7年ぶりの現況写真は、上のとおり。場所がうろ覚えになっていたため、もう少し高部で、別の空気穴(換気孔)1か所も見つけた(最後の2枚の写真)。
研究レポート「江戸期のみさき道」第3集204頁の、当時の記録は次のとおり。参考に掲げる。

B 別図第二 砲台配置及水中障害物設置海面概区〔挿図第三十六〕関係

4 網 場      12×1 海軍海面砲台十二糎砲一門

長崎市の東部日見が網場である。湾の南方には海上に立つ「立岩」(ルイ14世岩)がある。砲台跡は立岩の上手山中。網場町の先、春日町の老人ホーム「橘の家」の手前、県営バス「春日車庫前」の下手から降りると立岩との中間くらい。尾根筋のすぐ下に見事なコンクリート造り壕が口を開けていた。
壕の存在は昨年末下調べしたとき、近くに畑を持つ網場溝口さんと吉岡さんから聞いていた。溝口さんは20年位前一度行ったきりである。場所をよく覚えず、今どうなっているかわからないとのことであった。
1月28日、矢上普賢岳帰りの午後4時頃、現地に立ち寄って半時間ほど探したがどうしてもわからず、ミカン畑に出ると運よく溝口さん夫婦がおり、案内してくれると言った。溝口さんの記憶をたどりつつ鎌で藪を払ってやっと土穴を見つけた。しかしこれでない。返って奥さんが昔ツワ取りに行って偶然見かけた壕の姿を覚えており、土穴の下手に回り込むとコンクリート造りの壕があった。標高は50m位の地点。正面に牧島が見える。
高さ2m、全幅3.5m、奥行きは陥没して4.2m位の横穴壕。上部に砲身をつるして出し入れする金具が取り付けられていた。今回の調査でコンクリート造を始めて見た。ここは土面だが、どうしても壕を築かねばならず、前面をコンクリート、奥は炭鉱の坑道と同じように材木を組んだのではないか。上で見かけた土穴は、出入り口のようである。空気穴もあった。
あと1人、畑で話しを聞いた網場吉岡増治さんは、老人ホーム「橘の丘」土地の旧所有者。戦時中、この高台の畑が取られ、沖縄戦に赴く兵隊が高射砲訓練をする広場となっていた。砲座は5門くらいあり、夜間は、海上と網場、春日から探照灯を照らし、撃ち落していた。網場養国寺が幹部の宿舎となり、軍刀を持った教官のような兵士が30人ほどいた。
網場バス停裏側、アバ美容室横の駐車場奥に5穴の壕があるが、これは部落の防空壕である。

深堀陣屋跡の現況 (5)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (5)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年秋完成を目指し、行われている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果が公表されていない。最初の写真が、現在の教会。
周辺の石組みの保存方法について、「現状のまま維持保全してほしい」という要望書を教会関係者と文化財課、まちづくり推進室に送りましたが、当然反応はないと、12月2日、地元出身の心ある要望者(「肥前国 深堀の歴史」著者・芦屋市在住平氏)から聞いている。

工事開始から3か月が過ぎた。現地広場へ行って見ると、南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊され、深く掘り下げた基礎工事があっていた。
下の広場に無造作に積まれている石は、この礎石などではないのだろうか。そのまま埋め戻した形跡はない。手前フェンス内のは武家屋敷通りの壊された石塀などである。
ここに建てる建物は何だろうか。納骨堂や便所と思われる。「深堀陣屋資料館」として、歴史史料、遺構写真など展示し、石組みも残して見学できるようにしてほしかった。遺構を壊してまで、わざわざここに建てる必要がある建物なのか。

史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。深堀陣屋跡を長崎市史跡として指定しないのだろうか。市民にはまったく説明がない。長崎市政への要望や提案を提出しているのに、明確な回答をしない。
建設工事の概要を、私たちは知ることができない。現在の教会前の広報板に、建物バースがあった。説明がないが、これが新しい「カトリック深堀教会完成予想図」と思われる。

また、教会広報紙「ひろがり」3月1日付第124号を掲示していた(ズーム拡大)。紙面は「深堀教会の紹介」でもHP検索できるが、新しい号にはまだ更新されていない。
http://www9.ocn.ne.jp/~fukahori/kouhou.htm
記事には「教会建設少しづつ目に見える形に」とある。史跡保存をどうするのか、どうしたのかのは、まったくわからないニュースである。

教会主体で建設工事が行われるのは、やむを得ないが、史跡保存にもう少し配慮するよう、長崎市文化財課が見識を持って強力に、教会側を指導するべきではなかったろうか。
将来に最も重大な禍根を残した深堀陣屋跡史跡破壊の実情だろう。私も早く現地を訪ねておけば良かったと、今、悔やまれてたまらない。
市指定天然記念物「深堀陣屋跡のアコウ」説明板も、現状は無神経としか言いようがない。