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長崎の古写真考 幕末明治の長崎 127P 明治初期の長崎市街中心部

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 127P 明治初期の長崎市街中心部

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

127P 明治初期の長崎市街中心部。背後の丘には町年寄の屋敷や諸藩の蔵屋敷などが見える。

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

127P 明治初期の長崎市街中心部。背後の丘には町年寄の屋敷や諸藩の蔵屋敷などが見える。
●町年寄の屋敷、諸藩の蔵など健在
1875(明治8)年に長崎に立ち寄ったアメリカのアジア艦隊の海軍大尉R・E・カーモディが持ち帰ったアルバムの1枚です。大徳寺付近からその頃の市中心部を撮影しています。…

この作品は、「アメリカのアジア艦隊の海軍大尉R・E・カーモディが持ち帰ったアルバムの1枚」とあるが、同じ写真はデータベースにすでにある。
上野彦馬?が大徳寺跡から撮影したとされる目録番号: 6054「大徳寺跡から県庁方面を望む」、目録番号: 6055「大徳寺跡から立山方面を望む」、目録番号: 6078「大徳寺跡から新地と出島を望む」の3枚組のうち、目録番号: 6055「大徳寺跡から立山方面を望む」が、これである。
執筆者は同じ写真と気付いているのだろうか。したがって、撮影者は「上野彦馬?」と考えられる。
この作品は、本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/2173

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺。1871年ごろマンスフェルト撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺。1871年ごろマンスフェルト撮影
●娼妓解放直前の丸山と寄合町周辺
写真は遊郭の丸山町と寄合町周辺です。1871(明治4)年ごろ、お雇いオランダ人医師マンスフェルトが撮影したもので、「愛宕山からの景色」と紹介されています。
右手の大屋根は正覚寺です。写真中央やや手前を、家並みに沿って横切る道が茂木街道です。
1872年10月、人身売買と売春婦の年季奉公を廃止する娼妓解放令が布告されましたが、…

この作品は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3515
何度も指摘するが、これは愛宕山の中腹、現高平町の玉成高校旧校舎「榎観音堂近く」から撮影したもので、正覚寺の大屋根の向きは、ここでしか合わない。
娼妓解放直前の丸山と寄合町周辺と盛んに説明するが、ここからは正覚寺及び同寺墓地の背後の斜面谷間となって、丸山町や寄合町の遊郭街はまったく写らない。現地確認もしないで、このような解説をいつまでもするのは、研究者の権威が疑われる。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋。当時の家屋の状況がよくわかる。正面は興福寺の鐘鼓楼

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋。当時の家屋の状況がよくわかる。正面は興福寺の鐘鼓楼
●麹屋町—石と木と紙の造形
坂本龍馬が勝海舟に従い、豊後から九州を横断して長崎を訪問した1864(元治元)年の春、ベアトはこの麹屋町の筋を撮影しました。湧水に恵まれ、味噌、醤油、酒の麹を作るところから、正保年間(1644〜48)にこの町名となりました。長崎の街中を写した最古の写真として貴重です。
背後の山は風頭。正面は興福寺の鐘鼓楼です。左上の建物は興福寺の永福庵ですが、現存しません。…

データベースでは、目録番号:1293「興福寺開山堂と麹屋町(1)」の作品。超高精細画像の画像解説は次のとおり。
「F.ベアトの撮影。中島川に直交する道路では当時から幅広だった今紺屋・中紺屋町(現在は麹屋町に統合)の通りから興福寺を見通したもの。背後は風頭山。正面の重層の楼閣は、文政8年(1825)に至って荒廃していた開山堂を併合した観音堂であるが、これは戦災で失われ、現在はそこに民家が建て込んでいる。その左上は境内にあった永福庵であろうが、その跡地には明治34年(1901)に鶴鳴女学校が開設され、それが大正11年(1922)に小島地区に移転後は同校の寄宿舎となり、現在に至っている。」

この作品は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2269
正面の重層の楼閣は、「文政8年(1825)に至って荒廃していた開山堂を併合した観音堂であるが、」とあるのに、なぜ「鐘鼓楼」となるのか。
興福寺の「鐘鼓楼」は、同じ時期ごろF・ベアトが撮影した目録番号:3246「興福寺の鐘楼(2)」があるとおり、本堂前の庭にあるこの建物(正式名称は「鐘鼓楼」)で、現在も現存する。
データベースに対し、変なタイトルの変更や間違った解説にすべきでないだろう。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 120P 明治天皇巡幸時の長崎の街

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 120P 明治天皇巡幸時の長崎の街

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

120P 明治天皇巡幸時の長崎の街。1872年内田九一撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

120P 明治天皇巡幸時の長崎の街。1872年内田九一撮影
●豊かな町の熱烈な歓迎
1872(明治5)年、西国巡幸の途中に長崎を訪問した明治天皇一行は、長崎の人々の熱烈な歓迎を受けました。組み写真は、随行写真家の内田九一が撮った長崎の街のパノラマです。天皇の行在所が置かれた島原町(行幸を記念して萬歳町と改名された。現在の万才町)の高木邸から撮影されました。元の写真はキャビネ大3枚の鶏卵紙で、着色されています。
この時、長崎の人々は家を提灯で連結して「山」や「奉迎」の文字を浮き出させ、停泊した艦艇はイルミネーションを灯し、近郊の住民はかがり火を焚いて歓迎した、と伝えられています。…

データベースでは、目録番号:6111「市街地パノラマ(1)」、目録番号:6112「市街地パノラマ(2)」、目録番号:
6113「市街地パノラマ(3)」である。
この作品は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1927
目録番号:6113「市街地パノラマ(3)」は、目録番号:3230「長崎市街地」と同じ写真である。私の指摘により、刊行本の解説となったと思われるが、データベースの方でも解説をお願いしたい。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 113P 1869年ごろの香港の3枚組パノラマ写真 ほか

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 長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 113P 1869年ごろの香港の3枚組パノラマ写真 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

113P 1869年ごろの香港の3枚組パノラマ写真
114P 上海の古城壁と大境閣。人物の半分は日本人。1874年ごろ撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

113P 1869年ごろの香港の3枚組パノラマ写真
●梅屋と孫文が出会った香港
1869(明治2)年ごろの香港のパノラマ写真です。「山頂」と名がついた山から撮影された3枚組です。洋館が立て込み、繁栄がうかがえます。長崎を撮影した英国人ベアトの写真が収められたアルバムに、追加で貼られたもので、アルバムの所有者が香港寄港中に入手した写真と思われます。対岸は九龍地区で、今は本土と3本のトンネルでつながっています。…

114P 上海の古城壁と大境閣。人物の半分は日本人。1874年ごろ撮影
●上海の望楼に羽織姿の日本人
英文の写真説明で「上海の古城壁」と書かれています。1874(明治7)年ごろ撮影された、上海中心部を取り巻く城壁上にそびえる大境閣(道教の寺院)です。
米海軍のR・E・カーモディ大尉がアメリカに持ち帰ったアルバムに収載されていますが、撮影者は不明です。写っている人物の半分は羽織姿の日本人です。
街を囲む堀割と城壁は古代都市の象徴でした。…

データベースでは見当たらない作品。113Pは「長崎を撮影した英国人ベアトの写真が収められたアルバムに、追加で貼られたもの」、114Pは「米海軍のR・E・カーモディ大尉がアメリカに持ち帰ったアルバムに収載されていますが、撮影者は不明です」とある。
なぜ、このような貴重なアルバムの作品を、長崎大学ではデータベースで公開しないのか。刊行本の執筆者の心得違いもはなはだしい。長崎大学のコレクションは、国民の文化共有財産であって、執筆者の単なる著作のための私有物ではない。
執筆者は前附属図書館長、現在でも同大学「古写真資料室」の研究員である。データベースでまず公開してから発刊すべきではないか。大学はほかにも貴重な古写真を所蔵しながら、隠していると思われても仕方ない。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 93P 志賀波止と呼ばれた稲佐「ロシア村」の桟橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 93P 志賀波止と呼ばれた稲佐「ロシア村」の桟橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

93P 志賀波止と呼ばれた稲佐「ロシア村」の桟橋。 1874年ごろ撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

93P 志賀波止と呼ばれた稲佐「ロシア村」の桟橋。 1874年ごろ撮影
●「ロシア村」の志賀波止
稲佐にあった「ロシア村」の志賀波止と呼ばれた船着き場です。撮影は1874(明治7)年ごろ。現在の旭大橋の稲佐側の付け根付近ですが、今はその面影がありません。アメリカ海軍の将校R・E・カーモディのアルバムに収載されていますが、撮影者は上野彦馬か、本人あるいはその弟子に付き添われたアメリカの写真家とも思われます。…

「志賀の波止」を撮影した貴重な写真だが、データベースではまだ公開がない。アメリカ海軍の将校R・E・カーモディのアルバムに収載されているそうだが、アルバムの全作品とも早急に公開してもらいたい。
長崎大学附属図書館では、古写真展『古写真で見る 1874年、激動の長崎—県庁倒壊と科学の黒船』を8月
27日から長崎市立図書館多目的ホールで開催する。これに展示するらしいが、この解説では誤解があろう。

詳しくは、松竹秀雄氏著「ながさき稲佐 ロシア村」長崎文献社2009年刊を参照。現在の旭大橋のたもとには、長崎日ロ協会が建てた「幕末・明治のいわゆるロシア村」の説明板が、稲佐側に2ヵ所ある。
旭大橋へ入る登り口脇の坂段のところにあった船着き場が、いわゆる「ロシア村の上陸桟橋」と考えるべきではないか(写真5,6)。この写真はあくまでその北側の「志賀の波止」の写真で、現在の大橋橋脚下(福田小動物病院側)旭町公園となっているようだ(写真7,8)。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 78P 南山手から見た長崎港と大浦、出島方面

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 78P 南山手から見た長崎港と大浦、出島方面

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

78P 南山手から見た長崎港と大浦、出島方面。 1873年冬、内田九一撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

78P 南山手から見た長崎港と大浦、出島方面。 1873年冬、内田九一撮影
●南山手と下り松
1873(明治6)年冬に、長崎再訪中の内田九一が南山手から撮影した出島、大浦方面と長崎港です。微妙に重なる2枚組で、建物の窓の形が同じです。1枚のモノクロ写真の裏には九一自筆の「長崎六十六」という書き込みかがあります。また、外国人が書いたと思われる「424」という番号もあり、いったん海外に流失して里帰りしたことを推測させます。右は後年の着色写真です。…
背後の松の木は、江戸時代からここが「下り松」と呼ばれた名残です。湾奥は浦上方面、右の船溜りは五島町の海岸付近、左は稲佐渕村の集落です。

データベースでは、右が目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」、左が目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」である。この作品は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2270
パノラマ写真となり、「微妙に重なる2枚組」と今頃、紹介している。これは私の古写真考の指摘によりわかったことだろうから、少しは感謝してもらいたい。内田九一撮影と思われる作品が、このように粗末な研究として扱われていたことが、問題であろう。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 61P 立山中腹から見た長崎の街と港

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 61P 立山中腹から見た長崎の街と港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

61P 立山中腹から見た長崎の街と港。 1866年ベアト撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

61P 立山中腹から見た長崎の街と港。 1866年ベアト撮影
●幕末長崎の街と港
福済寺裏山の立山中腹から、ベアトが撮影した幕末長崎の街と港です。背後の海岸には大浦の外国人居留地も見えます。キャプションでは「イギリスの居留地」と説明されています。写真は…幕末長崎の街並みが見事に写し出されています。
1866(慶応2)年2月というベアトの書き込みもあります。撮影時期が明確なため、幕末長崎の街並みのベンチマーク(基準点)となる写真です。
このころ坂本龍馬は、…二人は連れだって4月2日に長崎を訪問します。従って、この写真は龍馬とお龍が目にした長崎の景色ということになります。…

データベースでは、目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」。この作品は、本ブログ次などを参照。
https://misakimichi.com/archives/2328
撮影場所が「福済寺裏山の立山中腹から」となって、必ずしも明確ではない。どこも「龍馬が見た景色」となる傾向もどうかと思われる。

撮影場所は「立山から」に間違いないが、長崎大学が「幕末長崎の街並みのベンチマーク(水準点)となる重要な写真」としながら、具体的な撮影地点をはっきり検証されてないため、いろいろな意見が出ている。
私が推定した地点は、「ホテル長崎」左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりである。ホテル横の空き地に墓地が造成され、その上部に老人ホームが新しく建っている。

「立山」とは普通、バス終点付近を言い、このあたりが山頂だろう。しがって目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の撮影場所は、「福済寺裏山の立山中腹から」とまぎらわしくしないで、目録番号:2882「長崎立山からの長崎港」などと同じく、「立山から」撮影の説明で良いのではないか。
何度となく指摘しても、解説を一向に改めないのは、いかがなものか。現地確認を必ずお願いしたい。データベースは修正されたのに、超高精細画像の解説がまだそのままである。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 50P 亀山社中の建物

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 50P 亀山社中の建物

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

50P 亀山社中の建物。 1875年撮影の写真に写り込んでいた

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

50P 亀山社中の建物。 1875年撮影の写真に写り込んでいた
●亀山社中
次頁左上の写真は坂本龍馬が創設した日本初の商社(カンパニー)とされる亀山社中だった建物です。これまで社中の昔の写真は無いと思われていたのですが、2009(平成21)年12月11日の朝日新聞の紙面で初めて公開しました。1875(明治8)年に撮影された長崎奉行所立山役所の写真に偶然写し込まれていたものです。ぼやけているのは小さな部分を拡大したためです。…

データベースでは、目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」。この作品は、本ブログ次を参照。
朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか
https://misakimichi.com/archives/2158
長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校
https://misakimichi.com/archives/3485

目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」に、亀山社中の建物が写し込まれていることは異論がないが、この作品の撮影場所を新聞発表では、「玉園墓地」(永昌寺墓地か)からとしているのは、大きな誤認だろう。「聖福寺」大雄宝殿の背後、開山老和尚(鉄心)塔所がある石段の入口あたりの道からが考えられる。
「旧長崎奉行所立山役所」も写された貴重な写真なので、長崎歴史文化博物館においても、正しい撮影場所の検証をお願いしたい。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影

72P 松江からの視察団。  1867年8月(新暦)、上野彦馬のスタジオで撮影

106P 幕末中国人男女の正装。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影

107P 中国道教の道士。  1865〜66年ごろ上野彦馬撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影
●ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち
上野彦馬のスタジオで撮影されたロシア海軍士官と長崎の”娘”たちです。長崎大学附属図書館武藤文庫の「上野彦馬幕末アルバム」に収載されています。士官の肩に階級章を付けるのはロシア海軍に独特のものでした。…

72P 松江からの視察団。  1867年8月(新暦)、上野彦馬のスタジオで撮影
●松江の視察団、西洋文化に「アキレハテ」
2009(平成21)年5月21日付け朝日新聞「長崎今昔」で「コウモリ傘とサムライたち」として紹介した1枚です。長崎大学附属図書館武藤文庫の「上野彦馬幕末アルバム」に収載されています。
『龍馬が見た長崎』(朝日選書)に掲載したところ、島根県古代文化センターの岡宏三専門研究員から、松江市の藤間家に同じ写真が残されているという情報を戴きました。写されているのは松江の人であり、その足跡は藤間家の『萬覚留 長崎行日記』と『萬日記留』の2冊に記載されているということです。…

106P 幕末中国人男女の正装。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影
●幕末中国人男女の正装
…唐人は1859(安政6)年の開国以後、唐人屋敷入口の広馬場や新地への進出を図りました。写真は1865〜66(慶応2)年ごろ、上野彦馬のスタジオで撮影された清朝時代の正装の中国人男女です。…

107P 中国道教の道士。  1865〜66年ごろ上野彦馬撮影
●中国道教の道士
上野彦馬が撮った道士です。1865〜66(慶応2)年ごろの撮影。長崎大学附属図書館武藤文庫のアルバムに収録されています。道士とは、中国の伝統宗教の道教に帰依し、その活動を職業とする人です。…

以上4作品は、データベースにない。長崎大学附属図書館武藤文庫の「上野彦馬幕末アルバム」に収載されているようだが、これもすべて50点近く、データベースで公開をお願いしたい。