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長崎の古写真考 幕末明治の長崎 43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 
ステレオカード。1860年ごろピエール・ロシエが出島で撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 
ステレオカード。1860年ごろピエール・ロシエが出島で撮影

●オランダ商人妻子と乳母—開港期の生活を写す
出島のオランダ商人カール・J・テキストルの日本人妻(マサナギ・ナオ)と乳母のステレオ写真です。ナオが抱いているのは、テキストルの間に1859(安政6)年に生まれた長女カロリーナ・マリアです。スイス人写真家ピエール・ロシエが出島内部で撮影し、ロンドンのネグレッティ・アンド・ザンブラ社から開国直後の「日本の風景」の1枚として販売されたものです。…

データベースでは、目録番号:3416「母子と乳母」。まだ撮影地域:未詳、撮影年代:未詳のままとなっている。タイトル、解説も違う。
この作品は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2646
本来のデータベースをまず修正してから発刊するべきではないか。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号の士官ら ほか 

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号の士官ら ほか 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号(上)とドゥジャンビ号の士官ら(下)。1864年出島で撮影。

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号(上)とドゥジャンビ号の士官ら(下)。

●下関戦争前夜のオランダ海軍士官
オランダ海軍の軍艦メタレン・クルイス号(上)とドゥジャンビ号(下)の乗組員の軍服正装での記念写真です。 下関戦争(1864=元治元年8月)が始まる4ヵ月前、準備のために長崎に寄港した際に撮影しています。ボードイン・コレクションのなかの2枚です。光を散らすため背後に白い屏風が立てられています。撮影者はアルベルト・ボードイン、場所は出島と思われます。…

データベースでは、目録番号:6243「下関戦争のメタレン・クルイス号の乗組員」と、目録番号:6244「下関戦争のジャンビ号の乗組員」。まだ撮影者:未詳、撮影地域:未詳のままとなっている。タイトルも違う。
この作品は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2647
本来のデータベースをまず修正してから発刊するべきではないか。

長崎外の古写真考 マンスフェルト集 72,73P 肥後矢部の製材所

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長崎外の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 72,73P 肥後矢部の製材所

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第五章 山鹿・矢部
72P  肥後矢部の製材所(1)
矢部郷の鶴ガ淵。緑川上流部の津留は、支流の内大臣川などが合流する地点。猿ガ城、鬼ガ城、獅子ガ城と呼ばれる岩峰が屹立し、渓流と奇岩怪石の景勝地であった。緑川舟運の起点で、物資輸送の勘定所も置かれ、年貢米の積み出しや材木の筏流しでもにぎわった。左手奥が獅子ガ城、右手奥が鬼ガ城の山裾。
060 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/220mm×290mm 大

73P  肥後矢部の製材所(2)
奥の岩峰が猿ガ城。緑川に面して家並があり、中央が原題「Woodcutting mil」の主題である製材所で、角柱や板材が積み上げられている。川に下る石垣には巨大な柱材が集積され、これから筏を組んで運ぶのであろうか。  
063 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/220mm×290mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行されている。
72P「肥後矢部の製材所(1)」と、73P「肥後矢部の製材所(2)」は、熊本県上益城郡矢部町(現山都町)の緑仙峡下流部にある鶴ガ淵橋付近の風景である。淵で流れが緩やかとなる左岸に近年まで製材所があった。

鶴ガ淵、猿ガ城、鬼ガ城、獅子ガ城の位置関係は、地形図を参照。72P「肥後矢部の製材所(1)」と、73P「肥後矢部の製材所(2)」は、同じ製材所を対岸からカメラの向きを変えて撮影している。現在の「鶴が淵橋」は、少し上流へ架設されている。
72P「肥後矢部の製材所(1)」の、左手奥は「獅子ガ城」。右手奥も「鬼ガ城の山裾」には間違いない。
73P「肥後矢部の製材所(2)」の、奥の岩峰が「猿ガ城」も間違いないようだ。少し高いところから撮影している。現在では右手奥に猿が城キャンプ場があり、その上に「鮎の瀬大橋」が見える。

マンスフェルトアルバムの100点以上に及ぶ貴重な古写真を、長崎大学附属図書館が今もってデータベースで公開しないのは、問題があるだろう。

長崎外の古写真考 マンスフェルト集 70,71P 肥後山鹿の風呂屋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 70,71P 肥後山鹿の風呂屋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第五章 山鹿・矢部
70P  肥後山鹿の風呂屋(1)
山鹿温泉桜湯。桜湯は明治3年(1870)に讃岐の道後温泉の建物をモデルとして建設された堂々たる湯屋で、多くの人々に親しまれていた。昭和50年(1975)に取り壊されて再開発ビルとなったが、ビルの老朽化で店舗の営業も減少。現在、再び木造の湯屋として復元された。  
061 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/210mm×163mm 大

71P  肥後山鹿の風呂屋(2)
山鹿温泉は平安時代の末に、鹿が湯浴みしていることから発見されたと伝えられる古い温泉場である。豊前街道の宿場町であったことから、全国にも広く知れわたった。江戸時代から湯治客でにぎわい、「肥後国誌」には「湯療ノ貴賎男女昼夜不絶」と記されている。  
062 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/215mm×163mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行されている。
70P「肥後山鹿の風呂屋(1)」と、71P「肥後山鹿の風呂屋(2)」は、現在の山鹿温泉元湯「さくら湯」である。熊本県観光サイトなごみ紀行による施設案内は、次のとおり。

「さくら湯」は、今から約370年前に肥後細川藩初代藩主(細川忠利公)が山鹿の温泉を気に入り、「御茶屋」を新築したのがその歴史の始まりで、約250年前に書かれた「山鹿町絵図」には「御前湯」として記録されており、大改修が行われた明治3年から昭和48年に取り壊されるまでの約100年間にわたって山鹿市民の大切なコミュニケーションの場として愛され親しまれていた市民温泉で、「八千代座」と共に湯の町山鹿のシンボルでもありました。
その後、大規模都市再開発事業により昭和50年に、鉄筋コンクリート造のさくら湯(温泉ビル)が完成しましたが、当初の予想以上に老朽化が進んだことを契機に、往時のさくら湯を再生しようという計画が持ち上がり、…「さくら湯再生基本構想」により、…平成23年7月より「さくら湯建設工事」に着手しまして、平成24年11月23日(祝)開湯(オープン)しました。

さくら湯パンフレットによる「さくら湯物語」も参照。これは次HPに「さくら湯の歴史」としてある。現在の経営主体は、一般財団法人山鹿市地域振興公社と思われる。
http://sakurayu.coresv.com/?page_id=244
これら資料によると、長崎大学の古写真解説は、次の点に疑問がある。

1 山鹿温泉さくら湯は、明治3年〜5年 地域全体が工事にかかわり、市民温泉として生まれ変わった。明治5年(1872)に竣工しているので、撮影年代はその後であろう。人力車の普及もこの頃である。
2 「明治3年(1870)に讃岐の道後温泉の建物をモデルとして建設された堂々たる湯屋」とあるが、それは明治31年 道後温泉の棟梁・坂本又八郎氏を招き大改修を実施した後のことではないか。
3 「昭和50年(1975)に取り壊されて再開発ビルとなったが、ビルの老朽化で店舗の営業も減少」とは、「昭和46年8月に起きた市内中心部の大火により再開発議論が活発化。昭和48年、大規模再開発事業によりさくら湯の解体が始まります。昭和50年に再開発ビル(温泉プラザ山鹿)が完成し、さくら湯はビル内に造られました。その後、平成21年11月まで、ビル内で営業を続けました」というのが実情である。
4 マンスフェルトは、1866年7月、ボードインの後任として長崎の精得館に赴任した。5年の任期を終え、1871年、3年間の契約で熊本古城医学校の創始にかかわった。一時帰国し、1876年に京都(府立)療病院の教師として3年契約で赴任した。熊本に滞在していた間に、マンスフェルトが撮影した写真と考えられないことはない。
5 2枚の同じ古写真は、現在のさくら湯パンフレット、説明板にも掲載され、「明治初期のさくら湯(人力車も見えます)」または「外湯の大改修が行われ、さくら湯が誕生しました」と説明がある。資料室にも展示されていたが、山鹿市は撮影者まで調査していないようである。

高島のゴリラ岩が姿を表す  長崎市高島町

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高島のゴリラ岩が姿を表す  長崎市高島町

高島港ターミナルから権現山公園展望台方向を望むと、右手にこの岩場が見える。山手の金松寺まで登ると岩が近くに見える。地元では「ゴリラ岩」という。
6月1日みさき道歩会で高島ウオーキングをしたとき確認していたが、S氏が翌週、高島金松寺で開かれたあの桟橋トマトソングシンガーのライブに参加し、詳しく写してきた。

これまで樹木が茂り、岩の姿が良くわからなくなっていた。本年5月に中学生を含む地元の有志が、危険な岩場の伐採作業を行い、再び姿を表したというのが、実状のようである。
この様子は、「高島っ子集まれ!Facebook」の次を参照。  https://www.facebook.com/takashima.ko

「マリナ—・オブ・ザ・シーズ」 今年、3回目の長崎入港

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「マリナ—・オブ・ザ・シーズ」 今年、3回目の長崎入港

2014年7月22日、長崎港に13万 トン超の大型クルーズ客船が入港した。長崎県美術館屋上庭園などから撮影。「マリナ—・オブ・ザ・シーズ」。今年、3回目の長崎入港。

マリナー・オブ・ザ・シーズ(バハマ)・ 総トン数138.279トン・全長310m・全幅48m・乗員乗客3.800人

諫早の史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり(2)  2014月7月

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諫早の史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり(2)  2014月7月

2014月7月20日(日)快晴。諫早をまち歩きし史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり。参加5人。みさき道歩会の例会。13日が雨のため延期して実施。
諫早駅—諫早神社—慶巌寺—諫早公園(眼鏡橋・諫早山城跡・御書院・高城回廊)—諌早市役所—安勝寺—水月楼で昼食—天祐寺—諫早市美術・歴史館—諫早駅(徒歩距離 約10.5km)

長崎駅9:24発諫早行乗車。諫早駅から本明川沿いに下り、まず諫早神社へ。境内に大クス群と池に壊れた桁橋がある。神社前の川を飛び石で渡り、慶巌寺へ。寺崖に彫られた磨崖仏三十三観音と参道橋は珍しい。飛び石で対岸へ渡ると、諫早公園の里帰りした眼鏡橋ミニ模型前に出る。5分の1の大きさの模型。本物の眼鏡橋を渡って、諫早山城跡へ登る。山頂の樹齢600年の大クスは有名であり、高城の公園からは市内を眺望できる。

高城神社の方へ下り、御書院・高城回廊へ回って諫早市役所前へと出る。脇の川には小ヶ倉ダムから移築しているアーチ式の「小ヶ倉橋」がある。諫早眼鏡橋が水害前、もともと本明川に架かっていたところは、人道橋となり、由来の碑がある。対岸の安勝寺は諫早街道の道で、ここが本陣だった。
昼食のうなぎは、北御門が大混雑。先の水月楼へ行って食べた。

中央商店街アーケードを抜けて、本諫早駅前を通り、天祐寺へ諫早家墓所を見学に行ったが、墓所門を閉鎖しているのは、何とかしてほしい。以前の郷土館に代わり、新しい施設「諌早市美術・歴史館」が3月からオープンした。場所は東小路町2−33。前の諫早幼稚園跡地。周辺道路に案内板がまだ設置されていないので、場所がわかりにくかった。観覧料は常設展示200円。諌早の歴史文化を知ることができる良いミュージアムができた。きょうの目的はこの観覧が主で、諫早駅へ戻った。

諫早の史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり(1)  2014月7月

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諫早の史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり(1)  2014月7月

2014月7月20日(日)快晴。諫早をまち歩きし史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり。参加5人。みさき道歩会の例会。13日が雨のため延期して実施。
諫早駅—諫早神社—慶巌寺—諫早公園(眼鏡橋・諫早山城跡・御書院・高城回廊)—諌早市役所—安勝寺—水月楼で昼食—天祐寺—諫早市美術・歴史館—諫早駅(徒歩距離 約10.5km)

長崎駅9:24発諫早行乗車。諫早駅から本明川沿いに下り、まず諫早神社へ。境内に大クス群と池に壊れた桁橋がある。神社前の川を飛び石で渡り、慶巌寺へ。寺崖に彫られた磨崖仏三十三観音と参道橋は珍しい。飛び石で対岸へ渡ると、諫早公園の里帰りした眼鏡橋ミニ模型前に出る。5分の1の大きさの模型。本物の眼鏡橋を渡って、諫早山城跡へ登る。山頂の樹齢600年の大クスは有名であり、高城の公園からは市内を眺望できる。

高城神社の方へ下り、御書院・高城回廊へ回って諫早市役所前へと出る。脇の川には小ヶ倉ダムから移築しているアーチ式の「小ヶ倉橋」がある。諫早眼鏡橋が水害前、もともと本明川に架かっていたところは、人道橋となり、由来の碑がある。対岸の安勝寺は諫早街道の道で、ここが本陣だった。
昼食のうなぎは、北御門が大混雑。先の水月楼へ行って食べた。

中央商店街アーケードを抜けて、本諫早駅前を通り、天祐寺へ諫早家墓所を見学に行ったが、墓所門を閉鎖しているのは、何とかしてほしい。以前の郷土館に代わり、新しい施設「諌早市美術・歴史館」が3月からオープンした。場所は東小路町2−33。前の諫早幼稚園跡地。周辺道路に案内板がまだ設置されていないので、場所がわかりにくかった。観覧料は常設展示200円。諌早の歴史文化を知ることができる良いミュージアムができた。きょうの目的はこの観覧が主で、諫早駅へ戻った。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 25P 十人町から写した出島と新地

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 25P 十人町から写した出島と新地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

25P 十人町から写した出島と新地。「ザ・ファー・イースト」1871年7月1日号

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

25P 十人町から写した出島と新地。「ザ・ファー・イースト」1871年7月1日号

●明治初期の新地と出島
横浜で発行された写真貼り付け英字新聞『ザ・ファー・イースト』の1871(明治4)年7月1日号に掲載された長崎の新地(右側)と出島(中央左側)の写真です。この新聞は文明開化が進む明治の初め、貼り付けた写真で日本各地を紹介し、写真による新聞報道の始まりとなりました。
撮影ポイントは十人町の丘の上で、左の木造家屋は江戸時代の遠見番所の名残です。…さらに、左端の大きな屋根の右横には梅香崎橋が確認できます。…

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:1003「新地蔵と出島(1)」。超高精細画像による解説は、次のとおり。

日本で発行された英字新聞”The Far East”紙の明治4年(1871)7月1日号に掲載された写真で、撮影時期もその直前とみてよい。十人町の丘上から出島と新地、旧市街を望んでいる。いずれも明治2年(1869)に架設された出島右端の出島新橋、中島川河口部の長さ27間にも及ぶ新大橋、新地と梅香崎を結ぶ梅香崎橋がみえる。すべて木製の桁橋である。これらによって出島から大浦にかけての海岸通りは連結されて、そこには要所に街灯が立ち、居留地のバンド景観を形成し始めたのであった。出島のみならず、築町の地先(新大橋の左手)や新地の海側にも、和様折衷的な初期洋館が建てられていたのがわかる。しかし旧市街地には、出島の上の樹叢の中に旧奉行所西役所時代の家屋が残るのをはじめとして、在来の日本家屋が立ち並ぶばかりで、まだ洋館は一切みられない。遠く立山の裾には本蓮寺や福済寺の甍が見え、左手には湾入した長崎港が望まれる。

この項は、本ブログ次記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1539
刊行本の解説は間違いないようであるが、撮影ポイントが「十人町の丘の上」だけでは具体的でない。「梅香崎橋」がすぐ左下に見えるのに、以前のデータベースは、「梅香崎の山手(中新町)からのアングル」と説明していた。

「十人町」の町名由来となった「遠見番跡」説明板は、現在、「みさき道」沿いに活水大学手前の路地に建てられている。「ナガジン」発見!長崎の歩き方によると、今の梅崎郵便局から坂段を登った十人町天満神社付近の「常盤崎」という一帯も考えられるので、研究をお願いしたい。
古写真の撮影地は、この神社あたり(ながさき出島道路オランダ坂トンネル入口上部)からではないだろうか。金比羅神社の尾根に山頂が覗かないこの下段あたりからとなる。

最近のヤフオク!で「横浜写真と呼ばれた明治期の小判手彩色写真」があった。これが手前右下に「梅香崎橋」を写している。解説は「梅香崎の高台から出島が撮影しています。出島の弧を描く海岸線と建物がよく判り…」とある。やはり十人町天満神社あたりからの撮影と思われる。
http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h188842799
目録番号:1003「新地蔵と出島(1)」と同じ写真の目録番号:5901「新地蔵と出島(ステレオ写真)(3)」も、解説を合わせてもらいたい。

最後の刊行本紹介「連載「長崎今昔」を再編 出版」は、朝日新聞長崎版2014年7月18日の記事。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島。2枚1組になり、写真の中にオランダ語の書き込みがある。1865〜66年ボードイン兄弟の一人が撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島。

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:6196「海からの出島鳥瞰」。ボードインコレクションによる解説は、次のとおり。「撮影者:空白」、「撮影年代:1863」のままとなっている。

文久3(1863)年頃、ボードイン博士が海上から撮影した出島です。左端の建物はカスタムハウス(税関)です。次の1番は出島通商会社、その横2番がボードイン博士の住居で、その横3番がボードイン領事の住んだオランダ領事館です。現在復元されている商館長の邸宅はこの領事館の写真が基礎となっています。この元カピタンハウスはシーボルト時代(1823年〜1828年)の姿を残しています。 -6196-

この項は、本ブログ次記事を参照。朝日新聞社『写真集 ”甦る幕末”』1986年刊14〜15頁のタイトル及び説明も、「長崎・出島。海側から見た」とあるが、私の単純な疑問点は次のとおりである。専門家による解明をお願いしたい。
https://misakimichi.com/archives/2180
https://misakimichi.com/archives/2318

(1)初期の写真機で、海上の揺れる船から撮影できただろうか。干潟から撮影したとの見解もあるが、外国の大型船か、手漕ぎの小型漕船が干潟に漕ぎ入れてまで写真を撮る必要があるのか。
(2)出島のこのような姿は、船上からでなく、梅香崎か大浦海岸から撮影できそうである。「長崎港精図」に赤線で示した2枚を組み合わせた写真ではないだろうか。陸上に必ず撮影できる地点がある。
(3)つなぎ合わせた中央下部にそれぞれ石柱らしいのが写る。最左端の黒ずみも、写真の汚損ではない。船上からの撮影としたら、こんな物は写らないのではないか。