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参勤交代の道「豊前街道」  和水町付近

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参勤交代の道「豊前街道」  和水町付近

豊前街道 とは – コトバンクによる解説は、次のとおり。写真は和水町付近の光行寺、下岩官軍墓地、ハゼ並木、玉名・山鹿郡境碑。腹切坂は訪ねていない。

ぶぜんかいどう【豊前街道】  (出典 講談社)

熊本県玉名郡南関(なんかん)町、和水(なごみ)町にある街道遺跡。指定名称は「豊前街道 南関御茶屋跡(なんかんおちゃやあと) 腹切坂(はらきりざか)」。南関御茶屋跡は、県北部、福岡県に接する南関町の中心部、関町の熊本城から小倉(福岡県)まで続いていた豊前街道沿いに建てられた宿泊施設跡。近世の街道沿いの御茶屋跡が現存し、往時の建物構造を残していることから、2003年(平成15)に国の史跡に指定された。南関町は古代には官道が通り、国境警備のための関が設けられていた。近世においても、豊前街道として利用され、参勤交代の際の肥後国内における最終の休憩、宿泊地点であることから宿泊施設として御茶屋が設置された。現在の御茶屋跡の建物は1850年(嘉永3)に起工して、1852年(嘉永5)に竣工したもので、建物は南北に長い造りで、北から御居間、御次の間、三の間と配されている。1892年(明治25)に個人の所有となり、建物は民家や料亭として利用されてきたが、2004年(平成16)末、保存修理工事が行われ、往時の姿を取り戻すこととなった。和水町岩の腹切坂は豊前街道にある坂で、永野原台地から寺本の集落に入るまでの約400mの急坂。切腹にまつわる複数の言い伝えが残っている。2005年(平成17)に追加指定を受け、茶屋跡とあわせて名称変更された。
南関御茶屋跡へは、JR鹿児島本線玉名駅から産交バス「南関ターミナル」下車、徒歩約10分。腹切坂へは、同駅から産交バス「肥後岩下」下車、徒歩約40分。

熊本県のアーチ式石橋  竈門(かまど)橋  和水町久米野

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熊本県のアーチ式石橋  竈門(かまど)橋  和水町久米野

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,352  竈門(かまど)橋

和水町久米野  久米野川
橋長:12.5m  橋幅:4.2m  径間:8.7m  拱矢:4.2m
架設:1921年
坂田川から県道16号線を3.7Km西進、県道315号線へ右折、150m先現橋の上流に架かっています。

2014月7月28日から、熊本県へ50ccバイクの旅。以下、主な史跡・巨樹・滝・石橋など、訪れたところを紹介する。台風接近のため八代市でいったん中断し、7月31日に帰崎した。
鹿児島県へは、天候が安定してから再び出かけるつもり。

深堀陣屋跡の現況 (9)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (9)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884
現況(5)は、https://misakimichi.com/archives/3922
現況(6)は、https://misakimichi.com/archives/3943
現況(7)は、https://misakimichi.com/archives/3957
現況(8)は、https://misakimichi.com/archives/3966

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年7月末完成を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。

深堀陣屋跡は、文化財保護法に基づく「埋蔵文化財包蔵地」として周知されている。史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。市民や地元住民に対する説明がない。
長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。私たちが知りたいのは、発掘調査の結果、どこにどのような遺構と出土品があり、どのような歴史的価値があるかである。それにはまったく答えない。長崎県にも尽力するよう意見したが、回答は思わしくない。

破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。

以上がこれまでのだいたいの経緯だが、私が情報公開条例による開示請求を言い、大分県杵築市の例や九州大学木島教授の史跡保存に対する見解(掲載略)などを示すと、長崎市側は大いに反省をし、文化観光部長らと少し話し合いがあった。次が今のところ、長崎市文化財課の対処方法の回答である。

深堀陣屋推定位置図(注:入江氏作成の鍋島藩作成絵図と教会設計図を重ね合わせた図。赤が階段、黒が塀、青が当時の建物のよう。図の大きさが合わず、石垣からはみ出しているが、参考のため最後に掲げる)につきまして、早速ご送付いただきありがとうございました。今後の調査や遺構の保護等に参考にさせていただきたいと思います。
ご要望のありました石垣石材の屋外展示場所につきましては、カトリック深堀教会様にもお伝えし、できるだけ見学しやすい場所への検討をお願いしたいと思います。また、説明板の内容につきましても、発掘時の写真を使用するなど、遺構の様子が理解しやすいような工夫ができるよう協議してまいりたいと思います。
こちらから送らせていただいた回答文の内容につきましては、まちづくり推進室の担当にも送付いたしました。今後とも、本市の文化財行政について、ご協力の程よろしくお願いいたします。

さて、いよいよ建設工事は最終段階となり、きのう現地へ確認に行った。教会や工事関係者が数人いて、思うような写真が撮影できなかったが、現況は写真のとおり。
納骨堂前にアスファルト舗装してない柵囲いがあり、遺構の石材はここに展示するつもりだろうか。 教会広報紙によると、工事完成引き渡しは8月中旬、献堂式・祝賀会は9月20日とあった。

長崎の古写真考 目録番号:6074 イギリス軍駐屯地

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6074 イギリス軍駐屯地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6074 イギリス軍駐屯地

■ 確認結果

長崎大学附属図書館(学術情報サービス班)から、次のような依頼を受けた。

8月27日から長崎市立図書館で開催する「1874年、激動の長崎」展の展示内容を見直しています。目録番号
6074及びその他の関連写真についてご教示願います。
目録番号6074は、http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=6074
これは現在までの照会結果で、「イギリス領事館の宿舎」に修正とのご指摘を受けていますが、次の「長崎製鉄所」の写真左上に写る建物ではないでしょうか?
目録番号5314(→高精細画像) http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=5314
目録番号6043  http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=6043
建物のようすと背後の山の稜線の形が合致するように思います。…

きょう、私が現地確認した。目録番号:5314「長崎製鉄所(1)」の左上に写る建物は、超高精細画像で拡大したので、対比してもらいたい。建物の洋館は、ほぼ同じである。
全体から判断すると、目録番号:6074の背後の山は、「稲佐山」で南側の稜線を写している。2棟の建物と2段の石垣、左端へ曲がって登る坂段の道の配置などから考えると、ここは飽の浦町恵美須神社上の、現在、日蓮宗「昭徳寺」となっている場所に間違いないようだ。この写真は恵美須神社上の長崎港パノラマなどの撮影場所で有名だった岩場の手前から撮影できたと思われる。

目録番号:6074は、タイトルの「イギリス軍駐屯地」の意味がわからない。私は古写真考でこれまで東山手あたりと思いパスしていたが、今回の長崎大学附属図書館の、飽の浦町恵美須神社上あたりの建物とする判定が正しいようだ。
「昭徳寺」は、平成19年に新築落成した新しい寺。住職に確認すると、今の敷地はその前、三菱造船所役員社宅が4軒建っていたという。ここが幕末明治期「イギリス領事館の宿舎」の場所だったとは、場所が離れすぎ考えにくい。製鉄所や造船所の外国人指導者宿舎なら理解できる。
この建物のことはかえって、三菱重工長崎造船所史料館の方で調べてもらった方が良いと思われる。
山の稜線の形は、今は現地で全体を写せないから、最後の写真どおり、近くの菱重ビル屋上から確認した。

大久保山から小ヶ倉上の岩場へ  2014年8月

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大久保山から小ヶ倉上の岩場へ  2014年8月

2014年8月11日(月)晴。大久保山(標高233.7m)から小ヶ倉上の岩場へ。戸町の実家へ墓参り帰省中の埼玉県M・Ⅰ氏と2人で。
女神大橋駐車場10:10—魚見岳台場10:34—地理局測点11:04—大久保山11:50—藩境塚12:06(昼食)12:20—展望原12:26—峠部13:00—小ヶ倉上の岩場13:11—八幡神社14:27—小ヶ倉バス停14:35(徒歩距離 約6km)

女神大橋の上の駐車場から魚見岳二の増台場へ上がり、石造倉庫を見て登山道へ入る。20分ほど登ると、明治九年「地理局測点」がある。   https://misakimichi.com/archives/3503
マテバシイの大木を過ぎ、竹林となると、大久保山の山頂はすぐである。八郎岳子午線標、天明藩境塚を見学。ここで昼食とした。

林間内は蚊が多く、砕石場跡の展望原まですぐ出る。なかなか眺望が良いところである。下りの草原は夏草が茂り、今の季節は歩きにくい。小ヶ倉大岩群へは近道の尾根下りをする。
小ヶ倉大岩群は、バイパス北側に見える岩場。展望はすばらしいが、難所が多く初心者には無理なルートである。岩場のやせ尾根はなお続き、小ヶ倉幼稚園上の八幡神社へ出て、バス停へ下った。
私がデジカメ・携帯とも忘れ、写真はすべてM・Ⅰ氏撮影のスマホ画像。