長崎の風景・史跡 (市北西)」カテゴリーアーカイブ

長崎大学医学部構内  長崎市坂本1丁目

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長崎大学医学部構内  長崎市坂本1丁目

先日の記事「開院150周年長崎大学病院」に続き、きょうは長崎大学医学部構内を訪れてみた。次は長崎大学医学部HPの医学部長あいさつなどから抜粋。
良順会館内の「150周年ミュージアム」(史料展示室)及び「原爆医学展示資料室」や被爆遺構は、あとの記事とする。キャンパスマップはズーム拡大。

長崎大学医学部は日本最古の医学部として、2007年11月12日に創立150周年を迎えた。「良順会館」の建設、長崎大学医学部のこれまでの歴史を著わした「創立150周年記念誌」の発刊、国内外から多くが参加した「記念式典」などの事業が行われた。

長崎崎大学医学部の歴史は1857年オランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトと松本良順によって開設された長崎奉行所西役所医学伝習所にまで遡る。長崎大学医学部の創立記念日である11月12日はポンペが松本良順とその弟子達12名に最初の医学講義を行なった日を記念したもの。

1861年には彼らの熱意により長崎港を見おろす小島郷の丘に西洋式の病院で医学校である小島養生所が完成し、ここで多くの日本人医学生に対して系統講義とベッドサイドティーチングが行われ始めた。ポンペは貧富や身分の差別なく患者の治療にあたったことから当時の人々からは驚きをもって迎えられた。彼が説いた「医師は自分自身のものではなく病める人のものである」という素晴らしい言葉は校是となった。

開院150周年長崎大学病院  長崎市坂本1丁目

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開院150周年長崎大学病院  長崎市坂本1丁目

文久元年(1861年)9月20日、長崎小島郷稲荷岳(現在の長崎市立佐古小学校)にオランダ国軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトによって養生所(我が国最初の洋式病院)が開院しました。その後、名称、所管とも幾多の変遷を経て平成21年(2009年)に長崎大学病院となりました。(展示写真「長崎養生所」説明文から)

後ろの写真は、2階エスカレータ左右の展示品や病院模型などと、長崎大学病院広報誌「ポンペだより」の記事。「長崎大学病院開院150周年記念碑」が2011年9月23日にゆかりの地、長崎市立佐古小学校に設置された。「養生所碑」も校庭から大徳寺公園側の門下に移設されていた。最後の写真は、現在の病院左側市道下に残るレンガ造アーチ式石橋。被爆遺構?

琴海の主な史跡など (3)  琴海形上町・琴海大平町・琴海尾戸町

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琴海の主な史跡など (3)  琴海形上町・琴海大平町・琴海尾戸町

琴海の主な史跡などの説明は、琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年発行の1076頁以降「第五章 史跡史話」などから抜すい。

写真  1〜 4   1 琴海のカネコシダ群落  (琴海形上町)

県指定天然記念物。「大子」バス停手前の大子橋から県民の森へ通じる車道を上がる。かなり登って楠原公民館を過ぎ、琴海町防犯灯NO.8からの右斜めの旧道へ入る。トタン小屋と奥に廃家あり。ここが以前の尾崎宅。川を渡った谷間の斜面が群落指定地。説明板がある。
(長崎県の文化財HPから)
琴海のカネコシダ群落  県指定天然記念物
指定年月日:昭和58年8月30日  所在地:長崎市琴海形上町
中の川内楠原の尾崎氏宅に隣接した町有の細道に沿って、延長およそ100m、高さ20〜30mの急斜面にウラジロと混生した大群落である。カネコシダは、ウラジロ科ウラジロ属の植物で、正月に用いるウラジロに似ているが、葉の裏が白くないことなどが特徴。日本では、明治37年に佐賀県黒髪山で発見され、牧野富太郎が新種として、学名とカネコシダの和名を付けた。本県では千葉常三郎が昭和10年頃、西彼町亀岳で小さい産地を発見、現在では西彼杵半島内に数か所小さい産地が見つかっているが、ここは指定地(2,875㎡)も大きく、町が公有化し保護している。

写真  5〜 7   2 旧明治県道の一里標  (琴海形上町)

形上近く「大子小浦」バス停から小川沿いに右に入る。「株式会社平田形上工場」の裏側へ回る小道が旧明治県道。石祠を過ぎしばらく行くと、内山宅入口先の草の茂みの中に折れた標石がある。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2865
(町史 590頁) 交通の発達から
⑪形上地区  現在の「吉野浦」バス停から県道は海岸沿いに迂回していた。そこには衆議院議員中村不二男の豪邸があった。それを過ぎると大子との界をなす形上の内山家、この内山家の所に楠の木と藤の木があった。ここは夏の憩い場であり、その下に一里塚の標柱が立っていた。
高さ1mほどの角柱「正面の下部に”長崎縣”、右側面の上部に”長崎へ八里”、左側面上部に”面高へ七里”」とあった。現在は露出部45cmが残って、正面の”長崎縣”のみが現存、左右は”里”のみを残し、上半分は折れている。思えば18cmの角柱、約1mの標柱であった。…

写真  8〜11   3 形上小学校跡  (琴海形上町)

「形上」バス停から形上保育園の方へ入る。形上公民館後ろの迫宅が、「形上尋常小学校」の跡地。当時の校門?が残るが、庭にあった町史に記す明治31年建「学碑」は、近年、近くの形上小学校校庭へ移されていた。形上小学校は平成18年、創立100周年を迎えている。
(町史 1104頁)
筆者(町史の執筆者山口博氏)の記憶に残る戦前の当地は、草茫々の広場、時々活動写真が催される所であった。敷地は80×50mくらい。今、民有地となった当地を訪ねると、明治三十一年建立の学碑が建って365個の漢字で学校創立事情を語る。それによると当地に学校が竣工したのは明治29年10月、景観宜しき地に、地元民の熱意により起工した旨を記すが、それ以前については、「形上学校は民屋を借ること殆んどニ十年」と記すのみで、その始まりについては触れていない。… 

写真 12      4 山 神  (琴海形上町)

「形上」バス停から形上公民館と形上保育所との間の坂の車道を上がる途中にある。
(町史 1104頁)
150年ほどの年輪を思わせる楠、クチナシ、榊が境内を蔽う中に、15×15mの平地が開かれ、奥まった所にトタン葺きの覆い堂あり、そばの石灯籠礎石には「形上村氏子中」と記される。正月、11月16日には賑やかな祭りが行われた。覆い堂の中には、台石とも高さ1mほどの入母屋式妻入り石祠がある。当町の石祠は多く明治に成るもので入母屋式屋根の平入り石室、台石、基礎の三部から成るのを常とする。しかし、当地の山神祠堂のみが、入母屋式妻入り石祠があることは銘記されてよい。

写真 13〜18   5 城の辻(舞岳城跡)  (琴海形上町)

「形上」バス停から形上公民館と形上保育所との間の坂の車道を上がりきった広い交差点に、「舞岳城跡」の案内標識がある。道は狭いが車はまだ上まで行く。終点から城跡の山頂まで遊歩道を5分登る。
(町史 1102〜1103頁)
『郷村記』に、「舞岳の古城。荘屋門前より亥(北北西)の方五町余の処にあり高さ麓より登りニ町三〇間。頂上東西一ニ間南北一町今は野畠なり。乾(北西)の方石垣築立、腰郭の形あり、艮(東北)の方絶壁、巽(南東)の方石垣あり、南の方大手と見へたり。元禄の記に、此城相川知仙と云者籠り、喜々津主殿と云者と迫合、右時代取合の様子不分明と云々」。以上の『郷村記』どおり、山頂の標高126mの所に石垣、腰郭が現存する。江戸期に至って廃城となり、毘沙門天王が祀られる。当神は仏教守護の四天王の一の武神とされるところからみると、山城時代から祀られたのかもしれない。

しかし、当祠堂は江戸期のもので高さ75cm、屋根1m×50cmの切妻造り平入り石祠。中に高さ20cm、幅10cmほどの金銅像あり、右手に槍、左手に宝珠を捧げる武装忿怒形で岩座の上に直立する。側に「宝暦九年五月、奉寄進石灯籠、願主中村定右衛門」とあり、宝暦9(1759)年前後の石祠ではあるまいか。鎮座地は10mを一辺とする三角形で、30cmほどの落差で広い境域となり南へ70mほど延びる。11月18日ともなれば、形上郷中の祭りとなり、砂を載せた牛を引き、牛の安全を祈願したもの。牛と毘沙門天の関係は明白でないが、毘沙門天は武神のほか、郷中の氏神となるなど、造立目的は多岐であり、当毘沙門天は郷中守護の神として祀られ、人間のみでなく、生業に必要な牛の守護神としても崇拝されたのではあるまいか。現例祭は12月18日。

写真 19〜20   6 谷頭の山神と稲荷さん  (琴海大平町)

形上交差点から右折、尾戸半島のつけ根「大平橋」まで行く。北から小川が流れ左へ曲がると、上流に「江ノ平 大平公民館」がある。公民館すぐ裏手の急なコンクリート道を車で登ると、一番上のビニールハウスに出る。ハウスの右上に山神の石祠が見える。
谷頭は西側の谷。遠回りで山道が荒れてわかりにくい。昔(昭和25年か?)、祠を谷頭から移転したと聞く。「江ノ平の山神」というべきだろう。
(町史 1094頁)
『郷村記』に「谷頭、山神、所中祭之、例祭正月九日、十一月十六日、石祠、木鳥居壱、境内四畝」。境内入り口の両脇に巨大な白樫が立ち、根元から10本ほどの巨幹が分枝して神の依代となり、巨岩盤座を背に鎮座する。現在の石祠は昭和25年、前田藤吉建立、眼病の御願成就に奉献したとものという。隣って、高さ120cmほどの稲荷大明神が巨岩、山桃の木を背に鎮座する。両祠とも入母屋平入りの石室である。

写真 21〜23   7 尾戸又兵衛のデジマノキ  (琴海尾戸町)

尾戸半島の南端の方。ぺニシシュラオーナーズGC入口を過ぎ、終点小口港1つ手前「又兵衛」バス停まで行く。左へ下ると3軒の家があり、先の岳本宅入口石垣上にデジマノキが立つ。幹囲1.4m、樹高8mほど。岳本氏は住んで140年となる。その前から生えていたと話す。出島にしかないといわれる木が、ここにもあった。最後の写真は、又兵衛下の海岸「塩垂島」。
長崎市・出島資料館の側にそびえているデジマノキは、歴史ある大木で県天然記念物。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/383
(琴海文化センター展示「琴海エリア」資料から)
出島の木  幕末の頃、オランダ人がジャカルタにあったナンヨウスギ科常緑高木、学名アガチスハルマを出島に移植したもので、出島の木といわれている。

琴海の主な史跡など (2)  琴海戸根原町・長浦町

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琴海の主な史跡など (2)  琴海戸根原町・長浦町

琴海の主な史跡などの説明は、琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年発行の1076頁以降「第五章 史跡史話」などから抜すい。

写真  1〜 2   1 神上墓地のクロガネモチ  (琴海戸根原町)

「自証寺前」バス停少し先の墓地。国道から左坂道を上がる。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/451
(町史 1123頁)
当町内の墓地で平地に建つのは、当墓地のみではあるまいか。樹齢数百年を思わせるシラ木、空洞化しながらも、なお夏には緑陰を作って、祖霊を安住させるが如くに立ち続ける。日本人の考えでは33年忌が済むと、祖神となるという。祖神の依代として、シラ木が立つ当平地が選ばれたのであろうか。新旧型の墓石が混じて約150基、寛永4(1792)年、天保2(1831)年の頭頂櫛形の古墓石が見いだされる。

写真  3〜 5   2 土井ノ浦海岸のアコウ  (琴海戸根原町)

戸根か長浦から、パサージュ琴海アイランドGCの方へ向かう。半島東側の入江が土井ノ浦海岸で、公園として整備され、外海町から移植されたアコウ記念樹がある。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/449
(現地説明板)
琴海町のアコウ樹
アコウは、アコギまたはアコノキなどいわれるクワ科の常緑高木です。イチジクのような小果を結びわが国では九州、四国、本州の暖地に分布します。県内では本土の沿岸暖地や五島・平戸・壱岐・鷹島等のキリスト教信者の多い島に多く大木を見ることができます。亜熱帯植物で奇観を呈することが多いですが、琴海町のアコウ樹は県内でも一級の巨樹の部類に入ります。大きさは根回り6.5メートル、胸高幹回り4.8メートル、高さが10.4メートルとなっています。このアコウは護岸整備竣工の記念樹として外海町から移植したものです。

写真  6〜10   3 小崎の城  (琴海戸根原町)

国道から東方に見え、パサージュ琴海アイランドGC道路へ入る。その途中にあって、現在は「琴海中央公園」として整備されている。城跡は展望台西側の高地。
(町史 1124頁)
土井の浦にあって、海を背に、前面を戸根原川に臨む要塞地。戸根原川と山城間に開かれた水田は、江戸期開拓の新田であり、中世末期までは、葦茂る浜辺であったと考えられる。当城を『郷村記』にみると、「高さ平地より壱町(109m)程、四方深谷、北の方絶壁なり。頂上平地あり、七間方(13m四方)程野地なり、西の方に少しの平地あり。其の間に堀切の形残れり、東北の間海なり、城主築立由緒不知」とある。土地の人は「こじょうじ城」と呼ぶ。古城の地跡の意であろう。

写真 11〜13   4 神上の山神  (琴海戸根原町)

国道からパサージュ琴海アイランドGC道路の反対側へ入る。河内川に沿った車道を行くと、上流に「山の神橋」あり。その手前が神社である。
(町史 1122〜1123頁)
戸根原川上流の河内川南側、大岩石の中に鎮座する山神で、『郷村記』に載る古社である。同伴の西浦春次が「こりゃ、ええ所におらるざい」と思わず口ばしる。筆者(町史の執筆者山口博氏)も当町内で数か所の山神、畿内では数多く訪ねたが、巨大な石鳥居、常夜灯の立つ山神は初めてである。境内は奥行き30m、幅2m、向かって右に川、左に巨岩聳立、境内は全て石畳を思わせる岩盤、奥まった所にニ祠あって、いずれも入母屋平入り、一は台石とも80cm、奥まった所に建つ小祠は30cm、石室に「三千万山之神」と記してある。神酒、マガリが供えられてある所は当社のみ。供え物については、山神の概説の項で述べたが、山を支配する山神の鎮座地として、これほどの格好の地は全国的にも珍しい。

写真 14〜15   5 長浦橋  (長浦町)

「長浦」バス停から手崎川へ向かい、旧県道の道へ入る。手崎川に昭和4年3月竣工の「長浦橋」。次に古い橋は、琴海形上町の四戸川に昭和6年5月竣工の「四戸川橋」(写真16)。
(町史 589頁) 交通の発達から
⑦長浦地区  旧県道は戸根原から直進して国道を横切り、長浦川を直角に渡る。この橋は現存する琴海町最古の橋で、長さ6m50、幅4m、昭和4年3月架橋。鉄棒を芯棒にセメントで包み固め、ランカンも中柱で空間をつくることなく、全部がセメント塗り、高さ30cmで扇子形をなしている。昭和4年ころの道幅を示す橋としても大切な橋といえよう。… 

写真 17〜19   6 「萩原峠越え」の古道標  (長浦町)

長浦バス停から手崎川へ向かい、左右岸の車道を1kmほど上流に行く。手崎川が角々に曲ったあたりに坂本宅がある。坂本宅入口と橋の間の右石垣上に古道標が立つ。
幅15cmほどの角柱、高さ50cm。正面「右 かめのうら かたがみ 道」、左面「左 山 道」、右面に「明治八年 乙亥十一月 施主 佐木喜代作 濱口直左エ門 小林辰蔵 溝口共吉」?と刻む。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2866
(町史 148〜151頁) 往還道から
…大子から手崎へは無人地帯の山系を通った。「さやの首」と呼ばれる所に「籠立石」があって、現国道から2kmの西側山中に位置する。いよいよ萩原峠越えとなる。鬱蒼たる山中道は、約200mで手崎農道に出た。楠原や長浦岳が展望されて急に天地が開けた。農道は旧道の石垣を残して拡幅されており、東へ300m歩くと、ミカン収納庫がある。農道を離れて山中へ分け入ると、古道の面影を盛り土道に残している。横断する農道を3つほど横切り、畑中の古道を駆け下ってようやく手崎川に出た。これが「萩原峠越え」である。…

写真 20〜22   7 三社大神のヤマモモ・ホルトノキ  (長浦町)

長浦バス停を過ぎ、国道がカーブする所の上に歩道橋が渡る。手前から右方の狭い車道を登り左の道に入ると、三社大神宮の鳥居前へ出る。社殿周りの森には巨木が林立している。
板根になったホルトノキの大木もある。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/452
(町史 1114頁)
明治八年神社調帳では、「三社大神、建立年代不詳、社地六畝一八歩、境内・末社山神、祭神大山祗命」とあり、『郷村記』も同様記事を載せる。明治9年長浦村社に列せられ、戦時中には小学校全員が挙って参拝した思い出がある。旧長浦村内神社五社のうち、創建年代不詳と記されるのは当社のみ。鳥居3基の第1鳥居は明和元(1764)年建立。
社地に入ると、平地ではあるが社地広大、緑の巨木鬱蒼と茂り、長年月の間神域として崇拝されてきた歴史を物語る。中でも社域入り口のヤマモモの木は、樹齢数百年を思わせ、洞穴の直径2m余。これを神の依代として、天文8(1539)年に三社大神を祀ったのに始まる。…

写真 23      8 真珠養殖  (長浦町)

形上湾内で見られる真珠養殖所と海面の浮玉。写真は小島が浦手前の長浦町深江真珠。
大村湾の天然真珠は「肥前風土記」から表れる。大村藩時代は、藩の直営産物とし、一般人の採取を禁じていた。
(町史 1039頁)
…大正七年『村松村誌』は、「九、特産」で真珠について次のように記す。
本村ノ浦内ハ波穏ヤカニシテ、海底ノ傾斜徐ニナルガ故ニ、真珠貝ノ棲息ヲ易カラシメ、其他砂礫ノ状態温度亦繁殖ニ適スルアリ。其産格ニ於テ其品質ニ於テ夙ニ名声アリ。県当局ニ於テモ其養殖ニ最モ適所ナルヲ認メ、数回試殖ヲナセシモ、其結果非常ニ良好ナリキ。現今数区ニ分チ、個人ノ経営スルトコロトナリ、天然養殖ノ外、人工養殖ノ方法ヲ案出シ、独特ノ技術ヲ施シ、其成績ハ頗ル良好ニシテ品質優秀殆ンド天然物ト識別スル能ハス、実ニ洋々タル前途ヲ有ス。
村松村の西村真珠養殖所と、楠木真珠養殖所は大正二年創業。大村湾、長崎県真円真珠養殖の草分け的存在であった。…

琴海の主な史跡など (1)  西海町・琴海村松町・琴海戸根町

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琴海の主な史跡など (1)  西海町・琴海村松町・琴海戸根町

琴海の主な史跡などの説明は、琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年発行の1076頁以降「第五章 史跡史話」などから抜すい。

写真  1〜 2   1 石切り場  (西海町)

国道206号が、新長崎漁港方面へ分岐する「西海交差点」あたりで岩山が見える。
(町史 1148〜1149頁
西海川に沿う国道筋を通ると、西側間近に、片側が削られて聳立する大山が眼前に迫る。当地を谷門と字名し、当山を谷門岳と呼ぶ。良質の安山岩を産し、業者は組合を作って石材採取する。その始まりは明和年間(1760年代)、千綿村石工太之助なる者が、両親の菩提石を尋ね歩く間に、当地の石材に着目採取したとの、孝行美談説で開花する。寛政10年(1798)に、大村藩家臣が御用石を切り出してから、藩の御用石場指定となった。

民間人による開発は、場所を異にして天保年間(1830年代)、千綿村石工により始まった。弘化年中の大村藩・長崎屋敷の地伏盤石には、この西海石が使われる。明治に至り、民間業者への払い下げとなった。毘沙門天王への石段が、大正3年の石工35名による献納を思うとき、その盛期を窺うことができよう。石材採取も杭打ち、叩き出しからハッパ、削岩機へ、手工研磨から自動研磨機へ。石船から馬車、自動車輸送となり、現在は墓石、踏み石として、販路を県内外に広げている(『彼杵半島の史蹟めぐり』参照。岩下菊治氏から懇篤な教示を受けた)。

写真  3〜 4   2 村松村古城  (琴海村松町)

村松バス停先から左折、村松川沿いに上流へ行く。「城の尾橋」手前左上が城跡。
(町史 1142頁)
「村松村荘屋より西方、後川内と云ふ処にあり、元禄の記に曰く、高さ六十五間、麓より五十八間の処に引廻しの石垣あり、長さ六十五間、高さ四尺、石垣の内にニ間半の武者走りあり、此処南の方に長さ四間ニ尺の石垣あり、頂上は竪十二間横六間程の平地あり、水の手葛山川流あり、西より北東まで城下大構の如く相見る、由緒・時代不知」(『郷村記』)。
筆者(町史の執筆者山口博氏)の山城研究も15年ほどになるが、村松城は恵まれた地形を利した点で典型的山城である。東を大手門とし、背面と北側は桂山・大石岳の滴り水を集め流れる村松川に囲繞(いにょう)され、標高50mほどの独立山嶺をなす。城下支配の絶好の地形、山城というより、丘城の感が深い。

写真  5〜 6   3 猪垣跡  (琴海村松町)

「城の尾橋」から琴海戸根町境の車道を登って行き、中腹の集落上で見かけた。入口標柱には「1740年施工」。西海市中浦北郷に残る県指定史跡「西彼杵郡半島猪垣基点」の標石には、「享保七寅年」(1722年)の文字が刻まれている。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2394

写真  7〜 8   4 寺 島(現在は「詩島(うたしま)」という)  (琴海戸根町)

オーシャンパレスGCの方へ行き、その先の脇崎集落波止場から正面に見える。
(町史 1133頁)
「浦沖十町程の所にあり、周廻四町九間、四面荒磯なり。嶋中小松間原に生し、其風景大によし」(『郷村記』)。現在は著名歌手さだまさしの別荘地となり、週刊誌などを賑わしたこともある。寺島なる名称は「聖教寺院の跡から起これるもの、沿岸陸地に古寺口なる字地あり」と里人は語る。寺島の名にふさわしく、現地は大宰府天満宮が勧請しある由。

写真  9〜10   5 阿蘇神社のケヤキ  (琴海戸根町)

国道中央幼稚園の後方に神社はある。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/448
(町史 1129頁)  
…健磐龍命は熊本県阿蘇神社の祭神で、降雨の神、護国救民の神として信仰される。神殿は流れ造りで拝殿に続き、拝殿は三間×三間の18畳敷き。境内地は東西35m、南北12m、その周囲は雑木林で囲まれ、殊に50の石段の両脇の雑木、その中に交じる高さ40mの巨大な欅(けやき)は、神木として、神社に一層の景観を添える。

写真 11〜12   6 庭に巨石ある民家  (琴海戸根町)

国道中央幼稚園から左折、100mほど行って田んぼの右手の民家。斜めから見ると両脇が巨石から囲まれている。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2861
(町史 1152〜1154頁)
高さ、長さ、ともに約6m、幅4mの巨石が庭の一隅にあって、古い民家が建つ。戦中には1斗笊笥(そうけ)10杯分のバッチ(注:方言で干し芋、カンコロのこと)を干したという。ご主人から丁寧なご説明を頂く。「琴海の民家」の1項目を設けて記述したいと思った。全体の民家調査をなし得ず、本書に記載し得なかったことを申し訳なく思っている。他日、県または町文化財指定の機ある時に執筆したい。

写真 13〜14   7 戸根渓谷ヒスイ  (琴海戸根町)

市指定天然記念物。国道中央幼稚園から左折、「ほたるの郷」上流の戸根渓谷らしいが、指定地は明らかにされていない。琴海文化センターの展示史料には「民家の石垣、川底などに10数個の翡翠輝石(原石)が確認されている」とあった。
(長崎市の文化財HPから)
戸根渓谷ヒスイ  市指定天然記念物
指定年月日:平成18年1月4日  所在地:長崎市琴海戸根町2044番地ほか
ヒスイは軟玉、硬玉、様々な種類を含むが、透明で深緑色のものは、古来、東洋では第1級の宝石「翡翠(ひすい)」として珍重されてきた。平成15年(2003)1月に戸根渓谷で発見されたヒスイは、宝石としての価値は低いものの、ヒスイ輝石岩中に石英(せきえい)の含有分が多く、地質学的に大変珍しいものであることから、市の天然記念物に指定された。

写真 15〜18   8 自証寺と五輪塔  (琴海戸根町)

寺名のバス停前。自証寺開基の因とされる大村純忠の娘マリイナ(自証院)の五輪塔が最上段墓地にある。地輪部の右側面に「大村市辻ノ堂墓地ニアル自證院墓所ヨリ分骨シ原型ニ模シテ塔ヲ建立シ以テ当山始祖ノ菩提ニ擬ス 平成二年七月吉日 本住山廿七世日恒」と記す。
寺入口に樹齢250年を越えるというイチョウの大木2本。
(町史 1125〜1127頁)
「本経寺末・日蓮宗一致派・本住山自証寺。本堂・万治元(1658)年開山日円。縁故・当寺ハ旧領主大村家長臣浅田左門、実母自証院菩提ノ為メ創建開基。日円ヲ帰依セシメ爰(ここ)ニ住職トス」(以上、明治八年寺院明細調帳)。大村八か寺の一で、明治8年檀家1100戸を持つ大寺院である。大村八か寺は慶長10(1605)年の本山・本経寺に始まり、寛文8(1668)年、千綿の本地寺建立までの50年間に成立する。

自証寺は庵の形で出発し、万治元(1658)年8月、浅田左門前安の子安昌が大村純長を開基として、祖母自証院菩提のために創建したものである。大村藩士は24階級に分かれるが、浅田家は大村城下、三重、長崎、戸根に413石を有する大村藩家老の要職にあった。浅田家系図を見ると、寛永9(1632)年12月14日没の本住院常安、寛永16(1639)年正月7日没の自証院妙安がいる。浅田前安の両親、安昌の祖父母に当たり、殊に自証院はキリシタン大名として学校教科書にも現れる大村純忠の娘、棄教を肯(がえ)んぜず、当地戸根に隠れてキリシタン信仰を続けたと伝えられる。この自証院から自証寺を称し、その夫純盛と考えられる本住院から山号をとり、本住山自証寺を称した。

…この自証寺の裏山は墓地となり、8段ぐらいに削平して400基ほどの墓石があり、開祖歴代の墓も最上段の所に建つ。これらの墓石群、また自証寺については、60頁に記述した。

写真 19〜22   9 琴海のヒイラギ  (琴海戸根町)

県指定天然記念物。戸根バス停からオーシャンパレスGCの方へ入る。途中から左の坂道を崎山の浦江宅へ登る。シイの大木も隣りに立つ。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/450
(長崎県の文化財HPから)
琴海のヒイラギ  県指定天然記念物
指定年月日:昭和58年8月30日  所 在 地:長崎市琴海戸根町547番地
ヒイラギは、モクセイ科モクセイ属の常緑高木で、葉の形が独特な樹木である。わが国では関東以南の本州、四国、九州、沖縄に自生する。庭園樹などとして広く植栽され、よく知られている樹木である。
指定のヒイラギは地上40cmの幹囲が3.6m、その上が三大支幹に分かれている。枝張りは、北へ1.70m、南へ3.00m、東へ3.70m、西へ7.00mあり、ヒイラギの珍しい巨木である。

西泊の石張りの川  長崎市西泊町

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西泊の石張りの川  長崎市西泊町

長崎市内にある三角溝や四角溝の石張りの川。布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生い立ち」長崎文献社2005年刊25頁の”石張りの川 シシトキ川”は次のとおり。
同著はそのほか、市中央部のいたる所や、浦上地区でも銭座天満宮入り口付近の街道ぞいに現存していることを記している。

…思案橋で電車を降りて「浜市商店街」のアーケードにはいり、中央橋のほうにむかって60mほど歩くと、アーケードの通りがS字型に軽く折れ曲がっている。ここがシシトキ川にかかる「橋」である。ここで右側(電車通りと反対向き)に折れてすすんでいくと、三番目の通りに出たところで、ようやく、川の姿を目にすることができる。
川幅は約2mで、大きな溝という感じにちかい。上流にさかのぼるにつれて、しだいに川幅はせまくなる。写真でわかるように、両脇の板石が斜めに張られ、水量がすくないときに、流れをまんなかに集めるしくみになっている。
このような川は、桶屋町から築町をへて出島橋にいたる「地獄川」(公会堂の裏、および中央公園裏で川底がみえる)、樺島町、館内町などにもある。地獄川の名は、公会堂裏にある市役所別館の場所に、むかし、牢屋「桜町牢」があったところから来ている。

長崎港西部の港口「西泊番所」があった西泊町でも、写真のとおり規模が大きい、石張りの川を見ることができる。西泊バス停後ろ、広い永富パーキングなどの間を流れる川一帯。
西泊町は歴史がある町。「西泊番所跡」「佐藤家住宅」「海底線史料館」なども紹介する。長崎市都市景観HPによる説明は次のとおり。

№52 佐藤邸(国登録有形文化財)  西泊町8-22

佐藤邸は幕末から明治中期にかけて建てられた5棟の建物(主屋、木造家屋、石倉2)からなります。主屋は当時としては貴重なレンガを用いた建物で、倉は長崎ではめずらしい石積りでできており、質倉として利用されていました。幕末から明治にかけて西泊町発展の証しであり、象徴的な建物といえます。

№53 海底線史料館  西泊町22-1(NTTワールドエンジニアリングマリン株式会社敷地内)

西泊町には、明治以来今日まで海底通信ケーブル建設・保守の拠点となっている事業所があり、その敷地内には歴史ある赤レンガ造りの洋風建築が存在しています。この建物は、明治29年に陸軍省臨時台湾電信建設部の電源舎として建築され、110年余りの風雨に耐え抜いてきたもので、現在は「海底史資料館」として一般にも公開されています。
なお、2009年2月23日に経済産業大臣から「近代化産業遺産」の認定を受けました。世界中に張り巡らされた海底ケーブルによって高度な情報通信社会が実現するまでの様々な歴史が刻まれています。

昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑  長崎市向町淡島神社境内

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昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑  長崎市向町淡島神社境内

長崎市式見地区、向町の淡島神社は、蝶ヶ崎トンネルを出たすぐ右手。上の境内まで車が入る。戦時下の痛ましい海難事故で、死亡・行方不明者実に273人を出した「近海丸殉難者之碑」がある。ほとんどが式見、三重地元の人である。
近海丸事故は、式見郷土史170頁にもあるが、簡略なため現地碑文を次に記す。像の制作者は、山﨑和國氏。風頭公園の坂本龍馬像で有名である。

近海丸遭難50周年忌追悼の記

太平洋戦争熾烈な昭和19年12月24日午後1時頃、長崎交通船株式会社の連絡船近海丸(26t)が当時、西彼杵郡福田村小浦沖合いに差しかかった際、激浪を受けて転覆沈没した。近海丸は三重式見から長崎市大波止に帰航中、乗客、乗組員は疎開学童婦女老人らを含め計338人。戦争故に殊のほか食糧欠乏の時局下、乗客の殆どは食糧買い出しで乗船していた。家族肉親のため幾許かの食糧を背負い、夕餉の楽しさに心はずませ、ひとときの夢を抱いていたであろう。まして歳末のこと、正月を迎える喜びを分かち合う御心情の程は察しても、なお余りある。しかるに夢は一瞬にして消えた。

嗚悲しいかな。救助者僅かに65人。死亡、行方不明者は実に273人にものぼった。長崎水上署、稲佐署、地元消防団の懸命の救助活動も遂に及ばない悪天候下のこと、まさに痛恨の極みというべき一大海難事故ではあった。原因は激浪のなかで定員の4倍もの乗客が背負い荷ともども右舷に傾いて均衡を失ったためとわかった。明けて昭和20年8月15日、戦争は終り、平和な時代を迎えて、現在に至っている。あの憎むべき戦争なかりせば碑名の遭難者の犠牲はあり得べきものではなかった。故に50周年忌に際し人命の尊さに思いを致しつつ天界の御霊に追悼の意を表し、心からなる御冥福を祈念するものである。
安らかにねむれ亡き人よ 波しずかなれとこしえに
平成6年12月24日   建立発起人  渡辺宗人 吉原源次 門口政治 山口 寛

(2014年12月5日 追 記)  この項は、本ブログ次の記事も参照。
防災情報新聞Webで公開された「昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑」記事
https://misakimichi.com/archives/4302

三重の主な史跡 (2)  長崎市三重地区

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三重の主な史跡 (2)  長崎市三重地区

長崎市三重地区の主な史跡。三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」(発行年不明、長崎市編入前か)による説明は次のとおり。
三重商工会の次資料も参照。 https://misakimichi.com/archives/2299

写真  1〜  9   野々岳と烽火の跡

三重村の平地、角上の北方に標高333mの通称「野々釜」と呼ばれている高山がそびえております。三重小学校の側の山道を登り始めて約1時間20分位いで頂上に到達することができます。地図を開いて調べてみると「野々嶽」と記されてあります。往昔は恐らく「烽火岳」(のろしだけ)?…と呼んでいたものが時代と共に転訛され「のろしだけ」「のろだけ」「ののだけ」「ののがま」といわれるようになったのではあるまいかとも考えられます。

頂上に到達しますと西は五島灘、北は西彼杵山脈の連山、南は天草灘から東支那海をのぞみ、東ははるか大村の琴湖をへだてて発電所の煙たなびく彼方にくっきりと秀峰多良岳を展望することができます。
山頂は奇岩怪石の一群をなしておりますがこの石群の南斜面をやや下ったところに「かま」ゆわいる烽火台が現存しているのです。私達の調査では直径2.55m、深さ1.10mの円形がまでありますが、しかしこの深さは土砂の流入でかなり埋没しており、工築当初とはだいぶん変化をきたしているものと考えられます。築法は普通の自然石を原始的積みかたといわれます「乱れ積み」方式で燃えやすい石囲いをつくっています。…

…野々嶽の頂上に直径6尺深さ8尺位いの穴があります。徳川幕府時代島原乱の折り、長崎異変の際狼煙をあげて変事を近郷に伝え式見の狼煙を受けて神の浦烽火場に伝達する規定があったそうです。このことについてもう少し詳しくのべますと、三重岳狼煙場は庄屋からその行程10町ほどの山の頂にあり長崎異変のときに式見の鶚岳の火を受けて狼煙をあげ、村中に知らせたとあります。
その始めは寛永15年島原一揆を鎮圧したのちに松平伊豆守が長崎にしばらくとう留して諸事の裁判をしたわけですがそのとき彼の指図によって三重岳に狼火場をつくり、いつも足軽3人が在番してここを守ったわけです。

もし長崎表に異変があるときは長崎の烽火山に狼煙をあげて近隣に急を告げ知らせたわけですが、彼の山の火をもここで受けたといわれます。「烽火山」から「三重岳(野々岳)」そして平戸領の「耶須満岳」ついで筑前国の「宝満岳」さらに中国地方へ移動させたといわれます。この方法はしばらくの間途絶していたのですが文化7年上総介純昌が現在地に再興させて天保13年修理を加えたと記録にあります。…

(注 「野々岳」は三重町背後の山。小学校の遠足の場となっていた。現在の地形図では標高
325m。三重診療所からか、三重小学校前から日田尾集落を通り、長崎リハビリテーションまで上がる。奥の駐車場から永田への道を少し下り、左折してサンコー産廃施設の中を登って行くと
JWFC模型飛行場がある。飛行場脇の道を三叉路まで進み、左上に山道を20分ほど歩くと展望が良い頂上岩に着く。烽火台跡はこの岩に登る所にある丸い石囲みと思われる)

写真 10〜 16   御 岳

三重田郷の県道沿いの山にあって神体は毘沙門天を祭っています。例祭は3月18日、8月16日で石祠、石鳥井があります。建立は文化元年8月25日、三重、黒崎、京泊浦中より之れを建つ」とあります。石鳥井は天保6年に建てられています。

(注 「御岳」は三重田にある小高い山。標高167m。バス停手前から右の坂道に入るとすぐ「御嶽道建設記念碑」がある。集落墓地の中を通り、頂上の毘沙門天石祠まで整備された石段と山道を約570段、20分登る。樹木で展望がきかない山頂となっているが、南の海側は少し見える。
「御岳」には山頂手前に「烽火台」と言われる跡がはっきり残っている。三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」神社の項から「御岳」は引用した。「烽火台」の説明がないのでわからないが、現地には朽ちた地元説明板があり、大村藩の火上げ場で、三重周辺海域の変事の際、大村藩に知らせたとあった)

三重の主な史跡 (1)  長崎市三重地区

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三重の主な史跡 (1)  長崎市三重地区

長崎市三重地区の主な史跡。長崎県HP「長崎県の文化財」、三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」(発行年不明、長崎市編入前か)などによる説明は次のとおり。
三重商工会の次資料も参照。 https://misakimichi.com/archives/2299

写真  1〜  8   三重海岸変成鉱物の産地  長崎県指定天然記念物

指定年月日 昭和53年3月31日  所在地 長崎市三重町  管理者 長崎市
西彼杵半島は、主として堆積岩起原の変成岩で構成され、大部分は石墨に富む黒色片岩であるが、一部に石墨を含まない石英片岩もあり、一括して西彼杵変成岩類とよばれている。これには所により、連続性のよい薄い緑色片岩や蛇紋岩などの緑色岩を伴う。
長崎市三重海岸に露出する緑色岩には、陽起石、緑廉石、緑泥石、曹長石などの変成鉱物と共に、ヒスイ輝石が含まれている。ヒスイの存在は、九州大学理学部地質学教室西山忠男氏によって初めて確認され、正式には昭和53年3月に地質学雑誌で発表された。
ヒスイは世界的に産出が稀な鉱物であり、多くの宝石ヒスイのに原産地はビルマである。日本の産出では新潟県小滝が有名である。三重町三京海岸では、1〜1.5m大のヒスイ輝石群が転石として3個あり、最大のものは長崎県立美術博物館に保管されている。
(長崎県HP「長崎県の文化財」から)

(注 三重海岸変成鉱物の産地は、国道202号線三京マリンヒルズ翡翠ヶ丘公園左側下の三京海岸や樫山海岸で見られる。一帯は鉱物採取が一切禁止。見学のみにとどめる。掲載写真は、現地で適当に撮ったもの。本文のヒスイ輝石群ではない)

写真  9〜 12   翡翠ヶ丘公園

ヒスイが採れたところから命名された三京町の翡翠ヶ丘公園からは、新長崎漁港を中心に発展を続ける街並みが一望できるほか、眼前に広がる海原に浮かぶ神功皇后伝承の島、神楽島も望むことができます。平成10年には、長崎魚市場の誘致をはじめ、長崎県水産業の発展、地元三重にも大きな功績を残している柏木哲翁の銅像も建立されています。
(三重・外海の情報発信ネット「ミエるぞ!ネット」観光マップから)

写真 13        神楽島

三重港外の約4km近い南の海に浮んでいる島で沖平半島に近接して長崎市式見町と対しており、さざえ崎との間は干潮時には約800m位いになります。この島は隣りの式見と三重とでそれぞれ半有されており正確には南の方を式見が2/3、北の方を三重が1/3領有しているわけですが、このことについて「三重郷村記」に次のように記録してあります。「瀬戸郡の奉行加藤左司馬の在任中、文化十年正月三十日、三重、式見両村の支配地とし、双方より松植さる」とあります。またこの島は古くから両村の争いの的になっていたらしく式見唄に次のようなものがあります。…唄略。 

写真 14        西大瀬

三重港入口のところ「畝」よりに位置しており大潮のときには徒歩で渡られます。立岩で頂上に数本の松木がありますが、この瀬は文政12年3月に長州豊浦郡和久村の網師である新屋満茂という人が網代見立てをして鮪網を設置したところでもあります。

写真 15        能 瀬

樫山の青瀬の鼻から1町40間程西南西にあり、この瀬では延宝5年12月13日に帰国しようとしていた唐船が激浪のため破船したところです。また明治史に有名な江藤新平、榎本武揚らが乗りこんだ船がやはりこの瀬で難破し、久松正之氏の親類になられる樫山の楠本家に立ち寄ったことが発覚し、その後楠本家の人達は深堀藩の方へ呼び出されて厳重に取り調べがなされた、という話が伝えられております。
(以上、三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」から)