長崎の風景・史跡 (市北西)」カテゴリーアーカイブ

神浦の主な史跡  長崎市神浦大中尾町ほか

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  神浦の主な史跡  長崎市神浦大中尾町ほか

長崎市外海地区神浦の主な史跡。長崎市指定史跡「鷹ノ巣石鍋製作所跡」ほか。現地説明板は次のとおり。 

写真  1〜 13  長崎市指定史跡 鷹ノ巣石鍋製作所跡

指定年月日 平成17年1月4日  所在地 長崎市神浦下大中尾町タカノス1371番地
所有者 西川康信
滑石製石鍋は平安時代末から中世の西日本に広く用いられた煮炊き用の厨房具である。石鍋製作所跡は、西彼杵半島の山中の滑石層の露頭に形成されており、外海地区においても神浦川、牛牧川などの河川に面した崖や山中にある露頭などに約30ヶ所の製作所跡が把握されている。
鷹ノ巣石鍋製作所跡は、神浦ダムの下流、標高106mの鷹ノ巣岩周辺に6か所が確認されており、露頭する岩壁面に、方眼状に割り付け粗型を剥ぎ取った痕跡や、ソロバン玉状に整形され取り残された粗型などが認められる。本製作所跡は、外海地方の石鍋製作所跡の中でも規模が大きく、保存状態も良いことから、古代から中世にかけての石鍋製作の実態を知るうえで貴重である。   長崎市教育委員会(平成18年3月設置)

(注 「鷹ノ巣岩」は、大中尾棚田から見ると神浦川の対岸にそびえる岩である。国道202号線新神浦橋から神浦ダムへ向かい、途中の鱸岩橋から対岸の「そとめ神浦河川公園」へ右折、公園先の狭いコンクリート林道を登って行く。
2kmほどで舗装は切れ、あとバラス林道を1km位走ると、小さなトタン小屋があり、先のガードレールに写真の入口案内板が設置されている。ここから植林内を歩いて600m下ると石鍋跡に着く。右側へ登ると、神浦ダム方面の展望が良い岩場がある)

写真 14〜 16  池田家の造り酒屋跡

江戸時代、大村藩は、外海地区の面高村、松島村、瀬戸村、雪浦村、神浦村、式見村に酒屋(造り酒屋)を置き、酒を造らせていました。そのうち、神浦村にあったのが「池田家の造り酒屋」です。天明6年(1786)に大村の酒屋から酒屋株を取得した池田盛左エ門の創業と伝えられ、明治末まで続いていたようです。酒造りの酒蔵等は残っていませんが、当時の石積みの「トンネル型水路」や酒米を洗うための「井戸」、米蔵の基礎石などは現存しています。また、池田屋の前の川岸には、材料となる米を運び入れる船着場がありました。 (神浦丸尾町 長崎さるく説明板)

写真 17〜 19  丸尾石積群

外海地区や琴海地区等には、温石石(おんじゃくいし)と呼ばれる石積みによる塀や敷地の形成が多く見られ、特に丸尾地区の石積みは昔ながらの風情ある景観を今も色濃く残しています。温石石は、変成岩の一種である結晶片岩で、西彼杵半島一円に広く分布しています。この温石石は、開墾等によって採取されたもので、畑の補強や家屋の資材等に利用してきました。外海の旧出津救助院(国指定重要文化財)の外周りにも「ド・ロ壁」と呼ばれる、目地に赤土等を混ぜた漆喰を使用した石積壁や石積塀があります。 (神浦丸尾町 長崎さるく説明板)

「ド・ロ神父 大平作業所跡」も参照。 https://misakimichi.com/archives/1633

三重の歴史散策・変遷と三重エリアトピックス  長崎市三重町ほか

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三重の歴史散策・変遷と三重エリアトピックス  長崎市三重町ほか

長崎市三重地区の歴史散策・変遷は、長崎伝習所三重トピア塾発行「みえ通信」から、三重エリアトピックスは、三重商工会発行「三重・外海ふるさと発見ガイド」から紹介する。
(ズーム拡大後、拡大画像は右上の×で消す。資料提供:三重商工会)

被爆校舎お別れ 活水中学・高校1号館建て替えへ 

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被爆校舎お別れ 活水中学・高校1号館建て替えへ 

長崎は8月9日、64年目の原爆の日を迎える。消えつつある被爆校舎。宝栄町の私立活水中学・高校1号館も老朽化のため、建て替えられることになった。
爆心地から約500m。同館は諫早へ移転した旧制鎮西学院中学校の被爆校舎を修復して建てられたものだった。
2009年8月8日付朝日新聞長崎地域版の記事は上のとおり。写真は立岩町権現岩から。中央から右方に爆心地と赤屋根がある学校が写る。

烏岩神社と天狗岩  長崎市大鳥町・水の浦町

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烏岩神社と天狗岩  長崎市大鳥町・水の浦町

丸尾公園から烏岩神社一の鳥居の「お栄さんの道」へ入り、石段を登って行く。長崎港の見晴らしの良い所に「烏岩神社」はある。神体の烏岩には神社外囲いのフェンス道をさらに登る。
1枚目のお栄のホテル古写真は、丸尾公園内「旧渕村の歴史を顕彰する会」の説明板にある。
次の記事と写真も参照。 https://misakimichi.com/archives/1919

長崎Webマガジン「歌で巡るながさき」宮川密義氏文は次のとおり。
(5) 烏岩神社
「お栄さんの道」の碑の前から烏岩神社の鳥居をくぐり、細い階段を約10分上り続け、赤い鳥居が見える所、人家が途切れる最後の平屋建てが“お栄さんの居宅跡”。その右上の公園には滑り台と鉄棒があり、眼下に長崎港が広がります。
さだまさし原作「解夏」のドラマ版「愛し君へ」の第1話で“俊介が最後に見た長崎の景色”として取り入れられ、ロケも行われました。

「天狗岩」は、ホテル清風前のバス通りへ出て、先の「水の浦トンネル」上を見上げると、トンネル右上にある。岩とはわからないが、かつて対岸地区において有名な岩。展望が素晴しいのに、忘れ去られた。トンネル入口右に坂段の山道登り口がある。
稲佐山へ直登する尾根道も残っているが、荒れはじめていた。

福田の散策 (10) 白浜海水浴場周辺  長崎市柿泊町

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福田の散策 (10) 白浜海水浴場周辺  長崎市柿泊町

福田の散策(10)は、長崎市柿泊町の「白浜海水浴場周辺」。国道202号線の小江小浦から小江トンネルを抜けたところが、白浜海水浴場の入口である。奇岩の浜で、地形がおもしろい。
布袋厚氏著「長崎石物語」2005年長崎文献社刊の108〜110頁による説明は次のとおり。海水浴場から歩くので、写真は説明の逆となった。
2008年3月の記事は次。 https://misakimichi.com/archives/672

白浜海水浴場周辺の絶景 「傘瀬」「潜り岩」「鵜飼堂穴」など奇岩の浜

白浜海水浴場は長崎市街地にもっとも近い海水浴場で、長崎市の西海岸、小江と手熊のあいだにある。海水浴場のなかには、おもしろい地形があるし、ちかくの海岸には地層が連続して露出し、観察するのには最適である。

手熊のバス停から海岸に出て、南(海に向かって左)にむかい、海ぞいに1kmほどの道のりを歩くと海水浴場につく。最初に長さ100mほどの砂浜があり、そのむこうにキノコの形をしたおもしろい岩がある。これは大村藩の古文書『郷村記』に「傘瀬」と記されている。そこから150mほどすすむと左手の崖に小さなトンネルのような穴があいている。これは「潜り岩」と書かれている。そこから、砂浜をみながら250mほど行くと、こんどは大きなトンネル状の穴につく。これは『郷村記』に「鵜飼堂穴」としるされている。

これらの地形はいずれも波の作用によってできたものである。傘瀬はしだいにやせ細って、最後は折れてしまうであろう。鵜飼堂穴の100m北西(沖瀬)にある2個の巨大な岩は、キノコ型の岩が折れて、その場に転がったものと考えられる。「潜り岩」「鵜飼堂穴」のようなトンネルの地形を海食洞門という。海食洞門はふつう、断層の割れ目にそって浸食が拡大し、貫通してできたものである。

鵜飼堂穴をぬけると、海岸の崖をつくっている火砕流堆積物を数100mにわたって観察できる。ただし、足場が悪いところがあるし、潮位変化によって孤立したり、高波にさらわれたりする危険があるので、じゅうぶんな注意が必要である。…

福田の散策 (9) 長崎市総合運動公園  長崎市柿泊町

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福田の散策 (9) 長崎市総合運動公園  長崎市柿泊町

福田の散策(9)は、長崎市柿泊町の「長崎市総合運動公園」。2003年に開かれた長崎ゆめ総体のために造成されたもので、陸上競技場は同大会のメイン会場として総合開会式と陸上競技を開催した。その他野球場、テニスコートが整備されている。
HP「長崎市総合運動公園」の利用案内による説明は次のとおり。
写真の後半は補助競技場と、近くの小江原の堤。最後は岩屋山頂から見た総合運動公園。

長崎市総合運動公園

長崎市総合運動公園は、ゆたかな緑に囲まれた自然の中にあるスポーツ&レクリエーションの総合施設です。長崎市北部の柿泊地区に位置しているため、通称「かきどまり」として市民の皆様に親しまれています。
広大な敷地には、第1種公認陸上競技場をはじめ野球場、庭球場などの本格的な競技施設や、ちびっこ広場・多目的広場など子どもからお年寄りまで楽しめる多くのフィールドを備えています。

福田の散策 (8) 手熊・柿泊・上浦の風景・史跡  長崎市手熊町ほか

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福田の散策 (8) 手熊・柿泊・上浦の風景・史跡  長崎市手熊町ほか

福田の散策(8)は、福田の西部地区となる手熊・柿泊・上浦の風景・史跡。長崎市総合運動公園と白浜海水浴場周辺の風景は別項。
柿泊の集落、手熊台場(砲台)跡、白髭神社、キリシタン墓、前の手熊橋親柱、手熊川の河口、アーチ石橋の杉の上橋、柿泊と手熊海岸、長崎市手熊浄水場、県道の式見トンネル、手熊の集落と小江原への県道、長崎市立手熊小学校、舞岳の遠望など

写真 14〜    アーチ石橋の「杉の上橋」
架橋は大正5年  長さ4.6m  幅員1.8m
手熊川の河口から50m程上流の支流との合流点に架かる。杉の上橋は気をつけていないと、ただの歩道に見えてしまう。
河口の手熊橋も石造アーチ橋で有ったが、昭和57年の水害後撤去してしまった。

福田の散策 (7) 小江の風景・史跡  長崎市小江町

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福田の散策 (7) 小江の風景・史跡  長崎市小江町

福田の散策(7)は、小江の海岸を主にした風景と史跡。途中から上がる福田本町の岳も含む。
岳から遠望、長崎カントリー倶楽部、岳カトリック教会、小江海岸埋立地と野島の遠望、旧国道の道、鹿島神社とアコウ・半鐘、小江海岸の岩場、福田中学校跡地と碑、ローラーボード場、小江マリーナ、西部ガス小江工場、野島ピークにある長崎要塞第二地帯標第一号、丹崎海岸と岩場、小江小浦上の旧国道の道から

写真  3    岳カトリック教会
所在地は長崎市福田本町477。長崎カントリー倶楽部から先の集落へ行く。 明治後期、外海地方(出津)から移住した信徒たちは、神ノ島、(木鉢)教会に属していたが、昭和31年(1956)飽の浦教会の巡回教会となる。現在の聖堂は、昭和45年(1970)に建てられた。

写真  4    野島樹叢  長崎市指定天然記念物
指定年月日 昭和50年6月26日 所在地 長崎市小江町2726番地 所有者 長崎市 
野島は、小江の沖合にある周囲700m、高さ50mほどの小島であったが、指定後、島の周辺が埋立てられたので陸地の丘となった。全島がシイ・クスノキ・ツバキ・アラカシ・アコウなどの常緑樹と、ヤマザクラ・カラスザンショウ・ハマクサギなどの落葉樹の自然林におおわれている。また、周辺の岩上には、ヒメハマナデシコ・ホソバワダンなどの海岸植物も多い。林内には数本のマメ科のつる植物、ハカマカズラが見られる。ハカマカズラは琉球系の植物で、本県では県本土と五島列島を点々と北上する稀産の植物で貴重である。

写真 10〜   福田中学校跡地と碑 
中学校HPの沿革誌によると、昭和22年4月8日 福田村立福田小学校併設 福田村立福田中学校開校、福田村立手熊小学校併設 福田村立手熊中学校開校  23年4月8日 小江町に移築起工式  24年9月1日 新校舎開校、9月6日 福田・手熊中学校合流式挙行。
昭和30年1月1日 長崎市編入、長崎市立福田中学校と改称  昭和51年5月29日 福田本町1430番地の1に新校舎完成、移転

写真 16    野島ピークにある長崎要塞第二地帯標
2−A 小江の野島 (確認 長崎第二地帯標 第一号)  かつて小江の湾にあった小さな島。暖海流の影響が大きく「野島樹叢」として市天然記念物に指定されている。今は埋立てられ西部ガスの天然ガス供給基地などができている。島の姿は埋立地内にそのまま残る。
長崎文献社刊「長崎石物語」著者で自然史研究の布袋厚氏が5年前、野島地質調査の際、1級基準点59のピークで標石を見たと記憶され、所在を教えてもらい確認した。「長崎要塞第二(刻面は第二区)地帯標」「第一号」「昭和十四年三月」である。「昭和」の年月は珍しく、資料のとおり、告示3次改正の一時期のものと判断された。18cm角、高さ70cm。

釛山恵美須神社  長崎市飽の浦町

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釛山恵美須神社  長崎市飽の浦町

バス停は「飽の浦神社前」下車。菱重興産ビルの裏となる。この神社が「釛山(こがねやま)恵美須神社」である。「恵美須町」の町名の由来になった恵美須様を、江戸初期に恵美須町から移して祀られた。
神社の前は海で、有名な「恵美須波止」があり、「金島(こがねじま)」という島があった。明治の初め、長崎製鉄所(現在の三菱重工(株)長崎造船所)の建設によって、姿を消した。
神社へ行くと平成21年1月、380年祭を記念して立派な説明板が設置されていた。
2006年江越先生作成資料「女神大橋周辺巡り」による神社の説明は次のとおり。

恵美須神社

寛永10年(1633)に小柳五郎左衛門という人物が、恵美須町の恵美須様を移して祀ったもので、浦上村渕でただ1つの神社(江戸時代、渕神社は万福寺といい弁天様を祀っていた)として信仰された。当時は神社の前はすぐ海で、海中に石灯籠が立っていたが、埋め立てられた折に取り払われた。また、沖にあったこがね島は、一時期刑場であったらしく伊藤小左衛門も処刑されたといわれる。
五箇所商人建立石灯籠  この神社が五箇所の商人の援助を受けていたことを示している。
渕村役場建築費寄付人名の石碑  神社のとなりに明治31年10月まで渕村役場があったが、境内に役場の建築費を寄付した人々の名前を彫った石碑が立っている。目に付くのは、岩崎弥太郎の嗣子で明治29年に三菱3代目を受け継いだ久弥が百円を寄付して筆頭者になっていることである。

小榊の散策 (6) 木鉢・小瀬戸・神ノ島の風景

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小榊の散策 (6) 木鉢・小瀬戸・神ノ島の風景

「小榊の散策」(6)は、木鉢・小瀬戸・神ノ島のそのほかの風景。
女神大橋から続く道、みなと坂団地の通り、船の公園、鼠島の廃船と貝掘り、木鉢浦、大悲寺、小榊小学校のアコウ、神ノ島の湊、神ノ島桟橋とコバルトクイーン、池之神社、神ノ島教会、マリア像の岩場、四郎ケ島と小島、工業団地内の観音岩、長崎市西部下水処理場