長崎の風景・史跡 (市北西)」カテゴリーアーカイブ

小榊の散策 (5) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

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小榊の散策 (5) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

「小榊の散策」(5)は、神ノ島・四郎ケ島で見かける「長崎要塞第一地帯標」3本と、その他珍しい標石類。そして神の島公園からの展望。

写真  1〜    8 長崎要塞第一地帯標
長崎要塞の第一地帯とは、明治31年(1898)から建設が進められた神ノ島砲台等を中心とした長崎要塞の法が適用される「防御営造物の各突出部を連結する線」内の地帯を指す。その区域の外線に設置されたのが「長崎要塞第一地帯標」と思われる。

1−A  四郎ケ島北側海岸(確認 長崎要塞第一地帯標 第一号)  神ノ島から四郎ケ島へ繋ぐ佐賀藩が築いた石積みの海道約270mは、コンクリートにより護岸され、これを渡りきってすぐ右手海岸の岩の上に建っている。岩自体も少し高く標石も高い。神ノ島を向いており、神ノ島側からすぐ望見できる。
1−A−2  四郎ケ島小島の小ピーク上(確認 長崎要塞第一地帯標 第二号)  小島は四郎ケ島の東の島だったが、台場構築のため埋め立てられ、地続きになっている。小島には2つのピークがあり、東側突端の低いピークの岩場上にも要塞地帯標の第二号があるのを、後日、発見した。神ノ島内海側の釣り人がよくいるコンクリート堤防の上手である。
1−B  同上海岸神ノ島側(確認 長崎要塞第一地帯標 第二十九号)  四郎ケ島の第一号標石のちょうど対面にある。海道にかかる道のすぐ右脇となるが、竹が密生した中にあるので気をつけて探す。第一地帯を一周した最終番号標と思われる。第一地帯標はこのうち、現在のところ7本を確認している。

写真  5〜    9 その他の珍しい標石
「陸軍」「防二」   四郎ケ島へ渡る海道の神ノ島側右海岸にある。第一地帯標二十九号のすぐ近く。「防二」の意は不明。
「陸軍」        四郎ケ島へ渡る手前の神ノ島側集落の墓地内にある。陸軍用地の境界標柱と思われる。
「四建三角点」「四建基点」   四郎ケ島へ渡って左手の埋め立てた小島の堤防の方へ行く。小島の小ピーク草つきの間にある。長崎外港計画にかかった当時の、建設省第四建設局が設置した工事用の三角点の基点と思われる。
「四建水準点」  上記三角点のすぐ近く。最近、ブルが均した道の終点あたりの広場で見つかった。これも同工事用の水準点と思われる。

写真 10〜   10 神の島公園
長崎港の西側先端部。小瀬戸と陸続きとなった神ノ島の高台。かつて「長崎要塞」があったところが、「神の島公園」として整備されている。神の島バス停から徒歩10分。
平成16年度完成の韓国風展望所がある。長崎港口の諸島と海の展望が良い。東に女神大橋、南西には百万ドッグの造船所が見え、西には五島灘が一面に広がり、夕日が映える所である。地元で花壇を作り、各種のアジサイを多く植えている。

小榊の散策 (4) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

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小榊の散策 (4) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

2009学さるくの江越弘人先生作成資料「神の島から福田まで」などによる神ノ島関係の説明は次のとおり。
「金水温泉跡」は大浜町の町域となるが、網場の脇の近く海岸にあるためこの項に含めた。

写真  1〜    2 神ノ島の埋め立て
神ノ島はもともと文字通りの島で、佐賀藩深堀領であった。対岸の小瀬戸は幕府領で浦上村淵の一部であった。神ノ島と小瀬戸との間の海峡は、長崎と福田方面との大切な航路となっており、江戸時代には、船が通過できるようにしばしば浚渫していたという。
この海峡が何時埋め立てられたのか、長崎の年表や諸書には記載が無く不明である(市立博物館発行『長崎の史跡 北部編』には、昭和42年に埋め立てによって陸続きになった、とある)が、土地の人々の話によると「戦時中、捕虜の人々の手で神ノ島、小瀬戸両方の山を削り埋め立てた。それは昭和16,7年のことである」(小瀬戸の人の話)とか、「自分が小学5,6年生の頃(昭和11,2年ということになる)、朝鮮の人々の手によって埋め立てられた。その人達の宿舎が木鉢や小瀬戸にあった」(神ノ島の人の話)などと様々である。
なお、昭和42年は、長崎外港臨海工業地帯造成の一環として深堀・香焼島間の埋め立てが翌43年に渉って行われているので、神ノ島・小瀬戸間は既に陸地化していたものを、土地を均したり、護岸をしたりして整備したものではないか。

写真  3〜   11 長崎要塞地帯と神ノ島
嘉永4年(1851)に佐賀藩が四郎ケ島に当時最先端の台場を築いたが、この時、対岸の伊王島や地先の神ノ島にも台場を設け、最新式の大砲を設置した。神ノ島の標高78mの山頂で字名を「飛渡」というが、ここにも砲台が設置され、外海の中ノ島・松島の方向に砲口を向けていた。四郎ケ島や伊王島、神ノ島の大砲は、明治維新前後には撤去され、戊辰戦争の時には、佐賀藩の重要な戦力として大活躍をしたという。
なお、明治維新後の長崎の防衛は、大黒町の佐賀藩蔵屋敷前に砲台を設置し、長崎守備砲隊を置いたことに始まる。その後、明治32年に佐世保要塞砲兵連隊の一個大隊が竹の久保に配属され、翌年、近くに(現在の淵中学校)長崎要塞司令部が設置された。
長崎要塞は、長崎港を防衛するのが目的であったから、まず、神ノ島と蔭の尾島に砲台が構築された。神ノ島には、「飛渡」の地に高砲台、島の西南堂の下に低砲台の2つの砲台が設置された。高砲台は28cm榴弾砲8門が港外に砲口を向け、低砲台は、9cm速射カノン砲4門で長崎湾口に砲口が向けられていた。

写真 12〜   22 金水温泉跡
大正7年の福田村郷土誌に紹介されている「金水温泉」は、硫黄分を含んだ鉱泉(冷泉)で、あまりにも不便な所にあったため、収支が償なわず放置され忘れられてしまった。
現在はすぐ側を神ノ島工業団地への道路が通り、ゴミ焼却場の真下を通る「金水トンネル」出口下側の海岸に湯治場はあった。木鉢村の近藤栄次氏が経営していた。

金水温泉跡は、2007年6月記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/5433

小榊の散策 (3) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

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小榊の散策 (3) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

2009学さるくの江越弘人先生作成資料「神の島から福田まで」などによる神ノ島関係の説明は次のとおり。
四郎ケ島台場絵図は佐賀県立図書館の所蔵史料から。最後は4月12日夕方に四郎ケ島沖を出港中の大型客船”CRYSTAL SYMPHONY”

写真  1〜    1 神の島天主堂
神ノ島2丁目の人々は、三重樫山につながる隠れキリシタンであった。元治元年2月12日(1865.3.17)に大浦天主堂で浦上の信徒が信仰を表明したのに続き、一月程遅れて神ノ島から信徒の代表が天主堂を訪れてキリシタンであることを名乗り出た。信仰の自由が許されてから明治9年に仮教会が建ち、フランス人のラゲ神父が赴任し、木造の教会を建立した。
この教会は、白蟻の害で腐朽し、明治30年にジュラン神父の設計によりロマネスク風の煉瓦造り天主堂が建て替えられた。現在の天主堂は、長崎市では大浦天主堂に次いで古く、建築学的にも珍しいものであると言う。

写真  7〜    2 神の島のマリア像
神の島天主堂下にあるドンク岩と呼ばれる岬に、昭和24年(1949)聖フランシスコザべエル渡来400年を記念し、信者の拠出金と労働奉仕によりマリア像は建てられた。この時はコンクリート製で高さ1.7mだったが、潮風の影響で亀裂が生じ、侵食が進んだので、昭和59年(1984)6月に再度、合成樹脂製の高さ4.6mの聖母の白像が再建された。『岬の聖母』と呼ばれ、現在、白亜の教会とともに長崎港のシンボルとなっている。

写真 11〜    3 高鉾島
長崎外港の真ん中に浮かぶ高鉾島は、3つの顔を持っている。1つは、オランダ人が「パーペンベルグ」(殉教者の島)と呼んでいた聖地としての顔である。元和3年(1617)に時津町の鷹島で殉教したナワレト神父とエレナンド神父を匿った2人の宿主が高鉾島で殉教した。その後、西坂での殉教者の多くは、島の周囲の海中に投げ込まれたという。
2つ目の顔は、台場という要塞の島である。文化9年(1812)の高鉾島の台場と大砲(石火矢)の数は、承応2年(1653)築造の古台場には4門、文化6年(1809)築造の新台場に3門、文化9年(1812)の2つの増台場には10門、計17門を備える要塞の島であった。
第3の顔は、交易船保護の島であった。高鉾島の三角形の島影は、北西の風をよく遮っていた。そこで、島の東側海上は外国船一時停泊と定められた場所であった。旧暦9月20日は、オランダ船の出帆の日と定められていたが、出島前から高鉾島前まで来ると、一応出帆したことになって、ここで停泊して遅れた出帆の準備を続けたという。

写真 12〜    4 四郎ケ島台場跡
文化5年(1808)のフェートン号事件で大失態を演じた佐賀藩では、嘉永6年(1853)に藩の総力を挙げて佐賀藩独力で四郎ケ島に最新鋭の台場を完成させた。
工事は神ノ島と四郎ケ島とを繋ぐ約150間(約270m)の堤防造りから始まった。非常な難工事の末、嘉永4年7月に2つの島を繋げると、今度は四郎ケ島を石垣で囲み砲台場を築いた。大砲は佐賀で鋳造し、四郎ケ島に150ポンド砲2門、80ポンド砲8門、36ポンド砲と12ポンド砲を各2門の計14門を備えた。さらに、佐賀藩では神ノ島と伊王島にも台場を築き、合計54門の大砲で長崎港口を押さえたのである。
ちなみに、国指定の史跡で、当時最も装備が整っていた魚見岳の3つの台場には1貫5百目砲2門、1貫目砲5門、8百目砲3門、7百目砲2門、6百目砲1門、5百目砲5門、3百目砲4門の計22門が備えられていた。12ポンド砲が2貫5百目砲とほぼ同じであったから、魚見岳台場が四郎ケ島に比べるといかに玩具のようなちゃちなもので、四郎ケ島台場の大砲が最新式で飛び抜けた威力をもっていたかがよく分る。

小榊の散策 (2) 小瀬戸の史跡・風景  長崎市小瀬戸町

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小榊の散策 (2) 小瀬戸の史跡・風景  長崎市小瀬戸町

2007学さるくの江越弘人先生作成資料「女神大橋から四郎ケ島台場跡」などによる説明は次のとおり。

写真  1〜    1 鼠 島(皇后島)
昔の戸八の浦(深堀)の子(ね)、角(すみ)の方角に当たることから『ね すみ島』と呼んだとか、神功皇后が朝鮮からの帰りにこの島に立ち寄ったので『皇后島』と言うなど、色々と謂れのある島である。
寛永6年(1853)から安政元年(1854)にかけて日本は諸外国と和親条約を結んだ。その結果、長崎港にはイギリスやフランスの軍艦の入港が激増したため、幕府は、鼠島を外国人の遊歩場として開放した。
明治36年に、長崎市はこの島に海水浴場を開設した。以後、昭和47年に第2次長崎外港計画による埋立で70年に及ぶ市民の遊泳道場は閉鎖された。

写真  8〜    2 小瀬戸遠見番所跡
遠見番所は、寛永15年(1638)島原の乱を鎮定した老中松平伊豆守信綱が長崎に立ち寄った時に遠見番所と烽火所の設置を命じた時に始まり、和蘭船や異国船の来航を見張っていた。番所は、最初には野母の権現山だけに置かれ、異国船発見の時には飛船で長崎奉行所に知らせていた(白帆注進)。番人は、野母・高浜・川原の百姓が当たっていた。
万治2年(1659)に遠見番10人、触頭2名の番士を公儀で召抱えることになり、役宅を十善寺郷に置き、十人町と呼んだ。元禄元年(1688)には抜荷取締強化のために遠見番10人を増員し、小瀬戸・梅香崎・永昌寺(最初は勧善寺)に遠見番所を増設した。
異国船発見の時には、旗や号砲で知らせることとし、抜荷を取り締まるために蘭船、唐船が出帆する時には、帆影が消えるまでに見送る任務も加わった。
遠見番所は、小瀬戸後方中央の通称トンカミ山(住民は遠見と言った)にあった。現在は、みなと坂団地内の「船の公園」となっている。

写真 12〜    3 同上 中番所跡
中番所は、小瀬戸後方の山、現在は天神天満宮境内地となっている。通常日は2人、来航船入津及び出津時は4人の番人を配置し、遠見番所番人からの通報を受け、これを不寝番所に連絡した。天満宮石祠の中に、小瀬戸注進船の水主組が奉納したことが刻まれている。

写真 15〜    4 同上 注進船つなぎ石・船引場完成記念碑
長崎市小榊支所裏の、駐車場となっている一角に移設されてある。

写真 16〜    5 長崎要塞第一地帯標
1−C 小瀬戸の天神天満宮裏畑地(確認 長崎要塞第一地帯標 第七号) 長崎市小榊支所の左道へ入り、墓地を通り上がる。小瀬戸遠見番所の中番所跡で、現在は天神天満宮が祀られている。その背後の畑の真ん中に立つ。みなと坂団地から行く方が近い。

写真 17〜    6 大 悲 寺
写真 18〜    7 長崎市編入50周年記念碑(小榊支所横)
写真 20〜    8 長崎市立小榊小学校

小榊の散策 (1) 木鉢の史跡・風景  長崎市木鉢町

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小榊の散策 (1) 木鉢の史跡・風景  長崎市木鉢町

2007学さるくの江越弘人先生作成資料「女神大橋から四郎ケ島台場跡」などによる説明は次のとおり。

写真  1〜    1 女神大橋
長崎市民が永年待望していた全長1289mの女神大橋が完成したのは、平成17年12月11日である。平成22年度には、高速道路の長崎インターと繋がる予定である。橋の上から素晴しい眺望を楽しむ人々で賑わっている。

写真  3〜    2 神崎台場跡・神崎神社
幕府は、長崎港の一番狭くなった港口の防衛に最も心を使い、女神側には、女神の古台場・新台場、魚見岳の増台場3ヶ所と併せて5ヶ所33挺の石火矢で守った。それに対し神崎側は、古台場・新台場・増台場の3ヶ所8挺であった。
女神大橋を降りて後戻るように下って行くと、左に天門峰への登り口、右へ行くと神崎台場跡へと進む。整備された歩道の岩盤地帯を越えると神崎神社の奥の院である。ここから少し下ると広場に出る。石祠や石仏が建っている。ここが新規御台場跡で、フェートン号事件後の文化5年(1808)に設けられた。新規御台場から12mほど岬の先端に行った所が一の増台場で、文化7年(1810)に設けられた。
また、新規御台場へ戻って右の石段を下ると神崎神社へと行く。左の薮の中の細い急な道を下るとやがて右手に平地らしき所がある。ここが煙硝蔵跡で、建物は残っていないが『従是神﨑御焔硝蔵掛并常住小屋境内』と刻んだ石柱が1本は倒れ、1本は傾いて立っている。ここからさらに下ると三の増台場跡があり、さらに下って石油タンクがある所に出る。
このタンクの東側海岸が古台場跡で、当時の石垣が残っている。三の増台場と煙硝蔵跡の中間から東へ平行に戻るように進むとすぐ平地に出る。ここも台場跡と思えるが記録に出ていないので単に平地としておく。ここからさらに東、港口へ行くとニの増台場跡がある。ここを抜けると神社へ下る石段と合流する。

写真  7〜    3 天門峰
『長崎郷土史』に天門峯と書き、「シラト」とルビを振っている。また「一名を白崎と云い唐人は観音山と云えり。…往昔港内往復の船は必ず櫓を止めて遥拝し、唐船は入港の際金鼓を鳴らして礼をなし、通船するを例とせり。山角南に突出せるを神崎鼻と云い、今税関見張所あり。山下を男神と称し対岸女神と相応ず。…」と書いている。
166mの山頂に登ると、今渡ってきた女神大橋を眼下におさめ、長崎港内外の景色が素晴らしい。山頂の大石に文字が彫りこまれ「地理局測点 明治九年四月」とある。記録によると明治9年4月から6月にかけて長崎港をめぐる29箇所を測定し、24箇所に測点石を、12箇所に測標(これは木標の意味か)を設置したとある。岩に刻んだ天門峰の測点は、その1つかも知れない。
測点は、他に対岸の魚見岳頂上近くに標石が立っていることを橋本氏が発見している。いずれにしても、日本近代測量最初の頃の貴重な記念碑であることには間違いない。

写真 11〜    4 木鉢浦
奥深い入江になっており、嵐の時に避難泊まりになっていた。寛政10年(1798)にエリザ号が暴風で沈没し、防州櫛ヶ浜の村井喜右衛門が智恵を凝らして引き上げたのも、享和元年(1801)にアンボン(アンボイナ)の船(実はポルトガル船)が五島に漂着し、曳航されて停泊したのもこの木鉢浦であった。
なお、海岸には火薬庫(土生田煙硝蔵)や石銭番所が置かれていた。

写真 13〜    5 木鉢教会
明治43年(1910)に網場の脇に巡回教会が造られ、昭和13年に現在地に神ノ島教会の巡回教会として設立され、昭和37年に独立した。昭和56年に新築され、白い近代的な教会が丘の上に立っている。

写真 15〜    6 長崎要塞第一地帯標
1−D 西泊中学校裏のピーク (確認 長崎要塞第一地帯標 第十四号) 木鉢側から西泊中学校のグランドへ石段を上がり、校舎左脇の山道へ入り5分ほど登った小高いピークにある。
1−E 帆掛山の山頂直下 (確認 長崎要塞第一地帯標 第十五号) 尾根道を北に向けて急な登りが10分ほど続き、帆掛山(植林地となり地元で「ヒノキ山」とも言う)三角点172.2mに着くすぐ手前、竹林内平地の溜穴の傍らに建つ。

写真 19〜    7 長崎市西工場
昭和54年供用開始。焼却炉(処理能力2,000t/日)2基、水管ボイラ(蒸気発生量最大30t/h)2基、蒸気タービン発電機(連続最大出力2,000kW)1基を有し、長崎市で1年間に発生する可燃ごみの約4割、78,000t を処理している。
ごみ焼却の際に発生する熱を利用し、蒸気タービンによる発電、浴場、温水プールへの熱源供給(蒸気)などエネルギーの転換利用を行っている。

三菱重工業株式会社長崎造船所「史料館」 (2)  長崎市飽の浦町

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三菱重工業株式会社長崎造船所「史料館」 (2)  長崎市飽の浦町

安政4年(1857)に遡る三菱重工業長崎造船所の発祥から、今日までの長い歴史を物語る
900点余りの品々や写真類の史料を展示。同造船所が日本の近代化に果たした役割と偉業を後世に伝える史料館である。
市民を対象に一般公開されている。開館は主に平日のみ(要電話予約)。入場無料。館内は次のコーナーと中央や屋外に実物展示がある。

・岩崎家コーナー ・史料館の代表的記念物 ・官営期コーナー ・三菱創業期コーナー ・明治後期コーナー ・大正期コーナー ・昭和戦前期コーナー ・戦艦武蔵コーナー ・会社生活コーナー ・貴賓御来訪コーナー ・発電プラントコーナー ・戦後の造船コーナー ・客船コーナー ・その他の展示物
(1)は各コーナーの展示品、(2)は実物展示の機械類を。
同史料館パンフレットによる説明は次のとおり。詳しくは、三菱重工の同史料館HPがある。
http://www.mhi.co.jp/nsmw/introduction/history/archive/index.html

史 料 館

この史料館は、長崎造船所が日本の近代化に果たした役割を永く後世に残そうと、昭和60年(1985年)10月に開設したものです。
史料館に利用されている赤煉瓦の建物は、明治31年(1898年)7月三菱合資会社三菱造船所に併設の「木型場」として建設されたもので、三菱重工業株式会社発祥の長崎造船所に現存する最も古い建物です。
昭和20年(1945年)8月の空襲に於ける至近弾や原子爆弾の爆風にも耐えて百年の風雪に磨かれた赤煉瓦は、わが国の近代工業の黎明期に於ける長崎造船所の華やかな門出を偲ばせるに十分です。
館内は11コーナーに分かれ、安政4年(1857年)に長崎造船所前身の長崎溶鉄所建設が着手されたときから現在まで900点を展示しています。
日本最古の工作機械や海底調査の泳気鐘、日本で最初の国産蒸気タービンの技術の進歩を物語る珍しい品々のほか写真等で長崎造船所の歴史的変遷を示しています。

(史料館の一般公開について)

公開日時:平日の午前9時から午後4時30分まで
(土、日、祝日及び長崎造船所の休業日は休館)
見学申込:事前に電話で御予約ください。
TEL:095−828−4134 FAX:095−828−4124

三菱重工業株式会社長崎造船所「史料館」 (1)  長崎市飽の浦町

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三菱重工業株式会社長崎造船所「史料館」 (1)  長崎市飽の浦町

安政4年(1857)に遡る三菱重工業長崎造船所の発祥から、今日までの長い歴史を物語る
900点余りの品々や写真類の史料を展示。同造船所が日本の近代化に果たした役割と偉業を後世に伝える史料館である。
市民を対象に一般公開されている。開館は主に平日のみ(要電話予約)。入場無料。館内は次のコーナーと中央や屋外に実物展示がある。

・岩崎家コーナー ・史料館の代表的記念物 ・官営期コーナー ・三菱創業期コーナー ・明治後期コーナー ・大正期コーナー ・昭和戦前期コーナー ・戦艦武蔵コーナー ・会社生活コーナー ・貴賓御来訪コーナー ・発電プラントコーナー ・戦後の造船コーナー ・客船コーナー ・その他の展示物
(1)は各コーナーの展示品、(2)は実物展示の機械類を。
同史料館パンフレットによる説明は次のとおり。詳しくは、三菱重工の同史料館HPがある。
http://www.mhi.co.jp/nsmw/introduction/history/archive/index.html

史 料 館

この史料館は、長崎造船所が日本の近代化に果たした役割を永く後世に残そうと、昭和60年(1985年)10月に開設したものです。
史料館に利用されている赤煉瓦の建物は、明治31年(1898年)7月三菱合資会社三菱造船所に併設の「木型場」として建設されたもので、三菱重工業株式会社発祥の長崎造船所に現存する最も古い建物です。
昭和20年(1945年)8月の空襲に於ける至近弾や原子爆弾の爆風にも耐えて百年の風雪に磨かれた赤煉瓦は、わが国の近代工業の黎明期に於ける長崎造船所の華やかな門出を偲ばせるに十分です。
館内は11コーナーに分かれ、安政4年(1857年)に長崎造船所前身の長崎溶鉄所建設が着手されたときから現在まで900点を展示しています。
日本最古の工作機械や海底調査の泳気鐘、日本で最初の国産蒸気タービンの技術の進歩を物語る珍しい品々のほか写真等で長崎造船所の歴史的変遷を示しています。

(史料館の一般公開について)

公開日時:平日の午前9時から午後4時30分まで
(土、日、祝日及び長崎造船所の休業日は休館)
見学申込:事前に電話で御予約ください。
TEL:095−828−4134 FAX:095−828−4124

福田の散策 (6) 長崎サンセットマリーナほか  長崎市福田本町

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福田の散策 (6) 長崎サンセットマリーナほか  長崎市福田本町

福田の散策(6)は、長崎サンセットマリーナほか福田本町の風景。
長崎サンセットマリーナ、長崎市立福田小学校、長崎市立福田中学校、海岸道路のアコウ巨木、木鉢・神の島側海岸を望む、丸木の地蔵、西光寺下の公園。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊49頁による説明は次のとおり。

写真  1〜 14 (8) 長崎サンセットマリーナ
平成7年7月長崎サンセットマリーナが開設され、福田海岸に於ける広大な施設や建物は素晴しく、人々の良き遊楽地になりました。ヨットに乗らずとも付近の散歩や芝生広場での一休みなど、ゆっくり楽しむ事が出来ます。

福田の散策 (5) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

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福田の散策 (5) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

長崎市福田本町の史跡。福田天満神社・草住の碑、大音寺跡、琴爪の墓、オロシア井戸、大番所跡、力士の紀念碑三体、祐徳稲荷神社(福田城址)。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊50〜54頁による説明は次のとおり。
福田のショッピングセンター・サン三叉路の掲示板「福田史蹟案内図」の番号順とは異なる。

写真  2〜  (12) 福田天満神社・草住の碑
福田バス停から176段の坂段を登ると福田天満神社があります。宮林(3項)から天和元年(1681)此の地に遷宮されたもので建物は幾多の変遷があったと思われます。近年では昭和61年に改築が行われ、経年も浅いので綺麗です。
拝殿左側に三体の寄付人名碑、忠魂碑があり、其の背後に草住の碑があります。史料によると草住という所は、福田より小江に行く峠の堀切り付近です。天文16年(1547)に青年僧の谿山繁公記室禅師が草住に庵を建て修業していましたが、27才で病死したためにその両親が供養のため一字一石の宛の経文を記し一ケ所に埋め、そこに石碑を建立しました。此れを草住の碑といいます。その後、県道又は国道の拡張に伴い、昭和53年先代の宮本盤穂宮司が此処境内の片隅に移設しました。碑文「逆修一字一石谿山繁公記室禅師」

写真  4〜  (13) 大音寺跡
史料には「福田天満宮の下の畑地は古寺の跡で、大正五年頃の県道改修工事前には椿の老樹があり、ここに寺の門があったのを土地の人は「ジャーシューモンガシラ」「邪宗門頭」と呼んでいたという。即ち、邪宗門とはキリシタンのことであり、今は教会と呼ぶが、昔は「ヤソ寺」と呼んでいた。であれば此の「ヤソ寺」こそ大音寺でなかったか。
永禄11年(1568)には、福田に天主堂があり、キリシタン信徒約千名に達していたという。現在古寺の跡は見られないが、松添福市氏宅の裏の井戸は大音寺の清水と云われている」とあります。松添家は東京?へ移住、同家屋敷があった辺りは開発が進み新興住宅が建ち、古井戸の所在を知ることが出来ませんでした。

写真  7〜  (14) 琴爪の墓
西光寺(慶長5年(1600)開山・真宗大谷派)石垣右端の坂道を小川沿いに150mほど登るとセメント橋が架かり直ぐ説明板のある琴爪の墓があります。
「寛政4年(1792)島原の眉山の爆発による大津波で、島原の家老の娘が流されて来たのを漁師が拾い上げ、現在の前海技学校の一角に居た庄屋に告げ裏の畑の隅に埋葬した。ある月夜の晩に、不思議に琴の音が聞こえるので何処だろうと頼ねて探したところ、墓の所だった。墓を掘り調べたところ、その娘の指に琴の爪がはまっていた。これはよほど立派な家の娘であろうと更めて手厚く埋葬した。墓石の表に「南無阿弥陀仏」横に「安政三年辰五月十一日改」と記されている。眉山の爆発と墓の年号とには64年の差がある。又一説には、眉山の爆発による津波で流されても福田までくるには相当の日数がかかる。首をかしげる話になる。ただし島原の郷土誌には、家老の娘が福田に埋葬されていることが記されてあるそうである。人呼んで「琴爪の墓」「琴姫の墓」と呼ばれている」

墓を下った福田支所跡は福田公園となり、その上の前長崎海技専門学校跡広場には旧福田小学校の記念碑があります。

写真 11〜  (15) オロシア井戸
国道に下ると、ショッピングセンター・サン横の道脇に厚鉄板で蓋されたオロシア井戸の説明板があります。南蛮船渡来のおり永禄8年〜元亀2年(1565−1571)飲料水として使用された井戸で当時、水量多く、深さ7.7m水深5mありました。当時この辺りは入江であったことが推測されます。

写真 13〜  (16) 大番所跡
大番所跡は、長崎市福田支所の左隣り、国道から入り込んだ宮崎邸(16番地)で、古井戸が残っています。元亀2年(1571)ポルトガル船が福田より長崎港に移るとき小番所ができました。寛永13年(1636)徳川三代将軍家光の時、キリシタン耶蘇宗門改が始まり、異国船漂着の地であるために番所を設置しました。寛永18年(1641)福田が緊要の地であるために大番所を設置しました。

写真 16〜  (17) 力士の紀念碑三体
国道を小浦側へ行くと墓地があり、入口右に三体の力士の碑が据えられています。
①右−虎ヶ濱紀念碑  正面 明治三十年三月建立 虎ヶ濱紀念碑 本姓名 瀬崎寅五郎
②中−福田山紀念碑  正面 福田山紀念碑  台石下段 福田山ハ安政三年(1856)六月ニ生レ十六才ノ時鳴ヶ崎ヲ師トシ後高勇ヲ師トシ廿五才ニ至リテ名アリ四五才ニテ止ム 大正五年六十一才ノ賀ニ当リ此ノ紀念碑ヲ建設ス
③左−紀念碑 天保十年(1839)八月十五日式見村ニ生レル二才ノ時福田村?大大村市助ノ養子トナル一七才ヨリ留錨?次イデ宮角力取リテ…以下不明字多く略

写真 17〜  (18) 祐徳稲荷神社(福田城址)
力士記念碑の脇道を150mほど登って行くと左側登り口に赤鳥居があり此処より192段の坂段を登ると祐徳稲荷神社に着きます。標高74m余の山で、神社境内の広さはざっと見て百坪位、福田湾も一望できます。福田城の築城時期は記録も無く不明で、恐らく福田家21代大和守忠兼(天正年間・1573−1591)が築いたのではと云われています。

福田の散策 (4) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

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福田の散策 (4) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

長崎市福田本町の史跡。田子島砲台、田子島砲台付属施設、火渡しの橋、舘道、丸木舘屋敷。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊47〜50頁による説明は次のとおり。
福田のショッピングセンター・サン三叉路の掲示板「福田史蹟案内図」の番号順とは異なる。

写真  2〜  (6) 田子島砲台
砲台は海岸線にかけて先方、一の台場から手前(福田中側)四の台場までありました。それは安政2年(1855)此処に台場を築き、異国船の襲来に備えるため十二門の大砲を設けたわけです。焔硝藏及び武器庫もあり、大砲は石火矢でした。それぞれの場所に説明板が立っています。

写真  9〜  (7) 田子島砲台付属施設
旧松原が終わる辺りが福田小学校体育館の背後付近で、角に清水邸(1575番地)があり、少し先は菜園で、田子島砲台付属施設の説明板が立っています。この窪みの畑に焔硝蔵1棟と武具蔵2棟があったといわれています。
異人井戸(オランダ井戸)は、史料によれば福田小学校校庭の体育倉庫の付近で、ニの台場と三の台場の中央後方にありましたが、昭和39〜40年小学校の校庭が拡張され危険のため埋められたとのことで、一般には其の位置は分かりません。
此の井戸は安政2〜5年(1855−1858)田子島に台場が出来てから台場を守る武士たち並びに異国船の飲料水として使用されました。

写真   〜  (8) 長崎サンセットマリーナは風景の項へ

写真 13〜  (9) 火渡しの橋
福田中学校正門前から福田本町公民館・福田本町公園へ向い、角から少し入ると小川があります。此の地の小川に架かる橋を古くから火渡しの橋と云われています。これは昔、津波により水浸しになった南部落の人家の火が消え、炊事もできなかったので、上部落の人が火種を南に持って渡ったので其のように云われたものです。
以前は長さ3m巾1m位の雲弱石でしたが、本町公園や市営住宅が出来るときにセメント橋になりました。

写真 15〜 (10) 舘 道
火渡しの橋を渡り福田ショッピングセンター、福田保育所に通じる道を舘道と言います。舘館は「やかた」と言い、昔ここらに平家の残党武士が住んでいたと言われています。

写真 16〜 (11) 丸木舘屋敷
福田保育所より50mほど先に池田邸(1748番地)があります。此処が天正3年(1575)福田の地頭21代福田大和守忠兼が屋敷を構えた所です。記録によれば「広三段四畝左右石垣あり」とあります。