長崎の風景・史跡 (市北西)」カテゴリーアーカイブ

福田の散策 (3) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

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福田の散策 (3) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

長崎市福田本町の史跡。福田開港と由来碑、丸木問役所跡、事代主神社祠と宮林、津波よけの石垣、千本松原。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊44〜47頁による説明は次のとおり。
福田のショッピングセンター・サン三叉路の掲示板「福田史蹟案内図」の番号順とは異なる。

…福田本町は昔、大村藩内謀反による横瀬浦港焼き討ち事件後、貿易港の代わりとして開港されましたが、更に良港の長崎に移され、福田に於ける貿易期間は僅か6年でした。

写真  4〜 (1) 福田開港と由来碑
史料によると福田が治められた始まりは、平安時代末期の治承4年(1180)とあります。何百年かの後福田開港となり、このことについて詳しく記された福田開港の大きな由来碑があります。そこは本町バス停から少し戻り、福田橋を渡った100m先の漁港沿い、長崎市福田漁業協同組合建物脇にあります。
〔福田開港の由来碑 要旨〕
…大村純忠は、たびたび福田浦を訪れ、教会を建て、布教に力をつくし各地より信者多数がここに来集した。いらい、永禄九、十一、十二、元亀元年ポルトガル船はここに入港し、貿易と布教の拠点として、この港は、繁栄を続けたが、福田浦は、必ずしも良港とはいいがたく、宣教師や船員は、近くの地を探し回った末、元亀元年(1570)長崎を発見し、いらいポルトガル貿易は長崎に移ったが、長崎開港いぜん、福田が果たした役割は日本の近世対外交史上極めて重要であったといえよう。  昭和四十四年九月吉日 長崎市
福田開港の由来碑と並んで福田ペーロンの由来碑もあります。漁港手前の砂浜は旧福田海水浴場です。

写真  8〜 (2) 丸木問役所跡
福田橋に戻って橋角の松田邸(1873番地)屋敷塀前に丸木問役所跡の立札があります。寛政3年(1791)、当時福田への人の出入りが激しくなり旅人を改めるため、従来より更に整備して設置されました。丸木地区には昔、遊郭も10軒ほどあったとか、昭和9年(1934)頃、廃業されたといわれます。

写真 11〜 (3) 事代主神社祠と宮林
此れから海浜防波堤に沿いながら千本松原の方へ歩くと、道中、事代主神社祠があります。そして米田歯科研究所手前辺りに、頃は寛永12年(1685)、中野平五左衛門が天満宮を再興しました。しかし当時、福田地方は津波が度々あり、後難を恐れて天和元年(1681)徳川五代将軍綱吉の時代に現在の高台に移しました。跡地は今日、住宅が立ち並び僅かな樫、椿の巨木が当時の区域として残るのみです。

写真 13〜 (4) 津波よけの石垣
自然石を1〜2m積み上げた石垣が所々残っています。これは天和元年(1681)以前に津波があり、度重なる津波に後難を恐れた住民が、宮林より海岸沿いに長々と石垣を築いたものです。

写真 15〜 (5) 千本松原
元文元年(1736)徳川八代将軍吉宗の時代、福田地頭であった福田長兵衛兼明が大津波の波よけのために田子島より崎山まで植樹しました。安政4年(1857・植樹後120年)頃には162本あり、昭和5年(1930)頃には尚80数本ありましたが、昭和19年頃から松食虫の被害を受け、昭和25年(1950)には全部枯れ姿を消しました。
大人数人で手を廻しても届かぬ大松、又落雷の焼け跡で黒ずんだ焼松などがあり長崎市民の良き憩いの場でした。ハイヤ節に”福田丸木の千本松は誰を待つやら青々と””福田丸木の千本松は千といえども千はなし”とあります。

福田の散策 (2) 小浦の史跡  長崎市小浦町

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福田の散策 (2) 小浦の史跡  長崎市小浦町

長崎市小浦町の史跡。ダンドン様(段遠様)、崎山(断崖・河童穴)、古代石棺、小浦波止場御舟蔵、庵のん屋敷(あんでら)。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊55〜56頁による説明は次のとおり。
福田のショッピングセンター・サン三叉路の掲示板「福田史蹟案内図」の番号順とは異なる。

写真  2〜 (19) ダンドン様(段遠様)
稲荷神社を下り対面の山道を26段登って70mほど進むと、お堂?と右側に墓石を台座にした大きな釈迦如来像(昭和六年三月吉日)と墓石があります。源平戦で敗れた平家の死者を此処や浜の断崖上、崎山に祭られました。

写真  5〜 (20) 崎山(断崖・河童の穴)
福田本町より小浦町方面を眺めると突き出た断崖が見えます。この上にも源平戦で敗れた平家の墳墓があります。バス道わき駐車場看板の所から41段の坂段を登ると雑草の中に二つの碑があります。
①無縁塔 正面ー無縁塔 明治三十五年六月十日 建設者 安田浅次郎
②戦死者萬霊之碑 正面ー戦死者萬霊之碑 明治三十五年八月 荻原弘文・山口寅雄建立

写真 10〜 (21) 古代石棺
崎山から国道を横断すると直ぐ坂段があり登りつめると野口邸(小浦町1057−4)があり、その上畑に2m弱の雲弱石で作られた石棺があります。果たして古代・中世いつ頃のものでしょう。

写真 15〜 (22) 小浦波止場御舟蔵
福田本町の手前は小浦町です。小浦バス停の直ぐ脇に小浦船津公園・事代主神社があります。船溜まりの小浦波止場は文化6年(1809)構築され、南蛮船が現れたとき、番所の役人が直ちに出船できる舟の溜まり場でした。弘化3年(1846)警備役人の詰所として御舟蔵が建てられました。その場所は近くに住む人の話では神社下駐車場一帯の所で、昭和年代頃まで大きな屋敷もあったそうです。(註 江越先生資料では、御船蔵跡は猪俣氏宅、番屋跡は石本宅となっている)

写真 21〜 (  ) 庵のん屋敷(あんでら)
岩永氏著には説明がないが、小浦波止場の裏手高台である。旧道を行き美容室オッパ!から高台へ上がる。森山豊宅があり坂段を登ると同家の墓。左奥に香月宅。裏の上畑に転がる大石が目印。香月宅も屋敷であったと言われ、寺も下段の畑一帯にあったと伝えられる。
詳しくは、福田天満神社の先代宮司さん古書「福田の旧蹟」が、福田公民館にあるらしい。

(2014年11月27日 追 記)

「小浦波止場御舟蔵」について、江越弘人氏の資料(平成21年 学さるく編)では次のとおり。
9 小浦の福田大番所船囲場
福田小浦のバス停の後に無数の礫石で造られた港がある。ここは、福田大番所の船囲場で、長崎に異国船が来航した時には、この港から大村藩士が乗り込んだ番船が出港し、長崎の警備に当たったもので、昔のままの姿を残している。
郷村記によれば「波止、長さ25間、横5間、中波止、長さ22間、横2間半、築附波止長さ18間、横2間半。船木屋、4間、梁14間、2棟。土蔵(番屋が造り付け)、4間、梁10間」と記され、御船蔵(船木屋)の中に関船1艘、小早3艘、東海4艘、組子船5艘、天船1艘が収容されていたという。
この船囲場は、文化6年(1809)に衡風丸を備えたのが始まりで、次第に整備され、上記のようになったのは弘化3年(1846)である。現在、御船蔵の所が猪俣氏の住宅となっている。又、番屋跡は石本氏宅となっている。石本氏の先祖は、この船囲場築造に係わった石工で、その後、船囲場の番人となり苗字帯刀を許されたということである。

岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」では、「船溜まりの小浦波止場は文化6年(1809)構築され… 弘化3年(1846)警備役人の詰所として御舟蔵が建てられました」と書かれている。
両者の出典は当然異なっていると思います。前者からでは、文化6年の段階で防波堤や護岸ができていたとは読み取れません。この点は、年代をどう標記するかに関わりますので、後者はどのような文献に書かれていたのでしょうか? との疑問を遺産サイトから受けたので、並記した。
岩永氏はすでに亡くなられ、出典は不明。江越先生資料は「大村郷村記」「福田村郷土誌」によっており、これが正しいだろうと思われる。

福田の散策 (1) 福田長兵衛墓地  長崎市大浜町

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福田の散策 (1) 福田長兵衛墓地  長崎市大浜町

長崎市大浜町の山奥に福田の殿様墓があると、江越先生から聞き訪ねた。国道202号線、高島医院手前の大浜橋を渡って右折。川沿いに行き林橋から右へ入る。車道は奥の菱重興産住宅地まで続く。
つきあたりのようなゴミステーション川側の佐藤宅横から山道へ入る。ここから福田中学校区青少年育成協議会が設置した道標どおり約15分、林間を登ると目指す墓地へ着く。

旧地名では、大浦郷江川内。稲佐山の南西山腹となり、疱瘡墓のため人里離れ、徳業を偲び福田千本松原が望める岩尾根の鞍部に、福田長兵衛墓が造られたと思われる。訪ねるには不便だが、山奥の見事な一角である。稲佐山登山道の1つ手前の谷合い。
墓石は、横70cm、厚さ45cm、高さ1.4m。「元文二巳年 妙法 能持院宗是日継居士 三月二十八日」「福田長兵衛平姓兼明 行年五十歳」とあった。左横の同じような1基の刻面はかわらない。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅣ 長崎の史跡(墓地・墓碑)」平成17年刊118頁による説明は次のとおり。

303  福田長兵衛墓地 (所在地:大浜町)

大村藩家臣福田長兵衛兼明墓地。福田家は治承4年(1180)定使職になった始祖平兼盛以来、この地を支配したが、江戸時代においても長崎家に次ぐ大村藩の有力家臣であった。長兵衛兼明は同家24代で(同藩家臣では6代)、500石を給され、馬廻役を勤めた。
元文元年(1736)田子島から崎山まで防潮のため石垣を築き、後に千本松原と呼ばれた松の木を植えたが、同2年(1737)天然痘で没した。この墓地は現在でも旦那墓とか疱瘡墓とか呼ばれている。

稲佐山公園の桜と大浜への下山路

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稲佐山公園の桜と大浜への下山路

平成21年3月29日(日)快晴。大浜町から稲佐山公園まで登山道を往復。高島医院手前の大浜橋を渡って右折。川沿いに行き林橋から右へ入る。車道は本流からはずれるので、路地へ入り、谷最奥の住宅の方まで行くと、「稲佐山登山道」の標識がある。
山道の谷には、昔、大浜に三菱社宅があった水源の堤跡が残る。沢を左右しながら、緩やかに約40分登りつめると、稲佐山公園駐車場の左奥の隅に出た。鹿園の下の谷となる。

稲佐山公園は春休みの日曜であり、家族連れが多かった。桜は満開。子どもたちがはしゃいでいた。行楽の春景色を写し、早々に退散。
谷間の登山道は、帰りの下りに写している。林間の道で途中の展望はきかないが、夏場の山歩きに利用してよい道である。下りは約30分。
東さんよ。鉢植えでもらった原種チューリップが咲きました。UPします。

ド・ロ神父 大平作業所跡  長崎市西出津町

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ド・ロ神父 大平作業所跡  長崎市西出津町

国道202号線から出津教会の上の車道を新屋敷の方へ向い上がる。高い山が変岳でその北尾根の鞍部近くに「ド・ロ神父 大平作業所跡」がある。現地説明板は次のとおり。作業所跡の上手高台、周辺全体を見渡せるところに、説明板は立っている。
ド・ロ神父が馬を繋いだと言われている留金具は写し忘れた。

市指定史跡 ド・ロ神父 大平作業所跡

指定年月日  平成17年1月4日  所在地  長崎市西出津町内平1195番地26
所有者  お告げのマリア修道会
明治12年(1879)外海地区の主任司祭として赴任したド・ロ神父は、地域住民の生活向上のため、出津の変岳(俗称大平)の裏に原野ニ町歩を買い求め、明治17年(1884)から同34年(1901)まで17年間をかけて耕作地を開墾した。この作業所跡も開墾事業に伴って設置されたもので、同34年頃の建築と思われる。
建物は、高さ約4mに及ぶド・ロ壁を用いた石造を主体とし、正面の一部が煉瓦造の堅牢な平屋建築で、桁行約18.5m、梁間約8.9mの4つの部屋を有する主屋に桁行約2.9m、梁間5.5mの下屋を付けた平面を持ち、桟瓦葺の屋根が架っていたと思われる。アーチ状の煉瓦積窓やド・ロ神父が馬を繋いだと言われている留金具が現存している。
大平作業所跡は、周辺に広がる耕作地とともに、ド・ロ神父が実践した農業振興活動を今に伝える遺構として価値が高い。
長崎市教育委員会 (平成18年3月設置)

稲佐山展望台からの展望

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稲佐山展望台からの展望

平成20年8月24日、水の浦から稲佐山・権現岩へ行く。稲佐山展望台からの展望。昼の全景はあまり紹介がない。山野歩き https://misakimichi.com/archives/1227 も参照。
稲佐山は長崎港の対岸にあり、標高342m(三等三角点地点は333.0m)。ロープウエイが渕神社駅から通う。
市街や港外を一望でき、長崎の名所。夜景もよい。山頂に吉井勇の歌碑 ” おほらかに 稲佐の嶽ゆ 見はるかす 海もはろばろ 山もはろばろ ”

佐藤家住宅主屋外4棟(国登録有形文化財)  長崎市西泊町

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佐藤家住宅主屋外4棟(国登録有形文化財)  長崎市西泊町

明治初期から中期に造られた煉瓦外壁を配した木造家屋と石造倉庫など。再現することが容易でないものとして「佐藤家住宅主屋」外4棟が国登録有形文化財となっている。
長崎市の西部、西泊町バス停のすぐ裏手にある。現地説明板の概要は以下のとおり。

西泊は幕府の鎖国時代、長崎港警固のため戸町番所に相対する西泊千人番所があった港口の浦。古い町並みの名残りがまだある。
後の5枚は、近くで見た井戸、三角溝、石段手摺、海底電線倉庫。

登録有形文化財 佐藤家住宅主屋外4棟  登録年月日 平成9年11月5日

この佐藤家住宅は、主屋、木造別棟、木造附属屋、石造倉庫A、石造倉庫Bの5棟からなる。幕末から明治中期にかけて外国人居留地で多く建てられた石造倉庫と、町屋風の主屋や数寄屋風の木造別棟などが共存して全体をなす姿は極めて貴重であり、平成8年10月に文化庁が導入した登録文化財制度により、県内では2番目に登録された。

長崎市立山里小学校と如己堂の風景  長崎市橋口町・上野町

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長崎市立山里小学校と如己堂の風景  長崎市橋口町・上野町

長崎市橋口町にある長崎市立山里小学校は、大橋電停下車徒歩約6分。爆心地から北へ約600m。被爆により児童約1300人、教師28人が亡くなった。
被爆校舎は現在の運動場のところにあったが、平成元年に新校舎が高台へ建て替えられている。
学校の敷地内には山里小学校平和に関する施設・碑として、次のものがある。
①山里国民学校説明板、②防空ごう、③あの子らの碑、④あの子らの丘、⑤永井桜、⑥旧山里小学校校舎のレリーフ、⑦児童記念館(資料室)

山里小学校近く上野町には、自身も原爆の後遺症に苦しみながら、被爆者救護に尽力し、「長崎の鐘」など多くの著書がある故永井隆博士の旧居「如己堂」があり、長崎市永井隆記念館が併設されている。坂下に浦上天主堂が見える。

浦上天主堂の風景  長崎市本尾町

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浦上天主堂の風景  長崎市本尾町

浦上天主堂は、大正3年(1914)東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として完成。昭和20年(1945)8月の原子爆弾により、爆心地にすぐ近い建物は廃墟と化した。
現在の建物は、昭和34年(1985)鉄筋コンクリートで再建。昭和55年(1980)レンガタイルにより改装。当時の姿に復元された。
被爆遺構の鐘楼ドームは、原爆落下中心地公園へ移されて立つ。