福田の散策 (2) 小浦の史跡  長崎市小浦町

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福田の散策 (2) 小浦の史跡  長崎市小浦町

長崎市小浦町の史跡。ダンドン様(段遠様)、崎山(断崖・河童穴)、古代石棺、小浦波止場御舟蔵、庵のん屋敷(あんでら)。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊55〜56頁による説明は次のとおり。
福田のショッピングセンター・サン三叉路の掲示板「福田史蹟案内図」の番号順とは異なる。

写真  2〜 (19) ダンドン様(段遠様)
稲荷神社を下り対面の山道を26段登って70mほど進むと、お堂?と右側に墓石を台座にした大きな釈迦如来像(昭和六年三月吉日)と墓石があります。源平戦で敗れた平家の死者を此処や浜の断崖上、崎山に祭られました。

写真  5〜 (20) 崎山(断崖・河童の穴)
福田本町より小浦町方面を眺めると突き出た断崖が見えます。この上にも源平戦で敗れた平家の墳墓があります。バス道わき駐車場看板の所から41段の坂段を登ると雑草の中に二つの碑があります。
①無縁塔 正面ー無縁塔 明治三十五年六月十日 建設者 安田浅次郎
②戦死者萬霊之碑 正面ー戦死者萬霊之碑 明治三十五年八月 荻原弘文・山口寅雄建立

写真 10〜 (21) 古代石棺
崎山から国道を横断すると直ぐ坂段があり登りつめると野口邸(小浦町1057−4)があり、その上畑に2m弱の雲弱石で作られた石棺があります。果たして古代・中世いつ頃のものでしょう。

写真 15〜 (22) 小浦波止場御舟蔵
福田本町の手前は小浦町です。小浦バス停の直ぐ脇に小浦船津公園・事代主神社があります。船溜まりの小浦波止場は文化6年(1809)構築され、南蛮船が現れたとき、番所の役人が直ちに出船できる舟の溜まり場でした。弘化3年(1846)警備役人の詰所として御舟蔵が建てられました。その場所は近くに住む人の話では神社下駐車場一帯の所で、昭和年代頃まで大きな屋敷もあったそうです。(註 江越先生資料では、御船蔵跡は猪俣氏宅、番屋跡は石本宅となっている)

写真 21〜 (  ) 庵のん屋敷(あんでら)
岩永氏著には説明がないが、小浦波止場の裏手高台である。旧道を行き美容室オッパ!から高台へ上がる。森山豊宅があり坂段を登ると同家の墓。左奥に香月宅。裏の上畑に転がる大石が目印。香月宅も屋敷であったと言われ、寺も下段の畑一帯にあったと伝えられる。
詳しくは、福田天満神社の先代宮司さん古書「福田の旧蹟」が、福田公民館にあるらしい。

(2014年11月27日 追 記)

「小浦波止場御舟蔵」について、江越弘人氏の資料(平成21年 学さるく編)では次のとおり。
9 小浦の福田大番所船囲場
福田小浦のバス停の後に無数の礫石で造られた港がある。ここは、福田大番所の船囲場で、長崎に異国船が来航した時には、この港から大村藩士が乗り込んだ番船が出港し、長崎の警備に当たったもので、昔のままの姿を残している。
郷村記によれば「波止、長さ25間、横5間、中波止、長さ22間、横2間半、築附波止長さ18間、横2間半。船木屋、4間、梁14間、2棟。土蔵(番屋が造り付け)、4間、梁10間」と記され、御船蔵(船木屋)の中に関船1艘、小早3艘、東海4艘、組子船5艘、天船1艘が収容されていたという。
この船囲場は、文化6年(1809)に衡風丸を備えたのが始まりで、次第に整備され、上記のようになったのは弘化3年(1846)である。現在、御船蔵の所が猪俣氏の住宅となっている。又、番屋跡は石本氏宅となっている。石本氏の先祖は、この船囲場築造に係わった石工で、その後、船囲場の番人となり苗字帯刀を許されたということである。

岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」では、「船溜まりの小浦波止場は文化6年(1809)構築され… 弘化3年(1846)警備役人の詰所として御舟蔵が建てられました」と書かれている。
両者の出典は当然異なっていると思います。前者からでは、文化6年の段階で防波堤や護岸ができていたとは読み取れません。この点は、年代をどう標記するかに関わりますので、後者はどのような文献に書かれていたのでしょうか? との疑問を遺産サイトから受けたので、並記した。
岩永氏はすでに亡くなられ、出典は不明。江越先生資料は「大村郷村記」「福田村郷土誌」によっており、これが正しいだろうと思われる。