福田の散策 (1) 福田長兵衛墓地  長崎市大浜町

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福田の散策 (1) 福田長兵衛墓地  長崎市大浜町

長崎市大浜町の山奥に福田の殿様墓があると、江越先生から聞き訪ねた。国道202号線、高島医院手前の大浜橋を渡って右折。川沿いに行き林橋から右へ入る。車道は奥の菱重興産住宅地まで続く。
つきあたりのようなゴミステーション川側の佐藤宅横から山道へ入る。ここから福田中学校区青少年育成協議会が設置した道標どおり約15分、林間を登ると目指す墓地へ着く。

旧地名では、大浦郷江川内。稲佐山の南西山腹となり、疱瘡墓のため人里離れ、徳業を偲び福田千本松原が望める岩尾根の鞍部に、福田長兵衛墓が造られたと思われる。訪ねるには不便だが、山奥の見事な一角である。稲佐山登山道の1つ手前の谷合い。
墓石は、横70cm、厚さ45cm、高さ1.4m。「元文二巳年 妙法 能持院宗是日継居士 三月二十八日」「福田長兵衛平姓兼明 行年五十歳」とあった。左横の同じような1基の刻面はかわらない。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅣ 長崎の史跡(墓地・墓碑)」平成17年刊118頁による説明は次のとおり。

303  福田長兵衛墓地 (所在地:大浜町)

大村藩家臣福田長兵衛兼明墓地。福田家は治承4年(1180)定使職になった始祖平兼盛以来、この地を支配したが、江戸時代においても長崎家に次ぐ大村藩の有力家臣であった。長兵衛兼明は同家24代で(同藩家臣では6代)、500石を給され、馬廻役を勤めた。
元文元年(1736)田子島から崎山まで防潮のため石垣を築き、後に千本松原と呼ばれた松の木を植えたが、同2年(1737)天然痘で没した。この墓地は現在でも旦那墓とか疱瘡墓とか呼ばれている。