小榊の散策 (2) 小瀬戸の史跡・風景 長崎市小瀬戸町
2007学さるくの江越弘人先生作成資料「女神大橋から四郎ケ島台場跡」などによる説明は次のとおり。
写真 1〜 1 鼠 島(皇后島)
昔の戸八の浦(深堀)の子(ね)、角(すみ)の方角に当たることから『ね すみ島』と呼んだとか、神功皇后が朝鮮からの帰りにこの島に立ち寄ったので『皇后島』と言うなど、色々と謂れのある島である。
寛永6年(1853)から安政元年(1854)にかけて日本は諸外国と和親条約を結んだ。その結果、長崎港にはイギリスやフランスの軍艦の入港が激増したため、幕府は、鼠島を外国人の遊歩場として開放した。
明治36年に、長崎市はこの島に海水浴場を開設した。以後、昭和47年に第2次長崎外港計画による埋立で70年に及ぶ市民の遊泳道場は閉鎖された。
写真 8〜 2 小瀬戸遠見番所跡
遠見番所は、寛永15年(1638)島原の乱を鎮定した老中松平伊豆守信綱が長崎に立ち寄った時に遠見番所と烽火所の設置を命じた時に始まり、和蘭船や異国船の来航を見張っていた。番所は、最初には野母の権現山だけに置かれ、異国船発見の時には飛船で長崎奉行所に知らせていた(白帆注進)。番人は、野母・高浜・川原の百姓が当たっていた。
万治2年(1659)に遠見番10人、触頭2名の番士を公儀で召抱えることになり、役宅を十善寺郷に置き、十人町と呼んだ。元禄元年(1688)には抜荷取締強化のために遠見番10人を増員し、小瀬戸・梅香崎・永昌寺(最初は勧善寺)に遠見番所を増設した。
異国船発見の時には、旗や号砲で知らせることとし、抜荷を取り締まるために蘭船、唐船が出帆する時には、帆影が消えるまでに見送る任務も加わった。
遠見番所は、小瀬戸後方中央の通称トンカミ山(住民は遠見と言った)にあった。現在は、みなと坂団地内の「船の公園」となっている。
写真 12〜 3 同上 中番所跡
中番所は、小瀬戸後方の山、現在は天神天満宮境内地となっている。通常日は2人、来航船入津及び出津時は4人の番人を配置し、遠見番所番人からの通報を受け、これを不寝番所に連絡した。天満宮石祠の中に、小瀬戸注進船の水主組が奉納したことが刻まれている。
写真 15〜 4 同上 注進船つなぎ石・船引場完成記念碑
長崎市小榊支所裏の、駐車場となっている一角に移設されてある。
写真 16〜 5 長崎要塞第一地帯標
1−C 小瀬戸の天神天満宮裏畑地(確認 長崎要塞第一地帯標 第七号) 長崎市小榊支所の左道へ入り、墓地を通り上がる。小瀬戸遠見番所の中番所跡で、現在は天神天満宮が祀られている。その背後の畑の真ん中に立つ。みなと坂団地から行く方が近い。
写真 17〜 6 大 悲 寺
写真 18〜 7 長崎市編入50周年記念碑(小榊支所横)
写真 20〜 8 長崎市立小榊小学校