長崎の風景・史跡 (市北西)」カテゴリーアーカイブ

一ツ葉杜の由来  長崎市梁川町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

一ツ葉杜の由来  長崎市梁川町

一ツ葉杜(ひとつばのもり)の石塔などのお堂は、長崎市梁川町7街区にある。長崎市立病院成人病センターから梁川公園の方へ、国道の裏通りを進むと、左奥の駐車場のところに見える。
現地説明板は、次のとおり。

一ツ葉杜(ひとつばのもり)由来

今より約四百年前の長崎奉行六代目竹中菜女正重興より召喚され、豊後の国より来崎した二代目当主、志賀親勝宗色は浦上、渕村(西町より神の島)を知行(土地をもらう)され志賀山(護国神社)を拠点に庄屋として行政を掌った(県立図書館渡辺文庫より)。
以後代々庄屋として継承され九代目当主、志賀新左衛門新壽宗貞の時に宗貞がある晩、現在地(当時浦上川川沿)の通路を通りがかった際「志賀!志賀!」と呼び捨てに呼ぶ声が聞こえるので立ち止まり、自分を呼び捨てにする者などいない筈なのに何者かと辺りを見回したが姿は見当たらずその晩は帰宅しました。
しかし、昨晩のことがどうしても不思議に思い、翌朝また現地に来て見るとなんと大友宗麟の腹心、一ツ葉の首がさらし首で川岸にありました。宗貞はびっくり驚き、さっそく『流岸浄生信士』と石塔を刻み建立し手厚く葬りました。その石塔が左側の塔で右横に願主宗貞の名が刻まれてあります。

右側の自然石碑は元公卿様で(官女)通称宝塔様大納言と称され(大臣の位)、石碑には『玉秀命神霊』と刻まれてあります。この碑は長崎二代目市長、横山寅一郎により長崎市建立として建てられた碑で、裏側に明治三十二年十二月長崎市建立と刻まれてあります。(長崎市典歴史編より)
玉秀命(たまひでのみこと)は長崎港湾改良工事、水道増設、長崎商品陳列所の建設等、長崎発展の為に多大な貢献をなされ、その功績を讃え建立された碑です。中央の観音像は皇族の方の名のある祈祷師として山崎教随先生が鎮魂の像として献納されたもので現在、穴弘法山に教随先生の銅像が建立され祭られてあります。
以上のような由来があり首から上の病、頭の神として祭られ入学、入試、神経系統、心の病、ストレス等、無病息災、安全健康等に大変御利益があり信仰祭られてあります。御参拝、御祈祷されてみてください。
(詳細は筆者林田敏博まで)

ステッセル将軍一行上陸の碑  長崎市丸尾町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

ステッセル将軍一行上陸の碑  長崎市丸尾町

日露戦争において、乃木希典大将とロシアのステッセル将軍が旅順開城の交渉をし、ステッセル将軍とロシアの将兵は、明治38年(1905)1月14日、長崎に上陸した。
この上陸の碑が、長崎市丸尾町の旭橋近く川岸に建立されている。碑文は次のとおり。
碑の下部にある上陸の古写真は、このあたりの景色に間違いないだろう。

日露戦争で旅順を守った勇将にして仁将
ステッセル将軍一行上陸の碑  明治三十八年(1905)一月十四日上陸

日ロ親善を期して 平成22年(2010)7月建立 長崎日ロ協会

「(明治)天皇陛下はステッセルの(旅順)苦戦を嘉(よ)みし、武士の名誉を保たしむ可き旨、攻団(乃木)軍司令官に電命せらる。ステッセル将軍は帯勲帯剣のまま、敬すべき軍人として、最上の早き時間内に於て放還されるべき事に我が大本営は夙(つと)に決議しあり」
明治38.1.3 東洋日の出新聞

ステッセル将軍及び家族の宿舎は、長崎ホテルに非ずして、ロシア人との縁で平戸小屋の道永お栄の宅に定められ…又、稲佐諸岡お松宅には将官四名を始め、福田(甚八)、中村(七平)、山野辺(右左吉)等有志の宅には夫々上級将をして予定され、諸岡お松宅にては六十人分の賄を仕出すべき用意を命ぜられ、「…一千名に近き一行なれば…事務所は悟真寺…」
明治39.1.9 東洋日の出新聞

旅順要塞司令官 ステッセルの評価については、坂の上の雲 司馬遼太郎 五巻 「水師営」
P237より、「司馬遼太郎を勝手に語るブログ」に記事がある。
http://tea-time7.com > Top > 坂の上の雲

長崎市政提案制度の不始末 稲佐山山頂展望台を訪ねた所感

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

長崎市政提案制度の不始末 稲佐山山頂展望台を訪ねた所感

長崎市の観光名所「稲佐山山頂展望台を訪ねた所感」を、昨年12月17日、次のとおりインターネットにより「長崎市市政への提案制度」へ意見・提案した。回答の有無を再三照会するのに、4月となってもまだ回答がない。

稲佐山山頂展望台を訪ねた所感
(提案内容)
長崎の夜景は、2012年10月5日、モナコ、香港と並び世界新三大夜景として認定されました。きのう(12月16日)正午ごろ、稲佐山山頂展望台を訪ねました。県外の観光客も多く、次の点を要望します。
1 世界新三大夜景に認定されたことは、多目的ホールに大パネルがありましたが、屋上の展望所にも、観光客に広く周知する説明板やパネルが必要と思います。モナコ、香港の夜景も載せてください。
2 以前も同じでしたが、屋上展望所周りの景観写真説明に「福田サンセットマリーナ」や「長崎市清掃西工場」がありません。見た人が気になる大施設と思いますから、説明してください。
3 展望所回廊のレストラン手前の壁面絵画は、意味不明な景観にそぐわない作品と感じました。長崎にふさわしい絵画や写真などの作品に変えてください。
4 展望所回廊の途中に、市文化観光部作成の展示パネルがありましたが、日射で退色しみっともないものになっています。恒久的なパネルにするか、定期的な点検がぜひ必要でしょう。

提案内容が昨年、受付されていないわけではない。3月26日稲佐山山頂展望台を再び訪ねて確認した。
1は、申し訳程度に1階エレベータ脇に、モナコ、香港の夜景も載せた小さな説明板が新たに立っていた。要望とは違う。日中に全国から観光客が多い屋上の展望所に、堂々とした大きな説明板を設置してもらいたい。
2は、昨年に景観写真説明をリニューアルしたとき、配慮することではなかったか。国指定史跡「魚見岳台場跡」や長崎開港の先駆けとなった「福田浦」、「三菱重工長崎造船所香焼工場ドック」などの説明もしてもらいたい。
3は、夜景展望台の電飾壁画でもないようである。ひとりがってんの抽象画。どなたの作品か知らないが、公費でこんな作品を展示されたらたまらない。
4は、観光推進課作成のパネル。改善されていたが、もうまた退色している。

「長崎市市政への提案制度」は、「これまで寄せられた主な提案と回答」が公開されている。
掲載基準が明確でない。だれが決めているのか。長崎市にとって都合が悪い意見は排除されている。長崎県は、同じ制度でこのようなことはない。
回答がないのもあるし、なによりも回答が遅い。回答もその場限りの不誠実な内容である。過去の回答も削除される。市長の姿勢が見られない。「職員力」を常々言っていたはずだが。

長崎市広報広聴課は、市政への提案制度と情報公開制度の趣旨を理解していない。不始末な運用をしている。長崎市公式ホームページは、3月29日リニューアルされた。
情報公開条例の担当課へ同日頃、電話で見解を確かめ意見したこともあり、「これまで寄せられた主な提案と回答」は一部改善されたが、「稲佐山山頂展望台を訪ねた所感」の提案は、今もって回答がない。

欧陽雲台の墓  長崎市東立神町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

欧陽雲台の墓  長崎市東立神町

長崎在住の有力唐人貿易商であって、輿福寺創建当時の代表的な壇越(檀家、檀那)の一人として有名な欧陽雲台(唐通事陽氏祖)の墓が、東立神墓地内にある。
現地説明板は次のとおり。

歐陽雲臺の墓について

歐陽雲臺を祖とする
正保参年(1646)友人萬國鼎拝贈
雲臺歐陽公之墓
孟冬吉旦孝男摠三郎孫 虎之助 摠太郎 泣血立
一、雲臺歐陽公 この人が何時渡来したかはつきりしない 譯統譜の唐年行司始之由緒につぎのようにある
一、慶長(1596)年中より住宅唐人之内唐年行司役被仰付候由愽承候得共 來暦相知れ不申候
一、寛永十二亥年(1635)榊原飛騨守仙石大和守様御在勤之節 住宅唐人之内 歐陽雲臺何王官銀七官張三官何八官陳奕山此の六人に唐年行司役被仰付候
右のように書かれているので長崎住宅唐人形成初期の有力者であつたのだろう 正徳五年(1615)成立の長崎図志によると興福寺は昔皆吉氏の廃宅であったのを元和(1615)の初め歐陽氏が買つてこれを別荘としたと書いてある また 後述するこゝ立神墓地も或るいは別荘の跡とも考えられる
相当の資産家であったと思われる資料は見当たらないが最初は貿易商人であったと
想像される
陽氏  過去帳は次のようになつている。
生保三年(1646)歳在丙戌孟冬十有五日
即世辰忌
開祖 福建省漳州府 歐陽雲臺公
寛政七年(1795) 乙卯十月十五日値百五十遠忌
命日は十五日である
この過去帳によつて 歐陽雲臺は
福建省漳州府の人であつた
平成七年十月参百五十遠忌資料収集 中村記

潜伏キリシタン墓碑群が発見される  長崎市多以良町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

潜伏キリシタン墓碑群が発見される 長崎市多以良町

2012年1月20日付朝日新聞長崎地域版の記事は、次のとおり。12月23日同研究会が現地説明会を行っており、長崎新聞・西日本新聞などは、昨年24日既報済み。

多以良町垣内の現地は、県道28号により滑石トンネルから畝刈へ下る。満寿美新館先の右側にサンコー石油ガソリンスタンドがある。このすぐ上の林内に墓地があるので、手前の手すり石段から上がり、左へ行く。上部は地区の新しい墓地となっている。

潜伏キリシタン墓 64基            2012年01月20日 朝日新聞
◇長崎・多以良で確認 佐賀藩飛び地 弾圧なく?

江戸時代初期から幕末にかけて造られたとみられる潜伏キリシタンの墓が64基、長崎市多以良町の垣内地区に残っていることを、外海キリシタン研究会(会長=大石一久・長崎歴史文化博物館研究グループリーダー)が確認した。一帯が佐賀藩の飛び地だったことから、弾圧を免れた可能性があるという。

墓は急斜面の山肌を削った約120平方メートルの平地に、長方形の石を地面に伏せて並べた「長墓(ながばか)」が40〜50センチの等間隔で並んでいた。
最大のものは縦約1.8メートル、横約1メートル。墓の一つには、十字架を意識したと考えられる一本柱の石柱が脇に立ててあるなど、江戸時代初期のキリシタン墓の特徴があるという。

2年ほど前、長崎歴史文化博物館が所蔵する文久2(1862)年の絵地図に「ハカ」と記されているのを見つけ、調査を始めた。絵地図と現在の地図を照らし合わせて調べたところ、同じ場所に同じ広さの墓があるのを突き止めた。
江戸時代の垣内地区は佐賀藩深堀領の飛び地で、周囲はすべて大村藩領だった。大石さんは「大村藩は長墓をキリシタン墓として徹底的に破壊したが、深堀領には弾圧が及ばず、残った可能性がある。弾圧にも温度差があったのではないか」と推測している。

垣内地区は昭和40年代までキリシタンの信仰組織があったといい、墓地は先祖の墓として今も年2回、地元住民が掃除をして守り継いでいるという。清水紘一・元中央大教授(キリシタン史)は「潜伏キリシタンの墓は破壊し尽くされたと考えられてきたので驚いた。学術的にも貴重だ」と評価している。(江崎憲一)

本ブログ「琴海の史跡など」が、村松小学校PTA広報紙に載る

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

本ブログ「琴海の史跡など」が、村松小学校PTA広報紙に載る

長崎市立村松小学校PTA「広報 むらまつ 第388号」が、2学期終業式に発行、配布された。表紙面の”まだまだあるばい 琴海自慢”は、本ブログの次の記事から写真とも取り上げてもらっている。写真は琴海村松町城尾橋手前の「村松村古城跡」。
長崎さるくコースマップに「32 琴海界隈」があるが、琴海村松町方面の史跡案内はない。その点から本ブログが目にとまり、紹介されたと思う。光栄なことである。

琴海の主な史跡など (1) https://misakimichi.com/archives/2869
琴海の主な史跡など (2) https://misakimichi.com/archives/2870
琴海の主な史跡など (3) https://misakimichi.com/archives/2871

浦上川通りと長崎県立長崎西高等学校  長崎市竹の久保町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

浦上川通りと長崎県立長崎西高等学校  長崎市竹の久保町

きのう江山楼で昼食後、浦上川通りから長崎県立長崎西高等学校へと歩いた。浦上川に架かる橋は、梁川橋、浦上歩道橋(JR浦上駅に通じる歩行者専用道路。1986年(昭和61年)12月19日に開通)、竹岩橋。
浦上歩道橋の上から、長崎ブリックホール、日赤長崎原爆病院、活水高校・中学校、長崎市立渕中学校、稲佐山などが見える。

長崎県立長崎西高等学校は、1948年(昭和23年)11月1日の創立。旧制長崎県立瓊浦中学校跡へ移転。爆心地から約800m南西の長崎県立瓊浦中学校校舎は、原爆投下により壊滅。多数の死亡者を出した。

長崎県立長崎西高等学校HPによる学校沿革は、次のとおり。近況を知らせる。有名なのは正門前の「遅刻坂」。被爆クスの木がこんなに大きくなっている。門を入ると「自律の像」「自律の鐘」「自律の碑」が設置されている。西川食堂や春木まんじゅうももうない。
私は落ちこぼれ。同窓会にまったく失礼をしている。

沿 革
昭和23年11月 旧制中学校が統廃合、県立長崎西高等学校として、シーボルトで名高い長崎市内の鳴滝の地に開校。
昭和25年 8月 現在の所在地、長崎市竹の久保町に移転。
昭和26年12月 校歌「眉秀でたる若人よ」を制定。
昭和53年11月 創立30周年記念式典を挙行。「自律の像」が建立され「柏の森」が造園される。
平成10年11月 創立50周年記念式典を挙行。「自律の鐘」と「自律の碑」が設置され「自律の像」とあわせて「自律三林」と命名。

長崎大学医学部のポンペ会館  長崎市坂本1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

長崎大学医学部のポンペ会館  長崎市坂本1丁目

長崎大学医学部を12月14日に再訪。医学部構内の記事(4)に、「ポンペ会館」の2Fホール展示物を追加。被爆50周年(平成7年 1995年)特別企画の医学部年表や関係写真のパネルがあった。

ポンペ会館を写生中は、先輩の水彩画家松林重宗氏。1作目”名残りの紅葉(長崎大学医学部構内)”はできあがっていた。
最後は、2作目の完成作”ポンペ会館”。12月29日追加した。

長崎大学医学部の原爆医学資料展示室と被爆遺構  長崎市坂本1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

長崎大学医学部の原爆医学資料展示室と被爆遺構  長崎市坂本1丁目

先日の記事「開院150周年長崎大学病院」に続き、12月12日長崎大学医学部構内を訪れてみた。医学部構内の記事(3)は、「原爆医学資料展示室」及び「長崎医科大学の門柱」や「配電室」の被爆遺構。
キャンパスマップによる説明は、次のとおり。

1 原爆医学資料展示室
原爆医学資料展示室では、長崎医科大学が原爆により壊滅状態になった際の貴重な資料である血染めの白衣、原子爆弾救護報告、原爆被災復興日誌や原爆の医学的影響のパネルを展示しています。小中高生、一般市民、研究者に公開され、平和教育に活用されています。
◎見学時間 9;00〜16:00(平日)

8 長崎医科大学の門柱
医学部の図書館裏には、かつて長崎医科大学の正門だった二本の門柱があり、その一つ(左側)が傾いたままになっています。これは原爆の爆風によるものです。大きな石材でつくられた門柱のその姿は、原爆の凄まじさを物語っています。

9 被爆した配電室
医学部正門そばの良順会館裏手にある旧配電室は、爆心地から東約600メートルという近距離にありましたが、当時としては珍しい堅固なコンクリート造りだったため、被爆による難を逃れました。

長崎大学医学部の150周年ミュージアム(良順会館内)  長崎市坂本1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

長崎大学医学部の150周年ミュージアム(良順会館内)  長崎市坂本1丁目

先日の記事「開院150周年長崎大学病院」に続き、12月12日長崎大学医学部構内を訪れてみた。医学部構内の記事(2)は、正門を入り右側にある「良順会館」内の150周年ミュージアム(史料展示室)。

長崎大学医学部は日本最古の医学部として、2007年11月12日に創立150周年を迎えた。「良順会館」は記念事業として建設された。キャンパスマップによる説明は、次のとおり。

10 150周年ミュージアム
良順会館内の史料展示室は、16世紀からの南蛮医学と紅毛医学の伝来から近代西洋医学の発祥に至る歴史と、長崎大学医学部150周年の歩みを紹介する目的で設けられました。日本における西洋医学の伝承と発展の歴史を見ることができます。
◎見学時間 9:00〜17:00(平日)