欧陽雲台の墓  長崎市東立神町

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欧陽雲台の墓  長崎市東立神町

長崎在住の有力唐人貿易商であって、輿福寺創建当時の代表的な壇越(檀家、檀那)の一人として有名な欧陽雲台(唐通事陽氏祖)の墓が、東立神墓地内にある。
現地説明板は次のとおり。

歐陽雲臺の墓について

歐陽雲臺を祖とする
正保参年(1646)友人萬國鼎拝贈
雲臺歐陽公之墓
孟冬吉旦孝男摠三郎孫 虎之助 摠太郎 泣血立
一、雲臺歐陽公 この人が何時渡来したかはつきりしない 譯統譜の唐年行司始之由緒につぎのようにある
一、慶長(1596)年中より住宅唐人之内唐年行司役被仰付候由愽承候得共 來暦相知れ不申候
一、寛永十二亥年(1635)榊原飛騨守仙石大和守様御在勤之節 住宅唐人之内 歐陽雲臺何王官銀七官張三官何八官陳奕山此の六人に唐年行司役被仰付候
右のように書かれているので長崎住宅唐人形成初期の有力者であつたのだろう 正徳五年(1615)成立の長崎図志によると興福寺は昔皆吉氏の廃宅であったのを元和(1615)の初め歐陽氏が買つてこれを別荘としたと書いてある また 後述するこゝ立神墓地も或るいは別荘の跡とも考えられる
相当の資産家であったと思われる資料は見当たらないが最初は貿易商人であったと
想像される
陽氏  過去帳は次のようになつている。
生保三年(1646)歳在丙戌孟冬十有五日
即世辰忌
開祖 福建省漳州府 歐陽雲臺公
寛政七年(1795) 乙卯十月十五日値百五十遠忌
命日は十五日である
この過去帳によつて 歐陽雲臺は
福建省漳州府の人であつた
平成七年十月参百五十遠忌資料収集 中村記