潜伏キリシタン墓碑群が発見される 長崎市多以良町
2012年1月20日付朝日新聞長崎地域版の記事は、次のとおり。12月23日同研究会が現地説明会を行っており、長崎新聞・西日本新聞などは、昨年24日既報済み。
多以良町垣内の現地は、県道28号により滑石トンネルから畝刈へ下る。満寿美新館先の右側にサンコー石油ガソリンスタンドがある。このすぐ上の林内に墓地があるので、手前の手すり石段から上がり、左へ行く。上部は地区の新しい墓地となっている。
潜伏キリシタン墓 64基 2012年01月20日 朝日新聞
◇長崎・多以良で確認 佐賀藩飛び地 弾圧なく?
江戸時代初期から幕末にかけて造られたとみられる潜伏キリシタンの墓が64基、長崎市多以良町の垣内地区に残っていることを、外海キリシタン研究会(会長=大石一久・長崎歴史文化博物館研究グループリーダー)が確認した。一帯が佐賀藩の飛び地だったことから、弾圧を免れた可能性があるという。
墓は急斜面の山肌を削った約120平方メートルの平地に、長方形の石を地面に伏せて並べた「長墓(ながばか)」が40〜50センチの等間隔で並んでいた。
最大のものは縦約1.8メートル、横約1メートル。墓の一つには、十字架を意識したと考えられる一本柱の石柱が脇に立ててあるなど、江戸時代初期のキリシタン墓の特徴があるという。
2年ほど前、長崎歴史文化博物館が所蔵する文久2(1862)年の絵地図に「ハカ」と記されているのを見つけ、調査を始めた。絵地図と現在の地図を照らし合わせて調べたところ、同じ場所に同じ広さの墓があるのを突き止めた。
江戸時代の垣内地区は佐賀藩深堀領の飛び地で、周囲はすべて大村藩領だった。大石さんは「大村藩は長墓をキリシタン墓として徹底的に破壊したが、深堀領には弾圧が及ばず、残った可能性がある。弾圧にも温度差があったのではないか」と推測している。
垣内地区は昭和40年代までキリシタンの信仰組織があったといい、墓地は先祖の墓として今も年2回、地元住民が掃除をして守り継いでいるという。清水紘一・元中央大教授(キリシタン史)は「潜伏キリシタンの墓は破壊し尽くされたと考えられてきたので驚いた。学術的にも貴重だ」と評価している。(江崎憲一)