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長崎の古写真考 ふるさと長崎 61頁 第052景 眼鏡橋畔風景 

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長崎の幕末・明治期古写真考 ふるさと長崎 61頁 第052景 眼鏡橋畔風景 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ふるさと長崎133景
61頁  第052景 眼鏡橋畔風景 (諏訪町・1995年)
〔作品解説〕
寺町通りや中通りも楽しいが、川端通りもまた楽しい。とくにあまりきれいに整備されていない東側に、思いがけない昔のたたずまいが残っている。この骨董屋さんもいつ頃から続いているのか、私の子供の頃からあったような気がしてくるほど。まだ小学校に上がる前の頃、父親に連れられて浜町あたりまで行くと、往きに帰りによく古道具屋に立ち寄った。父はいそいそと、私はうんざりしながら…。考えてみると、昭和初年の頃は不景気だったはずだが、父は道具をいじり、俳句を作り、弓やテニスに熱中し、ビリヤードにまで出掛けていた。職場では運動会も盛んで、野球チームもあり、慰安会と称するものに行ってみると、顔見知りの父の職場の人たちが、大真面目で演劇などをやっていた。大陸ではもう戦争が始まっていたのに、おかしな時代だった。(あとで聞くと、この古道具屋は戦後のもので、この数年後、近くへ移転したということだった)

■ 確認結果

古写真ではない。有名な長崎「眼鏡橋」現代のスケッチ風景。喜多迅鷹氏著「ふるさと長崎133景 きた・としたかスケッチ紀行」長崎新聞社平成17年発行61頁から「第052景 眼鏡橋畔風景」(諏訪町・1995年)。
2枚目の現在の眼鏡橋写真と比べると、ある違いに気付くだろうか。石橋登り口の石段数がスケッチては5段なのに、写真では2段である。

これは私のまったく思い違い。魚の町(または栄町)側から写すとそうなる。眼鏡橋の石段数は、実は魚の町側は2段、諏訪町側は5段と、不均衡な造りとなっている。川岸の高さ違いか?
眼鏡橋を渡って、諏訪町側から写した写真が4枚目。スケッチどおり5段あった。したがって、(諏訪町・1995年)、「眼鏡橋」を諏訪町側から描いた作品と確認した。
知らなかったなー、こんなことと思い、石段数のこの作品を取り上げてみた。

長崎の古写真考 ながさき浪漫 100頁 旭町、漁師の人の応援団

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 100頁 旭町、漁師の人の応援団

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
100頁  旭町、漁師の人の応援団   
〔画像解説〕
洋館の倉庫や事務所が並んでいますが、大浦ではありません。対岸の旭町の町並みです。水産の基地長崎は、この町に働く人達と豊かな海、そして勤勉な漁師の努力によって発展していったのです。    明治の末

目録番号:5122 長崎大波止桟橋
〔画像解説〕
明治末から大正初年にかけての大波止海岸の絵葉書。長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった。大波止海岸は明治37(1904)年に埋立て護岸工事で整備された。桟橋に停船中の船は対岸の水の浦、旭町の渡船である。出島の前方付近から、長崎市街地の海岸線を大黒町砲台付近にかけて撮影した写真である。

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の100頁に掲載されている「旭町、漁師の人の応援団」。長崎文献社所蔵写真と思われる。説明文はながさき浪漫会。
長崎大学の古写真データベースでは見当たらないが、目録番号:5122「長崎大波止桟橋」に、明治末から大正初年にかけての同じような山並みの写真がある。

ペンキ字の「日東製氷稲佐工場」は当時、稲佐橋下流の浦上川沿いに、赤レンガ建物が3棟あったらしい。現在の旭大橋付近で、光町や旭町となる。
「旭町、漁師の人の応援団」の作品が旭町とすると、当時の桟橋?あたりから撮影した写真であろう。ドラゴンプロムナード階上方向からの確認写真どおり、背景は稲佐山や岩屋山のもう少し高い稜線となるはずなのに、両方ともおかしな写真である。

説明文のとおり、別の町の製氷工場とは考えられない。目録番号:5122「長崎大波止桟橋」と山並みを対比するとまったく同じようである。「長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった」とわざわざ解説している。
「旭町、漁師の人の応援団」も、写真の検閲により背景の山が一部塗りつぶされたと考えると、この製氷工場は「旭町」と思われる作品だが、どなたか他に知らないだろうか。
2004年7月22日長崎新聞掲載「消えた”証人” 長崎の被爆遺構(2)」の、記事と同写真は次のとおり。同じ建物かどうかはわからない。

せめぎ合い    民間の所有、保存に限界
「原爆とのかかわりを新聞報道で知るまで、建物の価値に思い至らなかった。事情があり、やむを得なかった」
爆心地から南へ二・一キロ、浦上川の河口近くにあった日本冷蔵稲佐製氷工場跡(長崎市光町)。元所有者の関係者が、建物取り壊しの経緯を振り返る。
赤れんがの三棟は戦時中、海軍に納める食料の保存や冷蔵に使われていた。原爆で屋根が抜け落ち、社員三人が死亡。被爆直後には、缶詰などの食べ物を求め大勢の被災者が集まった。
戦後の一時期、かまぼこ製造工場となり、操業をやめた一九五〇年以降も、外壁などが被爆当時のまま残されていたが、敷地売却に伴い、九六年十月までに三棟全部取り壊された。現在、別の会社の駐車場などとして使われている。…

なお、製氷工場の同じ写真は、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版の64頁にも掲載されていた。同解説は次のとおり。撮影場所は明記されていない。

108 大日本製氷会社長崎出張所
明治22年、松田源五郎・香坂留彦は5㌧の製氷機械とラムネ製造機を九州では一番はじめに設置して長崎製氷会社として発足、その後幾度かの変遷を経て昭和3年大日本製氷会社と合同した。当時における冷凍能力100㌧、冷蔵能力10㌧という設備は九州随一のものであった。(写真は昭和初年)

単純な推測だが、背景の山並みが修正ないものとすると、倉庫の建物を比較する必要があるが、篭町日浦海岸の埋立地にあった「十軒蔵」も考えられる。対岸の新地側から撮影できる写真と思われる。現在の写真は、新地湊公園から写した。ここに製氷工場があったかはわからない。

長崎の古写真考 ながさき浪漫 25頁 雨上がりの町並みです…

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 25頁 雨上がりの町並みです…

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
25頁  雨上がりの町並みです…
〔画像解説〕
袷の着物。春先の雨上がりでしょうか? 影を後ろに引いている。これは昔の町並みからはお昼過ぎの構図です。でも、そうしたらどこかなーと思います。特定はできませんが、大正時代の雨上がりの町並みです。

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の25頁に掲載されている「雨上がりの町並みです…」。
右下に(泉)、泉写真館所蔵写真である。説明文はながさき浪漫会。
長崎大学の古写真データベースでは見当たらないが、目録番号:3237「大波止大黒町を望む」に、明治初期の同じような山並みの写真がある。

「雨上がりの町並みです…」の作品には、特徴的な建物が中央右の大通り沿いに写っている。背景の山並みを立山とすると、現在、元船町に数棟残る倉庫群とも考えられたが、どうも違った。
これと同じ写真が、長崎県営業写真家編纂委員会編「写真時代の夜明け 長崎県写真百年史」平成元年発行194頁に掲載されていた。同解説は次のとおり。写真集には、「八軒倉」を写した別写真が190頁にもあった。

懐かしのから傘風景     長崎・広馬場(新地銅座付近)
大正・昭和の初期は、この付近が市の中央部から南部に向かう交通の要点で、波(浪?)の平・戸町方面への乗合自動車がここから出ていた。写真の日本髪に和服、高下駄、信玄袋、片手にから傘、いかにも時代が偲ばれて懐かしい。右手遠くの倉庫は銅座八軒倉、左側に長崎名物の石畳が雨で光っている。  (大正10年頃)

現在は籠町となる。銅座観光通りの現地へ行くと、江山楼向かいの駐車場前にさるく説明板が設置されていた。「八軒倉」ではなく、正しくは通称「十軒蔵」という。確かに同所一帯に昭和50年代まで、一部の建物が残っていた。今でも「喜楽園」ビル上に屋根の片割れなど確認できる。
さるく説明板の写真は、銅座橋側から写しているので、反対の広馬場側から十軒蔵を同じ場所に置き、今回の現在の写真を写してみた。

道路の状況は同じようになる。背景の山並みは風頭山の稜線であろう。高いビルのため広馬場側からは見通しが効かないので、銅座橋の方へ寄って確認した。
古写真の倉庫群は、銅座観光通りの新地中華街側に建ち並んでいた「十軒蔵」に間違いないだろう。 
長崎県文化振興課 ながさき歴史発見・発信プロジェクトHP「旅する長崎学(たびなが) ふるさと写真館」大正時代にも、この写真は掲載されているが、撮影場所不明となっていた。

ドラゴンプロムナード  長崎市元船町

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ドラゴンプロムナード  長崎市元船町

今頃、紹介するのもなんだが、いやだね、こんなの。長崎港の景観を壊し、間違った建築が歩いた。巨大なオレンジの球はただ飾り物。
私はある目的があって、きのう訪ねた。それは後の記事とする。

プロムナードの詳しくは、次ブログなど参照。長崎新聞記事も同から(掲載年月日不明)。概要は長崎県(長崎港湾漁港事務所)HPから。
ながさきのへそ (長崎見聞録)  港にそぐわぬドラゴンプロムナード
http://nagaheso.blog21.fc2.com/blog-entry-20.html

長崎新聞社の記事を全文引用——-
『長崎のプロムナード利用低迷 使い勝手悪く打開策見えず』
龍踊りをモチーフにしたデザインで、オレンジ色の球体が目立つ「ドラゴンプロムナード」

長崎県が管理する長崎市元船町の「みなとのみえるプロムナード(愛称ドラゴンプロムナード)」が、利用低迷の打開策が見つからず、老朽化した設備補修もままならない状況が続いている。指定管理者制度導入も検討するが、利用料を徴収できる活用方法がないことがやはりネックとなり、担当課は頭を抱えている。
ドラゴンプロムナードは1998年4月に供用開始。倉庫の屋上部を県民が憩い、集える展望プロムナードとして、約7億円で整備。営利目的以外の活動に無料開放している。延べ床面積は約5千平方メートルで、木製デッキ、オレンジ色の巨大な球体などが特徴。デザインは長崎くんちの「龍踊り」がモチーフという。

県港湾課によると、利用状況が低迷する原因は使い勝手の悪さ。屋根がないため、雨天時は活用できない。人通りが多い都市計画道路浦上川線からは長い階段を上っていくしかなく、昼間でも施設は閑散としている。売りのはずの展望も施設の構造で周囲が見渡せず、老朽化による危険性のため球体部分は現在は立ち入り禁止。まさに“八方ふさがり”の状況だ。
だが「老朽化したまま放置できない。しかし補修するにも費用対効果を考えないといけない」(同課)と、担当部署を超えた利活用検討会を昨年、発足。庁内でアイデアを募り、前例にとらわれない活用方法を探った。四回開いた会議では図書室やビアガーデン、ペットショップ、ストリートミュージシャンの広場など議論百出。民間ノウハウ活用による指定管理者制度導入も視野に入れるが、決定打となる妙案はまだ見つからない。同課は「都市計画道路の整備で、動線ができた。引き続き、検討を続けたい」と出口を探している。

アルカディア きょう長崎港へ入港

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アルカディア きょう長崎港へ入港

ながさき旅ネットによると、きょう以降3月末までの長崎港入港予定クルーズは、次のとおり。

平成24年(2012年) 長崎港入港予定表   (3月末までの分)
船  名  トン数  入港月日  入 港  出 港  船 籍  船客数

アルカディア 82,972 2月23日 12:30 20:00 バーミューダ 2,120
クラブ・ハーモニー 25,558 2月24日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 2月27日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
ダイヤモンド・プリンセス 115,875 3月1日 6:00 18:00 バーミューダ 2,600
クラブ・ハーモニー 25,558 3月2日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
コロンバス 15,067 3月3日 7:00 17:00 バハマ 420
クラブ・ハーモニー 25,558 3月5日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 3月9日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
アザマラ・クエスト 30,277 3月12日 12:00 20:00 マルタ 700
サガ・ルビー 24,492 3月12日 6:00 19:00 英国 664
クイーン・メリー2 151,400 3月20日 8:00 18:00 バーミューダ 3,108
クラブ・ハーモニー 25,558 3月20日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 3月23日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 3月26日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
ダイヤモンド・プリンセス 115,875 3月27日 7:00 18:00 バーミューダ 2,600
シー・プリンセス 77,499 3月28日 7:00 18:00 バーミューダ 1,950
アテナ 16,144 3月28日 11:30 20:00 ポルトガル 652
クリスタル・セレニティ 68,870 3月29日 8:00 17:00 バハマ 1,080

長崎の古写真考 ふるさと長崎 36頁 第027景 金比羅山と烽火山

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長崎の幕末・明治期古写真考 ふるさと長崎 36頁 第027景 金比羅山と烽火山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ふるさと長崎133景
36頁 第027景 金比羅山と烽火山(ホテルから城の古址方向を望む・2000年)
〔作品解説〕
その日は雨だった。ホテルの部屋から見えるのは、中島川の大井手橋方向だけ。これは以前すでに描いている。部屋を出て廊下の北端の非常口のドアを開けるとこの風景が見えた。雨の降り込みを気にしながら描く。背後の山は、左が金比羅山(366m)、右が健山(300m)に続く烽火山(426m)。江戸時代異国船の接近を警戒して、烽火台が設けられていたのだ。山頂から四方八方眺望を楽しんだ記憶がある。その前のこんもりした丘が城の古址。ここは見るとおりこんもりと樹木に覆われ、隠れ家のような面白味はあったが、眺望は利かなかった。
長崎中学の新入生たちは、入学後間もない時期にこの山に連れてこられ、上級生たちにデカンショ節や教師の仇名入り数え歌などを教わったりした。
「一つとせ 人もよく知る長中の動物園(教師を動物に見立てて)の数え歌—
(中略)
五つとせ 威張って歩くは馬の— たまには予習もして来いよ」 などという辛辣な一節もあった。

■ 確認結果

古写真ではない。現代のスケッチ風景。喜多迅鷹氏著「ふるさと長崎133景 きた・としたかスケッチ紀行」長崎新聞社平成17年発行36頁から「第027景 金比羅山と烽火山(ホテルから城の古址方向を望む・2000年)。
中島川の大井手橋が見えるから、伊勢宮近く伊勢町「トレディアーホテル中島」(現在は閉店)からだろう。

非常口を開けて反対の北東側を描いている。地形図のとおり金比羅山(正しくは366.3m)は、長崎バイパスへ続く西山県道谷間のまだ左にあり、このスケッチには表れない。描かれているのは、城の古址から後ろの山、健山(300m)と烽火山(426m)だろう。
長崎新聞社は地元だから、きちんと監修してほしかった。現在の写真は、ビルで山並みが見えない。新大工通り入口と長崎市民会館付近からの確認写真を載せる。

星取山「金星太陽面通過観測の地」の遺構がないか

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星取山「金星太陽面通過観測の地」の遺構がないか

この項は、「長崎の古写真考」において、星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える 2007年7月の記事で、一部にすでにふれていた。(写真1、2)
https://misakimichi.com/archives/141
詳しくは、本会の研究レポート第3集平成19年4月発行に、関係資料とも154〜167頁に収録しているので参照。次の文は、ブログ記事では省略していた。

…フランス隊の金比羅山における観測の双極となる、アメリカ隊の星取山観測地点の重要な「囲い石」などが、かつてあったのに、時代の混乱等のためなど無造作に壊されてきた。
今回の説明板は「さるく博」期間中の仮設と思われるが、この際、見学者が納得できるような恒久的なものを造るため、NTTがさらに市に協力し、研究協力・敷地提供・木立伐採・維持管理など、特別な配慮をしていただけないかと感じる。

アメリカ隊は金星観測のほか、天文観測により長崎と東京との経度差観測を行った。電測場所は特定できないが、松ヶ枝にあった当時のベルビューホテル(現在は長崎全日空ホテルグラバーヒル、前東急ホテル)内であることは確かである。
1997年、長崎県測量設計業協会が創立20周年に当たり設置した「我が国初の経緯度原点確定の地」の碑は、諸般の事情が重なりあって金比羅山に設置された。今となって碑を移設することは、経費がかかるので、なんともできないと聞いている。
世界の金星観測史上における長崎星取山の史跡の重要さも、もっと全体が理解すべきではないだろうか。

(2)平成19年2月の調査報告
最近、川上氏と会ったとき、市博物館は、星取山の観測地点は無線中継所内の「藤棚のあるところ」と以前からしているとはじめて聞いた。これまでの文章は、昨年行ったきりで書いていたから、再確認と写真撮影があり、2月24日星取山へ出かけた。
敷地はフェンスに囲まれ、穴にレンズを差し込んで撮った写真が左である。芝の中央に何か碑があった。これが観測碑だろうか。そうするとここは中継所入口のすぐ右側で、フェンスの外囲いを代え開放しても支障がない場所と思われる。
ついでに辺りを見てまわった。この場所の下手の林内に古い石垣が一部残っていて、古写真の石垣とも似ている。雨水が流れるところには、廃材とともに古い煉瓦片が2個あった。
以上は、まだはっきり確認していない感想だった。そういった場所ということを紹介してみた。
写真は「長崎無線中継所内の藤棚がある場所 何か碑が見える」と、「写真大きな木の後ろに古い石垣が一部残っている」の2枚を掲載した。(写真3、4)

2012年の今年2月になって、宮さんが星取墓地公園内の陸軍省要塞標の標石を訪ねた。ついでに星取山無線中継所まで伐採帯を歩き、何かの土台跡だろうと写真を写してきた。(写真5)
これは丸い石垣のように見えるので、以前の調査でそんなものはなかったはずと不思議に思い、2月11日川上氏と星取山の同地を現地再確認した。伐採した木が枯れこづみ方によって、写真写りがそう見えただけのようである。石垣はなかった。
研究レポートで記しているが、星取山一帯は戦時中、高射砲陣地があり、昭和30年代はクレー射撃場があったと、地元自治会長から聞いている。伐採帯の左右や星取墓地公園付近の林間を探すと、いたるところに石垣、水槽タンク、茶碗片などその建物跡はまだ残っている。(写真6、7)

関係資料とした中、「金星太陽面経過観測記念碑二十周年記念誌」1994年12月同記念会(神奈川県厚木市)発行 武石信之氏稿「長崎星取山のアメリカ隊観測地跡」21〜23頁には、次のような研究もある。

現在、大平山(星取山)山頂には、「長崎統制無線中継所」があってマイクロ波中継のアンテナ用鉄塔2基を備えた面積約6000㎡の施設がある(昭和25年に開設、そこの地番は長崎市上戸町455、1/2500『長崎市基本図』によって、数値(2)の地点を探すと、上記「無線中継所」の構内ではなくて、同所正門から南へ31メートルほどの傾斜地になる。現在その地点付近は、草木が繁茂していて、観測器械の土台石などを見つけることは、容易ではない。(地点図は最後)
この地点は、図1に見る、周囲の状況とは一致しない点もあるが、日面経過を、終わりまで観測するのに必要な、東西方向の視界は良好である。戦時中、この付近に砲台が設けられたというので、それとの関連も調査する必要がある。…

現地写真は重複するが、本年2月11日の川上氏との星取山現地再調査で、特に確認したのは、「無線中継所」構内に立ち入れないので、正門南の方の傾斜地である。
現在となって、もはや観測器械の土台石など見つかろうはずがない。私たちが今回確認したのは、傾斜地で土管、防空壕などだった。(写真8、9)
中継所のフェンス内では、(良い方へ解釈して)古写真にある観測望遠鏡を据えたか?脚元のコンクリート塊らしいのは残っていた。(写真10)
写真2の「藤棚のあるところ」の一角は、正門の中の右手の方である。碑は何なのだろうか。このフェンス外の下あたりに低い石垣が少し残っている。(写真11、12)

(追 記  2012年2月22日)
藤棚のところにあった碑は、ほしなべさんからコメントあり、次の記事を参照。1990年星取在勤者一同が建立した「惜別の碑」で、金星観測とは関係ない碑とわかった。ほしなべさんが撮影していた実物写真を末尾に追加した。  http://blogs.yahoo.co.jp/hoshinabedon/36086417.html

星取墓地公園登り口の不思議な石積み  長崎市星取2丁目

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星取墓地公園登り口の不思議な石積み  長崎市星取2丁目

星取山のNTT長崎統制無線中継所の南東側尾根にある大正寺管理「星取墓地公園」。公園内の陸軍省「長崎要塞第二地帯標」の標石が、執念で掘った高橋氏によって「第二十七号」と番号確認のうえ、どう埋め戻されているか、宮さんの記事もあり先日2日11日、確認に行った。
墓地公園の要塞標は、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/536

この1枚目写真の左側、九電送電鉄塔が立つ場所は、墓地から一段低く草の広場となっている。墓地公園への登り口道路となっている。鉄塔の根元にある石積みがある。以前見かけたときは、旧戸町村との藩境石塚かとも感じたが、そんなに古い石積みではない。
結構大きいので、今回よく写してきた。コンクリートにより固めた所がある。何か記念碑が立っていて、記念碑が倒れ横にした台部分とも思える。

上には平たい大石を乗せてかぶせている。表面に線刻がある。この字をどう読めるだろうか。「山下」?とかは、かろうじて読める。記念碑か顕彰碑、特別な墓石とも思える。
さて、この石積みの正体は? 地元か地主、寺あたりに聞いたら、すぐわかるだろうが、手間がいる。謎は多い方が楽しい。どなたか知らないだろうか。

琴ノ尾岳の山岳史跡めぐり  2012年2月

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琴ノ尾岳の山岳史跡めぐり  2012年2月

2012年2月19日(日)曇りときどき小雪。琴ノ尾岳(451.4m)の山岳史跡めぐり。参加6人。みさき道歩会の例会。西海市などに続く山岳史跡めぐり。
JR大草駅9:40発ー伊木力−佐瀬烽火台跡(12:10着 昼食 12:40発)ー一ノ鳥居ー琴ノ尾岳烽火台跡ー琴ノ尾岳14:30着ー扇塚峠ー前田川内洞穴ー毘沙門天神社ー舟津橋バス停16:42着(徒歩距離 約12km)

帰りの交通の便を考え、予定の逆コースとした。Audi展示会があっていたJR長崎駅9:12発で大草駅まで行き、9:40歩き出した。伊木力小学校跡など見ながら、大村湾沿いに県道207号を西へ五十石公民館まで行く。
山腹の佐瀬郷集落の上に、琴ノ尾岳北側、もう1つの「烽火台跡」がある。こちらが長崎県指定史跡。大草から歩いて訪ねると遠かった。12時過ぎ昼食。

植林地境の尾根を約30分まっすぐつき上げ、近道して上の車道と出合う。車道は左へ琴ノ尾公民館の三叉路まで行く。作業所下へ下る農道があり、急坂を少し下ると、往時の伊木力参詣道「一ノ鳥居」がある。登山者は存在をほとんど知らない鳥居。
三叉路から山頂まで2km、車道を登る。山頂近く駐車場の所から「琴ノ尾岳烽火台跡」を見学。琴ノ尾岳山頂には14:30着いた。展望台から長崎、大村方面が望める。

岡岳ピークを通る急斜面登山道を扇塚峠まで下り、長与舟津橋の方へ車道を下山する。途中、「右なべいし(鍋石様)みち」の標石が崖にあり注意。
「前田川内洞穴」(洞穴は毘沙門天側の車道から尾根を近道して谷へ下れる)と「毘沙門天神社」を見学、舟津橋バス停に16:42着いた。バスがすぐ来た。
各史跡は本ブログ次の記事を参照。

佐瀬烽火台跡  https://misakimichi.com/archives/306
一ノ鳥居      https://misakimichi.com/archives/305
前田川内洞穴  https://misakimichi.com/archives/2859
毘沙門天神社  https://misakimichi.com/archives/2858

宮さんの参加記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29292274.html

崎戸島特設見張所聴音所と海軍用地などの標石

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崎戸島特設見張所聴音所と海軍用地などの標石

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の、標石探しと研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料。
2012年1〜2月、西海市崎戸島の特設見張所聴音所と海軍用地などの標石を探した記録。

高橋輝吉氏稿  崎戸島特設見張所聴音所と海軍用地などの標石

西海市崎戸町に旧海軍の標石があると、長崎の知人(注 onnanomiyako2007 さんの情報により私が高橋氏へ知らせた)からはがきが届いた。前々より一度は行ってみたいと思っていた島だった。いろいろ調べているうちに、崎戸島の西端に、旧日本海軍の「特設見張所聴音所」があるとのこと。ホテル咲都のその先の先に「特設見張所聴音所」あり、大きな建物でした。

当時は○秘地帯で、声にもならなかったと思う。例の如く調べて廻った。有りましたぞ。「海軍用地」などの標石と「三角点」(コンクリート)。「特設見張所聴音所」の建物は大きく2階建て。窓が大きいのも気になる。雨天も看視したのかなー。

左横に展望台あり。見るは前方海上。廻り窓が多い。大正13年3月潜水艦事故。45名の顔が思い浮かび、叫んでみたかった。
見つけた標石は、「海軍用地」(号なしの1本)、「第三十二号」、「第三十四号」、「三角点」(コンクリート)の4本。この高い山が「耳」の役目をしたのかなー。

(崎戸島特設見張所聴音所の現地説明板)

この施設は、旧日本海軍佐世保鎮守府の特設見張所の中の聴音所として昭和13年(1938年)に建設され、終戦までの7年間、海底のスクリュー音等をキャッチするための施設でした。
二度とあのような悲惨な戦争の起こることのないよう、後世に残すため保存しています。
崎 戸 町