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長崎名勝図絵の風景  2  晧 台 寺

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長崎名勝図絵の風景  2  晧 台 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
晧台寺は次の記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/1677

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

88 海雲山晧台寺  (文献叢書 36〜41頁  所在地 長崎市寺町) 

大窪山の麓、高野平郷にある。元は岩原山の下にあって…寛永18年(1641)には特に褒章を賜わり、上使井上筑後守源政清が派遣され、山地数百畝と緡銭一萬を喜捨して、岩原から今の地に移建された。…翌19年一庭は…勅定によって了外廣禅師と号し、更に勅して海雲山普昭晧台禅寺の号を賜わった。曹洞派の禅宗である。…切支丹も年々衰微の旨、江戸幕府に聞こえ、正保5年(2月改元慶安元年 1648)御朱印を賜わり、永く免租となった。境内11,677坪。…

長崎県教育庁学芸文化課HP「長崎県の文化財」 トピックス情報
http://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/
NEW 長崎晧台寺の大仏(毘盧舎那仏坐像及び基台)が県指定有形文化財となりました!
県指定有形文化財(彫刻)
○長崎晧台寺の大仏(長崎市)

長崎晧台寺の大仏(毘盧舎那仏坐像及び基台)
基台を含めると6.7メートルを超える壮大な銅造毘盧舎那仏坐像
有形文化財(県指定) 
よみがな ながさきこうたいじのだいぶつ(びるしゃなぶつざぞうおよびきだい)
指定年月日 2012年02月24日
所 在 地 長崎市寺町1番1号
所 有 者 宗教法人 晧臺寺
年   代 江戸時代
最寄り駅 電停「思案橋」から徒歩5分
紹 介 HP http://kotaiji.net/

「長崎晧台寺の大仏」は、晧臺寺の大仏殿に安置された銅造毘盧舎那仏坐像である。宝冠をつけた毘盧舎那仏坐像は、時代が降ることもあって、儀軌(ぎき)の制約にとらわれない中国的な像容と理解される。本大仏は、幸いにも第二次世界大戦末期に実施された銅の供出を免れており、長崎の歴史をいくつもの角度から語る起点を提供している遺産となっている。
中国明清文化のうち、仏教文化の移入と深まりを軸に、キリシタン政策においても、黄檗禅に対する曹洞禅の展開においても、あるいは歴史的な鋳成技術においても、本大仏が提示する課題は広がりをみせていることから、長崎の歴史を語る貴重な資料といえる。 

長崎名勝図絵の風景  1  はじめに

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長崎名勝図絵の風景  1  はじめに

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。

平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。
執筆にあたってでは、「150年(当時)前の長崎の観光案内書として、現在の長崎と対照して読んで頂き、併せて郷土史入門書として親しんで頂くのが目的であります。そういう面で、少しでも役に立つことができれば…」と念願されている。(以上、発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、この意味で主な図絵について現今の写真と対比させ、見てもらおうという試み。伊能忠敬研究会入江さんのアイデァだった。
デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

長崎港内唐船入津 九 荷役之図  (文献叢書 118〜119頁)

長崎の古写真考 目録番号:5868 茂木への道(5) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5868 茂木への道(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5868 茂木への道(5)

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

目録番号:2264  茂木街道(3)
〔画像解説〕
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、昭和9(1934)年には新県道(現国道324号線)が開通した。

目録番号:4718 峠の人力車(2)

■ 確認結果

きのう、2012年3月3日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「茂木街道の転石付近 開削後まもない光景」。
解説は「上の写真は英海軍の見習い将校ヘンリー・スチュアートが1890(明治23)年、開削されたばかりの茂木街道を通って茂木へ旅行した際に撮影したものです。…場所は転石付近で、茂木方向を写しています。…
1894年ごろに撮影された下の写真は、絵の具で彩色された幻灯機用のガラス板です。同じ写真が横浜の写真家玉村康三郎のアルバムに収蔵されているため、製作者は玉村と思われます。… 写真に写る街道は、まだ新しい道の雰囲気を伝えています。中央の人力車は写真右下方向に曲がって山道をくだり、平口橋を経て茂木に至ります」とある。

長崎大学のデータベースでは、上の写真は目録番号:5868「茂木への道(5)」、下の写真は目録番号:1365「茂木街道(2)」。玉村アルバムの同じ写真は、目録番号:1365「茂木街道(2)」の作品である。
写真は田上から下った「柳山辺り」は、旧街道の道なので解説誤り。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1879
いずれも、明治20年(1887)6月開通した「茂木新道」すなわち「明治旧県道」の、転石から平口橋の谷間へくだる旧カーブ付近を、撮影しているのは間違いない。

上の写真は、ホテル古都あたりから撮影している。少し下って谷間が広け、カメラの向きを変えて撮影したのが、下の写真であろう。
今回、古写真考とするのは下の写真には、まったく同じような場所から撮影した参考写真がある。年代は新しいと思われるが、目録番号:4718「峠の人力車(2)」であるから紹介する。
転石から「明治旧県道」の旧カーブを河平川の方へ下って行き、高架橋(唐八景トンネルの国道324号)の下にあるのが、「平口橋」である。

長崎の古写真考 目録番号:3799 茂木街道(4) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3799 茂木街道(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3799 茂木街道(4)
〔画像解説〕   超高精細画像
茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠にある場所が田上であり、途中の休息をとるために茶屋ができた。この写真は、明治20年(1887)頃の田上の茶屋を撮影した写真である。明治時代には、茂木は長崎から小浜、熊本、鹿児島方面へ人や物資を運ぶ重要な港であった。また、居留外国人の保養地として知られていた。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。特に、田上の切り通しの開削工事が困難であった。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。田上峠は長崎から茂木に到る中継点に当たり、峠に茶屋ができて賑わった。

目録番号: 337 茂木街道田上(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
上記と同じ。省略。

目録番号: 366 茂木街道田上(2)   ((1)と同じ写真。掲載略)
〔画像解説〕
長崎から茂木へ行く途中の峠。長崎から茂木への要路で田上峠は茂木口といわれていた。峠の茶屋と人力車が時代を感じさせる。整理番号8-11と同一ネガからの焼き付けと思われる。

■ 確認結果

先週、2012年2月25日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「田上の茶屋 木おけから湯気たつ」。
解説は「…この場所は、背後の田上の切り通しから下りてきた茶店です。写真には「長崎の茂木街道」と英語の説明書きがあります。先々週紹介した田上の交差点から茂木に少し下り、若菜川の源流となる小川と交わるあたりです。…下の写真は同じ場所を田上側から撮影しています。…」とある。

まぎらわしい説明だろう。「田上の交差点から茂木に少し下り、若菜川の源流となる小川と交わるあたり」とは、田上の交差点から200mほど下った橋のある「転石」角あたりを考える。やや遠過ぎる。上の写真の目録番号:3799{茂木街道(4)」は、茂木側から田上側を、下の写真の目録番号: 337「茂木街道田上(1)」は、田上側から茂木側を撮影している。
きょうの掲載記事「茂木街道の転石付近」も確認を要することがあり(次記事とする)、きょう一緒に現地で調査してきた。現在の写真はそれぞれのとおり。

河平のご年配長橋さんが、昔の田上の茶屋のことを良く覚えておられた。上の写真で言うと、左は「石津酒店」、右は「木村茶屋」という茶屋だろう。2月11日付の判明した「梶原茶屋」は、現在の「長崎バス田上発着場」など挟んで、その上の方にあったという話である。
戦後、昭和24〜25年頃までこの建物は残っていた。転石角には寿司・竹の子弁当の店があった。河平川の平口橋先には大楠の根元に「楠茶屋」もあったらしい。

「石津酒店」は、現在も同じ場所に酒店ビルがある。主の話でも位置的に間違いないだろうと確かめた。したがって、上の写真の撮影場所は、現在の茂木から上がってきた長崎バス「田上」バス停あたりから。山手からの小川と「出合う」と言うべき場所だろう。
田上のこの谷の川は、正しくは「河平川」の源流。田手原町から流れるのが「若菜川」本流である。長崎大学及び長崎市役所茂木支所で、茶屋名とも撮影場所の再検証をお願いしたい。

長崎の西空の夕日  12− 2

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長崎の西空の夕日  12− 2

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1      2012年 2月 9日の16時37分頃
写真  2〜 5  2012年 2月11日の17時57分頃
写真  6〜 7  2012年 2月12日の18時01分頃
写真  8      2012年 2月27日の18時17分頃
写真  9〜12  2012年 2月29日の17時54分頃

宮崎川の呼称表記と石橋  「モウタレ」は「馬渡」?

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宮崎川の呼称表記と石橋  「モウタレ」は「馬渡」?

長崎市宮崎町を流れる「宮崎川」。上流に宮崎ダムができ、川原海水浴場の北側で橘湾へそそぐ。三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊、「第一章 交通・運輸 第一節 交通」458頁の記述は、次のとおり。
二 陸上の交通
…昔の街道を『橘湾の漁労習俗』(五八・三)には次のように書いている。
(一)川原道
年崎のホリ首の丘を通り、川原本郷にでる。えべす坂を越え、モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り、宮崎に入る約三・五キロの道をいう。
(以下、(ニ)蚊焼道から(六)深堀道は、省略)

引用資料「橘湾の漁労習俗」は、香焼図書館の蔵書としてある。昭和58年3月長崎県教育委員会発行の「長崎県文化財調査報告書第63集」である。第1章民俗環境の「交通」の項で道路が出てくる。地元の故老を話者とし集め、聞きとり調査を中心に、観察と文書調査等をあわせて行った。
「為石・川原・宮崎」地域の調査結果は、三和町郷土誌458頁「陸上の交通」にあるとおり、それ以上の街道の道の記述はない。
この項は、次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/23250590.htm

(一)川原道に記された「モウタレ川」は、「宮崎川」のことである。地元故老の話として出てきた、おもしろい呼称の川名ではないか。
県立長崎図書館所蔵、庶務課史誌挂事務簿「西彼杵郡村誌」明治18年5月脱稿の、「河原村」川の項は次のとおり。「宮崎川」ですでに記されている。
宮 崎 川  三等深処二尺浅処五寸広処六間狭処一間清水ニシテ緩流タリ舟筏不通水源ハ村ノ西方高浜村界ナル大岳ノ諸渓潤ヨリ出デ東流シテ字宮崎ニ至リ海ニ入ル長三十一丁四十間

「モウタレ」を「牛」のよだれか小便ぐらいにしか思っていなかったところ、最近になって貴重な史料を見つけた。伊能忠敬研究会の長崎入江研究室HP「伊能忠敬の長崎市測量」。
http://www6.cncm.ne.jp/~fab4wings/0911_new.htm
「みさき道」ルートも現在、解明依頼中。完成次第、本ブログで詳細地図を報告したい。 

伊能忠敬『測量日記』  (現代語訳)
文化10年(1813)  測量地  現在の町名 野母崎樺島町・為石町
九月十一日
晴れ曇り。…我等(ワレ。忠敬).門谷.尾形.保木.佐助は六っ時後(午前6時過ぎ)に脇御崎村即ち高来郡佐嘉領を出立した。
同所の字トイカケ浜のト印より初めて、左山の方に沿海を測る。仏崎。スシ鼻。字木場(長崎市脇岬町)。御料所高木支配の川原村字木場(長崎市宮崎町)。岡ノ尾鼻(大瀬鼻)。女池(大池)が海辺にある。東西に五町(545.45m)ばかり、南北に三町(327.27m)ばかり。池の御前(池の御前神社。阿池姫伝説がある)という小社がある。この池の主を祭るという。又、男池がある。なお大きな池であるという。字宮崎。又は池ノ浜という。川原本村。馬渡川(宮崎川)は小流。恵美須崎(蛭子崎)。佐嘉領高来郡為石村。為石川(大川)は小さい砂の川である。止宿の測所下に為印で打ち止める。

沿海一里三十五町五十間(7,836.36m)。八っ半時(午後3時)に為石村(長崎市為石町)に着く。
止宿は本陣が利右衛門宅、脇宿が定治郎宅。茂木村の庄屋頭で年寄の又平治が(挨拶に)来る。この夜は晴天で測る。

伊能忠敬『測量日記』には、「川原本村。馬渡川(宮崎川)は小流。恵美須崎(蛭子崎)」とある。この「馬渡川(宮崎川)」が、訛って「モウタレ川」と地元で呼ばれたのではないだろうか。「馬」が「牛」に変わった? 地図は同HPから。
九月四日の日記では、高島・中の島・端島(軍艦島)などは、御料所と佐嘉領の所領入り乱れ、争論があったことがわかる。

あと1つは、地元故老の「モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り、宮崎に入った」という、石橋があったかどうかの話。年代がはっきりしない。現地は現在の県道34号「宮崎橋」の少し下流を、宮崎川へ降りて渡ったようである。
「三間ま(?)申」は意味がわからない。長さとすると約5.4mの石橋。三和町郷土誌の編さん委員だった地元の故高崎市郎先生に聞いても、石橋はご存知なかった。両岸から石垣を築き、間が木橋だったのではないかとは話していた。

現在の川底でも、飛び石を削ったような岩面とか、せんたく石と言われる石は残っている。この場所を渡っていたという地元の方の話は聞いており、地蔵堂が川岸に残っている。
三和町今昔(4)「宮崎橋とせんたく石のこと」の、記事と写真を参照。
https://misakimichi.com/archives/2139

伊能忠敬研究会の入江様のアドバイスは、次のとおり。
「モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り」の部分についてですが、「モウタレ川三間、ま申の石橋を渡り」と読み、「ま申」という地名や字にある石橋とは考えられませんか。「真申(まさる)」という地名は、佐世保市中心部の西、相浦の北にもあります。
測量日記には「馬渡川」と書いていますが、忠敬は聞き書きで書いていることが多く、日記と藩の書き上げのでは読みが同じでも文字が違うことはままあります。ですので、地元の案内人(庄屋が多い)か付廻役が「モータレ川」と言ったのを「馬渡川」と記入したのではないでしょうか。

寺町墓地の「従是南大音寺境内」標石  長崎市高平町

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寺町墓地の「従是南大音寺境内」標石  長崎市高平町

2012年2月16日に宮さんが見つけた標石。私も以前見てたはずだが、当時はありふれた標石としたのだろう。鍛冶屋町側の寺町通りから大音寺と晧台寺の間の「幣振坂」に入り、寺町墓地(一般的な呼称)の中、「楠本イネ顕彰碑」を過ぎ、急な石段をかなり登る。
風頭町の住宅近くまで来ると、道脇が広場となり休石が2つ置いてある。街路灯との間に苔むした古い石柱が残る。町界町名で示すと、どうも「高平町24街区」あたり。

「従是南大音寺境内」と刻む。横23cm、縦12cm、高さ52cmほど。寺町墓地内の大音寺境内境界石である。別の方へ下り、寺を通って山門まで出たが、ほかでは見あたらなかった。
古い記事だが次は、長崎新聞コラム「水や空」から。長崎の墓地散歩はかなり運動となる。

寺町墓地散歩  (2006年1月30日付)

寒がゆるんだある日の昼下がり、長崎市の繁華街に近い寺町界隈(かいわい)を歩いている途中、ふと「幣振り坂」を上る気になった。長年長崎に暮らし存在は知りながら一度も歩いたことがなかったからだ▲延命寺と長照寺の間(注・こちらも別の「幣振坂」である)にある急な坂道。その昔、郷民がこの坂から石を下ろそうとしたが、あまりの重さで動かず、幣を振り音頭を取ってようやく下ろすことができたとの言い伝えからその名が付いた▲ついでに白状すれば、あまりに急で長い坂なので屁(へ)をふりふり上ったからつけられた名前と随分長く思っていた。市内にはほかにもこの名の坂があるという。上っていくと急斜面に墓地が広がっている▲何げなく歩いていると「楠本イネの墓」の案内板があった。ご存じシーボルトの娘で西洋医学教育を受けた日本の女医の草分け。手を合わせると波乱に満ちた生涯を思い起こし、身近に感じられた▲また幕末の砲術家で知られる高島秋帆ら高島家墓地と遭遇。荒木宗太郎の墓もあった。朱印船貿易商荒木の妻はアンナン(ベトナム)国王親せきの娘で、当時市民からアニオーさんと呼ばれ親しまれていた▲散歩を続けると歴代唐通事や豪商の墓も見つけ、図らずも歴史上の人物と出会った気になった。上り詰めると風頭町。振り返れば長崎港が眼下にあった。下りる際石段を数えたら400段を超えた。きのうからランタンフェスティバルが始まった。歩くと長崎の街は奥が深い。(貞)

宮さんの記事は次を参照。風頭山頂広場の自然石標石「晧台寺境」に続き、お手柄だった。
http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/archive/2012/02/16

鹿児島県の素朴な地蔵・田の神・青面金剛

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鹿児島県の素朴な地蔵・田の神・青面金剛 

宮崎市在住、HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」氏の、足跡 -その530- 末吉町〜松山町〜東串良町〜鹿屋市〜都城市(2012.02.19)から、鹿児島県の素朴な神々などの一部を紹介する。書庫は該当がないため、一応「北鹿児島」に整理。
http://5.travel-way.net/~niemon/

「そろそろ田の神の季節がやってきたようです。鹿児島をぶらついていたら、結構、田の神などに出会いました」
「今では田の神や仁王像、青面金剛等の石造物を追いかけながら、ついでに石造アーチ橋を探し回っています。見つからない時の落胆を和らげるためでもあります」とあった。

写 真  1〜 2   2.檍神社  2012.02.19 曽於市末吉町南之郷 檍(あおき)

檍神社と小戸の池  本殿裏の安産子育地蔵
「檍神社はもと村社であった。祭神は伊弉諾命、泥土煮命、大戸道命、面足命、伊弉冊命、沙土煮命、大戸辺命、惶根命である。
創建は、上代よりということである。三国名勝図会によると、当地は伊弉諾尊が檍原の中津瀬で祓除をした名跡に依て勧請したとある。
境内に『小戸池』がある。この辺りも昔は小戸といったと図会にある。小戸池は今も神社の近くにあり、妊婦が、この水を飲むと安産だといい伝える。
妊婦の家では必ず二人連れで瓶をもって小戸池の水を汲みに来る。その際瓶の口を流れおちる水にあてばいで、瓶の口を逆に下流に向けながら汲むのである。お産が流れるように軽いようにとの願いである。帰りは知人にあっても、一人は休まず瓶を持って帰る。もし立どまると産が重いのである。
家へ帰ったら、この水を井戸に入れて、朝夕小戸池の神水を飲むことにするのである。」

写 真  3      4.川東中園の田の神  2012.02.19 肝属郡東串良町川東

お寺の前の角地に田の神。女性のようにも見えます。
明治四十二年八月十五日 東串良村川東中園郷中

写 真  4      24.上野町の青面金剛  2004.08.16 鹿屋市上野町

写 真  5 №6,245 14.大渡橋(仮称)  2012.02.11 指宿市十二町大渡

2012年2月11日、国道269号線下で、同氏が発見した大渡橋(仮称)
橋幅:12.7m  径間:2.4m  拱矢:1.2m  基礎5段H:1.7m

長崎の古写真考 ふるさと長崎 65頁 第056景 金比羅山遠望

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長崎の幕末・明治期古写真考 ふるさと長崎 65頁 第056景 金比羅山遠望

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ふるさと長崎133景
65頁  第056景 金比羅山遠望 (坂本町・2000年)
〔作品解説〕
道一つを隔てた下界の方から浦上天主堂を描いた帰り道、長崎大学医学部沿いの道を辿り、大学付属病院近くで左手を見ると、いかにも長崎らしいこんな風景が目に入った。小学校6年生になった頃、母親に連れられて目の精密検査に病院に来たことが思い出された。詳しい検査をされた覚えがあるが、近視はそのままになった。前述のとおりこの辺りは馴染みが薄いが、それでも親友と一緒に、この近くにあった彼の親戚の家に遊びに行ったこともある。そこで背革クロス製の美しい大型の本を見た。中は『波』(山本有三作)という小説。世の中にこんな面白い小説があったのかと驚きながら、早速借りて帰ったのを覚えている。その親友の母親は、あの原爆投下の日、この親戚の家に来ていて亡くなったという。それ以後、いくら彼を誘っても彼は長崎へはもう行きたくないと答えるばかりである。

■ 確認結果

古写真ではない。現代のスケッチ風景。喜多迅鷹氏著「ふるさと長崎133景 きた・としたかスケッチ紀行」長崎新聞社平成17年発行65頁から「第056景 金比羅山遠望」(坂本町・2000年)。筆者のスケッチ場所は、大学病院前から医学部通りへバス通りを曲がったすぐの小橋脇の石段から、東側の眺めを描いている。

このスケッチ場所を流れる川には、被爆遺構と思われる小さな煉瓦造アーチ式石橋が上下に2つ残り、私には行き慣れた場所だった。ただ、スケッチ背後の高い建物や、山がどこかまでは良く見たことがなかった。
坂本1丁目8街区角の橋のところから、風景を確認した。背後の高い建物は、長崎市立江平中学校、山は金比羅山(標高366.3m)山頂に間違いなかった。