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長崎の古写真考 ながさき浪漫 102頁 白魚とりの浦上川

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 102頁 白魚とりの浦上川

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
102頁  白魚とりの浦上川
〔画像解説〕
昔、初夏の風物詩は? そうです。浦上川の白魚とりでした。海から遡上する白魚を一網打尽?とはいきません。なんしろ網は小さい。でも、これで一合枡に一杯ぐらいはあるかもね?
大正の中期・浦上川?

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の102頁に掲載されている「白魚とりの浦上川」。長崎文献社所蔵写真と思われる。長崎大学の古写真データベースでは見当たらない。
説明文は「ながさき浪漫会」。上記の画像解説に別に問題はない。

ただ、「大正の中期・浦上川?」とある。私の関心は白魚とりではなく、対岸高台に写った白い建物と背景の岩屋山にある。この建物は、被爆直後の2枚目写真(長崎原爆資料館所蔵)どおり、開校当時の「城山尋常小学校」(現在は長崎市立城山小学校)の校舎であろう。

長崎市立城山小学校HPによる「学校の紹介」は、次のとおり。大正12年頃、開校当時の学校を姿を写した貴重な写真と言える。背景の岩屋山の位置から、浦上川と下の川が合流する現川口町の川岸から、撮影したと思われる。
確認写真は、岩屋山山頂からと川口町高架道上から。

城山小学校の紹介   2011年4月

本校は, 長崎市のやや北西部に位置する城山町の緑豊かな丘の上にあり, 全校児童488名,19学級の学校です。大正12年, 九州初のコンクリート3階建て校舎を持つ城山尋常小学校としてスタートし, 創立86年目を迎えます。

当時の城山尋常小学校は緑に囲まれた白亜の校舎で, モダンな学校として有名でした。
昭和20年8月9日長崎市に落とされた原子爆弾により, 爆心地からわずか500mの距離にあった本校は, 瞬時に美しい校舎や林間, 1400余名の児童,31名の教職員, 105名の学徒報国隊員等を亡くすという悲しい歴史も背負っています。…

長崎の古写真考 ながさき浪漫 97頁 トンネルは未知の世界ののぞき窓

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 97頁 トンネルは未知の世界ののぞき窓

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
97頁  トンネルは未知の世界ののぞき窓
〔画像解説〕
我が国の写真術の開祖、上野彦馬翁の名が入ったトンネルの写真です。となれば、さあー、どこかしら? 道路トンネルは、彼の存命の時は、まだ、ほとんど開通していません。長崎本線のどこかのトンネルやろね?

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の97頁に掲載されている「トンネルは未知の世界ののぞき窓」。長崎文献社所蔵写真と思われる。長崎大学の古写真データベースでは見当たらない。
説明文は「ながさき浪漫会」。上記の画像解説に別に問題はない。

ただ、このトンネルを「長崎本線のどこかのトンネルやろね?」としている。わかって謎かけだったら失礼となるが、長崎近くで考えられるのは、明治31年(1898)に開通した、長与町本川内郷のJRトンネル「松ノ峠(「松の頭」の表記もあり。まつのとう)隧道」(延長1094m)である。
煉瓦造りの重厚な入口(ポータル)を持つ。開通した当時、日本国内の鉄道トンネルでは5番目の長さ。上野彦馬は、明治37年(1904)長崎で死去。享年67。存命中だった。

現在の本川内側入口2枚目の写真は、ブログ「鉄りすと」ロケハン中(撮り鉄・本川内編(9月10日・その1))2008年から。銘板や上部がはっきり確認できないが、間違いないだろう。ほかは私の写真。伊木力側入口も見せる。ウィキぺディア・フリー百科事典による説明は、次のとおり。

長崎本線(ながさきほんせん)は、佐賀県鳥栖市の鳥栖駅から長崎県長崎市の長崎駅までを結ぶ九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(幹線)である。ほかに喜々津駅 – 長与駅 – 浦上駅間の別線を持つ。長崎線とも呼ばれる。…
長崎本線は、九州鉄道の手により現在の佐世保線・大村線のルートで建設された。鳥栖 – 早岐間と長与 – 長崎間が開業した1897年より全通するまでの約1年間は、大村湾に連絡船を開設して暫定的な連絡機関としていた。…
1898年(明治31年)11月27日 【延伸開業】*大村 – 諫早 – 長与(鳥栖 – 早岐 – 長崎間が開通) 【駅新設】諫早、喜々津、大草 …

長崎の古写真考 ながさき浪漫 84頁 新旧市街をつないだ新大橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 84頁 新旧市街をつないだ新大橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
84頁  新旧市街をつないだ新大橋
〔画像解説〕
明治時代の長崎港は埋め立てと浚渫(しゅんせつ)の歴史でした。新しい橋が生まれては、埋め立てで、その役割を終えていきました。
明治2年に架けられ同22年解体の新大橋(築町〜新地町の間)

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の84頁に掲載されている「新旧市街をつないだ新大橋」。長崎文献社所蔵写真と思われる。長崎大学の古写真データベースでは見当たらない。
説明文は「ながさき浪漫会」。上記の画像解説に別に問題はない。

ただ、「新大橋」の上流、写真右側にアーチ式石橋が写っている。新地蔵所の「正門橋」である。貴重な写真のため、石橋の説明もほしかった。現在の新地中華街入口「新地橋」の場所に架かっていた。撮影は大徳寺跡の高台からだろう。上野彦馬作品の拡大ではない。
次を記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2173

長崎外の古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 912 海岸の風景(1)
〔画像解説〕
場所未詳の海岸の漁村。干潮の海岸に漁船と思われる和船が10艘近く置かれ、中央には砂浜で人が写されている。漁村のほとんどの屋根が藁葺きで、僅かに瓦屋根が混じっている。横浜の近くと思われる

■ 確認結果

目録番号: 912「海岸の風景(1)」は、2010/3/2 記事を参照。次のとおり記していた。
https://misakimichi.com/archives/2252

目録番号: 912「海岸の風景(1)」は、かなり大きな漁村の港で、背後に高い山が写っている。
横浜で発刊された英字新聞「ザ・ファー・イースト」の掲載写真とわかった。九州大学デジタルアーカイブを見ていたら、同じ写真が Vol.2 No.6 1871/8/16 にあった。「指宿付近からの開門岳」と説明している。

新聞掲載写真の下には、「ODOMIWARRA-NEAR  CAPE  CHICHAKOFF」の解説英文がある。「NEAR CAPE」は「近く 岬」だろうか。「ODOMIWARRA」「CHICHAKOFF」がわからない。
「指宿付近からの開門岳」では、手前に池田湖があると景色は似るが、海岸とすると指宿の浜あたりとなり、開門岳から遠くなる。参考のため指宿からの写真を、鹿児島県総合観光サイトから載せた。九州大学に撮影場所の見解があれば、教えていただきたい。

長崎大学のデータベース上では、「横浜の近くと思われる」と解説し、イースト写真との説明はない。しかし最近になって、長崎大学古写真研究会編「古写真研究 第1号」長崎大学附属図書館平成6年発行61頁に、当時、岡林助教授らの次の研究があることを見つけた。

第2表 長崎大学附属図書館が所蔵する「The Far East」の写真目録の中
通し番号  26  (掲載)年月日  1871.8.16  
欧  名  ODOMIWARRA-NEAR  CAPE  CHICHAKOFF
和  名  大泊村ーチチャコフ岬付近
整理番号  19−28
タイトル  海岸の風景〔不詳〕

海岸の風景〔不詳〕としているのが、この目録番号: 912「海岸の風景(1)」の作品である。和名「大泊村ーチチャコフ岬付近」とは、さてどこなのだろうか。
HPで調べると、「風景のなかの歴史①: 生きてりゃいいさ」の記事に次があった。英公使館の通訳官、アーネスト・サトウとともに英極東艦隊の外輪船、アーガスに乗り込み、薩英戦争をすべて目撃した英公使館の医官、ウィリアム・ウィリスの記録のようだ。

業を煮やした英国はニール代理公使に極東艦隊を鹿児島に派遣し、直接、薩摩藩と交渉し、英国側の要求を実現するように命じた。キューパー提督の指揮のもと、艦隊は翌1863(文久3)年8月6日、横浜を出港し、鹿児島へ向かった。燃料を節約するために主に帆走に頼り、横浜から約1000キロを航海し、大隅半島の先端、佐多岬(英国はチチャコフ岬と呼んだ)沖に到着したのは5日後の8月11日午後だった。キューパー提督が率い、ニール英国代理公使などが乗艦する旗艦ユーリアラス、それにパール、パーシューズ、アーガス、コケット、レースホース、ハヴォックの計7隻による当時の大艦隊である。艦隊が佐多岬を回り、山川港を通過して鹿児島湾に入ると、大隅・薩摩半島各地から一斉に烽火が上がり、号砲も放たれた。…

この資料から「ODOMIWARRA-NEAR CAPE CHICHAKOFF」は、目録和名どおりとすると、「チチャコフ岬」は大隈半島先端の「佐多岬」。「大泊村」は佐多岬手前、現在の南大隈町大泊港とわかった。横浜近くはあまり考えられない。イースト写真は掲載が1871.8.16だから、ウィリアム・ウィリス記録時のものではないだろう。

撮影場所を「大泊港」とすると、ブログ「大隈半島 時の風 太郎が行く」により、大泊港背後に似たような姿の山の写真があった。古写真どおり撮影できる場所があるかもしれない。
薩摩半島の「開門岳」とすると、「指宿」温泉あたりからでは遠すぎる。近い「山川港」あたりも考えられる。山とともに砂浜の漁村の解明も必要だろう。
現地調査できないので、長崎大学側または地元で検証をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。

作品番号:10 星取山から長崎港を見下ろす  (28−23)長崎大学附属図書館所蔵
〔画像解説〕 ながさき・出島「古写真の世界」展 写真集 59頁
安政6年(1859)、日本が開国すると、もはやオランダ人を市街から隔絶する必要がなくなった。出島は、次第に周辺部が埋め立てられ、江戸時代の扇形の形を変形させ始める。古い出島の波止は壊されて、慶応元年(1865)に新しい波止201.6坪が築造された。慶応2年(1866)、外国人居留地への編入後、出島から浪の平に至る海岸道路を建設するために、慶応3年(1867)6月、出島の海側に4間幅の遊歩道が築造される。出島の外側に4間埋め立てて、新しい石垣が築かれた。この写真は、慶応3年から、明治2年(1869)に出島から築町に出島新橋が架設される間のものである。

作品番号:34 星取山から長崎港を見る    (96−58)長崎大学附属図書館所蔵
〔画像解説〕 同 写真集 63頁
星取山の山上から大浦居留地越しに長崎港を俯瞰したもの。大浦川には明治3年(1870)に架かる下がり松橋はまだなく、弁天橋だけである。出島の外回りに慶応3年(1867)に築造された遊歩道および馬回しが見えるが、その横と築町との間に明治2年(1869)架設される出島新橋はまだ見えないので、この写真は明治元年(1867)頃の撮影であることがわかる。湾奥、浦上川口には享保15年(1730)から埋め立てられた浦上新田(現・茂里町)の形がはっきりとわかる。右側は長崎市街地の中心部である。出島の右側には新地蔵の家並みが、大浦居留地の背後の丘には旗を立てた東山手9番のイギリス領事館が見える。海上には多くの艦船が停泊しているが、左中央の船腹の白っぽい船は砲門を持つ軍艦である。これらの艦船の集結は明治維新の緊張を伝えているようである。

■ 確認結果

2000年10月、浜屋百貨店で開催された日蘭交流400周年記念事業 ”ながさき・出島「古写真の世界」展”に展示された古写真。同写真集の8頁に部分、16頁に全体があった。
タイトルや画像解説は、「星取山」からだった。

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」の作品。撮影場所は、「鍋冠山」ではない。「星取山」からが正しい。現地確認している。
再三、要望しているのに、今もって修正されないのは、どうしたことか。国の科学研究費補助を受けて構築されているデータベース。文化庁は長崎大学学長を指導してもらいたい。
この項は、次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2832

それぞれの画像解説は、上記のとおり。比べてみると「撮影場所」以外にも、「撮影年代」も少し幅があるようだ。説明はなるべく統一してほしい。
星取山山頂から今は木立のため、長崎市街が見渡せない。現在の写真は、少し中腹の造成中「港ヶ丘パーク墓苑」上から写している。

長崎の古写真考 目録番号:な し 16 海側から見た出島

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 16 海側から見た出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 16 海側から見た出島   長崎手帖より
〔画像解説〕 ながさき・出島「古写真の世界」展 写真集 60頁
昭和41年(1966)8月1日発行の『長崎手帖(編集発行人・田栗杢作)』の「長崎のアルバム21」に掲載されている、「埋め立て前の出島」と題された写真である。対岸の稲佐山と出島を背景に、和船を中心に配した構図を考えた写真である。出島の年代は不詳であるが、明治20年代後半、出島が第2次長崎港改修事業により埋め立てられる前の、海岸線が見える最後の出島の写真である。海側に近い距離から出島を撮影した写真は少なく、海側の扇形の張り出した曲線、出島外周の石垣、出島神学校、出島外周の道路と歩く人の姿などが鮮明に撮影されている。埋め立てられる前の出島を、海側から撮影した貴重な写真である。

目録番号:な し  3 新地と出島   (104−21)長崎大学附属図書館所蔵
〔画像解説〕 同 写真集 58頁
大徳寺跡の高台から、新地越しに出島を遠望したもの。次の写真4に建設中の姿が見える。慶応元年(1865)後半の撮影であろう。出島の向こうには、現在の茂里町付近まで湾入していた長崎港が広がり、背後に稲佐山やから岩屋山までの山並みが望まれる。出島右手の樹木が生い茂っているところが長崎奉行所・西役所(現・県庁)の高台で、その下に江戸町、東西の築町、中島川の河口部を隔てて西浜町の地先にあった江戸町の飛地にかけての家並みが見える。新地手前の水面のこちら側、樹木の間に見え隠れするのは、本籠町の民家である。

■ 確認結果

2000年10月に浜屋百貨店で開催された日蘭交流400周年記念事業 ”ながさき・出島「古写真の世界」展”に展示された古写真。同写真集の10頁にあった。
昭和41年(1966)8月1日発行『長崎手帖(編集発行人・田栗杢作)』の「長崎のアルバム21」に掲載された「埋め立て前の出島」と題された作品と解説がある。
長崎大学には所蔵なく、古写真データベースでは見当たらない。

”ながさき・出島「古写真の世界」展”では、「16 海側から見た出島 長崎手帖より」として、上記のとおり画像解説している。「海側から見た出島」には間違いないが、出島を「船上」から撮影した、よほど珍しい写真のようにも感じるタイトルではないだろうか。

撮影地点を特定するため、同写真集5頁に掲載されている「3 新地と出島」(長崎大学附属図書館所蔵)を参考として掲げる。背景は両方とも「稲佐山」と「岩屋山」の山並み。新地蔵所の北西側海岸に立ったら、「16 海側から見た出島 長崎手帖より」は、撮影できたのではないだろうか。
この項は、次の記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/2173
現在の写真は、大徳寺公園から見た新地、出島、稲佐山方面の景色。

なお、同じ古写真は、長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫」平成11年発行の71頁にも掲載されている。解説は次のとおり。長崎文献社所蔵写真と思われる。
小舟と出島、稲佐山
NIBテレビの社屋の方向から見た出島です。明治20年代に東と西そして南方の海面が埋め立てられる以前の出島の雄姿です。南方側の石積みがよくわかります。  明治10年代

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(9〜10) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(9〜10) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(9〜10) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(7〜8) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(7〜8) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(7〜8) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

スクラップ(5〜8)に関して余談。本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行14頁に、次のとおり「調査のいきさつ」を私が記している。
昭和38年当時と思われるが、「みさき道」は誰も歩く人がいなく、それこそひどかった。

はじめに ー 調査のいきさつ 

私にとって「みさき道」は、若い日のにがい想い出がある。記憶はおぼろになっていますが、20歳の頃ですから40余年前、昭和38年当時だと思います。NHKテレビか「新日本紀行」のような番組があり、野母半島の美しい海岸が紹介され、「みさき道」というものが、長崎から脇岬観音寺まであることを知りました。(NHKアーカイブスに問い合わせも不明)

山歩きを少ししてましたから、何の予備知識もないまま、五万分の一地図で山道を探し、朝から出発しました。たしか小ヶ倉から深堀に行き蚊焼に出て、秋葉山に登ったようです。それからがどうした道かよく覚えず、木立の藪や身の丈もある竹薮をかき分けかき分け、五島灘へ沈む赤い夕日を見て下ったところが、黒浜か高浜であって、海水浴場の桟敷に寝たようです。

翌日は海岸の道路を歩き、脇岬観音寺から堂山峠へ登り、遠見山に立って景色を眺められたのはよかったのですが、途中も先も、それはまたひどく荒れた道でした。ちょうどこの頃、自衛隊が亜熱帯植物園から岬木場まで県道を切り開いていたようです。殿隠山の尾根道をきちんと通ったかわかりませんが、その工事道に出ました。山道の悪さにあきれて、あとは川原へ車道を下ったようです。…

さて、「8 命の水 御崎参りの頼りに」の延命水水場で、さわやかなセーラー服の少女2人が写っている。県立野母崎高校に合格し、通学路の確認にきた帰り。三和町の自宅まで歩いて1時間かかるという。山間の川原木場か徳道集落の娘さんと思われる。
思い出の写真となるだろう。岡山のmaki♪さん。こころあたりないだろうか。まさか貴女ではないでしょうね。連絡を取って、「消えた道塚」の記憶を聞いてください。

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(5〜6) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(5〜6) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(5〜6) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

スクラップ(5〜8)に関して余談。本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行14頁に、次のとおり「調査のいきさつ」を私が記している。
昭和38年当時と思われるが、「みさき道」は誰も歩く人がいなく、それこそひどかった。

はじめに ー 調査のいきさつ 

私にとって「みさき道」は、若い日のにがい想い出がある。記憶はおぼろになっていますが、20歳の頃ですから40余年前、昭和38年当時だと思います。NHKテレビか「新日本紀行」のような番組があり、野母半島の美しい海岸が紹介され、「みさき道」というものが、長崎から脇岬観音寺まであることを知りました。(NHKアーカイブスに問い合わせも不明)

山歩きを少ししてましたから、何の予備知識もないまま、五万分の一地図で山道を探し、朝から出発しました。たしか小ヶ倉から深堀に行き蚊焼に出て、秋葉山に登ったようです。それからがどうした道かよく覚えず、木立の藪や身の丈もある竹薮をかき分けかき分け、五島灘へ沈む赤い夕日を見て下ったところが、黒浜か高浜であって、海水浴場の桟敷に寝たようです。

翌日は海岸の道路を歩き、脇岬観音寺から堂山峠へ登り、遠見山に立って景色を眺められたのはよかったのですが、途中も先も、それはまたひどく荒れた道でした。ちょうどこの頃、自衛隊が亜熱帯植物園から岬木場まで県道を切り開いていたようです。殿隠山の尾根道をきちんと通ったかわかりませんが、その工事道に出ました。山道の悪さにあきれて、あとは川原へ車道を下ったようです。…

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(3〜4) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(3〜4) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(3〜4) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。