練習用」タグアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号: 3943 皇居吹上御苑(4) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 3943 皇居吹上御苑(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 3943 皇居吹上御苑(4)
〔画像解説〕
かつては江戸城の西の備えとして大名屋敷があったが、明暦の大火(1657)以後庭園化された。庭園内には木石の配置まで人工の妙を尽くしていた。滝は中央大池の南岸と瀧見御茶屋の近くに2ヶ所あったらしい。本写真は樹木が生い茂っているので瀧見御茶屋近くの滝ではないかと推察される。明治10年代か。

目録番号: 5709 皇居吹上御苑(5)

■ 確認結果

目録番号: 3943「皇居吹上御苑(4)」と、目録番号: 5709「皇居吹上御苑(5)」は、同じ庭園を写している。目録番号: 3943「皇居吹上御苑(4)」には、「本写真は樹木が生い茂っているので瀧見御茶屋近くの滝ではないかと推察される」と画像解説している。
撮影者・撮影年代はさておき、皇居吹上御苑内庭園の推察した撮影場所は正しいのだろう。

HP「囂庵の幕末明治の古写真」の次の記事に、この古写真を調査した撮影場所の考察があり、「キャプションが正しいとしてと(?)強調しておく」と述べている。
http://www.gouann.org/new_box/fukiage/fukiage.html

●吹上御苑の古写真について

内田九一が明治天皇の肖像写真を撮影したことは有名である。撮影は明治五年と六年の二度にわたって行われるが、撮影の場所は何れも現在の吹上御苑内の写場である。ここで撮られた肖像写真については様々な方々が書籍・論文で発表なされているのでここでは述べない。…
今回庵主がレポートするのは、明治天皇肖像写真の「写場についての謎解き」である。
内田九一が庭先でひれ伏しているとされる写真がある。初見は分からないが、それにはたいてい、「吹上御苑瀧見茶屋」のキャプションが附いている。そして「畏まるは写真師内田九一」とある。

ところが、明治十年代に測量された地図によると、瀧見茶屋の前庭は池の端まで数十メートルの距離がある。その様子は長崎大学附属図書館蔵の着色された「吹上園」のロングショットの写真で確認できる。さらに、同館蔵のもう一枚の「吹上園」というキャプションの着色写真も、瀧見茶屋前の庭園をロングショットでとらえている。これらの写真によって瀧見茶屋の前方は、廣い芝庭の平地があり、その先に、鬱蒼とした樹木に囲まれた瀧のある池水庭園の様子が見て取れる。「図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京 決定版 (歴史群像シリーズ):絶版 」

庵主は、この二枚の「吹上園」写真と地図のおかげで、瀧見茶屋付近の状況を容易に知ることができたわけだ。むろん長崎大学附属図書館蔵の写真のキャプションが正しいとしてと強調しておく。

陸軍省標石探しの裏話  その2

イメージ 1

イメージ 2

陸軍省標石探しの裏話  その2

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
最近の新規発見は少なくなり、本文はこれまでの所感をまとめられている。写真は、佐世保市山ノ田水源地上方面にあったという「第十一号」と、長崎市飽の浦峠手前道の「第十六九号」

高橋 輝吉氏稿   陸軍省標石探しの裏話  その2

昭和11年頃になると、軍縮の波が。艦の大砲が陸に。標石にも改刻があった。佐世保では4本(日付は同じ)。対馬では、明治三十六年、明治四十年、大正十三年、昭和十二年とバラバラです。最近、対馬でまた3本、新しく発見されたようです。「第〇〇号」と無号1本あり。後で知らせます。

長崎は、標石がバラバラです。飽の浦峠手前のが、「第十六九号」と謎?。壱岐の要塞標石は4本廃止と、石はコンクリートと丸石交じり。まずい標石だ。軍縮か。
大分佐賀関は、1号廃止と?。F.Z.標石、620mの山の上に。下関は、要塞地帯図から見ると、広い広い要塞地帯となるので、何千個の標石の数となるのかなー。

佐世保での標石は、日付は同じ「第一号」2本有り。地域によるのかなー。3本となると何と第一地帯標でも「第十一号」3本有り。区域標も3本有り。何とも?。
要塞地帯の資料、昭和十一年の通達によると、別紙を見てください。(掲載略)
山の上に海軍省の標石が6本。昔の艦船は石炭を使用した。ただし、陸、海に標石が多い。軍道200本、入江50本。

陸軍省標石探しの裏話  その1

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

陸軍省標石探しの裏話  その1

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
最近の新規発見は少なくなり、本文はこれまでの所感をまとめられているようである。その2は次へ。「歴史散歩」の記事は、佐世保市広報資料と思われる。

高橋 輝吉氏稿   陸軍省標石探しの裏話  その1

佐世保市小佐世保町で、初めて陸軍省標石を発見する。みんな〇秘、〇諜、〇耳の話ばかりで、何か証拠らしき物はないかなーと思っていたとき、標石発見。
良く見ると「陸軍省」「長崎要塞第二地帯標」「第五号」で、日付は「明治三十二年七月十四日」(個人所有)。
友に話す。「イヤ、長坂町にも有るよ」と。「第一地帯標」「第三号」だった(個人所有)。このとき、第二地帯標の話もする。最初の標石を絵具で撫で、洗い流す。

標石発見のことを、市の広報課(Tさんという方)へ知らせた。「後で行きます」と。「どうでしたか」?…「そんな標石は有りません」と。彼はその後、標石を写真に撮り、〇〇に出す。
後で「日付が違います」と言うと、「イヤ…正しい」と言うので、私の写真を見せると、”シマッタ”たと思ったでしょう。役所の手口かなー。それっきり、〇〇は流さず、今日まで。
歴史散歩の2回目は、日付が「明治三十二年七月十四日」となりましたが、要塞法を「条例」、「S. M. シーレベル メーター(海抜)」の解説は、今日までそのままです。〇〇さんに言ったけれど、本人が直さないのは、時を待つしかないと。

そんなこんなしているときに、下関要塞地帯標の資料で「S.M. F.Z」が手に入る。これだなー。私はこのときまで「S.M.」は、「シークレット ミリタリー(戦略上重要な要塞化された地帯・区域)」が正しいと考えていた。佐世保に資料なし。標石探しに弾みが付きましたなー、今日まで。
下関では、「昔の大砲は役に立たない」と言ったら…大目玉。潜水艦の時代と、B29の時代になる。移動できる小型大砲と弾丸が多く有るのかなー。

陸軍省標石探しと新聞報道

イメージ 1

イメージ 2

陸軍省標石探しと新聞報道

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
最近の新規発見は少なくなり、本文はこれまでの所感をまとめられているようである。以下、2記事も続く。各資料や写真は、すでに以前の記事に載せているので参照。

高橋 輝吉氏稿   陸軍省標石探しと新聞報道

佐賀県伊万里市東山代町脇野で、軍事に詳しい方に2人出会った。白い板のこと、標石刻字のことを聞いてみた。前に「佐世保要塞地帯図」や「陸軍輸送港域伊万里港域要図」を見ていましたから、青螺山へ登った。「陸軍省」の伊万里港「陸軍輸送港域第二区標」「第40号」「昭和一五年六月十日」の標石発見(写真)。
これは前後があるなー。後日、第41号と第42号発見。黒岳に第38号があった。第39号はどこに。近くの山を全部登った。山を下るとき、白い物を見た。よくよく見ると、陸軍省第39号。国道上5m位の所に。山の上かと思っていたが、下の方でした。

これで良しと思い、新聞各社の伊万里3支局へ。全部笑われました。伊万里は焼物と松浦党の話でいっぱいと。私は支局の方が解からず屋と思いました。年の差かなー。海軍大臣官房の本のコピーですよと言っても気付かず、それではと佐賀新聞の支局へ行きました。
説明すると、すぐ現場へ行きましょうとなりました。2週間位しますと、佐賀新聞に大きく出ました。標石では初めてのことでした。

この後が大変でした。伊万里や有田一帯は、昭和の標石と明治の標石が交ざった所です。昭和の標石は福島と黒川方面に、明治の標石は有田川沿いに。明治の標石では、第69号、第73号、第74号を発見しました。
第73号を写真に撮っているとき、近くの盲人の方が、耳が目代わりだったのでしょう。「字が変わっていますか」と?。お宅は目が見えないのにと、質してみました。「いや、昔、兵隊さんが話しながら、仕事をしていました」と。

エーッと思い、佐世保市立図書館などでいろいろな本を探してみました。佐世保史談会の本の中に、三間十郎氏「長崎要塞地帯標石の一資料について」があり、陸軍省標石について記録していました。 ( 本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/987
終戦時、柚木村役場にあった公文書が焼かれず残っていたのです。このことは、2、3人位しか知りません(軍縮2回目位後)。長崎へ資料送ります。
伊万里港「陸軍輸送港域標」の詳細は、「https://misakimichi.com/archives/2478

古写真に残る石橋風景  (9)東長崎の樫ノ木渡瀬橋・木場橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

古写真に残る石橋風景  (9)東長崎の樫ノ木渡瀬橋・木場橋

最近、東長崎地区にあった2つのアーチ式石橋の珍しい写真を見かけた。いずれも昭和57年の長崎大水害で流失した以前の石橋の姿を写している。貴重な古写真と思われる。地元は写真の存在は知らないようで、写真では橋名は特定されていなかった。
私が現地を調査し、確認した結果は次のとおり。

写真 1〜 4  (1)「樫ノ木渡瀬橋」(または「屋敷橋」)  長崎市現川町

古写真考の再掲となるが、石橋の項でも記録しておく。本ブログ次の記事をまず参照。
https://misakimichi.com/archives/3193
「現川(うつつがわ)の石橋」として、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版92頁に掲載されていた。
「元禄時代、現川では、有名な刷毛目文様を主にした現川焼がつくられていた。この石橋は当時のものではないが、長崎の石工より伝えられたアーチ型石橋の工法を取り入れ架設した小石橋として市の文化財に指定されている」と解説にあるが、肝心な橋名がなかった。

JR現川駅右の「現川物産館 じげもん市」に、長崎大水害により流失した現川地区の4つの石橋の写真が展示されている。石橋の格調と大きさから、「樫ノ木渡瀬橋」が一番可能性があった。現在の「屋敷橋」(以前は石橋)のところに架かっていた橋である。
展示写真と材石の組み方を比較したが、同定できなかった。現地へ行って周囲の状況や背景の山の稜線など確認した。

現在の写真とおり、この場所に架かっていた石橋に間違いないであろう。いつの時代に撮影された石橋「樫ノ木渡瀬橋」か、また同じ場所に架け替えられて呼ばれた石橋「屋敷橋」だったかは、不明である。

写真 5〜10  (2)「木場橋」  長崎市船石町

次は、東長崎商工会「ひがなが今昔写真物語|東長崎の地域情報サイト|ひがながナビ」に掲載されているアーチ式石橋の古写真。橋名の説明はない。
http://www.shokokai-nagasaki.or.jp/h-nagasaki/konjakuph/index.html
古写真を見ると、かなり大きな石橋で親柱と欄干がある。思い浮んだのが、長崎大水害で流失した船石町の「木場橋」。現地を訪ね、これも周囲の状況を確認した。

現在の写真とおり、背景の山の稜線など合うことがわかるだろう。「木場橋」は、本ブログ次の記事を参照。船石地区の石橋や史跡の項で、「木場橋」にふれていた。
https://misakimichi.com/archives/604
https://misakimichi.com/archives/1788

現在の「木場橋」を渡り、上流側へ車道を進むと、石橋架橋者田嶋邸の「並松翠鯉苑」があり、移設されている木場橋の欄干だけ残る。田嶋邸には石橋の写真はないそうである。東長崎地区連合自治会「2000年の東長崎」平成13年刊、東長崎の石造物42〜43頁にも、記録がない。
はからずも今回、東長崎にあった2つのアーチ式石橋の、貴重な古写真の存在がわかった。

長崎の古写真考 目録番号:1767 風頭からの港町 ほか

イメージ 1

イメージ 2

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1767 風頭からの港町 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1767 風頭からの港町
〔画像解説〕
上野彦馬の撮影による風頭山から望む長崎市街と長崎港。出島の横には中島川口に架けられていた大橋を見ることができる。当時、新地浦にはまだ海水が流入していた。出島側には西役所の遺構が見られ、旧県庁舎はまだ建てられていない。明治初年の写真。

〔画像解説〕 超高精細画像
風頭山から長崎市街地南部を撮影した写真である。17-2と同じ場所から同じ方向を撮影したものである。写真中央の中島川河口に新大橋が架けられているので、明治2年(1869)以降で、写真右の長崎県庁の場所に近代的な県庁舎が建てられていないので明治9年以前の写真である。梅香崎居留地が完成し、東山手からの外国人居留地の町並みは、外国人居留地に編入された新地を経て出島に繋がっている。写真左に、明治2年(1869)に新地が築き増しされた新しい護岸と銅座川の水面が見える。本籠町、広馬場、梅香崎の接点が鮮明に見える。東山手、梅香崎、新地、築町、出島にかけて、大規模な倉庫や商館が立ち並び、外国貿易の最前線であったことが伺える。県庁のある高台は、まだ近代化した官庁街になっていない。長崎市中心部の建物は、依然として伝統的な木造の建物である。中島川で区切られた町並みや、整然と並ぶ鍛冶屋町通りの家並みが見える。この写真は、目録番号4239(整理番号82-7)の写真と同じものであるが、彩色が異なる。

目録番号:5897 長崎市街と長崎港(5)  掲載略
〔画像解説〕
風頭山から長崎市中と港を展望したもの。左隅の新地蔵の付近は埋め立てが進み、新しい建物が建築中であるが、内側はまだ石垣がそのまま残っている。出島と出島橋、明治2年(1869)に架けられた新大橋の架かる築町には白い洋館が見える。明治4年から5年(1871〜2)頃の撮影。港の内には軍艦や船が停泊し、対岸には飽の浦の造船所、稲佐方面が展望される。

■ 確認結果

きょう2012年5月19日付朝日新聞長崎地域版”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「明治期の長崎市街中心部と長崎港 洋館と和風建築点在」
データベースでは、目録番号:1767「風頭からの港町」の作品。目録番号:5897「長崎市街と長崎港(5)」も、同じ写真である。

説明図は紙面が小さいから、そうなったかも知れないが、「新地」の位置は青線囲いの部分。ふつう新地蔵跡を考えるので、違和感がある。海岸側は築き増されているようで、もう少し左斜め下の中心に表示してもらえれば良い。
今回の新聞の解説では、「文明開化が始まった1873年に風頭から撮影された市街中心部と長崎港です。撮影者は不明です」となった。
この項は、本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2725

資料によって、撮影者は「上野彦馬」あり、「内田九一」あり、「不詳」あり。撮影年代もバラバラ。上野一朗氏編「写真の開祖 上野彦馬 ー写真に見る幕末・明治ー」産業能率短期大学出版部発行に掲載されているらしいが、見る機会がない。
長崎歴史文化博物館で昨年6〜7月開催された、企画展「長崎・冩眞傳來」の目録では、〔撮影者:内田九一〕となっていた。

地元の大学や博物館である。地元の写真家「上野彦馬」の作品くらい、早急に正しく研究して、根拠をもって公表してもらいたい。記事や写真集、写真展のたびに見解が変わる。データベース上の解説でも食い違いがまま、一向に改善されないのも困ったことである。

正念のバラ園  長崎市古賀町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

正念のバラ園  長崎市古賀町

きょう長崎市古賀町正念の石橋(善八橋)を訪ねた。長崎バイパス市布古賀入口近く。つつじが丘団地の後ろ側となる。付近に正念公民館と長崎市消防団第29分団6部詰所がある。
石橋の先の段々畑を眺めると、数段の広い花畑となっていた。バラ園だった。今、まだ丹念に造園途中か。隠れた名所となろう。バラの花は最盛期をやや過ぎていた。

長崎の古写真考 長崎市HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎市HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎市HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館 掲載6作品
古写真 1(目録番号:1293) 興福寺開山堂と麹屋町
古写真 2(目録番号:1006) 大浦川河口
古写真 3(目録番号: 792) 長崎大浦外国人居留地
古写真 4(目録番号: 328) 大浦海岸通り
古写真 5(目録番号:6066) 小島からの長崎医学校と唐人屋敷
古写真 6(目録番号:  50) 館内から出島を望む

■ 確認結果

長崎市(建設局まちなか事業推進室)HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館に掲載されている中の6作品。現在の写真と対比させ、撮影場所の地図もある。同解説は、以下のとおり。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/machidukuri/…/photo/
いずれも長崎大学附属図書館古写真データベースに目録番号がある。疑問点を次に説明する。本ブログの各記事を参照し、古写真の正しい実地調査と研究をお願いしたい。

長崎大学や長崎市が、いつまでもこのような内容のHPを公開するのは問題があろう。早く正しくしてほしい。長崎市HPは、画面展開に手間がかかる。次作品がすぐ開けるようにし、拡大地図はその撮影場所がすぐ出てくるように改善してほしい。
各古写真下の現在の写真は、私が調査した撮影場所である。(写せない所は、一部変更した)

古写真 1  興福寺開山堂と麹屋町  (データベース 目録番号:1293)
1864年頃、ベアトが撮った興福寺開山堂と麹屋町の通りである。幕末の長崎市内の街路の写真として最古のものの一枚である。道路の中央には石畳舗装がなされ、突き当たりの寺町通りへは後年斜路に改造される石段で結ばれている。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2269
(注)「興福寺開山堂」があった場所の地図と、撮影している通りが違う。通りは現在の「麹屋町」ではあるが、古写真は「紺屋通り」を写し、さるく説明板もここにある。現在の写真が、次の興福寺前の通りを写しているのは間違いである。

古写真 2  大浦川河口 (データベース 目録番号:1006)
大浦川中流から河口を見た風景である。大浦川に架かっている橋は松ヶ枝橋。川沿いの広い道路には街灯が見える。下がり松居留地の洋風建築が鮮明に写っている。下がり松の由来を示す松の木を見ることができる。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2576
(注)大浦川に架かっている手前の木橋は、「弁天橋」が正しい。奥のが「下り松橋」(後に「松ヶ枝橋」となる)である。超高精細画像の画像解説の方が正しい。

古写真 3  長崎大浦外国人居留地 (データベース 目録番号: 792)
ベアト撮影。「ヨーロッパ人の居留地の一部と長崎の市街、65年6月」と記されている。慶応年間の長崎大浦の海岸通り、と東山手の洋館群が詳細にうかがえる。右の丘の上にはまだ建物がみられない。
本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2229
(注)同じような写真で、上記の記事はあくまで参考に見ていただく。南山手の高台から下り松と大浦海岸通りの居留地を主に写している。現在の写真は、「弁天橋」の通りではなく、大浦海岸通りが写った居留地の景色が良いだろう。

古写真 4  大浦海岸通り (データベース 目録番号: 328)
明治中期の大浦海岸通りを撮影した写真である。通りには街灯が設置され、街路樹が植えられている。通りに面して商館や領事館が整然と並んでいる。当時の質の高い景観を見ることができる。手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2825
(注)手前の橋は明治22年前後に架替えられたポーストリングトラス橋の「下り松橋」(松ヶ枝橋)である。橋脚跡が現在も残る。タイトルが大浦海岸通りだから、現在の撮影場所が、「弁天橋」とその通りを写しているのは、間違いである。

古写真 5  小島からの長崎医学校と唐人屋敷 (データベース 目録番号:6066)
長崎医学校は所管及び名称を変えながら、1868年(明治元年)から、1892年(明治25年)に坂本へ移転するまでこの場所に位置した。現在の長崎大学医学部の源流にあたる。唐人屋敷については長崎市の唐人屋敷HPに掲載されている。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2184
(注)現在の撮影場所を、長崎市立仁田小学校前の公園としている。古写真にその尾根が写っているから、南東側山手となる鶴鳴学園長崎女子高校正門から入った駐車場の少し下、中小島2丁目の高台あたりから撮影していると思われる。

古写真 6  館内から出島を望む (データベース 目録番号: 50)
館内の唐人屋敷の横から新地蔵ごしに出島と港を望む写真。中央に架かる橋は梅ケ 崎橋。その入江は現在の湊公園である。出島の海側には慶応3(1867)年にできた馬まわしの突き出しが築かれている。現在はビルが建ち、海を眺望することはできない。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2906
(注)館内町唐人屋敷跡の東上からである。現在、この写真のさるく説明板が設置されている場所の少し先、福建会館上の道から、当時の福建会館の建物と長崎港や出島を遠望した写真であろう。

なお、5月26日現在においてHPを見ると、「ながさき今昔写真館」掲載記事についてのお詫びと記事の削除について、次のとおり掲載されていた。

「ながさき今昔写真館」につきまして、掲載資料の一部に誤りや疑義が生じていることがわかりました。誤り等があった記事につきましては一旦削除させていただき、検証を実施のうえ、準備が整いしだい改めて掲載させていただきたいと思います。
ホームページをご覧いただいた皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。

長崎の古写真考 朝日新聞デジタル【長崎 今昔】 茂木の若菜橋

イメージ 1

イメージ 2

長崎の幕末・明治期古写真考 朝日新聞デジタル【長崎 今昔】 茂木の若菜橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

朝日新聞デジタル マイタウン長崎 記事
【長崎 今昔】 茂木の若菜橋 アーチ橋に舶来の風  2012年03月17日

■ 確認結果

2012年3月17日(土)付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「茂木の若菜橋 アーチ橋に舶来の風」。
茂木の若菜橋と茂木長崎ホテルの古写真がある。茂木長崎ホテルについて、写真と記事に間違いがあることをすぐ指摘した。訂正記事が3月31日掲載された経過がある。
https://misakimichi.com/archives/3149
https://misakimichi.com/archives/3169

ところが現在、「朝日新聞デジタル マイタウン長崎」の記事を見てみた。上記のとおり以前のまま掲載され、訂正記事がまったく反映されていない。
デジタルでも備考などで、訂正記事の内容にふれるべきではないか。朝日新聞社内部で緊密な調整をお願いしたい。読者が困惑するだけだろう。

ハタ揚げ?  長崎市風頭町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

ハタ揚げ?  長崎市風頭町

長崎では、凧を「ハタ」と呼ぶ。独特な凧である。これはすぐ近くの有名な風頭山「ハタ揚げ」風景であろう。風頭公園入口から車道を伊良林方面へ下る。カーブのビル「パーシモン風頭町」正門左にあった秀逸な、洒落た外壁。