陸軍省標石探しと新聞報道

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陸軍省標石探しと新聞報道

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
最近の新規発見は少なくなり、本文はこれまでの所感をまとめられているようである。以下、2記事も続く。各資料や写真は、すでに以前の記事に載せているので参照。

高橋 輝吉氏稿   陸軍省標石探しと新聞報道

佐賀県伊万里市東山代町脇野で、軍事に詳しい方に2人出会った。白い板のこと、標石刻字のことを聞いてみた。前に「佐世保要塞地帯図」や「陸軍輸送港域伊万里港域要図」を見ていましたから、青螺山へ登った。「陸軍省」の伊万里港「陸軍輸送港域第二区標」「第40号」「昭和一五年六月十日」の標石発見(写真)。
これは前後があるなー。後日、第41号と第42号発見。黒岳に第38号があった。第39号はどこに。近くの山を全部登った。山を下るとき、白い物を見た。よくよく見ると、陸軍省第39号。国道上5m位の所に。山の上かと思っていたが、下の方でした。

これで良しと思い、新聞各社の伊万里3支局へ。全部笑われました。伊万里は焼物と松浦党の話でいっぱいと。私は支局の方が解からず屋と思いました。年の差かなー。海軍大臣官房の本のコピーですよと言っても気付かず、それではと佐賀新聞の支局へ行きました。
説明すると、すぐ現場へ行きましょうとなりました。2週間位しますと、佐賀新聞に大きく出ました。標石では初めてのことでした。

この後が大変でした。伊万里や有田一帯は、昭和の標石と明治の標石が交ざった所です。昭和の標石は福島と黒川方面に、明治の標石は有田川沿いに。明治の標石では、第69号、第73号、第74号を発見しました。
第73号を写真に撮っているとき、近くの盲人の方が、耳が目代わりだったのでしょう。「字が変わっていますか」と?。お宅は目が見えないのにと、質してみました。「いや、昔、兵隊さんが話しながら、仕事をしていました」と。

エーッと思い、佐世保市立図書館などでいろいろな本を探してみました。佐世保史談会の本の中に、三間十郎氏「長崎要塞地帯標石の一資料について」があり、陸軍省標石について記録していました。 ( 本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/987
終戦時、柚木村役場にあった公文書が焼かれず残っていたのです。このことは、2、3人位しか知りません(軍縮2回目位後)。長崎へ資料送ります。
伊万里港「陸軍輸送港域標」の詳細は、「https://misakimichi.com/archives/2478