月別アーカイブ: 2011年7月

長崎の古写真考 目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
この写真は、英文で「長崎稲佐の景色」と題されている。飽ノ浦神社(恵美須神社)の境内越しに長崎港を遠望している。同じ写真が上野彦馬のアルバム(66-21)にも収蔵されている。明治初期の撮影と思われる。この写真は、日下部金兵衛写真アルバムに収められている写真である。写真の対象は、恵美須神社の境内とその前に和船が係留されている。写真左側に飽ノ浦の集落とその先に岬がある。対岸は長崎市街中心部の海岸線である。左側の山は金比羅山・立山である。その山裾が筑後町の寺院群であり、山裾の先端付近に諏訪神社がある。海岸線は長崎市街中心部の沿岸部の全域が撮影されている。写真左、岬の先の対岸は西坂付近で、左端が梅香崎付近である。神社の向こうの和船の先に、黒い一艘の船が見えるが、その付近が出島である。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
この写真は英文で「長崎、稲佐の景色」と題されている。飽の浦神社(恵美須神社)の境内ごしに長崎港の風景を遠望している。同じ作品が上野彦馬のアルバムにも収蔵されている。明治初年の撮影と思われる。

■ 確認結果

目録番号:1694「飽の浦恵美須神社(3)」の、超高精細画像データベースは〔撮影者:日下部金兵衛〕となっているが、メタデータ・データベースのとおり〔撮影者:内田九一〕である。明治5年
(1872)、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の1枚。

画像解説中「写真左側に飽ノ浦の集落とその先に岬がある。…写真左、岬の先の対岸は西坂付近で、左端が梅香崎付近である」は、「写真の神社左右が飽ノ浦の集落、左奥に水ノ浦、その先に大鳥崎、稲佐崎の岬がある。…写真左、稲佐崎の対岸は西坂付近である」となろう。
パノラマ写真の2枚目ならわかるが、「出島」や「梅香崎」は、この写真のまだ右外で写っていない。

この項は次の記事を参照。現在の写真は、恵美須神社の場所と背景の山並みがわかりやすいパノラマ写真を掲げた。
https://misakimichi.com/archives/1589
https://misakimichi.com/archives/1588

長崎の古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。

■ 確認結果

目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」の、撮影場所は「鍋冠山」でなく、まだ東方の「星取山」からが正しい。「ドンの山」としている別作品の目録番号:4878「ドン山(から)見た大浦居留地・出島」(掲載略)もある。
現在の写真は、2枚目が「星取山」(山頂は木立となって、古写真どおり確認できない。少し中腹の港ヶ丘パーク墓苑上から写した)、3枚目が「鍋冠山」からである。
大浦川河口と市街地がこのような位置に写るのは、「星取山」からである。

以前から何度となく指摘しているのに、データベースは今となっても撮影場所が、「星取山」からに修正されない。困っているのは利用者や古写真集の出版社である。
最近でも間違った画像解説の写真の提供を受け、そのまま掲載している。長崎大学側は、このような事情がわからないのだろうか。現地確認のうえ、早急に修正すべきである。

4枚目のパンフレットは、2009年4月発行された「長崎さるく幕末編」目次頁。豪華なパンフレット公式資料なのに、左下に堂々と「鍋冠山から望む長崎港(慶応年間)」と説明している。
5枚目の本は、山川出版社が最近、2011年4月25日発行したばかりの古写真集「レンズが撮らえた 幕末の日本」。202頁に掲載された写真は、「鍋冠山からの長崎港」と解説している。

この項は次の記事を参照。いっこうに修正されないので、この作品をあえてまた再掲した。
https://misakimichi.com/archives/1877
https://misakimichi.com/archives/1598
https://misakimichi.com/archives/2736

長崎外の古写真考 目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
規模の大きさで有名だった妓楼である。この写真はそれを海から撮影したもので、中央が洋館、その左に日本家屋の一部が見えている。左端が名物の三層楼であろう。日本家屋は建坪1,200坪、洋館は400坪あった。明治17年(1884)高島町遊廓から移転し、洋館を外国人用、日本家屋を日本人用として妓楼経営を行っていた。高島町時代から「ナンバーナイン」の通称で知られるようになったらしい。自家発電所をもち、電飾でも名高かったが、明治29年(1996)には周囲への供給権を得て神奈川電灯会社となった。同時に永楽町にも妓楼を設けていたが、明治33年(1900)に営業を永楽町に一本化した。洋館は養生院(病院)、横浜ホテル、神脳院(精神病院)などとして利用され、日本家屋には神風閣という料亭ができたりしたが、明治44年(1911)に火災で焼失した。その際、ウィルビーというイギリス人貴族を含む2名の患者が犠牲となっている。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
写真タイトルはKANAGAWAとある。神奈川新風楼の外国人用西洋館、遊女屋である。

目録番号:1844 神奈川七軒町の神風楼(2)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
七軒町にあった妓楼を海から撮影したもの。右手の日本家屋は日本人用、中央の洋館は外国人用である。総建坪1,600坪という規模の広大と自家発電による照明で知られた。右端の日本家屋の向こうにかすかに発電所の煙突が見えている。明治17年(1884)高島町遊廓から移転、同時に永楽町にも妓楼を設けたが、明治33年(1900)遊廓の反町移転を機に廃業し、営業を永楽町に一本化した。跡地の洋館は養生院(病院)、横浜ホテル、神脳院(精神病院)などとして、また日本家屋は神奈川病院、神風閣(料亭)などとして利用されたが、明治44年(1911)に火災で焼失した。洋館の左手に白い橋桁の見えているのが碧海橋で、その左手、和船の着岸しているのは、大手の酒問屋結城屋である。日下部金兵衛のカタログ番号585番の写真。

■ 確認結果

目録番号: 924「神奈川七軒町の神風楼(1)」の、超高精細画像データベースは「この写真はそれを海から撮影したもの」と画像解説しているが、次の目録番号:1844「神奈川七軒町の神風楼(2)」のとおり、船着場の対岸か、白い手すりのある橋のたもとから撮影している。

一方、目録番号:1844「神奈川七軒町の神風楼(2)」も、「七軒町にあった妓楼を海から撮影したもの」と画像解説しているので、調査中。
七軒町は、現在の横浜市神奈川区台町となっている。参考となる比較古写真や明治横浜地図が見当たらないため、地元で検証をお願いしたい。

メタデータ・データベースのタイトルは、1枚目が「神奈川の洋館」、2枚目が「神奈川の市街地(1)」となって、超高精細画像データベースと一致していない。
なお、妓楼名を「新風楼」とした目録番号もある。「新風楼」は誤りで、正しくは「神風楼」であろう。歌川国松の明治8年(1875)「横浜高嶋町神風楼之図」がある。

長崎外の古写真考 目録番号: 769 横浜の運河と山手

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 769 横浜の運河と山手

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 769 横浜の運河と山手
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
堀川は万延元年(1860)に開削され、外国人居留地と日本人市街の境界とされた。明治初期に護岸が整備されるが、この写真では地肌が露わで、河岸も整備されておらず、ボートは木の杭に吊されている。外国人居留地と定められた地域から立ち退きを迫られた横浜村住民は、丘の麓と堀川の間の細長い地域に移住し、元町が形成された。堀川の左側がその家並みである。堀川には海側から谷戸橋・前田橋・西の橋の三つの橋が架けられ、橋のたもとには関門番所が置かれて、外国人居留地への人の出入りが厳しくチェックされた。そのため、外国人居留地を含む開港場の中心部は「関内」と呼ばれた。この写真は谷戸橋からの撮影であろう。画面中央右よりの橋が前田橋。橋の左手、木柵で囲まれているのが関門番所である。橋の右手の大きな建物はキャメロン&クックの造船所で、ヨットを製造していた。もう一つ向こうの橋が西の橋である。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造船所である。

目録番号:6208 横浜の運河と山手(2) 後日、同じ写真が登載されている。

■ 確認結果

目録番号: 769「横浜の運河と山手」は、超高精細画像データベースては、〔撮影者:未詳〕。メタデータ・データベースでは、〔撮影者:F.ベアト〕と変っているのに修正されていない。タイトルも「横浜の運河と山手(1)」となろう。

こんな例は多数の作品に見られるから、調整が必要。メタデータ・データベースの「橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている」は解説間違い。谷戸橋から撮影?しているらしいので、「谷戸橋」は写っていない。

この写真は、横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊の26頁に掲載されている。同解説は次のとおり。
22.堀川と元町
堀川の右手が外国人居留地、左手は元町。中央右手の橋は前田橋、その右手の大きな建物はキャメロン&クックの造船所。遠方に西ノ橋が見えている。(C)

長崎の古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

目録番号:1289 中島川一の瀬橋(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
橋の上には、刀を腰にさした男性と3名の女性、子供が写った蛍茶屋と一の瀬橋の風景を幕末の報道写真家F.ベアトが元治元年(1864)に来崎の折り撮影した写真である。この辺りを一の瀬といい、蛍の名所で、「一瀬晴嵐」として崎陽八景の名勝に数えられている。蛍茶屋は、長崎を訪れる人々が最初に市街地に入る地であり、また、長崎を旅立つ人々が別れを惜しんだ場所である。一の瀬橋は、本河内町と蛍茶屋間の長さ9.5m、巾4.9mの石造半円の石橋である。承応2年(1653)、中国浙江省の出身で唐通事陳道隆(日本名:頴川藤左衛門)が私財を投じ、4番目の石橋として架設した。長崎は幕末に至るまで、西洋文化の窓口であり、学問の中心地であった。長崎街道一の難所日見峠を越え学問を志す人々が通った橋である。坂本龍馬は「船中八策」に維新改革の綱領を打ち出し、高杉晋作は「上海日記」でアジア植民地化の実情を伝えた。

■ 確認結果

横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊の161頁に、「224.墓地」が掲載されている。撮影場所未詳か、タイトル以外、説明はない。
長崎大学データベースには見当たらない作品。

これは長崎の墓地であろう。長崎街道ここに始まる長崎市蛍茶屋。アーチ式石橋「一瀬橋」が残る一の瀬口手前左上の「光雲寺墓地」内(寺は出来大工町)。
左に写る「南妙法蓮華経」の大きな同じ石碑が現存する。文政七年(1824)眞龍院日琮聖人の建立。右面に「天下泰平国土安穏…」と刻む。右上奥は特徴のある「豊前坊」の山。

長崎大学データベースには、目録番号:1289「中島川一の瀬橋」がある。「橋の上には、刀を腰にさした男性と3名の女性、子供が写った蛍茶屋と一の瀬橋の風景を幕末の報道写真家F.ベアトが元治元年(1864)に来崎の折り撮影した写真である」と超高精細画像は解説している。
この墓地の写真も、同じ時に撮影したことが考えられる。墓地右下に立つ男性?が、一の瀬橋上の人物と白い着物で似ている。

長崎外の古写真考 目録番号: 766 横浜山手からの運河

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 766 横浜山手からの運河

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 766 横浜山手からの運河
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
6枚組の360度パノラマ写真の左2枚分。ほぼ中央の西の橋の先の分流点で中村川は堀川(画面右手前)と派大岡川(画面右上方)に分かれる。眼下の家並みは元町、堀川の対岸は造成中の外国人居留地。派大岡川に沿って松が植えられているのは吉田新田の汐除堤、その向こうに遊水池の一ッ目沼が見えている。満潮時には堤の水門を閉じて海水の流入を防ぎ、干潮時に沼の水を放流するようになっていた。沼はまた漁業にも活用されていた。遠方は太田丘陵である。左手の地肌も露わな崖は居留地造成のための土取場であろう。その右手にその名と不釣り合いな「大神宮」の小さな祠が見えている。派大岡川の堀川間の土地は手前が横浜新田、向こうが太田屋新田。横浜新田にはすでに土が入れられ、家屋が建ち始めているが、太田屋新田はまだ沼地の状態である。その造成は明治に入ってからのことになる。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
ベアトによる1865年10月の書き込み。横浜の山手から居留地の裏の吉田新田を望む。左の丘には外国人と編み笠および半裸の日本人がみえる。橋は西ノ橋、中央の家並みは元町になる。

■ 確認結果

目録番号: 766「横浜山手からの運河」は、横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊の〔解説編 横浜写真小史〕174頁には、「5.パーカーの「新しい横浜の全景」と推測される写真」として掲載されている。

撮影者は、イギリスの写真家「パーカー」か。メタデータ・データベースの撮影者は、「F.ベアト」となっている。さてどちらだろうか。

長崎の古写真考 目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
写真左側が下西山町、右側が片淵である。大手橋の袂から川沿いに、片淵方面へ少し下った所から撮影した写真である。大手橋の袂には、その昔、長崎氏の大手門があったことから川の名も堂門川と呼ばれた。現在は、一般に中島川と呼ばれている。昭和57年(1982)長崎大水害後の災害復旧河川改修工事に伴い、写真中央の川の関は取り壊されてしまった。写真上部、樹木の繁った所の石垣上の建物は、現在の富貴楼である。富貴楼の前身は、千秋亭と言い、寛政の昔から「松森の千秋亭」と言われ、大変有名であった。今も長崎の一流の料亭である。明治20年(1887)頃、長崎を訪れた伊藤博文がここに宿泊した際、女将内田トミの求めに応じて、その名に因んで「富貴楼」と命名したものという。富貴楼の裏口は、松森神社の境内である。樹木の間から松森神社の本殿屋根がみえている。松森神社には、県指定有形文化財「職人尽」の彫刻が本殿を囲む瑞籬の欄間に飾ってある。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
写真上部の建物は現在の富貴楼にあたる。現在は西山川と称されているこの川の周辺はこの写真の景観とは非常に異なっている。背後に写っている山は金比羅山である。

■ 確認結果

目録番号: 650「中島川風景下西山町辺り」は、〔画像解説〕で「川の名も堂門川と呼ばれた。現在は、一般に中島川と呼ばれている」と説明しているが、中島川本流は二股から右へ上がる。
堂門川なら、メタデータ・データベースの解説どおり「現在は西山川と称されている」とし、中島川支流である説明をした方が良いと思われる。

長崎の古写真考 目録番号: 365 茂木街道(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 365 茂木街道(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 365 茂木街道(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠にある場所が田上であり、途中の休息をとるために茶屋ができた。そこを過ぎると、茂木街道は一気に、長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。また、この峠を分水嶺として茂木において橘湾に注ぐ、若菜川が流れている。この写真は、茂木に下る川の街道を撮影した、明治10年代のものである。明治時代になり茂木街道を、人力車や荷車が通行する近代的な道路に改良する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。しかし、街道はまだ人力車が通行可能な近代的な道路となっていない。外国人居留地が建設された当時、外国人が茂木に行く楽しみの一つは、日本の田舎の穏やかで美しい自然に触れることであった。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
茂木街道は長崎から茂木への街道。写真はこの街道途中にある田上を撮影。田上はこの街道の峠になり、街道の要所であった。

■ 確認結果

目録番号: 365「茂木街道(1)」は、〔画像解説〕で「この写真は、茂木に下る川の街道を撮影した、明治10年代のものである。明治時代になり茂木街道を、人力車や荷車が通行する近代的な道路に改良する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。しかし、街道はまだ人力車が通行可能な近代的な道路となっていない」と説明している。

これは誤認だろう。街道のように見えるのは、実は水車の水路である。明治20年(1887)6月開通した人力車や荷車が通る茂木新道は、写真外の右側を通っている。
茂木新道から見た若菜川支流河平川にあった水車小屋の風景となる。したがって、撮影年代はその後と考えられる。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1521

長崎の古写真考 目録番号: 328 大浦海岸通り(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 328 大浦海岸通り(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 328 大浦海岸通り(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
小川一真アルバムの一枚。大浦海岸通りの洋館群が海上から撮影されている。右の橋は明治22年前後に架替えられたポーストリングトラス橋の下り松橋(松ヶ枝橋)で、元の橋は明治3年(1870)に架けられた。建物は右から大浦11番ドイツ領事館、10番は外国人の社交場であった長崎クラブ、9番は2棟あってスタンダード・オイル、8番は空き地で7番はホーム・リンガー商会、6番はイギリス領事館、5番はジャディ・マセソン商会とヴェランダ付き2階建て洋館が続いている。大浦10番の前には電信柱が見える。長崎電灯株式会社ができたのは明治22(1889)年4月で、電信柱は26年(1893)から建てられたので、この写真はそれ以降の撮影である。この建物の屋根越しに明治15(1882)年建築のラッセル館(現活水学院)とその尖塔が見える。海上の小船は大船に荷物を運ぶサンパン。街路の中央(文久年間に埋め立て拡幅)の松の木は大きく成長している。撮影は20年代後半。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
明治中期の大浦海岸通りを撮影した写真である。通りには街灯が設置され、街路樹が植えられている。通りに面して商館や領事館が整然と並んでいる。当時の質の高い景観を見ることができる。手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)。 

目録番号:4732 大浦海岸通り(6)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
作者不詳の大型蒔絵アルバムの1枚でBUND NAGASAKIと印字。ほかの写真の撮影時期から推測して、明治25年(1892)頃、海上から大浦バンドを撮影したものである。右手に少し写っているのが大浦11番のドイツ領事館。10番は居留地の外国人社交場であった長崎クラブ。以下9番スタンダード・オイル。次の洋館も地番は9番である。目録番号328(整理番号8-2)の写真と較べるとこの横の洋館がない。8番は空き地で7番がホーム・リンガー商会。次の旗竿が立っている緑壁の建物が大浦6番のイギリス領事館、5番のピンク壁の大きな洋館にはアジアにおけるイギリスの大商社ジャディ・マセソンが入居していた。丘の上には明治15年(1882)新築のラッセル館(旧活水学院木造本館)が見える。大浦10番の長崎クラブの前には電信柱が見えるが、これは明治26年(1893)以降長崎電灯株式会社が設置したものである。街路の松木の高さを比較することで類似写真の新旧が判る。

■ 確認結果

目録番号: 328「大浦海岸通り(1)」の〔画像解説〕で、超高精細画像データベースは、「海上から撮影されている」とあるが、「下り松橋(松ヶ枝橋)」手前の突堤から撮影できたのではないか。
旧長崎税関下り松派出所(現長崎市べっ甲工芸館)の6番波止と思われる。

メタデータ・データベースは、「手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)」と解説している。「下り松橋(松ヶ枝橋)」でないか。建設年代を記すのは、いかにもこの鉄橋?が明治3年に造られたように取られる。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1539

目録番号:4732「大浦海岸通り(6)」も、海上からではなく、同突堤からだろう。

長崎市教育委員会編「長崎古写真集 −居留地編ー」平成15年刊第3版の62,63頁にも同じような写真が掲載されている。141頁図版解説では、両作品とも「下り松南側の波止から撮影したもの」となっている。 

「幕末・明治期古写真超高精細画像データベース」の改善について

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「幕末・明治期古写真超高精細画像データベース」の改善について

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の”このサイトについて”をクリックすると、「幕末・明治期古写真超高精細画像データベース」も閲覧できる。
長崎の写真201点、長崎を除く全国の写真300点を登載する。最近、構築されたデータベースか。これまでとシステムが変っている。

「ベストショット」では、日本の面影・長崎の面影、「古地図から検索」では、長崎湾周辺・中島川周辺・長崎居留地付近、「古写真を探す」では、撮影者から探す・撮影年代で探す・撮影地域で探す・条件を指定して探すことができるが、構築が不完全で問題点が多い。メタデータ・データベースの最近の追加作品が入っていない。改善をお願いしたい。

■ 確認結果

「古地図から検索」では、古写真を撮影した地点と向きを、拡大地図に赤丸ポイントで示しているが、実際の作品と合わないのが多い。メタデータ・データベースでの修正が反映されていない。拡大地図へすぐ戻れない。拡大地図は、主な地名や山名をはっきり表示しないとわかりにくい。

「古写真を探す」では、撮影者・撮影年代・撮影地域で検索できるが、検索結果の出方がおかしい。例えば「上野彦馬」は70件あるが、最初の30件のみ。Nextないし2頁以降は全体の撮影者の画面となる。その他の撮影者や撮影者未詳も検索できるようにしてほしい。
撮影地域検索は、地図ではわかりにくく地名を表示してほしい。撮影者・撮影年代・撮影地域検索とも、1件を見た後、前後の作品へすぐ進めない。

1例として、メタデータ・データベースの目録番号:2886「中島川と編笠橋(2)」の作品について見てみよう。超高精細画像データベースでのタイトルと画像解説は次のとおり。
この項は次の記事末尾で指摘済。 https://misakimichi.com/archives/2339

2886 中島川と風景(3)
右岸に料亭、その先の阿弥陀橋袂に電柱、奥の白い塀の大きな木がある屋敷は明治15年(1882)に新築された上野彦馬邸(上野撮影局)、左岸の阿弥陀橋の森は伊良林の水神社で、江戸時代に上水道として敷設された倉田水樋の水源である。その手前家の1階の屋根には「時計工」の看板が見える。目録番号341(整理番号8-15)と比較すると、写真手前、川に作られている「水汲場の枡」が新しくなって、写真が新しい。高麗橋上からの撮影で、電柱が立っていることから明治20年代後半の銭屋川(中島川)の風景である。阿弥陀橋は、伊勢町-八幡町間に、元禄3年(1690)日本人町人「園山善爾」が私費で架けた長さ13.4m、幅4.5mのアーチ石橋である。昭和57年(1982)の長崎大水害で被害を受け、災害復旧の河川改修工事でコンクリート橋に変わった。復元を条件に解体されたが、野積のまま放置されている。早く復元して保存したいものである。

これは、次の「2194 中島川と風景(2)」の解説と同じである。写真は「編笠橋」が正しいので、メタデータ・データベースでは、目録番号:2886「中島川と編笠橋(2)」と修正されたのに、超高精細画像データベースでは、タイトルや画像解説がそのままとなっている。

「幕末・明治期古写真超高精細画像データベース」に登載のある作品で、画像解説に疑問があるものを、以下の記事で取り上げてみたい。これまでの「古写真考」と少し重複する作品もある。