長崎の古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか(再掲)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか(再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

目録番号:4878 ドン山(から)見た大浦居留地・出島  (掲載略)

■ 確認結果

山川出版社が最近、2011年4月25日発行したばかりの古写真集「レンズが撮らえた 幕末の日本」。202頁に掲載された「鍋冠山からの長崎港」。同解説は次のとおり。
鍋冠山からの長崎港 (長崎大学附属図書館蔵)
1865年頃/F.ベアト撮影。右手に見える出島の右側に明治元年(1868)に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応元年と思われる。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。

長崎大学データベースでは、目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」などの作品。以前から再三指摘しているが、撮影場所は「鍋冠山」や「ドンの山」からではない。「星取山」が正しいだろう。
データベースが、このようなタイトルや画像解説のまま修正されないのは、利用する側にとって非常に困る。本ブログの次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1877
https://misakimichi.com/archives/1598

大浦川が左上に斜めに上り、弁天橋が河口に架かり、その左が南山手居留地である。「鍋冠山」や「ドンの山」からは、大浦川や長崎港はこのような景色とならない。「星取山」の山頂から撮影された。現地確認した現在の写真は上のとおり。山頂は現在、木立があり、景色が見える中腹の「港ヶ丘パーク墓苑」から写した。
長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地」平成15年刊第3版の42頁に同じ古写真が掲載されている。同138頁による「図版説明」は次のとおり。

25 星取山から長崎港を見下ろす         長崎大学附属図書館所蔵
星取山の山上付近から長崎港を見下ろしたもので、手前に大浦、東山手の居留地、右手に出島と旧市街地、港の向こうには大きく広がった浦上川の河口部と対岸・淵村の集落が望まれる。出島にはその左端に慶応3年(1867)に造成された馬廻しの突出がみえるが、明治2年2月に築町間に架設された出島新橋がないので、明治元年頃の撮影と推定される。東山手の丘上には、旗竿を立てたイギリス領事館の2階建て洋館の背面がみえている。