長崎外の古写真考 目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
規模の大きさで有名だった妓楼である。この写真はそれを海から撮影したもので、中央が洋館、その左に日本家屋の一部が見えている。左端が名物の三層楼であろう。日本家屋は建坪1,200坪、洋館は400坪あった。明治17年(1884)高島町遊廓から移転し、洋館を外国人用、日本家屋を日本人用として妓楼経営を行っていた。高島町時代から「ナンバーナイン」の通称で知られるようになったらしい。自家発電所をもち、電飾でも名高かったが、明治29年(1996)には周囲への供給権を得て神奈川電灯会社となった。同時に永楽町にも妓楼を設けていたが、明治33年(1900)に営業を永楽町に一本化した。洋館は養生院(病院)、横浜ホテル、神脳院(精神病院)などとして利用され、日本家屋には神風閣という料亭ができたりしたが、明治44年(1911)に火災で焼失した。その際、ウィルビーというイギリス人貴族を含む2名の患者が犠牲となっている。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
写真タイトルはKANAGAWAとある。神奈川新風楼の外国人用西洋館、遊女屋である。

目録番号:1844 神奈川七軒町の神風楼(2)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
七軒町にあった妓楼を海から撮影したもの。右手の日本家屋は日本人用、中央の洋館は外国人用である。総建坪1,600坪という規模の広大と自家発電による照明で知られた。右端の日本家屋の向こうにかすかに発電所の煙突が見えている。明治17年(1884)高島町遊廓から移転、同時に永楽町にも妓楼を設けたが、明治33年(1900)遊廓の反町移転を機に廃業し、営業を永楽町に一本化した。跡地の洋館は養生院(病院)、横浜ホテル、神脳院(精神病院)などとして、また日本家屋は神奈川病院、神風閣(料亭)などとして利用されたが、明治44年(1911)に火災で焼失した。洋館の左手に白い橋桁の見えているのが碧海橋で、その左手、和船の着岸しているのは、大手の酒問屋結城屋である。日下部金兵衛のカタログ番号585番の写真。

■ 確認結果

目録番号: 924「神奈川七軒町の神風楼(1)」の、超高精細画像データベースは「この写真はそれを海から撮影したもの」と画像解説しているが、次の目録番号:1844「神奈川七軒町の神風楼(2)」のとおり、船着場の対岸か、白い手すりのある橋のたもとから撮影している。

一方、目録番号:1844「神奈川七軒町の神風楼(2)」も、「七軒町にあった妓楼を海から撮影したもの」と画像解説しているので、調査中。
七軒町は、現在の横浜市神奈川区台町となっている。参考となる比較古写真や明治横浜地図が見当たらないため、地元で検証をお願いしたい。

メタデータ・データベースのタイトルは、1枚目が「神奈川の洋館」、2枚目が「神奈川の市街地(1)」となって、超高精細画像データベースと一致していない。
なお、妓楼名を「新風楼」とした目録番号もある。「新風楼」は誤りで、正しくは「神風楼」であろう。歌川国松の明治8年(1875)「横浜高嶋町神風楼之図」がある。