月別アーカイブ: 2011年6月

長崎の古写真考 目録番号:3814 立山からの長崎港と町並み(2) ほか (再掲)

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 長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3814 立山からの長崎港と町並み(2)ほか (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3814 立山からの長崎港と町並み(2)

目録番号:5108 長崎福済寺上からの長崎港(1)
〔画像解説〕
明治中期の長崎港を立山の中腹から望んでいる。右手に台場、海岸線の蔵屋敷や出島、県庁舎、大村屋敷などが写されている。海上には多くの船舶が停泊し長崎港の殷賑を伝えているが、画質が悪くいずれも不鮮明である。

■ 確認結果

目録番号:3814「立山からの長崎港と町並み(2)」と、次の目録番号:5108「長崎福済寺上からの長崎港(1)」は、同じ写真である。〔撮影者:上野彦馬〕であろう。
馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊83頁に、「79.墓地越しの長崎港眺望」として掲載されている。同解説は次のとおり。

79.墓地越しの長崎港眺望
上野彦馬は周りを囲む山々から長崎湾を俯瞰した写真を数多く撮影している。No.79の写真は墓地越しにとらえたものである。台紙裏に「Nagasaki」「10.8.99」の書込みがあり、明治32年(1899)の撮影と思われる。着色写真。
撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治32年(1899)  所蔵者 学校法人産業能率大学

撮影場所は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1854

長崎の古写真考 目録番号:2882 長崎立山からの長崎港(1) (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2882 長崎立山からの長崎港(1) (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2882 長崎立山からの長崎港(1)

■ 確認結果

目録番号:2882「長崎立山からの長崎港(1)」は、〔撮影者:上野彦馬〕であろう。
馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊60頁に、「48.福済寺裏山からの長崎港」として掲載されている。同解説は次のとおり。

48.福済寺裏山からの長崎港
長崎港の入江を撮影した風景写真。上野撮影局から約1キロメートル離れた長崎市筑後町に位置する福済寺は崇福寺(No95)、興福寺、聖福寺とともに長崎四福寺と呼ばれる黄檗宗の唐寺で、戦前は国宝指定されていたが、原子爆弾によって全焼した。多数の船が浮ぶ画面左には中島川が見える。
撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治10年代  所蔵者 学校法人産業能率大学

撮影場所は、「福済寺裏山から」と言うより、ほぼ「立山」山頂から撮影されている。本ブログの次の記事を参照。 
https://misakimichi.com/archives/2328
https://misakimichi.com/archives/1575

長崎の古写真考 目録番号:4879 諏訪神社(4) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4879 諏訪神社(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4879 諏訪神社(4)

目録番号:3253 諏訪神社(2)
〔画像解説〕
明治中期(1887)頃の手彩色の写真。秋のくんちの踊り馬場から参道入り口方面を見た写真。三つの鳥居が重なって見える。明治中期の、諏訪神社参道の風景。

■ 確認結果

目録番号:4879「諏訪神社(4)」と、次の目録番号:3253「諏訪神社(2)」は、同じ写真である。後者の画像解説は「大鳥居」。解説を入れ間違えている。
青銅馬を写したこの写真は、〔撮影者:上野彦馬〕のように思われるが、違うところがある。

上野彦馬撮影の写真は、馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊55頁に、「42.諏訪神社」として掲載されている。同解説は次のとおり。
42.諏訪神社
上野撮影局近くに鎮座する諏訪神社。江戸時代初期に造営された鎮西大社諏訪神社は安政4年(1857)に火災で焼失し、明治2年(1869)に新社殿が再建された。No.94も同神社の写真。
撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治3年(1870)頃  所蔵者 学校法人産業能率大学

画像を比べると、上野彦馬撮影は撮影の向きが少し左へ寄っている。青銅馬などに蔭がない。拝殿後方左の木立も繁り方が少し違うようである。
目録番号:4879「諏訪神社(4)」は、画像の鮮明さから、〔アルバム名:上野彦馬(?)〕のとおり、上野彦馬作品とも考えられるが、今のところ、何とも言いようがない。

諏訪神社境内案内による「神馬像」の説明は、次のとおり。最後が現在の北村西望作「神馬像」
神馬像(しんめぞう)
(現在ある神馬像は)平和祈念像の作者故北村西望氏102歳時の作です。昭和59年第16回日展に出品され、昭和天皇の御在位60年を記念して昭和60年10月に奉納されたものです。
そもそも当神社には、明治3年に三菱重工業長崎造船所の前身である長崎製鉄所より創業記念として神馬像が奉納されておりましたが、大東亜戦争時に国へ供出され、それ以来神馬像は姿を消しておりました。
故北村西望氏の奉納に際し、長崎の歌人 故池田可宵氏は次の俳句を残されました。
「諏訪の杜 神馬もどりて 竹の春」

長崎の古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」
〔画像解説〕
長崎の運河とそこに浮かぶ木造の小舟。当時の長崎では数多くの運河が掘削され、物流の回路が形成されていた。「Nagasaki.Japan.One of the numerous Canals.intersecting the Native City.“Low water.”」(地元の街を交差する多数の運河のひとつ、低水位、長崎、日本)との書込みがある。

■ 確認結果

馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊54頁に掲載がある「41 長崎の運河」。画像解説は上記のとおり。
撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治6年(1873)  所蔵者 学校法人産業能率大学
長崎大学データベースに見当たらない。具体的な撮影場所の解説がない。

写真中央左にアーチ式石橋が写る。新地蔵の銅座側門口に昔から架かっていた石橋「新地橋」である。後ろの木立の高台は大徳寺跡。左端奥から愛宕山の稜線が下る。
現在の十八銀行本店前あたり、中島川河口に架かっていた「新大橋」の上から、合流する銅座川を向いて、「新地橋」手前の舟だまりを写していると思われる。
新地橋の地図は、九州大学デジタルアーカイブから「長崎港新図」 明治27年(1894) 出島部分の拡大。

この作品は、上野彦馬撮影次の目録番号:6078「大徳寺跡から新地と出島を望む」を参照。
長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の29頁による解説は次のとおり。
「新地橋」を大徳寺跡から、逆方向に写している。「新地橋」の貴重な石橋写真であるのに、「新地橋」には注目されていない。

21 大徳寺跡から新地と出島を望む   278×215
明治元年(1868)に廃寺になった大徳寺跡から新地ごしに出島を望む。明治2年(1869)に架設された出島右端の出島新橋と中島川河口部の長さ48.6mの新大橋、さらに梅香崎と西浜町を結ぶ梅香崎橋が見える。前ニ者は木製の桁橋である。出島右の茂みの中に県庁舎は見えない。遊歩道建設のための出島の築石の石垣が新しい。左の新地蔵裏の内海の埋立が進んでいるのがわかる。右の川は銅座川。(21・22・23は3枚組写真)

「新地橋」の記事は、  https://misakimichi.com/archives/2173
「広場場橋」の写真は、 https://misakimichi.com/archives/2348
https://misakimichi.com/archives/2462

長崎の古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

■ 確認結果

以下、古写真集「上野彦馬歴史写真集成」から、わかった作品を数点、取り上げてみる。
まず、長崎大学データベースでは、目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」。撮影者は、「内田九一」か、それとも「上野彦馬」だろうか。
馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊53頁に、「38.高島石炭場」として掲載されている。同解説は次のとおり。

38.高島石炭場
高島地区は、石炭産業を唯一の基幹産業として明治から昭和にわたって発展した、いわゆる「軍艦島」を含む一帯。画面左に外国人風の男性ニ名の姿が見られる。画面右には「長嵜高島石炭場 Takashima mine.Nagasaki」の記載がある。
撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治元年(1868)  所蔵者 学校法人産業能率大学

一方、上野彦馬門下の「内田九一」が撮影したとする「長崎高島炭鉱石炭船積場」。内田写真株式会社蔵の写真がある。 http://news.walkerplus.com/2010/0115/17/photo04.html

はたして、撮影者はどちらなのか。撮影した年代もいろいろある。本ブログの次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/2237
https://misakimichi.com/archives/1619
https://misakimichi.com/archives/2364

長崎外の古写真考 目録番号:6206 横浜弁天社(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6206 横浜弁天社(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6206 横浜弁天社(3)

■ 確認結果

目録番号:6206「横浜弁天社(3)」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2−外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊28頁に、「26.洲干弁天社境内 左手奥が社殿」として、掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:4049 托鉢の尼僧

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4049 托鉢の尼僧

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4049 托鉢の尼僧
〔画像解説〕
スティルフリード=アンダーセン製作のアルバムの一枚。子供の托鉢僧。左の子供は胸に路銀と思われる袋をぶらさげ、右の子供も野宿できるように厚着である。

■ 確認結果

目録番号:4049「托鉢の尼僧」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2−外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊69頁に、「99.托鉢の尼僧」として、掲載されている。
同写真集1の161頁にも、「222.托鉢する尼僧」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:4005 庭園と屋敷

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4005 庭園と屋敷

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4005 庭園と屋敷
〔画像解説〕
戸塚村(現新宿区戸塚町)にあった旧高松藩主松平頼聡の別邸であろう。明治15年(1882)に東京専門学校(現早稲田大学)を開校した大隈重信が、2年後の明治17年(1884)にこの屋敷を購入。庭を和洋折衷に改装したという。1904年発行の写真5010では池が埋められ芝生の庭園になっている。この写真は明治初年にスティルフリード(Baron Raimund Stillfried Rathenitz)が撮影したものと思われ、大隈が購入する以前だと思われる。

■ 確認結果

目録番号:4005「庭園と屋敷」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2−外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊39頁に、「51.江戸の屋敷と庭園」として、掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3975 渡し舟(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3975 渡し舟(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3975 渡し舟(4)
〔画像解説〕
九人の男性を乗せた渡し舟が川岸を離れようとしている。船には人力車も乗せられている。渡し場には材木や、荷駄を積んだ二頭の馬、大勢の人の姿が見える。背後には四、五軒の藁葺き屋根の家が建っている。

目録番号:4068 渡し舟(5)    (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号: 629「渡し舟(1)」、目録番号:4886「渡し舟(7)」は前掲。この記事の目録番号:3975「渡し舟(4)」と、目録番号:4068「渡し舟(5)」(同写真 掲載略)も、場所は東京の多摩川下流「川崎・六郷の渡し」。〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。この項は次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/2757
https://misakimichi.com/archives/2617

歌川広重 保永堂版より「川崎・六郷の渡し」は、”web浮世絵”から。北斎・広重の浮世絵と東海道の古写真ーその3 に、「1860年代「川崎六郷の渡し」ベアト撮影」とした写真があり、「川崎・六郷の渡し」とわかった。長崎大学データベースでは、目録番号:3975「渡し舟(4)」の作品。

ただ、「ベアト撮影」とする確認が取れなかった。このたび、古写真集「異国人の見た幕末・明治
JAPAN」新人物往来社2005年刊76頁に、「渡し舟」として掲載されていることがわかった。
同解説は次のとおり。
渡し舟  渡し舟は村と村を繋ぐ重要な水上交通の手段であった。人や荷物を運ぶだけではなく、写真のように車や、牛などの動物の運搬にも役立っていた(ベアト撮影/着色)

長崎外の古写真考 目録番号:2443 刺青姿の男性(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2443 刺青姿の男性(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2443 刺青姿の男性(3)

■ 確認結果

目録番号:2443「刺青姿の男性(3)」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊232頁に、「いれずみをした人足 1890年代 金幣アルバム」として掲載されている。