長崎の古写真考 2」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 61P 立山中腹から見た長崎の街と港

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 61P 立山中腹から見た長崎の街と港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

61P 立山中腹から見た長崎の街と港。 1866年ベアト撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

61P 立山中腹から見た長崎の街と港。 1866年ベアト撮影
●幕末長崎の街と港
福済寺裏山の立山中腹から、ベアトが撮影した幕末長崎の街と港です。背後の海岸には大浦の外国人居留地も見えます。キャプションでは「イギリスの居留地」と説明されています。写真は…幕末長崎の街並みが見事に写し出されています。
1866(慶応2)年2月というベアトの書き込みもあります。撮影時期が明確なため、幕末長崎の街並みのベンチマーク(基準点)となる写真です。
このころ坂本龍馬は、…二人は連れだって4月2日に長崎を訪問します。従って、この写真は龍馬とお龍が目にした長崎の景色ということになります。…

データベースでは、目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」。この作品は、本ブログ次などを参照。
https://misakimichi.com/archives/2328
撮影場所が「福済寺裏山の立山中腹から」となって、必ずしも明確ではない。どこも「龍馬が見た景色」となる傾向もどうかと思われる。

撮影場所は「立山から」に間違いないが、長崎大学が「幕末長崎の街並みのベンチマーク(水準点)となる重要な写真」としながら、具体的な撮影地点をはっきり検証されてないため、いろいろな意見が出ている。
私が推定した地点は、「ホテル長崎」左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりである。ホテル横の空き地に墓地が造成され、その上部に老人ホームが新しく建っている。

「立山」とは普通、バス終点付近を言い、このあたりが山頂だろう。しがって目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の撮影場所は、「福済寺裏山の立山中腹から」とまぎらわしくしないで、目録番号:2882「長崎立山からの長崎港」などと同じく、「立山から」撮影の説明で良いのではないか。
何度となく指摘しても、解説を一向に改めないのは、いかがなものか。現地確認を必ずお願いしたい。データベースは修正されたのに、超高精細画像の解説がまだそのままである。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 50P 亀山社中の建物

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 50P 亀山社中の建物

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

50P 亀山社中の建物。 1875年撮影の写真に写り込んでいた

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

50P 亀山社中の建物。 1875年撮影の写真に写り込んでいた
●亀山社中
次頁左上の写真は坂本龍馬が創設した日本初の商社(カンパニー)とされる亀山社中だった建物です。これまで社中の昔の写真は無いと思われていたのですが、2009(平成21)年12月11日の朝日新聞の紙面で初めて公開しました。1875(明治8)年に撮影された長崎奉行所立山役所の写真に偶然写し込まれていたものです。ぼやけているのは小さな部分を拡大したためです。…

データベースでは、目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」。この作品は、本ブログ次を参照。
朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか
https://misakimichi.com/archives/2158
長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校
https://misakimichi.com/archives/3485

目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」に、亀山社中の建物が写し込まれていることは異論がないが、この作品の撮影場所を新聞発表では、「玉園墓地」(永昌寺墓地か)からとしているのは、大きな誤認だろう。「聖福寺」大雄宝殿の背後、開山老和尚(鉄心)塔所がある石段の入口あたりの道からが考えられる。
「旧長崎奉行所立山役所」も写された貴重な写真なので、長崎歴史文化博物館においても、正しい撮影場所の検証をお願いしたい。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影

72P 松江からの視察団。  1867年8月(新暦)、上野彦馬のスタジオで撮影

106P 幕末中国人男女の正装。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影

107P 中国道教の道士。  1865〜66年ごろ上野彦馬撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影
●ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち
上野彦馬のスタジオで撮影されたロシア海軍士官と長崎の”娘”たちです。長崎大学附属図書館武藤文庫の「上野彦馬幕末アルバム」に収載されています。士官の肩に階級章を付けるのはロシア海軍に独特のものでした。…

72P 松江からの視察団。  1867年8月(新暦)、上野彦馬のスタジオで撮影
●松江の視察団、西洋文化に「アキレハテ」
2009(平成21)年5月21日付け朝日新聞「長崎今昔」で「コウモリ傘とサムライたち」として紹介した1枚です。長崎大学附属図書館武藤文庫の「上野彦馬幕末アルバム」に収載されています。
『龍馬が見た長崎』(朝日選書)に掲載したところ、島根県古代文化センターの岡宏三専門研究員から、松江市の藤間家に同じ写真が残されているという情報を戴きました。写されているのは松江の人であり、その足跡は藤間家の『萬覚留 長崎行日記』と『萬日記留』の2冊に記載されているということです。…

106P 幕末中国人男女の正装。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影
●幕末中国人男女の正装
…唐人は1859(安政6)年の開国以後、唐人屋敷入口の広馬場や新地への進出を図りました。写真は1865〜66(慶応2)年ごろ、上野彦馬のスタジオで撮影された清朝時代の正装の中国人男女です。…

107P 中国道教の道士。  1865〜66年ごろ上野彦馬撮影
●中国道教の道士
上野彦馬が撮った道士です。1865〜66(慶応2)年ごろの撮影。長崎大学附属図書館武藤文庫のアルバムに収録されています。道士とは、中国の伝統宗教の道教に帰依し、その活動を職業とする人です。…

以上4作品は、データベースにない。長崎大学附属図書館武藤文庫の「上野彦馬幕末アルバム」に収載されているようだが、これもすべて50点近く、データベースで公開をお願いしたい。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 
ステレオカード。1860年ごろピエール・ロシエが出島で撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 
ステレオカード。1860年ごろピエール・ロシエが出島で撮影

●オランダ商人妻子と乳母—開港期の生活を写す
出島のオランダ商人カール・J・テキストルの日本人妻(マサナギ・ナオ)と乳母のステレオ写真です。ナオが抱いているのは、テキストルの間に1859(安政6)年に生まれた長女カロリーナ・マリアです。スイス人写真家ピエール・ロシエが出島内部で撮影し、ロンドンのネグレッティ・アンド・ザンブラ社から開国直後の「日本の風景」の1枚として販売されたものです。…

データベースでは、目録番号:3416「母子と乳母」。まだ撮影地域:未詳、撮影年代:未詳のままとなっている。タイトル、解説も違う。
この作品は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2646
本来のデータベースをまず修正してから発刊するべきではないか。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号の士官ら ほか 

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号の士官ら ほか 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号(上)とドゥジャンビ号の士官ら(下)。1864年出島で撮影。

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号(上)とドゥジャンビ号の士官ら(下)。

●下関戦争前夜のオランダ海軍士官
オランダ海軍の軍艦メタレン・クルイス号(上)とドゥジャンビ号(下)の乗組員の軍服正装での記念写真です。 下関戦争(1864=元治元年8月)が始まる4ヵ月前、準備のために長崎に寄港した際に撮影しています。ボードイン・コレクションのなかの2枚です。光を散らすため背後に白い屏風が立てられています。撮影者はアルベルト・ボードイン、場所は出島と思われます。…

データベースでは、目録番号:6243「下関戦争のメタレン・クルイス号の乗組員」と、目録番号:6244「下関戦争のジャンビ号の乗組員」。まだ撮影者:未詳、撮影地域:未詳のままとなっている。タイトルも違う。
この作品は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2647
本来のデータベースをまず修正してから発刊するべきではないか。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 25P 十人町から写した出島と新地

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 25P 十人町から写した出島と新地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

25P 十人町から写した出島と新地。「ザ・ファー・イースト」1871年7月1日号

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

25P 十人町から写した出島と新地。「ザ・ファー・イースト」1871年7月1日号

●明治初期の新地と出島
横浜で発行された写真貼り付け英字新聞『ザ・ファー・イースト』の1871(明治4)年7月1日号に掲載された長崎の新地(右側)と出島(中央左側)の写真です。この新聞は文明開化が進む明治の初め、貼り付けた写真で日本各地を紹介し、写真による新聞報道の始まりとなりました。
撮影ポイントは十人町の丘の上で、左の木造家屋は江戸時代の遠見番所の名残です。…さらに、左端の大きな屋根の右横には梅香崎橋が確認できます。…

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:1003「新地蔵と出島(1)」。超高精細画像による解説は、次のとおり。

日本で発行された英字新聞”The Far East”紙の明治4年(1871)7月1日号に掲載された写真で、撮影時期もその直前とみてよい。十人町の丘上から出島と新地、旧市街を望んでいる。いずれも明治2年(1869)に架設された出島右端の出島新橋、中島川河口部の長さ27間にも及ぶ新大橋、新地と梅香崎を結ぶ梅香崎橋がみえる。すべて木製の桁橋である。これらによって出島から大浦にかけての海岸通りは連結されて、そこには要所に街灯が立ち、居留地のバンド景観を形成し始めたのであった。出島のみならず、築町の地先(新大橋の左手)や新地の海側にも、和様折衷的な初期洋館が建てられていたのがわかる。しかし旧市街地には、出島の上の樹叢の中に旧奉行所西役所時代の家屋が残るのをはじめとして、在来の日本家屋が立ち並ぶばかりで、まだ洋館は一切みられない。遠く立山の裾には本蓮寺や福済寺の甍が見え、左手には湾入した長崎港が望まれる。

この項は、本ブログ次記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1539
刊行本の解説は間違いないようであるが、撮影ポイントが「十人町の丘の上」だけでは具体的でない。「梅香崎橋」がすぐ左下に見えるのに、以前のデータベースは、「梅香崎の山手(中新町)からのアングル」と説明していた。

「十人町」の町名由来となった「遠見番跡」説明板は、現在、「みさき道」沿いに活水大学手前の路地に建てられている。「ナガジン」発見!長崎の歩き方によると、今の梅崎郵便局から坂段を登った十人町天満神社付近の「常盤崎」という一帯も考えられるので、研究をお願いしたい。
古写真の撮影地は、この神社あたり(ながさき出島道路オランダ坂トンネル入口上部)からではないだろうか。金比羅神社の尾根に山頂が覗かないこの下段あたりからとなる。

最近のヤフオク!で「横浜写真と呼ばれた明治期の小判手彩色写真」があった。これが手前右下に「梅香崎橋」を写している。解説は「梅香崎の高台から出島が撮影しています。出島の弧を描く海岸線と建物がよく判り…」とある。やはり十人町天満神社あたりからの撮影と思われる。
http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h188842799
目録番号:1003「新地蔵と出島(1)」と同じ写真の目録番号:5901「新地蔵と出島(ステレオ写真)(3)」も、解説を合わせてもらいたい。

最後の刊行本紹介「連載「長崎今昔」を再編 出版」は、朝日新聞長崎版2014年7月18日の記事。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島。2枚1組になり、写真の中にオランダ語の書き込みがある。1865〜66年ボードイン兄弟の一人が撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島。

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:6196「海からの出島鳥瞰」。ボードインコレクションによる解説は、次のとおり。「撮影者:空白」、「撮影年代:1863」のままとなっている。

文久3(1863)年頃、ボードイン博士が海上から撮影した出島です。左端の建物はカスタムハウス(税関)です。次の1番は出島通商会社、その横2番がボードイン博士の住居で、その横3番がボードイン領事の住んだオランダ領事館です。現在復元されている商館長の邸宅はこの領事館の写真が基礎となっています。この元カピタンハウスはシーボルト時代(1823年〜1828年)の姿を残しています。 -6196-

この項は、本ブログ次記事を参照。朝日新聞社『写真集 ”甦る幕末”』1986年刊14〜15頁のタイトル及び説明も、「長崎・出島。海側から見た」とあるが、私の単純な疑問点は次のとおりである。専門家による解明をお願いしたい。
https://misakimichi.com/archives/2180
https://misakimichi.com/archives/2318

(1)初期の写真機で、海上の揺れる船から撮影できただろうか。干潟から撮影したとの見解もあるが、外国の大型船か、手漕ぎの小型漕船が干潟に漕ぎ入れてまで写真を撮る必要があるのか。
(2)出島のこのような姿は、船上からでなく、梅香崎か大浦海岸から撮影できそうである。「長崎港精図」に赤線で示した2枚を組み合わせた写真ではないだろうか。陸上に必ず撮影できる地点がある。
(3)つなぎ合わせた中央下部にそれぞれ石柱らしいのが写る。最左端の黒ずみも、写真の汚損ではない。船上からの撮影としたら、こんな物は写らないのではないか。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 14P 幕末長崎のパノラマ写真

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 14P 幕末長崎のパノラマ写真

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

14P 幕末長崎のパノラマ写真。1864年フェリックス・ベアト撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

14P 幕末長崎のパノラマ写真。1864年フェリックス・ベアト撮影

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:6158「長崎鳥瞰」。ボードインコレクションによる解説は、次のとおり。「撮影者:A.F.ボードイン」、「撮影年代:1865年頃」のままとなっている。

慶應元年(1865)頃撮影された長崎市街の鳥瞰写真です。中央には新地蔵、左手には出島の建物がよくみえます。出島の後の茂みには長崎奉行所西役所の建物も見えます。右手には、元治元年(1864)年8月に完成した分析究理所が見えます。全体的に江戸時代の長崎の姿が鮮明です。浦上の湾奥には干潟が確認できます。
-6158-

撮影者が「F.ベアト」、撮影年代が「1864年」と判明した理由の説明をお願いしたい。
目録番号:4878「星取山から見た長崎港(1)」に、ベアト撮影の同じような小島養生所建物を写した作品があるが、この拡大でもない。関連が不明。
目録番号:6158「長崎鳥瞰」の解説を正しくするのであるなら、まずデータベースを修正してから、発刊をお願いしたい。
この項は、本ブログ次記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1928

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 巻頭2〜3P 星取山からの長崎市街のパノラマ ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 巻頭2〜3P 星取山からの長崎市街のパノラマ ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

巻頭 2〜3P (1)星取山からの長崎市街のパノラマ ベアト撮影 1864年
巻頭 2〜3P (2)勝海舟 1877年ごろ
巻頭 2〜3P (3)坂本龍馬 上野彦馬撮影局で井上俊三が撮影 1867年
巻頭 2〜3P (4)大浦慶
巻頭 2〜3P (5)息子の敬を抱く道永栄
巻頭 2〜3P (6)オランダ人医師ポンぺ
巻頭 2〜3P (7)イギリス商人トーマス・グラバー
巻頭 2〜3P (8)風頭からの長崎市街のパノラマ 1895年ごろ

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

巻頭 2〜3P (1)星取山からの長崎市街のパノラマ ベアト撮影 1864年

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:6152「星取山からの長崎港鳥瞰」。目録番号:1288「星取山から見た長崎港(2)」と目録番号:4878「星取山から見た長崎港(1)」にも、ベアト撮影の同じような作品がある。
最近、やっと撮影地が私の指摘により「ドンの山」とか「鍋冠山」から、「星取山」に変わった。現地確認をまったくしていない。目録番号:6152「星取山からの長崎港鳥瞰」のボードインコレクションによる解説は、次のとおり。

星取山から見た長崎港の鳥瞰写真です。手前の大浦外国人居留地には、まださほど洋館が建て込んでいません。その右手の出島の扇形は鮮明で、その右側には長崎の市街が続いています。湾の奥は浦上まで入り込んで浦上川につながっています。 -6152-

この項は、本ブログ次記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2832
著者は長崎大学附属図書館前館長、現在でも古写真資料室研究員である。データベースの全面修正に尽力し、早く「撮影者:F.ベアト」と直してから、発刊するべきではないか。
国指定文化財「ボードインコレクション」の研究が軽く扱われている。

巻頭 2〜3P (2)勝海舟 1877年ごろ
巻頭 2〜3P (3)坂本龍馬 上野彦馬撮影局で井上俊三が撮影 1867年
巻頭 2〜3P (4)大浦慶
巻頭 2〜3P (5)息子の敬を抱く道永栄

幕末から明治へ−歴史のパノラマに登場する主な人物。48頁によると(2)(3)は国立歴史民俗博物館、140〜141頁によると(4)(5)は長崎歴史文化博物館、長崎文献社の所蔵写真か。ここでも注記が必要だろう。11頁【凡例】三との説明が合わない。
(3)坂本龍馬の写真については、高知県立坂本龍馬記念館などの次記事を参照。
http://www.ryoma-kinenkan.jp/study/qa/ryoma/post-1.php
http://ohya.hatenablog.com/entry/20130526/1369555805

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 巻頭 1P 風頭の物見遊山 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 巻頭 1P 風頭の物見遊山 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

巻頭 1P (1)風頭の物見遊山 内田九一撮影 1873年ごろ(現・坂本龍馬像そばの旧石切り場)
巻頭 1P (2)浜町商店街の歳末大売出し 1910年代

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

巻頭 1P (1)風頭の物見遊山

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:657「風頭山(1)」と、目録番号:1195「風頭山(2)」の作品。いずれもまだ撮影者:未詳、撮影年代:明治中期となっている。超高精細画像による解説は、次のとおり。

横浜写真の50枚組(小川一真製作と思われる)の小型アルバムに収載され、鉛筆書きでNagasakiとキャプションがある。長崎旧市街の東部に位置する風頭山の物見遊山の情景。山の麓には長崎有数の寺院が並び、中腹から頂上付近までそれらの墓地が続いている。明治以前にはこの山に清遊を試みる者も多かった。この山頂から長崎港を望んだ写真も多い。この場所は現在でも残る風頭山頂横の古い石切り場の跡であり、切り立った岩はそのためである。切り出された石は墓石に使われた。和服を来た男女31人が思い思いのポーズで写されているが、中には子供も数人いる。服装は当時の普段着として興味深いが、16人ほどの男性成人のうち5人が丁髷を結い、残りの7人は散切り頭であり、女性には和傘と蝙蝠傘を持つものがあり明治初期の風俗をよくうかがわせている。左手背後の市街は立山方面で、海の奥に浦上新田の縁が見える。明治10年代頃か。

この作品は、本ブログ次記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2228
著者は長崎大学附属図書館前館長、現在でも古写真資料室研究員である。データベースの全面修正に尽力し、早く「撮影者:内田九一」、「撮影年代:1873年ごろ」と直してから、発刊するべきではないか。

巻頭 1P (2)浜町商店街の歳末大売出し

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:5127「長崎濱町通り」の作品。まだ撮影者:未詳、撮影年代:未詳となっている。「岡部商店」?の幟など確認され、現在の浜町通りに間違いないのだろう。これも「撮影年代:1910年代」なら、データベースを早く修正するべきではないか。