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朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか

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朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書の84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030 の作品)には、中央手前の風頭山中腹に明治初期の「亀山社中」と思われる建物が写っており、話題となっている。
この項は私もすぐ現地調査し、作品の撮影場所は「玉園町の聖福寺すぐ後ろの上手墓地の道から」と12月21日の記事にしている。 https://misakimichi.com/archives/2154

朝日新聞では、2009年12月11日付第1面の記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”に続き、きのう12月23日付の長崎地域版に”「亀山社中」確認 沸く龍馬ファン”の記事が載った。
これまで撮影場所は、朝日選書も「聖福寺から」と解説していたので、私は納得していた。
この経過は次を。 https://misakimichi.com/archives/386

しかし、今回の新聞記事では「現在の長崎市玉園町の丘の中腹から撮影したとみられる。…写真の中から旧長崎奉行所の堀の位置や山の稜線を目印に撮影場所を特定した」と変った。「ほぼ同じ場所から見た現在の様子」が下の写真。
新聞記事では写真が見にくいので、私が写していた同じ写真を載せる。3枚目が新聞社が撮影している玉園町の丘の中腹すなわち「玉園町墓地から」の写真。4枚目が私が撮影場所と思った「聖福寺上手から」の写真。

3枚目の写真が、新聞社がほぼ撮影場所としている「玉園町墓地から」の同じ現地写真。古写真と比べて違和感を覚えた点は次のとおり。
(1)写真の全体を眺めて、まず遠近感と高度感の違いを感じる。
(2)旧長崎奉行所(現長崎歴史文化博物館)前通りや玉園通りの向きが違っている。
(3)玉園通りの上下旧家の宅地が、玉園墓地に変ることは考えられない。
(4)風頭山と奥の彦山の稜線の重なりが合わない。左側豊前坊の全部が写っていない。
(5)諏訪の森(現長崎県立図書館付近)の木立が、背景の彦山山頂右側まで張り出している。
(6)上野彦馬の撮影。行きやすく当時の写真機が据えられる場所に限られる。

私は12月12日と14日現地調査をした際、玉園墓地も念のため写真を撮っていた。それが3枚目だが、しっくりせず、50mほど歩いて「聖福寺の上手」の道へ行って4枚目を写した。
今では古写真とまったく同じような景色は撮れない。目的とする対象物が写らないときは、全体を理解してもらうため、撮影場所をある程度少し変えることは私もあるが、この古写真については今までの解説どおり、「聖福寺の上手」あたりからの撮影と考えた方が妥当ではないだろうか。
朝日新書の写真下解説図にある「興福寺」の位置とも、関係者によってさらに検証をお願いしたい。「興福寺」大雄宝殿は、大棟中央上に大きな「瓢瓶」(火災除け)が写る建物と思われる。

私が撮影した場所は具体的には、「聖福寺」大雄宝殿の背後、開山老和尚(鉄心)塔所がある石段の入口あたりの道。全体の景色はこの場所からしか今は写せない。古写真の左下に1本の木が写っている。偶然にも同じような場所に大きくなったような木がある。 
朝日新聞の写真と記事は、これまで疑問点が多い。撮影場所を特定するのは良いが、慎重に調べ、正しく報道してほしい。本年元旦付「開港150年」長崎港を写したベアト撮影古写真の実際の撮影場所、立山墓地内の地点も少し違うのではないか。
この項は次を。 https://misakimichi.com/archives/1575

大草駅から水洗山・普賢岳・鎌倉山の縦走  平成21年12月

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大草駅から水洗山・普賢岳・鎌倉山の縦走    平成21年12月

平成21年12月23日(水 天皇誕生日)曇り一時小雨。諌早市多良見町の山、大草駅から水洗山・普賢岳・鎌倉山の縦走。参加6人。20日予定を雨のため延期。
JR長崎駅9時6分発長与経由竹松行乗車。大草駅→水洗山→普賢岳→鎌倉山→四角山林道→西川内→市布駅15時15分着(徒歩距離約12km)

3年ぶりにこのコースを歩く。通常は逆コースなので、大草から登ると高岩神社上の急な農道からの登山道入口がうろ覚え。適当に登って行くと、野副名上の三等三角点234.9mピークへ出た。南西尾根に方向修正。尾根を伝うとやっと水洗山(標高290m)に着いた。
普賢岳(標高322m)の手前で12時となり昼食。

この縦走路は展望が効かない。以前は普賢岳から大草小学校が少し見えていたが、それも見えなくなった。鎌倉山への途中で新しくできた林道へ出た。山腹の林道をそのまま下ると、鎌倉山(358.2m)へは登り損ねたようだ。西川内上の三叉路へ出る。朝霧の道標がもうない。
三叉路から昔の部落道を西川内の谷奥へ下る。本日の目的はこの旧道探索と、西川内の大正12年道路改修道標の標石。旧道はまだ使える。標石は上部に指差しマークのある珍しいものだ。市布駅で45分ほど列車待ち。16時3分長崎行きで帰着した。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/22834768.html
のりさん、迷宮への誘いは、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/10767794.html

長崎の西の空の夕日  09−26

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長崎の西の空の夕日  09−26

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成21年12月 6日の16時47分頃から
写真  4〜 5  平成21年12月 8日の17時12分頃から
写真  6〜 7  平成21年12月16日の16時26分頃から
写真  8〜10  平成21年12月22日の 7時23分頃から 冬至の朝焼け
写真 11〜12  平成21年12月22日の17時 2分頃から 冬至の日没

ボードイン・コレクション、 7月10日国登録有形文化財に

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ボードイン・コレクション、7月10日国登録有形文化財に

長崎大学附属図書館(長崎市)が所蔵する、オランダ人医師アントニウス・ボードイン(1820〜85年)が日本で収集した江戸末期〜明治初期の古写真「ボードイン・コレクション」が3月19日、国の登録文化財として文化審議会から答申された。6月くらいに国の登録となる予定だと、前に新聞記事により伝えていた。 https://misakimichi.com/archives/1669

その後、登録はどうなったのだろうと思っていたところ、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」が、2009年12月朝日出版から発行された。序章11頁の文中に「このボードイン・コレクション528点は、2008年に国の登録有形文化財に指定されました」とある。
「2008年」は、明らかに「2009年」の間違い。

HP「国指定文化財等 データベース」を見ると、次のとおり「主名称:ボードイン収集紙焼付写真」は、2009年7月10日、国の登録有形文化財(美術工芸品)となっていた。
新聞・テレビでその後の登録の報道はあまりなかったようだし、長崎大学・長崎県・長崎市の広報も、HP上では今見かけない。

長崎大学附属図書館が所蔵する「幕末・明治期日本古写真」は、文部省科学調査研究費の補助を受け構築したデータベースである。このような内容で全国に公開されていると、今後も見る人・利用する人に多くの迷惑をかけると思われる。
国の登録有形文化財となったので、大学関係者へさらに一層の研究と整備をお願いしたい。

国指定文化財等   登録有形文化財(美術工芸品)

主名称: ボードイン収集紙焼付写真
登録番号: 5
枝番: 0
登録年月日: 2009.07.10(平成21.07.10)
部門・種別: 歴史資料
ト書:
員数: 528点
時代区分: 江戸〜明治
年代:
検索年代:

解説文: 幕末から明治初頭に日本に滞在し、医学教育に努めたオランダ人医師アントニウス・F・ボードイン(Antonius Franciscus Bauduin 1820-1885)と、貿易会社社員であり、のちに領事を兼任したその弟アルベルト・J・ボードイン(Albertus Johannes Bauduin 1829-1890)が収集した写真である。
アントニウス・F・ボードインは、オランダに生まれ、同国で医学を学び、陸軍医学校の教官を勤めた。既に出島に居留していた末弟のアルベルト・J・ボードインの薦めもあり、文久2年(1862)、ポンペの後任として長崎の養生所で教鞭をとるため来日した。また、その後も大阪仮病院や大阪陸軍病院、大学東校においても教鞭をとり、明治3年(1870)帰国している。
アルベルト・J・ボードインはオランダ貿易会社社員として安政5年(1858)に来日し、のちに駐日オランダ領事も兼任した。明治7年の帰国後、1875年に駐蘭日本公使館書記官となり、1884年には同一等書記官として勲四等旭日章を授与されるなど、長く日本との関係を保っている。
本写真は、彼らが主に日本滞在中に収集・撮影したもので、数枚を除き、銀襴の表紙を施した3冊の和装大判アルバムと、クロス貼りに革背表紙の洋装小判アルバム1冊に貼りこまれている。
これらの写真はコロジオン湿板法により撮影され、主に鶏卵紙に印画されており、和装アルバム3冊は、パノラマ写真や四つ切判の大型写真から、縦15㎝横10㎝程の小型の写真までからなり、洋装アルバムには名刺判大のものが収められている。
3冊の和装アルバムには、開港直後の日本の記録を残したことで著名な写真家ベアト(Felice Beato)の撮影した写真が数多く収められている。ベアトはスタジオを構えた横浜を中心に、鎌倉・江戸・神奈川・大坂・長崎等各地で撮影しており、当該アルバム内の写真にも、これらの地の風景・風俗が記録されている。また、上野彦馬や堀與兵衛、中川信輔など、草創期の日本人写真家の撮影した写真も含まれる。また、これらの和装アルバムには、アントニウス自身が長崎で撮影した写真も認められ、兄が時々風景等を撮影していたことを伝える弟アルベルトの書簡がこれを裏付けている。
なお、和装アルバムに収められた写真、長崎で撮影されたものが最も多く、風景・風俗、ボードイン兄弟や知人の肖像、記念写真等も収められ、居留外国人の生活の一端を伝えている。また、鎌倉事件、生麦事件など攘夷事件の現場や下関戦争の写真、ベアトとスタジオを共同経営した画家ワーグマン(Charles Wirgman)が描いたこれらの事件や戦争のスケッチを複写した写真も収められている。
洋装アルバムは、前半に明治初頭の日本の政府要人の肖像写真であり、後半は洋風建築の官公庁や日本各地の景勝地の写真で構成され、中には複写を重ねたものも含まれる。各写真には被写体名を墨書した小紙片が添えられており、日本人の関与を窺わせる。また、明治11年竣工の陸軍省の写真が含まれており、この洋装アルバムが兄弟の帰国後に成立し、その後に兄弟が入手したものと推測される。
二人の没後、収集された写真は彼らの兄弟である第八子のドミニクス(Dominicus Franciscus Antonius Bauduin)の子孫に伝えられ、そのうち528点が平成19〜20年に長崎大学に譲渡された。長崎大学ではこれらの全てデータベース化して公開するなど、保存・公開の体制を整えている。
本件写真は、幕末・明治初頭の日本の姿と居留外国人の有様とを伝えるまとまった写真コレクションであり、写真史上・文化史上に資料価値が認められる。

朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

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朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

政治の中心だった立山の旧長崎奉行所(左)のそばに維新後、官立師範学校(右)が建てられた。この高台にあった県立美術館・県知事公舎は、長崎歴史文化博物館に建て替わった。山の中腹に見えるのは、亀山社中と思われる。 
上野彦馬撮影か、1874年、鶏卵紙、27.7×21.2、『上野彦馬冨重利平合同アルバム』

〔解説記事  82P〕  旧長崎奉行所と官立師範学校

1874年、聖福寺から写された長崎奉行所(高台の左)と新築の官立師範学校(同右)です(写真30)。
この高台には元カトリック教会が建っていましたが、その後、隠れキリシタンを取り締まる井上筑後守の屋敷となりました。教導するためにやってきた外国人宣教師にキリスト教の考えを捨てさせた話は、遠藤周作の「沈黙」でおなじみです。
敷地内には奉行が住む御本屋と、側近が勤める長屋および土蔵が立ち、犯罪者を裁くお白洲が置かれ、判決は犯科帳に記されました。維新後も九州鎮撫総督の住居として使用され、政治の中心だった奉行所が文教地区に変わるのは、1872年の文明開化がきっかけでした。
外国語を教えていた西役所の広運学校がここに移転。その後、長崎外国語学校から長崎英語学校に改称され、長崎中学につながります。長崎官立師範学校は、1875年の設立です。
その後、江戸時代の建物は失われ、1963年に県知事公舎が建ちました。2005年には長崎歴史文化博物館の建設に併せ、奉行所が復元されました。博物館の向こう側の、山の中腹に見えるのは、亀山社中と思われます。
立山は、キリスト教の布教から弾圧へ、幕府支配の中心から文明開化の中心へ、さらに文教地区から県知事公舎へと変遷し、今は博物館として長崎の歴史文化を伝える中心となっています。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」 撮影者:上野彦馬 撮影地域:長崎 年代:年代未詳 の古写真。

朝日選書の古写真解説で、疑問とする点をこれまで見てきた。これが最後となり頁を前に遡って見ていただく。長崎は来年にかけて、龍馬ブームで盛り上がる。
「長崎市亀山社中記念館」(伊良林2丁目)は、坂本龍馬ゆかりの亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を長崎市が当時の姿により近い形で整備し、本年8月1日から公開している。

2009年12月11日付朝日新聞の第1面となった記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”。 朝日選書 84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」の中から、建物を拡大した写真が載せられている。
記事には、市民グループ「長崎居留地研究会」(会長=姫野順一・長崎大学教授)が11月、写真の中の旧長崎奉行所の位置や山の稜線から撮影場所を特定。後景の山の中腹に、亀山社中だった建物が写っているのを確認したとある。

さっそく私も現地調査へ行った。この古写真は「聖福寺」(玉園町)の大雄宝殿後ろの上の墓地の道(開山老和尚鉄心塔所入口あたり)から撮影されたものと思われる。亀山社中の建物は、新聞記事のに間違いないと思われるが、通りの前の家にふさがれ、双眼鏡でもはっきり見えない。
どなたか望遠の大きい、立派なカメラを持って、みんなにわかるように写してきてほしい。

朝日選書の写真下の解説図では、寺の位置に疑問を感じたので確認したのだが、高いビルやマンションが建って、これも写真を写せない。はっきり確認はしてないが、解説図の「興福寺」は「浄安寺」ではないか。その左の「三宝寺」は二層屋根に特徴がある。
手前大きな屋根の「光永寺」のすぐ左に屋根があるのが、「興福寺」の山門のように思える。媽祖堂、大雄宝殿は木立の後ろとなるが、古写真では確認できない。
位置関係を見てもらうため、長崎新聞社「長崎県航空写真集 ふるさと旋回」昭和60年9月刊の16、17頁から航空写真(クリック拡大)を借りたい。

なお、解説記事中「その後、江戸時代の建物は失われ、1963年に県知事公舎が建ちました」とあるが、長崎奉行所があった同地に、1965年(昭和40年)開館した「長崎県立美術博物館」を含めて説明した方が良いと思われる。
同館は新しい「長崎歴史文化博物館」建設のため2002年に閉館。「長崎県美術館」は2005年4月長崎水辺の森公園に隣接した場所(出島町)に移築開館した。

朝日選書 201P写真  89 大浦バンドの洋館群

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朝日選書 201P写真  89 大浦バンドの洋館群

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 201P写真  89 大浦バンドの洋館群

手前からアメリカのウォルシュ商会、同ケイス商会。イギリスのグラバー商会、同マルトビー商会。背後は鍋冠山。大浦天主堂の尖塔が見える。
上野彦馬撮影、1874年、鶏卵紙、27.1×21.2、『上野彦馬冨重利平合同アルバム』

〔解説記事 199P〕  欧米の商社が立ち並ぶ最盛期の大浦バンド

豪華な洋館が軒を並べる最盛期の大浦海岸通り「バンド」です(写真89)。海に突き出した波止場から撮影されています。写真原板は1874年、アメリカ海軍大尉R・E・カーモディが軍艦アシュロットに乗ってアジアを周航したときに入手した写真アルバムに収載されています。
手書きのメモは英語で「アメリカ海軍のお店」と読めます。左端の和風白壁の大浦3番館には、領事でもあったアメリカ人ジョン・ウォルシュの商会が入居し、隣の大きなベランダ付き洋館の4番館ではアメリカのケイス商会が開業していました。長崎港に入港したアメリカ艦隊の水夫たちは、バンドから居留地に上陸し、このアメリカ海軍御用達の店で買物を楽しんだようです。

中央にある、れんが造りで修道院のような5番館には、1870年に倒産したグラバー商会が入っていました。グラバーに資金を調達して回収不能となったオランダ商事会社は、78年に建物を競売にかけます。
その奥のベランダが突き出た大きな6番館では、ロンドンからやってきたサミュエルとジョン兄弟がマルトビー商会が開業し、茶の輸出などを手がけていました。1880〜1941年にはイギリス領事館が入居するのですが、1908年に建て替わった赤れんがの建物は長崎市児童科学館、長崎市野口彌太郎記念美術館を経て、現在整備中です。
5、6番館は、坂本龍馬が長崎を訪問した1865年ごろに撮影されたボードインの写真(本書には収録していない)では建築中でしたが、この写真では立派に完成しています。
後方には、大浦天主堂の尖塔がわずかにのぞいています。
路上に人物がみえないのはシャッタースピードが遅かったためで、動くものは消えています。 

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6058 「大浦海岸通りの洋館群」  撮影者:上野彦馬 撮影地域:長崎 年代:年代未詳 の古写真。

朝日選書の写真下解説「背後は鍋冠山。大浦天主堂の尖塔が見える」、解説記事「後方には、大浦天主堂の尖塔がわずかにのぞいています」が、私たちには見えない。
データベース 目録番号:6058 の原画を確認すると、はっきり写っているのに、朝日選書200頁と201頁のちょうど綴じ目となったためである。編集の際、配慮がほしかった。

古写真の撮影場所は、出島からも考えられるが、大学データベース資料「長崎居留地の敷分割 1868年(慶応3年)」図から、解説記事にあるとおり大浦海岸通りの梅香崎側「海に突き出した波止場から撮影されています」のに間違いないようだ。

朝日選書 192P写真  83 幕末の新地蔵と出島

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朝日選書 192P写真  83 幕末の新地蔵と出島

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 192P写真  83 幕末の新地蔵と出島

明治維新直前の新地蔵(手前)とまだ海上に浮かぶ出島(奥)。出島の右奥の茂みは長崎奉行所西役所。 
ベアト撮影、1867年、鶏卵紙、21.0×18.3、『スチルフリード・アルバム』

〔解説記事 187P〕  文化映す貿易の要所、新地蔵と出島
1867年、ベアトが大徳寺から撮影した新地蔵と出島です(写真83)。新地蔵は中国貿易に、出島はオランダ貿易に使われました。沖には外国の軍艦が停泊しています。出島横の茂みは長崎奉行所西役所です。
出島は1636年にポルトガル人を収容するために造成されました。その後、オランダ商館が平戸から移されると、オランダ貿易に使われました。出島に古くから建っていた日本家屋は安政の大火で焼けましたが、幕末には写真のように植民地風のベランダを持つ洋館に建てかわっていたわけです。1867年末につけられる遊歩道や橋はまだ見えず、まだ扇形をしています。

新地は、五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、1698年に海を埋め立てて造成されました。1859年の長崎再開港で在住中国人たちは唐人屋敷から新地に移り住みました。開国で居住地を限定する意味がなくなったためでした。今では40軒ほどの中国料理店や中国雑貨店が軒を並べる長崎新地中華街の起源です。
「出島復元事業」は2000年の日蘭交流400年記念をきっかけに大きく進展し、「唐人屋敷復元事業」も進んでいます。長崎は国際交流の歴史の町として、町全体を立体的な博物館にして国際的に発信していくことが期待されています。 

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5384「新地蔵と出島(2)」 撮影者:F.ベアト 撮影地区:出島 撮影年代:明治以前 の古写真。同解説は次のとおり。
関連作品 目録番号:794「長崎出島とロシア人居留地」は同じ場所からの写真か。

大徳寺跡の高台から、新地越しに出島を遠望したもの。出島は、建物は殆どが洋館に建て替わっているが、慶応3年(1867)の海岸通りの築足しがまだなされておらず、江戸時代以来の姿を見せる。出島右端の入母屋造2階建ては、嘉永6年(1853)に新築された外科部屋(医師住居)で、この頃はクニッフレル商会保有の空き家だったが、明治元年以前に取り壊された。慶応3年6月にベアトが撮影した類似構図の写真では、新地の白壁土蔵がまだ工事中であったから、この写真は同年後半の撮影とみられる。出島右上の樹叢は長崎奉行所の西役所(現県庁)で、その向こうには現在の茂里町付近まで深く湾入していた長崎港が見える。さらに背後には稲佐地区の集落やロシア人仮泊地と稲佐山から岩屋山にかけての山並みが望まれる。新地の右側が中島川の河口部で、手前の水面のこちら側、樹木のあいだに見え隠れするのは本籠町の家並みである。

古写真の撮影場所は、現在の西小島1丁目「大徳寺」跡や「大徳寺の丘」とあるが、具体的にどこだろう。明治維新後、大徳寺が廃寺となると梅香崎天満神社が現在地に移転、神社は現在、籠町自治会が管理している。
新地や出島の周りが埋め立てられる以前の撮影であるため、当時の地形の参考のため明治
17年国土地理院旧版地図を掲げる。

梅香崎天満神社の現在の参道から写すと、構図が合わない。変流工事前の銅座川が真正面の右から左へ真横に流れていなければならない。旧版地図から判断すると、神社参道から右へ上がった「大徳園跡」が考えられる。
江戸時代末期から明治初年にかけて、大徳寺の庫裏のあったところに、アメリカの宣教師:ヘンリー・スタウトやフルベッキ、フランス領事のレオン・ジュリーなどが仮寓していた(広助様の丸山歴史散歩)。
「大徳園跡」は次記事と写真を参照。 https://misakimichi.com/archives/1860
古写真と同じ光景を、現在では写せない。稲佐山から岩屋山にかけての山並みは、唐人屋敷北東隅に「大徳園」の裏門があり、佐古小学校側から確認した。

朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

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朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

長崎の対岸稲佐崎の入り江に停泊する弁才船(奥)とイサバ船(手前)。丘上の日本家屋は長崎港で越冬するロシア東洋艦隊の乗組員の止宿所。
ベアト撮影、1864年ごろ、鶏卵紙、28.7×23.8

〔解説記事 186P〕  稲佐の和船

1864年ごろ、イギリス人写真家フェリクス・ベアトが稲佐海岸で撮影した江戸時代の和船の写真です(写真81)。
ベアトは横浜で開業した腕利きの旅行写真家で、上野彦馬にも影響を与えました。暗箱と呼ばれていた当時のカメラは今よりもずっと大きく、レンズの焦点距離も長かったので、写真の精度は抜群でした。現在の稲佐の三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町商店街付近を撮っています。この入り江は埋め立てられて今は面影がありません。
このあたりは1858年の開港条約締結後ロシア人の止宿所(ししゅくしょ)となります。
大きなほうの船は千石船または弁才船で、米を千石(約150トン)運べました。長さは約23メートル。船底が平らで船の骨組みとなる龍骨がなく、1本の帆柱に横帆とシンプルでしたので、洋式帆船のように帆柱に登る必要がありませんでした。スピードは速く、経済的だったため各地を回航した菱垣廻船や北前船などに使われました。シーボルトも『日本』でこの船の構造を図解しています。屋根を持つ手前の小さな船はイサバ船と呼ばれた近海用の魚や物資の輸送船です。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:1276「和船(3)」 撮影者:F.ベアト 撮影地域:長崎 年代:1864 の古写真。同解説は次のとおり。
台紙に Group of Japanese Junk and boat in the Canal とある。向こう岸にもやっている和船はかなり大型である。ここは運河というより入江みたいなところであろう。人々の生活のにおいがする。

私の以前の記事は、次を参照。この古写真の撮影場所は不詳とされていたが、背景は浜平上の日昇館あたりの山。当時、波止場があった丸尾山の丸尾公園西角から旭町(「朝日町」は誤)商店街後ろの稲佐崎方面を写したものである。
この入り江は舟津浦や江の浦と呼ばれ、平戸小屋町の町名も残るとおり平戸藩屋敷があり、昔から栄えた浦。長崎港内でも台風を避けられた。
https://misakimichi.com/archives/142
https://misakimichi.com/archives/1557
https://misakimichi.com/archives/654

朝日選書117P写真「47 和船と稲佐崎」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5310「稲佐海岸」)の作品は、すでに前に述べた。
https://misakimichi.com/archives/2143
そのとき、この朝日選書188P写真「81 稲佐崎の和船とロシア止宿所」(目録番号:1276「和船(3)」)は、丸尾山の波止場から稲佐崎方面を左向きに変えた作品と説明している。

今回、この古写真の解説記事で、新たに「丘上の日本家屋は長崎港で越冬するロシア東洋艦隊の乗組員の止宿所」「このあたりは1858年の開港条約締結後ロシア人の止宿所(ししゅくしょ)となります」と説明が加わった。
「ロシア人の止宿所」となった場所は、現地確認がないようで、少々誤認があると思われる。
旭大橋の入口に長崎日ロ協会が設置した「幕末・明治のいわゆるロシア村」の説明板がある。ロシア村の場所は、稲佐崎の先端から裏手志賀の波止を向いた高台一帯である。

「47 和船と稲佐崎」の説明では、ロシア村への登り口が右方にもあり説明は少し合うが、「81 稲佐崎の和船とロシア止宿所」では、この古写真の右写真外高台となり、写真にはほとんど写っていない。当時の高台への道と現在の住宅地図を掲げる。別の坂道なのである。
旭町商店街の手前から言うと、47の右の坂道は馬渡歯科医院が登り口。上のマンション「カネハレジデンス旭町」が稲佐崎の「ホテル・ヴェスナー」跡である。81は商店街通りをまだ行って黄金橋手前、ビューティサロンあさひ角を右へ入った道の坂道となる。

したがって、この古写真に写っている「丘上の日本家屋」は、「ロシア人の止宿所」となった一帯ではなく、舟津浦の昔から栄えた集落の高台である。奥へ行くと現在、山野辺邸と共立病院、萬福寺、旭保育園、悟真寺がある。
旭大橋入口の「幕末・明治のいわゆるロシア村」説明板は、この古写真を取り上げていない。
付近の詳しくは、「稲佐風土記」著、長崎日ロ協会の会長松竹先生へ確認をお願いしたい。

朝日選書 172P写真  73 大村湾口の時津村

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朝日選書 172P写真  73 大村湾口の時津村

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 172P写真  73 大村湾口の時津村

明治中期の長崎郊外、大村湾奥の時津村の家並み。大村からの海路の長崎口で、ニ十六聖人もここから上陸した。遠景は塩田。
撮影者不詳、1886年bごろ、鶏卵紙、25.8×19.0、手彩色

〔解説記事 167P〕  塩づくりの村だった時津村

1886年ごろに撮影された時津村(現在の時津町)です(写真73)。中ほどに見える瓦屋根が浦郷にある市場付近の町屋です。手前の農家と思われる藁ぶき屋根の集落とは対照的です。
浦郷はかつて大村湾の鮮魚が揚がる市場でした。また、長崎へ向かう旅人の重要な港口でもありましたた。大村から船で時津に上陸すると、諫早経由の長崎街道より1日節約できました。
1597年、のちにカトリックで聖人に列せられることになる26人のキリシタン殉教者も、東彼杵町から船に乗せられ、大村湾奥のこの港に上陸しました。
家並みの奥の大きな木が2本立つ場所は、1640年に建立された村社の八幡神社です。入り口にある「ともづな石」は船の係留に使われたもので、浦郷が江戸時代に波止場だったことを伝えています。
神社の後方が浜田郷で、海岸伝いに塩田が見えます。塩づくりは農業とともに時津の重要な産業でした。江戸末期には総戸数852軒のうち113軒が塩づくりに従事し、時津全体で年間4720俵、約4万2480キロの塩がとれたといわれています。
明治の終わりに塩田は田畑に変わり、海岸は埋め立てられ、今では工場や学校、住宅地に姿を変えました。最近の時津は、長崎の衛星都市として人口が増えてきました。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5653「時津の家並み」の古写真。同解説は次のとおり。
大村湾に接する西彼杵郡時津村とその港。手前は密集した浦郷で、港の入り江を挟んで対岸は崎野の海岸から人家に至る。大村との往還にはこの港が頻繁に利用された。背後の丘陵地は、長与の岡郷、嬉里郷に続く一帯で、後方の高い山は、琴ノ尾岳。

朝日選書の172P写真は、タイトルが「73 大村湾口の時津村」とあるが、「大村湾奥」が適当ではないか。
写真下の解説図でも、後方の高い山は「琴ノ尾岳」ではない。左上鞍部のところが山頂アンテナ塔がある「琴ノ尾岳」から尾根が下った「扇塚峠」。写真に写っている右の高い山は「仙吾岳」(標高375.6m)と丸田岳方面となる。

私の以前の記事は次を参照。この古写真の撮影場所は、国道交差点から時津川の西岸へ現在の「新地橋」を渡る。長与町立長与図書館の上手の高台、戦没者や原爆死没者の慰霊碑のある公園と思われる。宝永5年(1628)から浦郷北泊「稲荷大明神」が祀られている。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48654714.ht
https://misakimichi.com/archives/1837

江戸時代、時津村は大村藩領。時津港は彼杵港(現・東彼杵町)との間にも船便があり、長崎街道の近道となった。「時津街道」は大名や幕府の役人にも利用され、現在もその名残りとして「お茶屋」と呼ばれる時津本陣が残る。
時津街道は、長崎市西坂を起点に時津港までの12km。時津港から彼杵までの海路20km。矢上経由の長崎街道60kmに比べ、好天なら一日の行程を短縮できた(長崎新聞ふるさと賛歌)。したがって、解説記事167P中の「大村から船で時津に上陸すると」は、少し違うのではないだろうか。

朝日選書 165P写真  70 1860年の相撲取り

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朝日選書 165P写真  70 1860年の相撲取り

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 165P写真  70 1860年の相撲取り

スイス人写真家ロシエが松本良順の援助で撮影した日本で最初の相撲風景。大関熊川一行。ロシエとの出会いで彦馬の写真家の道が決まった。足もとに影が短く落ちていることから、日が真上から差す真夏の屋外撮影であることがわかる。体の色が黒いのは、肌色の感色性が悪いため。
ロシエ撮影、1860年、鶏卵紙、8.6×5.7

〔解説記事 163P〕  相撲の取組や土俵入り
相撲取りの写真としては、日本で最初のものです(写真70)。1860年夏、長崎を訪れたピエール・ロシエが撮影しました。場所は出島の内部で、写っているのは大関熊川一行です。
松本良順の自伝によれば、ロシエは相撲を撮影しようとしましたが、動くのでうまく撮れなかったそうです。結局、奉行の許可を得て、良順に撮影の便宜を図ってもらったということです。幕内上位の力士を出島に招待し、相撲を取る様子や勝ち負け、土俵入りなどを撮影させました。

相撲取りの足もとに影が短く落ちていることから、日が真上の真夏の屋外撮影であることがわかります。肌が黒ずんでいるのは、湿板写真は赤い肌色に感応できなかったためです。左のかみしもの男性は行司ですが、軍配は腰に差しています。
福岡藩から写真修行に来ていた前田玄造は、このとき、ロシエに付き添って写真術を学びました。写真撮影に苦労していた上野彦馬と堀江鍬次郎は、ロシエから薬剤と外国製カメラ、レンズを紹介されました。彦馬は、津の藤堂家の支援で、150両のカメラを出島商人アルバート・ボードインから手に入れました。これが機縁となり藤堂藩に仕え、江戸に出ていきます。
ロシエは日本において写真術が発達するための恩人であったわけです。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5864「 相撲(9)」 撮影者:ミルトン・ミラー 撮影地域:長崎 年代:1861-62? と同古写真。
長崎医学伝習所の責任者だった松本良順自伝によって、撮影者はロシエが正しいのがわかったのか、日本で最初の相撲写真。ロシエとの出会いが、上野彦馬に写真家の道を決めさせた貴重な写真である。

出島で撮影された相撲取りは、大関熊川一行。私の関心は今回は疑問ではなく、この「熊川」なる力士のことである。
長崎市川原町の川原木場公民館広場奥の道脇に、今は忘れさられたような「天保三年 熊川清四郎力士 十一月十九日角力中」と刻まれた自然石の碑がある。次がその資料。
三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.126 平成4年11月 郷土誌余聞「その35 力士の記念碑」。元郷土誌編纂委員長高崎市郎先生の稿。話はまとめられ三和公民館蔵書に、高崎市郎先生の「ふるさとものがたり」としてある。

…一坪程の台座替りの石垣の上に約ニメートル程の自然石が建てられ、苔むしたその石碑には「天保三年 熊川清四郎力士 十一月十九日角力中」としてあり今より百六十年も昔のことである。蘇鉄を植え込んだこの場所も草茫々として初めての者には見逃す程の有様である。
部落の人々には相撲取りの墓と呼んでいるようであるが墓とはしてない。熊川は本名でなくて川原と脇岬の村境が熊川であるのでその地名を四股名にしたのではなかったのだろうか。
天保時代には百姓町人などは姓が許されておらず、ただ名のみであったことを思えば、この力士にも住所氏名がはっきりした文書も無く又、この人の素性もわからない。然し角力中でこの碑を建てたことは、この力士が力量は勿論の事、人格的も余程尊敬に値したものも思われる。
百六十年後の今日迄この碑が人々の手によって保存されることに地元民の心根を嬉しく思った。この場所は昔の人々がいつも通った「みさき道」の東側の本街道であった。…

この稿は「みさき道」に関係するため、研究レポート”江戸期の「みさき道」”第2集22頁及び第3集34・53頁に資料として載せている。
天保3年というと1831年。出島で古写真が撮影された1860年と29年の隔たりがある。天保3年を生年月日と考えると、一番力量があった年代のようだ。引退後、万延元年(1860)親方として、四股名を継いだ大関力士とともに出島へ出かけたこともあり得るだろう。

熊川は野母崎ゴルフ場ニノ岳近く、展望台がある熊ノ岳(288.4m)に源を発する。旧三和町と野母崎町の町境を天草灘へ流れ、このため熊川の名となったのだろう。
古写真に残った「熊川」力士が、石碑の不明な人物とはたして同一人かわからないが、この力士が地元出身であって、力量はもちろんの事、人格的もよほど尊敬に値した人だったことを、地元として切に願う。高崎先生に生前、歴史的な撮影の出来事を知らせ、古写真を見せていたら、どんなに喜ばれたことだろう。
熊ノ岳風景は三和の散策(10)参照。 https://misakimichi.com/archives/1721

(追 記 2012年2月3日)
この古写真の力士は、HP「相撲の史跡・好角土俵 好角家・相撲史研究者たちの情報」
http://sumou-shiseki.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/ を参照。
幕末の大坂相撲、肥後出身「熊川熊次郎」ではないかと思うとの、見解の記事が載っていた。

2010年11月19日 (金) 熊 川
長崎大学付属図書館の幕末・明治期日本古写真メタデータ・データペースを“相撲”で検索すると、19点、“角力”でプラス1点出てくるが、同じ場面のものもある。
『龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港』(朝日選書)には、「1860年の相撲取り」と題して、大関熊川一行の写真が紹介されている。大学のデータベースでは撮影者ミルトン・ミラーとなっているが、本の方はロシェとなっている。この件についてはブログ「みさき道人」をごらんください。
このブログには相撲取りの墓がしばしば紹介されているが、長崎市川原町にある天保三年 熊川清四郎力士 十一月十九日角力中」の碑の主が関係あるのかもしれないと推察されている。
下がりを着けたまわし、塩を持った弟子などを見ると、幕末の大坂相撲、肥後出身熊川熊次郎ではないかと思う。