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朝日選書 152P写真  63 人力車に乗る芸子衆

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朝日選書 152P写真  63 人力車に乗る芸子衆

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 152P写真  63 人力車に乗る芸子衆

諏訪神社近くの長崎公園で人力車に乗る4人の芸子衆。長崎公園は1863年に長崎で初めての公園となった。 
撮影者不詳、1897年ごろ、鶏卵紙、25.1×20.2、手彩色

〔解説記事 150P〕  人力車に乗る芸子衆
1897年ごろ、諏訪神社近くの長崎公園(通称は諏訪公園)で人力車に乗る芸子衆です(写真
63)。当時の人力車の構造や俥(くるま)屋の服装、女性の装束・髪形などがわかります。
人力車は明治時代のタクシーでした。1870年に佐賀の和泉要助らが「車付きの西洋腰掛け台」として東京府に出願したのが始まりで、あっという間に全国の大八車や駕籠に取って代わりました。時速は8〜10キロぐらいで、歩く速さの2倍程度です。車輪にゴムのタイヤが付くのは
1900年代以降でした。

長崎公園は1873年の太政官布告により制定された長崎で最も古い公園です。中心市街地にありながら、自然に囲まれた閑静な雰囲気のある憩の場として親しまれています。
ここは江戸時代、安禅寺という寺があり、1672年には長崎奉行の牛込忠左衛門が東照宮を祀りました。この本殿は現存しています。

左の奥に見える石碑は元禄期(1700年前後)に長崎を訪れたオランダ商館付きの医師たち、すなわち『日本誌』を著して啓蒙期のヨーロッパに日本の正確な情報を伝えたドイツ人エンゲルベルト・ケンペル、スェーデン人のカール・フォン・リンネの弟子として植物学者でもあったカール・ペーテル・テュンべり、大著『日本』を出版し、日本でも多くの門人を育てたフランツ・フォン・シーボルトといった「出島三賢人の碑」です。これは現在長崎歴史文化博物館の裏に移設されています。明治の写真に写し出された景色にはまだ人工物に侵されない人間と自然の調和が見られます。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:4719「諏訪公園と人力車に乗る女性たち(1)」の古写真。解説は次のとおり。
現日本銀行横の長崎公園(通称:諏訪公園)入口から登り、県立長崎図書館前を右に折れケンペル・ツンベリー及びシーボルトの記念碑の前を通って、中央に葵の紋が入った石造りの門を潜ると公園の丸馬場(安禅寺跡)である。写真は、明治を代表する人力車に芸子衆が乗る公園の広場「丸馬場」の風景である。奥に東照宮へ行く階段と鳥居が見える。…

同データベースには、目録番号:5101「諏訪公園三賢人の碑」の古写真もあり、解説は次のとおり。
明治後期から大正期(1870〜1920)の手彩色の絵葉書。諏訪公園の入り口にシーボルトの記念碑があり、その横に、ケンペル、ツンベルクの碑が並んでいる。これらの碑は、シーボルトが出島の花畑に建てたものを、ここに移設したものである。

現在「出島三賢人の碑」は、長崎県立図書館の正門右側、長崎公園(通称:諏訪公園)入口にある。古写真に写っている縦長の石碑は、「施福多(シーボルト)君記念碑 日本の近代化に貢献したドイツ人(1796−1866) 明治12年(1879)建立」である。

朝日選書及びデータベースの解説は、それぞれ記していることが違い理解しにくい。朝日選書の解説記事について言うと、大したことではないが、次を指摘したい。
(1)長崎公園ができたのを、写真下の解説では「1863年」と記している。太政官布告の明治6年「1873年」の誤まりのようである。
(2)出島三賢人の来日年は、ケンペルは元禄3年(1690)、テュンべり(通常の表記は「ツンベルグ」)は安永4年(1775)、シーボルトは文政6年(1823)。
「元禄期(1700年前後)に長崎を訪れたオランダ商館付きの医師たち、すなわち…」とは続かない。
(3)出島三賢人の碑は「現在長崎歴史文化博物館の裏に移設されています」とある。古写真上では長崎公園丸馬場から、公園入口に移設されただけのようである。
「現在長崎県立図書館側の公園入口に移設されています」で良いのではないか。
(4)最後の写真は、古写真の撮影場所と思われる公園の丸馬場あたり。ここに三賢人の碑が一時あったのか、再確認をお願いしたい。
手彩色の絵葉書を見ると、現在の公園入口に最初から設置されたように見える。

朝日選書 136P写真  57 茂木海岸の町並み

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朝日選書 136P写真  57 茂木海岸の町並み

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 136P写真  57 茂木海岸の町並み

幕末に外国人の遊歩が認められ、海水浴場やホテルがあった長崎郊外茂木海岸付近。外国人はここから船で雲仙に渡った。 
撮影者不詳、1886年ごろ、鶏卵紙、25.8×19.9

〔解説記事 134P〕  茂木の海岸
1886年ごろの茂木村(現在の長崎市茂木町)です(写真57)。干潟が広がる浜には網の干場と伝馬船と呼ばれた小舟が見え、家並みには藁ぶき屋根が交じり、江戸時代の村の様子を残しています。1901年には中央に突き出した岬に、小浜、雲仙へと渡る船の桟橋ができました。海岸線は21年に埋め立てられ、今は県道34号が通っています。
茂木の歴史は古く、大村純忠が1580年、長崎とともにイエズス会に寄進しました。このときの契約書は長崎歴史文化博物館に所蔵されています。

江戸時代、出島のオランダ人は茂木まで遊歩が許されていました。このため、茂木では洋食の文化が先取りされ、明治時代には外国人の行楽や海水浴のためにホテルが建てられました。
岬中央の茂みに白く見える建物は、茂木の旧庄屋屋敷です。1906年、前に紹介した天草生れの道永栄が、外国人相手の茂木長崎ホテルをここに建てました。
茂木には若菜川の河口を利用した良港があります。小浜、島原、熊本、天草だけでなく、鹿児島、柳川、佐賀と結ばれ、交通の要所でした。水揚げされた鮮魚は、長崎の台所を支えただけではありません。現在でも京名物の鱧(はも)は茂木産が多いというから驚きです。

■確認結果

岬中央の茂みに白く見える建物を拡大してみる。たしかに茂木村の旧庄屋屋敷だろう。古写真下の解説図では、この建物を「茂木長崎ホテル」と表示し、解説記事では1906年、道永栄がこのホテルを初めて建てたように読まれる。
1886年ごろの撮影だから、この建物について年代に合った補足が必要なようだ。
解説図の「現在県道のある場所」も、前面茂木漁港の埋め立てにより少し変っているのではないだろうか。現在の写真は、玉台寺背後の高台墓地から写した。

長崎市立博物館編「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年刊の28頁による解説を載せる。
「…安政2年(1855)当時の庄屋は森岡豊左衛門で、リンデン伯もこの豊左衛門を訪問している。リンデン伯はその「日本の思い出」のなかで、食堂のような部屋で夕食をご馳走になったが、その部屋からは、一方には海、他方には村の美しい風景が望まれたと記述している。
同宅跡は、その後茂木ホテルが建てられたが、明治39年道永栄が買収、ビーチホテルと改称、戦前までは外国人達の格好の保養所として賑わった」

私の以前の記事は、次を参照。茂木ホテルと言われたのは、若菜川河口弁天崎(後のビーチホテル)と、潮見崎新田(後の松柏楼)に2つあったのが知られていなく、混同された古写真解説が多い。茂木村の旧庄屋屋敷の建物はこれでないだろうか。
道永エイの方の茂木ホテルの貴重な古写真は、裳着神社の拝殿に飾ってあった。「道永エイ」と刻んだ寄進石が境内に残っている。
https://misakimichi.com/archives/1535
https://misakimichi.com/archives/1818

朝日選書「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」が出版

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朝日選書「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」が出版

朝日新聞長崎県内版の連載「長崎今昔」を1冊にまとめた朝日選書「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」が出版された。
国内最大級とされる長崎大学の古写真コレクションから、坂本龍馬が長崎で活躍した時代を中心に、1860年〜大正後期の80枚を越える写真を取り上げている。

「龍馬が見た長崎」は朝日新聞出版刊。四六判216㌻。税込み1470円。お求めは書店かASA(朝日新聞販売所)で。
以上、きよう2009年12月17日付同紙面記事(クリック拡大)から出版を紹介する。

本書の古写真解説において、数作品の撮影場所の説明など疑問とする点を現在、順次調査中。本ブログ記事にしている。
きようの記事にある「②1869年ごろ撮影された中島川」の確認結果は、上の現地写真のとおり。背景の山、右から烽火山、健山、帆場岳(三つ山)、金比羅山(東尾根。立山ではない)より、解説にある奥の橋は、「長久橋」(中島川変流前の当時の橋)に間違いないことをすでに確認している。

朝日選書 40P写真  11 新大橋から中島川上流を望む

外国人の遊歩道として中島川河口に架かった新大橋から上流を写す。奥の長久橋には鉄橋見物の人が群がっている。
1869年ごろ、鶏卵紙、23.5×20.0、『スチルフリード・アルバム』
(詳しい解説記事は、同書38P 略) 

小長井のかき焼きと県界ウオーキング  平成21年12月

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小長井のかき焼きと県界ウオーキング  平成21年12月

平成21年12月15日(火)曇り。小長井のかき焼きと県界ウオーキング。木林(もくりん)会の恒例行事。参加20人。お世話になりました。
長崎駅8時36分発ーJRー湯江駅ーバスー小長井駅前ー県界小長井漁協直売店かき小屋(昼食)ー県界ー太良町今里のオガタマノキー竹崎街道で釜へ出るー土井崎ーバスー諫早駅ーJR−長崎駅16時02分着(徒歩距離 約6km)

JRと県営バスを乗り継いで小長井駅前まで行き、佐賀県との県界手前の小長井漁協直売店かき焼小屋まで約3km歩く。途中の山は毘沙天岳(標高161.4m)と諫早湾を隔てて見える雲仙の山。
笑ってコラえて!ダーツの旅に出たかき小屋。天候不順等により小長井産かきは今のところ小ぶりらしい。エビ、イカ、アジの干物、カマボコ、シイタケも、たくさん焼いて食べたが安かった。

昼から天気が持ち直し、県界橋奥の集落、佐賀県太良町今里へオガタマノキの大木を訪ねる。さが名木100選の木ではないが、多良山麓の広々とした所に立ち、樹形が良い。
この木の場所は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/753
バスの時刻まで間があり、旧道を土井崎バス停まで歩いた。

朝日選書 124P写真  51 ねずみ島のピクニック

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朝日選書 124P写真  51 ねずみ島のピクニック

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 124P写真  51 ねずみ島のピクニック

長崎在留外国人の郊外ピクニックで、背後に乗ってきた船のマストが見える。中央に寝そべるグラバーはライフルを持ち、警護のサムライも交わる。着飾った子供や女性もいる。
ベアト撮影、1866年ごろ、鶏卵紙、29.3×19.1

〔解説記事 122P〕  ねずみ島のピクニック
長崎港口のねずみ島で撮影された居留地に住む外国人のピクニックの記念写真です(写真
51)。このとき長崎に滞在中で、たまたま同行したベアトが撮影しました。背後には乗ってきた船のマストが写されています。
1854年9月7日、日英和親条約を結ぶために長崎に入港したジェイムズ・スターリング提督率いるイギリスの東洋艦隊は水夫の休養のためみずみ島上陸を要求し、長崎奉行荒尾成充はこれを許可しました。10月14日には長崎で日英和親条約が締結されています。イギリス領事は1859年以来、5月24日のヴィクトリア女王の誕生日を記念して居留地のヨーロッパ人をピクニックに誘うことを恒例としていましたが、この写真は1866年のピクニックのようです。
中央で寝そべるトーマス・グラバーのひざの上にライフル銃が見えます。その右後ろに座るのがアントニウス・ボードイン博士です。弟でオランダ領事をしていたアルバート・ボードインは後方の右に立っている口ひげの人物です。このとき長崎の居留地に住んでいた大部分の人たちがこれに参加したのではないでしょうか。
ちょんまげ顔の日本人は警護のサムライですが、記念写真では集団のなかにうち解けています。攘夷をとなえる「テロリスト」の外国人襲撃を警戒しながらの危険なピクニックでしたが、たくさんの女性や子供たちも交じり、楽しみな行事だったようです。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6195 「ねずみ島のピクニック(1)」の作品。超高精細画像がなく「背後に乗ってきた船のマストが見える」が良く確認できないが、本の古写真には、たしかに背後に大きな船のマストが2本、かすかに写っている。

私の以前の記事は、次を参照。目録番号:3885 「外国人の野外パーティ(3)」(朝日選書108P 42 ヴィクトリア女王在位60年記念パーティ と同写真)などとともにふれている。
https://misakimichi.com/archives/1873

「ねずみ島」は安政年間から外国人の遊歩が認められていた島なので、これら古写真の撮影場所は「ねずみ島」に間違いないと思われる。背景の各島や山の姿から確認している。
神の島や神崎鼻では、外国人の遊歩規定がほとんど考慮されていないこととなる。
朝日選書は今回、42・51の作品とも「ねずみ島」として解説されたので、了とした。

ところで、幕末・明治期日本古写真データベースの超高精細画像解説の方。以前は撮影場所を「神の島」と解説していた。指摘により修正されたのは良いが、どうして「場所は後の高鉾島の角度から神崎鼻」と判断されたのだろう。
目録番号:3885 「外国人の野外パーティ(3)」などは、まだ「神崎鼻」のままとなっている。

朝日選書 117P写真  47 和船と稲佐崎

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朝日選書 117P写真  47 和船と稲佐崎

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 117P写真  47 和船と稲佐崎

長崎の対岸、稲佐の入り江(船津浦)の船溜り。稲佐崎の左の家屋はロシア人上陸場で右は取締勤番所。丘の上は止宿場であった。
上野彦馬撮影、1874年、鶏卵紙、26.7×19.7、『上野彦馬明治初期アルバム』

〔解説記事 114P〕  趣ある稲佐崎の伝馬船
1874年に写真家の上野彦馬が撮った長崎の対岸、稲佐崎の伝馬船です(写真47)。場所は現在長崎港の奥に架かる旭大橋のつけ根あたりです。
ここに船を浮かべて撮影すると古い日本画のような趣となるためか、外国人写真家フェリクス・ベアトも1864年に長崎を訪れたとき、このアングルで船遊びを撮影しました。彦馬の弟子で東京に出て写真家として成功した内田九一も、1872年に明治天皇の西国巡行に随行したとき、ここで同じ構図で撮影しています。
右端には遠洋を走る「弁才船」(千石船)も見えています。伝馬船上では、3人の船頭が船具を動かす瞬間が見事にとらえられています。風と波のないときを見計らって、絶妙なタイミングでポーズをとらせた写真です。
江戸時代の古地図を見ると稲佐崎には建物がなかったのですが、この写真では瓦屋根の建物が目立ちます。右奥には長崎市街も見えています。
丘の上一帯は「稲佐のロシア人居留場」です。1893年11月にはこの岬の丘の上に稲佐のお栄と呼ばれた道永栄が、ロシア人相手の「ホテル・ヴェスナー(ヴェスナーは春の意)」を建てます。海岸にはそこに登る桟橋が築かれます。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5310 「稲佐海岸」の作品。超高精細画像解説で場所説明は変えているが、タイトルがまだ「長崎湾水の浦」のままなのは?
私の以前の記事は、「長崎の幕末・明治期古写真考(2)」ほか多くの記事でふれている。
https://misakimichi.com/archives/654 ほかを参照。

撮影場所を読者にわかりやすくするため、「現在長崎港の奥に架かる旭大橋のつけ根あたりです」と説明したと思われるが、そこは「志賀の波止」となる。
「志賀の波止」はこの古写真の稲佐崎の岬の裏側の入り江で、正しい撮影場所の「船津浦」船溜りとはまったく違う場所を理解される。

後掲するが、朝日選書188Pに1864年ごろベアト撮影の「81 稲佐崎の和船とロシアの止宿所」がある。解説記事186Pでは、撮影場所を「現在の稲佐の三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町(「旭町」が正)商店街あたりを撮っています。この入り江は埋め立てられて今は昔の面影がありません」としている。
同じ入り江「船津浦」の撮影であり、撮影場所の説明は後者に合わせてよいのではないか。

ウーパーちゃん?  眼鏡橋近くのおもしろ石

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ウーパーちゃん?  眼鏡橋近くのおもしろ石

発見者の長崎・中島川石橋群と眼鏡橋 http://isidatami.sakura.ne.jp/isibasigun1.html 参照。

これ、ウーパールーパーに似ていない?
ウーパールーパーに似た石を眼鏡橋下の石崖で見つけました。【 眼鏡橋下の川岸(唐僧・黙子如定像下付近)】 
眼鏡橋のハートの石(3個)と共に観光の人気ものの石にしたいと思います。
※ ウーパーちゃんと名前をつけておきます。2009.11.20

ウーパールーパーは、1980年頃に、愛くるしい顔から一躍人気者となり、今なお人気のサンショウウオの仲間です。現在では個体数が少なく、絶滅の恐れのある野生動物、植物を保護することを目的とした条約、ワシントン条約(CITES)にリストされています。ということは、ウーパールーパーの野生体は絶滅の可能性があるということです。
生息地:メキシコのソチミル湖、または周辺など。

ハート石は、眼鏡橋と魚市橋の左川岸(寺町側)の石組みのなかにハート型の石(魚市橋側の階段を下りる)が3個埋め込まれている、と紹介しているが、HP「眼鏡橋日記」のマニアの人の調査によると、辺りの両岸などで現在19個が確認されている。
(番外6)ハート石の謎 http://f-makuramoto.com/30-megane/ex06/ex06.html 参照。

後ろの写真は、近くで私が見かけた外のウーパー石4個、眼鏡橋に投げられたコイン、袋橋下に今も残る船繋ぎ石、観光通り角居酒屋の石臼「磨屋校」(旧磨屋小学校?)。

三和町 今昔  (5) 川原木場海岸の蛇紋石

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三和町 今昔  (5) 川原木場海岸の蛇紋石

旧三和町文化協会写真クラブ編「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊写真集の掲載古写真について、5点を抽出する。
これは、タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真というわけではない。話題性がある古写真の、現地確認などの結果を報告する。

54頁  〔写真説明〕   蛇 紋 石
川原海岸の蛇紋石はだれでもしっている。しかしこの石がどうして川原海岸にだけあるのかそれを説明する人はいない。この写真は川原木場の海岸で町境から150mほど野母崎町に入った所です。3階建のビルほどもある大きな岩、山肌から海の底の岩までがみんな蛇紋岩である。ここの石が川原海岸に流れたかどうかは別にして、蛇紋岩のもとはここにはある。

■確認結果

この大石の写真は、「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊でなく、「三和町 今昔」(Part2)平成2年11月刊の写真集54頁に掲載がある。珍しい自然の造物。
旧野母崎町との町境というと、県道34号線の川原木場公民館前バス停から少し先に「堺橋」がある。川は熊ノ岳から流れる「熊川」。橋名のとおり川が境界で海岸へ下るが、車は川沿いや集落内の道からは行けない。

川原木場バス停に戻り、海星グランドの方の道を300mほど行くと、カーブミラーの所へ海岸へ下る急な車道がある。海岸へ降りて車を置き、海沿いの防波堤の道を終点まで歩くと、熊川がここに流れ落ち、古写真の蛇紋岩の大石が先に見える。
この辺りは一面、蛇紋岩の大断崖となっており、樺島や天草が半島のように見える絶景の海岸。ずいぶん先まで行った。写真をじっくり見てもらう。

蛇紋岩は、岩石の緑黒色の脂感が蛇の色を思わせるところからつけられた岩石名。全国に連続的に点在し、岩石は極めて珍しいというわけではないが、海岸付近の露出は少なく、しかも蛇紋岩だけで構成された礫浜は、日本でも外にほとんどなく、美しい。(三和町郷土誌)

長崎の古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。

目録番号:5378 眼鏡橋(1)

〔画像解説〕
眼鏡橋は、寛永11年(1634)旧町名の酒屋町と西古川町(現栄町-古川町)間に興福寺第2代住持である唐僧「黙子如定(もくすにょじょう)」によって架設された我が国最初の唐風石橋である。長さ23.2m、幅4.7m、橋面までの高さ5.46mで中央に束柱のあるアーチ石橋である。現在は重要文化財に指定されている。眼鏡橋の建設は、その後中島川の各通りに次々と唐風石橋が架設される契機となった。江戸の日本橋、岩国の錦帯橋とともに日本三大橋の一つに数えられている。記録によれば、正保4年(1647)の洪水で崩落し、慶安元年(1648)平戸の僧好夢が一度修築したと伝えられる。その後中島川は数度の洪水を起こしているが、橋は破損しても崩落することはなかった。昭和57年(1982)の長崎大水害では、橋のアーチ部分上部を流失するという大被害を受けたが、元の橋に復元され、今も中島川の水面に眼鏡のような双円の美しい橋影を映している。

目録番号:6662 眼鏡橋(3)

■確認結果

きよう朝日新聞長崎地域版2009年12月10日付の「長崎今昔 長大写真コレクション」に目録番号:5378「眼鏡橋(1)」の古写真が掲載された。上記の超高精細画像による解説には問題はない。ところで新聞記事の解説内容である。後段に「後方左の高い山は彦山です」と説明を付け加えている。

目録番号:5378「眼鏡橋(1)」と目録番号:6662「眼鏡橋(3)」の背景の山を見てもらいたい。眼鏡橋を下流側から上流を向いて撮影した古写真である。東方は風頭山の稜線であり、その奥にある彦山は眼鏡橋からは見えない。

古写真の背景の山は、眼鏡橋が架かる中島川の上流北方、右から武功山、そして尾根が続く最も高い山は烽火山(標高426m)、左へ下って健山と思われる。
新聞記事とするなら、現地確認を再三、お願いしているが、どうしたことだろうか。
満潮時の水深は、すぐ上流に魚市橋の名が残る最初の時代の魚市があったし、桃渓橋近く二股の所まであって、船の写真が写っている。(二股と桃渓橋 目録番号:6050 上野彦馬撮影)

三和町 今昔  (4) 宮崎橋とせんたく石のこと

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三和町 今昔  (4) 宮崎橋とせんたく石のこと

旧三和町文化協会写真クラブ編「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊写真集の掲載古写真について、5点を抽出する。
これは、タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真というわけではない。話題性がある古写真の、現地確認などの結果を報告する。

17頁  〔写真説明〕   宮崎橋とせんたく石のこと
宮崎橋が木造だったころは川の中心に柱が建っていた。この柱は流れて来たゴミがひっかかり、橋の下はくぼ地になって魚の住みかになっていた。フナ、ハイネ(ハヤ)、ラックウ(ザリガニ)など子供の最高のつり場でした。
橋より20mほど下流、(工事中の仮橋の根元付近)には大きな板石があった。宮崎部落の洗たく場になっており、五、六人の人がならんで洗たくしていた。各家庭に洗濯機がはいってくるまでこの洗たく石は使われていた。

■確認結果

川原本村から台場があった蛭子崎を回ると県道は下りとなり、宮崎川を宮崎橋で渡り宮崎集落へ入る。現在の宮崎橋は、「昭和57年7月」架と銘板がある。
古写真は昭和30年頃からの宮崎橋の変遷を写している。2枚目の工事途中の古写真は「昭和57年ごろ」が正しいようである。

明治時代の「川原道」については、昭和58年3月長崎県教育委員会発行の長崎県文化財調査報告書第63集「橘湾の漁労習俗」(香焼図書館に蔵書あり)交通の項に、地元古老から聴き取った話として記述があり、次のとおり「三和町郷土誌」陸上の交通458頁が引用している。
同頁には、川原道のほか蚊焼道、布巻道、藤田尾道、千々道、深堀道の引用文がある。

(一)川原道
年崎のホリ首の丘を通り、川原本郷へでる。えべす坂を越え、モウタレ川(宮崎川)三間ま申の石橋を渡り、宮崎へ入る約三・五キロの道をいう。
石橋は郷土誌編集員の高崎市郎先生に生前、話を確かめたことがあるが、簡単な桁橋だったそうである。

ところで私の探しものは「洗たく石」。長靴を履いて干潮時、宮崎橋下の川に行ってみた。川底はブルドーザーで均され、「洗たく石」は完全になくなっているが、写真の通り一部、痕跡を残しているよう岩面が川底にあった。

近くの奥さんに聞くと、やはり数人が同時に洗たくできた大きな板石(岩)だった。川の工事で壊され、後はどうなったか判らないそうである。
「モウタレ川(宮崎川)三間ま申の石橋」も、この「洗たく石」(岩)を飛び石渡りした程度のものではなかろうか。