投稿者「misakimichi」のアーカイブ

結氷と馬?  長崎市宮崎町三和記念公園

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結氷と馬?  長崎市宮崎町三和記念公園

きのうの出来事。宮崎町川原大池奥の三和記念公園近くは氷が張っていた。馬がパカパカ2頭。海星高校三和グランド手前に乗馬できる「ながさきゆうゆう牧場」があり、ここの馬が散歩に来たのだ。3枚目はタイ人、格闘技「ムエタイ」のプーケツトチャンピオン。

伝統柑橘・ゆうこうに光  原木は約130本確認

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伝統柑橘・ゆうこうに光  原木は約130本確認

朝日新聞2010年(平成22年)1月5日付長崎地域版「長崎さしすせそ」の掲載記事。
川上氏のゆうこう研究を伝える。ゆうこうの原木は、川上氏の分布調査によると、現在は長崎市の外海、土井首の両地区(深堀、三和、野母崎地区もある)、新上五島町?、佐賀県唐津市の馬渡島で約130本を確認している。

「長崎まちなか龍馬館」 古写真の展示内容などを考える

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「長崎まちなか龍馬館」 古写真の展示内容などを考える

幕末に活躍した坂本龍馬に関する資料を集めた「長崎まちなか龍馬館」が、1月2日長崎市中心部の商店街にオープンした。浜町のベルナード観光通りにあり、坂本龍馬や幕末の長崎の歴史に関する写真や資料が数多く展示されている。
来年2月末までの開館期間中に、来館者30万人を目指すと言う。きのう、開館早々で正月休みの見学者が多い中、私も見学に行った。
古写真の展示内容などで、気付いた点の改善を要望したい。

A  HP、場所案内板など全般
(1)NHK大河ドラマが始まり、開館は人気があるのに、長崎市ホームページが対応していない。パンフレット片面はPDFで見られるが、龍馬館の場所、展示内容などまったくわからない。
(2)まちなか龍馬館は、長崎市の中心商店街浜町にあるが、中央橋バス停で降り浜町アーケード通りを大丸前まで行っても、肝心な交差点に案内板がない。左のベルナード観光通りに入ると左側に龍馬館はある。
(3)龍馬館の前を通っても、アーケードから吊り下げた幕に「長崎まちなか龍馬館」とあるだけである。左を矢印で示すか、観光通り中央に案内板を設置してもらわないと、狭い入口の建物を見過ごす。長崎の人でもわかりにくい。
(4)龍馬館入口の建物表示が、万屋町方面から来る人に向けられている。浜町アーケードの大丸側から来る人が多いと思われるので、この方向からの配慮を(2)(3)とも必要と思われる。
(5)本年は英雄編となるが、人物が政治家や実業家に片寄っている。長崎医学伝習所に貢献した松本良順など取り上げ、医学史跡も啓発するべきだろう。

B  古写真の展示内容
(1)シアター映像で、最初に「坂本龍馬、長崎に初上陸」と大きく出るが、長崎へ直接、船に乗って来たわけではない。シアター終了後、出来事の年表を見てやっとわかる。「初上陸」でなく、「長崎を初めて訪ねる」ではないだろうか。
(2)年表記事は次のとおり。「坂本龍馬、勝海舟とともに長崎初上陸!  元治元年(1864)幕府軍艦奉行並 勝海舟は、坂本龍馬、近藤長次郎などを伴い、熊本から有明海を渡って島原へ上陸、島原街道を歩いて長崎を訪れた。龍馬にとって初めての長崎。その逗留先は福済寺だった。…」
(3)「長崎奉行所立山役所跡」と「亀山社中」と思われる建物が写る古写真は、大きくパネル展示しているが、説明がまったくない。解説と解説図が必要と思われる。(前記事を参照)
(4)「星観測眼視望遠鏡」の古写真は、明治7年(1874)日本では神戸・横浜・東京とともに長崎も金星観測地点となった。その説明はあるが、金比羅山と星取山(後に改名)だったことにふれていない。望遠鏡背後に写る山は彦山。古写真は星取山で撮影されている。
(5)「浪の平から長崎港口を望む」の古写真は、手前長屋などの建物を「小曽根邸」と説明している。江崎べっ甲店の所蔵写真。大学データベースでは目録番号:5461 などに反対方向から写した写真があり、この建物は「小曾根町の三菱炭鉱社と麦粉会社。居留地末期の明治30年
(1897)頃」と解説している。
(6)「高島・小島のグラバー邸」の古写真は、「礎石と松林のみ往時を偲ばせている」と説明しているが、井戸跡や海岸の船着場から上がる石段の通路なども残っている。

C  「長崎龍馬の道」地図 (地図左部から説明)
(1)アーチ式石橋が残る長崎街道の「一の瀬橋」「古橋」「大手橋」の表示がない。
(2)「大田蜀山人歌碑」は、「諏訪神社境内」とは別に、長崎公園の方の池横にも蛍茶屋から移設した歌碑がある。
(3)「↓カトリック中町教会、日本二十六聖人殉教地、サン・ジョアン・パプチスタ教会跡」と、「↓迎陽亭跡、聖福寺、永昌寺・西勝寺」の位置表示が逆となっている。
(4)勝海舟・坂本龍馬の逗留先、「本蓮寺」及び「福済寺」の位置表示は、必ず必要と思われる。
(5)「芊原橋」は、「芊原(すすきはら)橋」とかな表示もしてほしい。
(6)「大浦川」の川幅を太くし、「弁天橋」や「松が枝橋」を表示した方が良い。
(7)石橋電停近く「ジョイフルサン」の建物描き方が合わない。大浦川のこの通り名は「石橋通り」と呼ぶのだろうか。

朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置 (2)

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朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置 (2)

2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)の84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030 の作品)には、中央手前の風頭山中腹に明治初期の「亀山社中」と思われる建物が写っており、現在、話題となっている。

朝日新聞では、2009年12月11日付第1面の記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”に続き、12月23日付の長崎地域版に”「亀山社中」確認 沸く龍馬ファン”の記事が載った。古写真に写った風頭山中腹の「亀山社中」と思われる建物には別に異論はない。
前の2記事により疑問にしているのは、この古写真を撮影した場所と、朝日選書の解説図にある「興福寺」の位置である。私の考えを次により説明している。
https://misakimichi.com/archives/2161

さらにこの話を進めると、思いがけないことがわかった。幕末に活躍した坂本龍馬に関する資料を集めた「長崎まちなか龍馬館」が、1月2日長崎市中心部の商店街にオープンした。
浜町のベルナード観光通りにあり、坂本龍馬や幕末の長崎の歴史に関する写真や資料が数多く展示されている。
「亀山社中」が写った古写真がどんな取り上げ方をされているのか、きのう夕方、まちなか龍馬館に見に行った。この古写真が超でかい高精細画像によりパネルに展示されている。

館内資料は撮影禁止のため、証拠写真を撮ってこられなかったが、展示の原画には、右端がまだ少しあったのである。光永寺後ろの木の茂みとその右に興福寺の媽祖堂と大雄宝殿と思われる建物が大きく確認できる。
朝日選書やデータベースの古写真は、興福寺の右端をカットして公開されている(興福寺は青枠内)。小画像のため興福寺が良くわからなかった。

次は光永寺について。幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5617に「長崎のパノラマ(3枚続きパノラマの3)(6)」に、風頭山から撮影された光永寺の山門と本堂が写真の左下に写っている。風頭公園の山頂展望台は木立が高く、現在では同じような写真を撮影できない。
同じ向きで興福寺真後ろの墓地(長崎女子商業高校学生寮テニスコート隅上)へ登って、光永寺を撮影してきた。
この古写真や現在の写真を見ても、光永寺本堂屋根の真っすぐな延長線上にあるのは、玉園町の「聖福寺上手」あたりであり、まだ右寄りな「玉園墓地高台」からでないことがはっきりするだろう。

風頭山中腹の「亀山社中」と思われる建物を写した古写真について、この古写真を撮影した場所と、朝日選書の解説図にある「興福寺」の位置を、長崎居留地研究会および長崎大学関係者において、原画や現地を確認のうえ再度の考証をお願いしたい。
朝日新聞は新聞記事や出版物にするなら、正しく伝えてほしいし、長崎まちなか龍馬館の古写真に何の解説がないのも、見学者に対し不親切な展示と思われる。

釣れた? 釣具店の釣人 (8)  長崎市平山町

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釣れた? 釣具店の釣人 (8)  長崎市平山町

長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

正月3日になってこの店の前を通った。やはり寅年の正月バージョンに。タイガーマスクの女は金羽織、竿先に福袋を下げている。金色ヤッケの男も虎模様、お年玉バックを持っている。
今年も楽しみだ。

長崎学さるく”新春「みさき道」を歩く(岬木場経由)”   平成22年1月

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長崎学さるく”新春「みさき道」を歩く(岬木場経由)”   平成22年1月

平成22年1月2日(土)曇り一時小雨。正月恒例の脇岬観音寺まで岬木場経由「みさき道」の初歩き。長崎学さるく行事幕末編で実施。参加スタッフとも27人。
長崎市三和行政センター前9時半発ー蚊焼峠ー徳道ー野母崎ゴルフ場管理事務所(昼食)ー岬木場ー殿隠山ー遠見山ー堂山峠ー脇岬観音寺16時着(徒歩距離約16km)。

元日と違って暖かく天気は良くなった。当日参加が多く27人の多彩な顔ぶれ。初めての人もおり、蚊焼入口から西大道へ戻り道塚2本を見てから出発した。
蚊焼峠から徳道までの山道は坦々とした稜線歩き。今の季節は歩きやすい。水仙畑は咲きかけ、ゆうこうが実っていた。野母崎ゴルフ場管理事務所の構内で昼食。

サイクリング道路を1時間歩いて、岬木場に出る。生目八幡神社前から殿隠山の登リ口までは川原回りみさき道となる。風車近くを通り殿隠山登り口で脇岬へそのまま下るみさき道と分かれ、殿隠山・遠見山へ登って堂山峠へ出た。
脇岬観音寺は、正月は4日まで開帳。本堂の観音像や天上絵を見られる。毎回のコースなので、写真を目新しくした。今回の主役は小さな観音様Kちゃん。小4なのに笑顔で元気に歩いた。

お宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/22998149.html 
のりさんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/11121116.html

次回の学さるくは、3月6日(日)”居留地界隈の洋館群と標石(境・地番標)めぐり”
午前9時30分に新地町「湊公園」集合。

2010年新春  明けましておめでとうございます

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2010年新春  明けましておめでとうございます

みなさんのご多幸をお祈りします。旧年中もかわらぬご支援をいただき感謝します。お蔭さまで、新年の縁起良くアクセス10万へカウントダウン。ありがとうございます。
いささかネタが切れかかっていますが、長崎の歴史や風景などをもう少し続けたいと思います。
私もよろしくね。まだ草食系よ。

朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置

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朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置

2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)の84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030 の作品)には、中央手前の風頭山中腹に明治初期の「亀山社中」と思われる建物が写っており、現在、話題となっている。

朝日新聞では、2009年12月11日付第1面の記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”に続き、12月23日付の長崎地域版に”「亀山社中」確認 沸く龍馬ファン”の記事が載った。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2154
https://misakimichi.com/archives/2158
古写真に写った風頭山中腹の「亀山社中」と思われる建物には別に異論はない。
私が前の2記事により疑問にしているのは、この古写真を撮影した場所と解説図にある「興福寺」の位置である。

これまで撮影場所は、朝日選書も「聖福寺から」と解説していたので、納得していた。
しかし、12月23日付の新聞記事では「現在の長崎市玉園町の丘の中腹から撮影したとみられる。…写真の中から旧長崎奉行所の堀の位置や山の稜線を目印に撮影場所を特定した」と現地からの写真を掲載して変った。
はたしてそうだろうか。現在の地形図・現地写真及び諸資料により、私のヤボな推測を関係者の参考としてもらうため、少し補足して説明してみる。

国土地理院の詳細地形図は、前の記事の航空写真及び現地写真とともに見てもらいたい。古写真の撮影場所とするそれぞれの地点から中島川岸の桶屋町、大屋根の「光永寺」とその奥の「興福寺」を望んだ場合。玉園町の「聖福寺上手から」(開山老和尚塔所の入口あたり)が赤線、「玉園墓地から」(新聞掲載の玉園町の丘の中腹)が青線の向きとなる。

現地写真は、古写真との比較において必要な部分だけ拡大し、現在、ビルの間に見える寺名を入れた。「興福寺」は大棟中央上に「瓢瓶」(火災除けの意の瓢箪形まじない)があるので確認できる。背景の風頭山、彦山の姿などからも総合的に判断すると、古写真と比べ下段の「聖福寺上手から」の方が、現地写真は似ていることがわかるであろう。
朝日新書の写真下解説図にある「興福寺」の位置は、現在の「興福寺」左横の「浄安寺」を間違って解説していると思われる。「浄安寺」の左横は現在も二層屋根の特徴がある「三宝寺」である。撮影場所を「玉園墓地から」としたため、「興福寺」が古写真上の「浄安寺」の位置に来てる。

では、古写真において「興福寺」はどの建物だろうか。位置からすると手前大屋根の「光永寺」越しにすぐ左上に写った建物が「興福寺」の山門と思われる。山門は寺町通りの斜めに建っている。寺内奥の媽祖堂と大雄宝殿は、現在「聖福寺上手から」望むと、山門の一部とともに確認できる。「光永寺」は現在の「P 七福マンション」裏あたり。「興福寺」はちょうど「光永寺」右から中島川を一覧橋で渡った通りの突き当たり(寺町通りに出る)の場所にある。

しかし、「興福寺」の媽祖堂と大雄宝殿が、古写真上でなぜはっきり写らなかったのだろうか。前の記事では木の茂みの後ろだろうと説明した。「東明山興福寺」HPの縁起に、重要な昔の寺の様子を描いた絵図(年代不明)があった。大雄宝殿前の広場に当時は大松か大楠が5本立つ。寺町通り側にも桜らしい木が3本生えている。
「長崎墓所一覧 風頭山麓篇」(長崎文献社昭和57年刊)掲載俯瞰写真(長崎市提供写真と説明あり)でも、同広場と寺町通り側に木立があったことが確認できる。

古写真で「興福寺」の位置がわかりにくく、古写真の撮影場所をはっきり特定できないのは、中島川岸の「光永寺」が高いマンションやビルに囲まれ、まったく見えないためである。それなら寺町の「興福寺墓地」へ出かけてみよう。
興福寺の大雄宝殿大棟の「瓢瓶」後ろは、現在「長崎女子商業高校学生寮」テニスコートとなっている。絵図によるとこの場所も昔は興福寺の寺域で、寺の付属建物が描かれている。古写真の撮影場所を逆の方向から見た場合の景色が広がる。「光永寺」の屋根の形が山門入口の方向から確認できる。その先にあるのは玉園町の「聖福寺」だろう。

龍馬動く?  長崎歴史文化博物館に像展示

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龍馬動く?  長崎歴史文化博物館に像展示

長崎市風頭公園の坂本龍馬像(制作1989年)、高島港公園の岩崎弥太郎像(同2005年)の原型が、新年1月3日から長崎歴史文化博物館(1階エントランス)に並んでお目見えする。
きよう行ったら、搬入しオープンの準備中だった。両像とも市内在住の彫刻家山崎和国氏の作品。長崎龍馬会HPなどによる除幕式お知らせは次のとおり。

■坂本龍馬像・岩崎弥太郎像除幕式
日 時 平成22年1月3日(日) 10時30分〜11時
場 所 長崎歴史文化博物館(1階エントランス)
式次第 ①音楽演奏 西由美子氏・有馬史氏 ②館長挨拶 長崎歴史文化博物館 大堀哲 ③来賓紹介 ④太鼓演奏 銀屋町鯱太鼓 ⑤除幕 ⑥来賓挨拶 長崎県知事 金子原二郎 長崎市長 田上富久 ⑦制作者挨拶 彫刻家 山崎和国 ⑧音楽演奏 西由美子氏・有馬史氏 ⑨閉式

朝日選書  40P写真  11 中央の橋は「長久橋」か「万(よろず)橋」か

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朝日選書  40P写真  11 中央の橋は「長久橋」か「万(よろず)橋」か

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書の40P写真「11 新大橋から中島川上流を望む」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5881「中島川河口(2)」と同作品)の、私の前の記事は次のとおり。
https://misakimichi.com/archives/2146
朝日選書の39P解説記事によると、「中央に見える木橋は長久橋。…この写真は中島川の河口に架けられた新大橋の上にカメラを据えて撮影されています」に間違いないようである。

幕末・明治期日本古写真データベースには、目録番号:4030で「中島川河口(1)」があり、同解説は次のとおり。これが説明している「大橋」は、「新大橋」でなく「銕橋」(くろがねばし。通称てつばし)だろう。そうでないと「この写真の橋は、大橋の下流に架かる長久橋ということになる」とならない。わかりにくい解説と思われる。

中央の山は三つ山、その手前左側に金比羅山、右側が健山(たてやま)と烽火山の稜線である。右側に旧西浜町、左側は築町である。横浜で発行された写真付き新聞”The Far East”の明治4年(1871)5月1日号に同じアングルの写真が掲載されており、それにも同じ木橋が写っている。仮に、この写真の橋が中島川河口の大橋ならば、大橋は明治元年(1868)8月、長崎地方裁判所参議井上聞多の監督指導のもと、本木昌造が製鉄の橋に架替えており、”The Far East”に掲載された橋と異なるため、この写真の橋は、大橋の下流に架かる長久橋ということになる。長久橋は、寛永年間に島原城主松倉豊後守重政が最初に架設し、豊後橋と呼ばれた。寛文12年(1672)博多屋清右衛門が架け替え、長久橋と改称された。以後、架け替えが重ねられ、中島川変流工事に際し、明治22年(1889)プラットトラス形式の橋に改め、昭和5年(1930)鉄筋コンクリート橋に変わった。

ところで、目録番号:4030「中島川河口(1)」や、目録番号:5881「中島川河口(2)」と同じような光景で、中島川河口を撮影した古写真が、データベースでは見つけきれないが、長崎大学附属図書館に所蔵されているのではないだろうか。
まず1点は5枚目。長崎であいの会ウェブサイト「中島川グリット」石橋に関するコラムに出てくる古写真。 http://nagasaki.n-grit.com/  川に浮かぶ船の数が違う。同会のは写真出所が明らかでないが、次のとおり「明治後期 万橋(よろずばし)」と解説している。

浜の町の入口?
鉄橋から万橋を望む。昔から長崎で一番歩行者の通行量の多いところ。写真の時代も鉄橋の賑わいはそうとうなものだったに違いない。今の風景にかさねて想像すると楽しい。右は浜市アーケード入口へ、路面電車も走っている。左は仕事帰りの人が立ち並ぶ中央橋のバス停。
今も昔もかわらないのは遠くに見える山の稜線。金比羅山と健山の間にかすかに帆場岳(三つ山)が見える。

次の2点は6枚目。長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の129P図ー4 居留地建設と橋の架設。写真・15「出島新橋・新大橋・梅香崎橋」(長崎大学附属図書館)とある。
この古写真には「長久橋」は写っていないが、右側「新大橋」の上は、明治22年に築町に完成した十八国立銀行社屋だろう。その右端に写る2階建木造家屋。白く塗った屋根に特徴がある。

目録番号:4030「中島川河口(1)」や、目録番号:5881「中島川河口(2)」の左端に写る家屋と同じ建物と認められる。対岸の右側の建物も同じであろう。したがって、「中島川グリット」が説明する「明治後期 万橋(よろずばし)」とはならないと思われる。
中島川は上流を見ると、万橋手前から北東に湾曲し、万橋は川の斜めに架かっている。下流の鉄橋から真直ぐに写すとするなら、背景の山は変るだろう。
古写真の背景の山並み、右から烽火山から健山、奥の帆場岳(三つ山)、諏訪神社の森と金比羅山の尾根(東尾根。いわゆる立山ではない)の重なりを、両橋で比較するとはっきりした結論が言えるが、高いビルが林立した中心繁華街。山並みは橋から写せず、満足な確認はできない。