投稿者「misakimichi」のアーカイブ

津 和 野  島根県津和野町

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津 和 野  島根県津和野町

マイ50ccバイクによる野宿旅。離島を主に訪ねている。今回は島根県「隠岐の島」をメインに、2011年9月7日から17日まで出かけた。途中、筑前大島・秋芳洞・津和野・大山へ寄った。その主な史跡、風景、石橋、巨樹など。

写真は、津和野入口付近からの遠景、鷺舞の像、多胡家老門・大岡家老門、殿町城下通り、津和野カトリック教会、弥栄神社、弥栄神社の大ケヤキ(津和野町指定天然記念物)、同神社内のカゴノキ抱木、津和野城跡馬場先櫓(国指定史跡)、太皷谷稲成神社、同神社からの展望、大元神社跡のクスノキ(島根県指定天然記念物 所在地:津和野町日原 島根県一の大きな木 かつての現地説明板は次のとおり)

天然記念物  大元神社跡のクス
島根県指定天然記念物 第一号 (指定年月日 1958年8月10日)
樹高約31m、胸高周10.6m、根元の周16.6m、枝張り東西約42m、南北約42m、もともと2本であった樟が成長するにつれて、基幹が約4.2mのところで合体したもので、樹齢約400年と推定される。
太平洋岸ならばともかく、北緯34度33分のかかる山間部に、これだけの樟の巨樹があるのはまことに珍しい。
昭和41年3月20日   島根県教育委員会、日原町教育委員会
所在地 島根県鹿足郡日原町大字池村字石楠山1903 (現津和野町)

長崎の古写真考 目録番号:3434 東山手から大浦天主堂を望む(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3434 東山手から大浦天主堂を望む(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3434 東山手から大浦天主堂を望む(1)
〔画像解説〕 超高精細画像
この写真は、東山手の丘から大浦居留地背後と南山手を撮影した写真である。撮影時期は、明治10年頃と思われる。写真の正面には大浦天主堂があるが、創設時にあった正面両端の尖塔がない。大浦天主堂の右下に、明治8年(1875)に完成した羅典神学校が見えている。その左下が妙行寺、その右がベルビューホテル(現全日空ホテル)である。その上の松の木のところにグラバー邸が建っている。ベルビューホテルより写真下に建つ洋館の一列が下り松居留地で、確認し辛いが、その前を大浦川が写真中央左から右へと流れ長崎港へ注いでいる。その大浦川へ突き当たるように通る正面の道路は、海岸から大浦海岸通、大浦1番通に次ぐ、大浦2番通りである。大浦居留地の背後には、倉庫や小規模な工場のような建物が密集している。和風と洋風の混在した、明治初期の長崎の外国人居留地の様子が撮影されている。

目録番号:6163 東山手から大浦天主堂を望む(2)
〔画像解説〕 ボードインコレクション 超高精細画像
長崎を訪れた写真家フェリックス・ベアトが東山手から撮影した大浦外国人居留地と大浦天主堂ですが、撮影時期は大浦天主堂が完成しているので慶応元(1865)年と思われます。建築を指導したのは天草の棟梁の小山秀之進です。その右には司教館や文久3(1863)年に建てられたグラバー邸が鮮明に見えます。グラバー邸の松は曲がっているところから長崎弁で「よんご松」、その右下に見える松は地名となる「下り松」と呼ばれました。 -6163-

■ 確認結果

目録番号:3434「東山手から大浦天主堂を望む(1)」が、朝日新聞長崎地域版2011年9月10日付「長崎今昔」に掲載された。
「ウイルヘルム・ブルガーが1870年、東山手13番(現:活水女子大付近)から撮影した大浦外国人居留地です」と解説している。

新聞記事の解説はほぼ間違いないようである。現在の写真を私は東山手13番館の2階ベランダから写してみた。2階からの高低差があるが、大浦天主堂と妙行寺の位置は合う。中央の大通りは、大浦海岸通りから3本目で、大浦2番通りであろう。
ただ、撮影地を「東山手13番」とは限定しないで、13番館下あたりの車道からでも撮影できたのではないだろうか。

この作品には、データベースに関連作品がある。ボードインコレクション中、F.ベアト撮影の目録番号:6163「東山手から大浦天主堂を望む(2)」が、同じような構図で撮影している。
こちらは明らかに大浦天主堂と妙行寺の位置が違う。中央の大通りは、大浦海岸通りから2本目で、大浦1番通りであろう。
柴多一雄氏(前長崎大学附属図書館長)著「長崎古写真紀行」長崎文献社2011年6月刊90〜91頁に掲載され、現在の写真は「活水女子大構内」から撮影したとあとがきに記している。

私の感じでは、F.ベアト撮影(2)は大浦天主堂や妙行寺をまだ近く、下から見上げている。撮影地は活水女子大の高台からでなく、(1)の13番館下あたりの車道からまだ右へ下った場所(オランダ坂入口現:東山手館あたりの岩場)からではないだろうか。
同じ長崎大学なので、それぞれの解説は、正しい検証をして統一して説明してほしい。

新聞記事の「同年撮影のベアトの写真に写っている二つの尖塔が消えています。台風で飛ばされたようです」は、同年撮影とは(2)の作品のことだろうか。側面尖塔が無くなったのは台風のためか、改築のためか不明である。
撮影者が不詳のままになっていたり、撮影年代もバラバラである。新しい事実がわかったらデータベースやボードインコレクションHPは、すぐ正しく修正してもらわないと、利用者が戸惑うと思われる。

国際墓地から稲佐山・大浜へ  2011年9月

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国際墓地から稲佐山・大浜へ  2011年9月

2011年9月19日(月 敬老の日)曇り。稲佐国際墓地から稲佐山(標高340.3m)・大浜へ。参加4人。18日が雨のため延期して実施。みさき道歩会の例会。
稲佐橋バス停9:30発ー稲佐悟真寺国際墓地ー稲佐山観光ホテル前10:30ー旧遊歩道へ入るー九電北長崎飽の浦線25号鉄塔10:42ー山頂下登山道路11:08−稲佐山山頂展望台
11:20着(昼食)12:10発ー大駐車場奥大浜下山道入口12:30−堤13:04−大浜町バス停13:30着(徒歩距離約8km)

残暑の季節であり、手軽な稲佐山の林間コースとしていたが、台風15号が接近中。風が吹く涼しい日となった。稲佐悟真寺国際墓地内の階段道の最上には、館内町の唐人屋敷跡にあるような「福建地境」の大きな石柱がある。長崎港がこのあたりから見え、南極観測船「しらせ」が出港していた。

登山道路を稲佐山観光ホテル前バス停まで行き、正面の長崎スカイホテル右横のコンクリート石段を登ると、稲佐山の旧遊歩道が残る。入口が藪っているだけで、すぐ林間となり、九電25号鉄塔に出る。先は山の斜面をジグザグに登って行く。展望はないが、快適に登れる。明治地図からある道。上野彦馬やF.ベアトがこの道を登ったことも考えられる。
古写真考の項を参照。  https://misakimichi.com/archives/2804

山道区間は、約1kmくらい。35分ほどで、山頂展望台真下の登山道路カーブミラー地点に出る。ロープウェイはきょう風のため運休していた。稲佐山山頂展望台11:20着。ホールで昼食。
午後は12:10発。サル・シカ園を通り大駐車場まで下ると、その角奥に「至大浜→」の道標がある。谷間の沢沿いの遊歩道を、約1時間下ると大浜へ着く。途中、旧三菱大浜社宅の水源だったと思われる堤がある。

関門海峡・秋芳洞  山口県下関市、美弥市

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関門海峡・秋芳洞  山口県下関市、美弥市

マイ50ccバイクによる野宿旅。離島を主に訪ねている。今回は島根県「隠岐の島」をメインに、2011年9月7日から17日まで出かけた。途中、筑前大島・秋芳洞・津和野・大山へ寄った。その主な史跡、風景、石橋、巨樹など。

写真は、関門大橋、関門トンネル人道(バイクは押して通る)、鞆の浦、秋芳洞、秋吉台

国指定文化財等データベースによる解説は次のとおり。

史跡名勝天然記念物
名称: 秋芳洞
ふりがな: あきよしどう
種別1: 特別天然記念物
指定年月日: 1922.03.08(大正11.03.08)
特別指定年月日: 1952.03.29(昭和27.03.29)
指定基準: (六)洞穴,(九)風化及び侵蝕に関する現象
所在都道府県: 山口県
所在地(市区町村): 美弥市
詳細解説
石灰岩ノ浸蝕溶解セラレテ生シタル洞穴ニシテ其ノ大ナルコト既知ノ本邦石灰洞中最大ナルモノナルベシ 其ノ鐘乳石及ビ石筍ハ大ニシテ且完全ナリ 其ノ他種々ノ形状ヲ成セル炭酸石灰ノ沈澱物アリ又伏流アリ 石灰岩が浸蝕溶解されて生じた洞穴でわが国石灰洞中最大なるものとして特に学術上の価値が高い。

筑前大島 (2)  福岡県宗像市

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筑前大島 (2)  福岡県宗像市

マイ50ccバイクによる野宿旅。離島を主に訪ねている。今回は島根県「隠岐の島」をメインに、2011年9月7日から17日まで出かけた。途中、筑前大島・秋芳洞・津和野・大山へ寄った。その主な史跡、風景、石橋、巨樹など。

写真(2)は、砲台跡から大島灯台までの遊歩道からの景観、大島神崎灯台、三浦洞窟、神崎に残る下関要塞第一区地帯標第五号、神崎下の馬蹄岩、御嶽神社、御嶽岳山展望所からの景観、帰航時に見た筑前大島の全景
下関要塞第一区地帯標は、次など参照。 https://misakimichi.com/archives/2875

筑前大島   朝日新聞掲載「キーワード」の解説

福岡県最大の離島で周囲14キロ。神湊港からフェリーで25分。人口830人。55年(?)ころまで2100人を超えたが、漁獲減と職不足で減少。旧大島村は05年3月に宗像市と合併。平安時代に奥州を支配した安倍宗任が流されたとされる。
( 2007-08-04 朝日新聞 夕刊 1総合 )

筑前大島 (1)  福岡県宗像市

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筑前大島 (1)  福岡県宗像市

マイ50ccバイクによる野宿旅。離島を主に訪ねている。今回は島根県「隠岐の島」をメインに、2011年9月7日から17日まで出かけた。途中、筑前大島・秋芳洞・津和野・大山へ寄った。その主な史跡、風景、石橋、巨樹など。

写真(1)は、本土側の宗像大社と参道橋、神湊港からフェリー大島で渡る、大島港渡船ターミナル、宗像大社中津宮、大島海水浴場と夢の小夜島、加代鼻の流人生活跡、沖津宮遥拝所、砲台跡と展望公園、風車展望所、大島灯台までの遊歩道からの景観

筑前大島   朝日新聞掲載「キーワード」の解説

福岡県最大の離島で周囲14キロ。神湊港からフェリーで25分。人口830人。55年(?)ころまで2100人を超えたが、漁獲減と職不足で減少。旧大島村は05年3月に宗像市と合併。平安時代に奥州を支配した安倍宗任が流されたとされる。
( 2007-08-04 朝日新聞 夕刊 1総合 )

三重の御岳と野々岳の烽火台跡へ  平成23年9月

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三重の御岳と野々岳の烽火台跡へ  平成23年9月

平成23年9月4日(日)曇りのち晴。長崎市三重地区の山、御岳(標高167m)と野々岳(標高325m)の烽火台跡めぐり。参加11人。みさき道歩会の例会。
三重田バス停10:30発ー御岳11:00ー東ピーク12:30着(昼食)ー農道ー三角点14:00ー野々岳14:40ー模型飛行場15:26ー野々岳16:00ー農道三叉路16:30ー三重田川沿いを下るー三重田バス停18:10着(徒歩距離約7km)

鎖国の江戸時代、三重周辺の海域に変事が起きた時、御岳から烽火を上げ、野々岳を経て大村城へ知らせた烽火台跡が2つの山に残る。野々岳山頂は大岩があり、外海・大村方面の展望が良い。夏の暑い時期、計画は車でそれぞれの登山口まで移動、往復登山の簡単なつもりだったが、御岳と野々岳は尾根が続いている。尾根道を探し、途中は農道を繋ぎ、なんとか歩けないかとルートを考えた。

台風が去り、きょうは少し涼しい。予定を変更しこのルートを歩いてみた。模型飛行場もいったん下ったので、思ったより時間がかかった。全体にはっきりした山道はないし荒れている。
地形図とK氏携帯GPSを常に照らし合わせながら歩いたから、ほかの人にまだ勧めるようなルートでない。写真だけ紹介する。三重田の車に戻ったのは、18時10分だった。

本ブログ2010年7月の「三重の主な史跡(2)」を参照。その時は野々岳の烽火台跡が、私にははっきりしなかった。  https://misakimichi.com/archives/2407
江越先生が最近地元の人と訪ね、烽火台跡の内部や炊き口を掘ったと聞いたので、地図を送ってもらい、今回確認に行った。山頂大岩の10mほど南側にあった。前の記事どおりの場所。御岳のとほとんど大きさも同じ造り。

宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28480482.html

轟渓谷大渡橋先上流の沢登り 平成23年8月

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轟渓谷大渡橋先上流の沢登り 平成23年8月

平成23年8月28日(日)快晴。諫早市高来町の轟渓谷大渡橋先上流の沢登り。参加5人。みさき道歩会の例会。21日が大雨のため延期した。。
大渡橋9時30分発ー沢登りー小松尾公園12時20分着(昼食)—山道ー大渡橋14時着(徒歩距離 約3km)

7月10日に大渡橋まで「銀鈴渓自然歩道」を歩いた。きょうはその先の渓谷を小松尾公園まで遡行する。前回の様子は、 https://misakimichi.com/archives/2842
長崎を車1台で8時出発。有喜・長田バイパス経由で轟渓谷へ。「大渡橋」手前の広場に駐車する。前回の昼食岩場まで戻り、9時30分頃から沢へ入る。水量はやや多い。
すぐ大渡橋の下をくぐるが、沢を歩くまでもない。巨木原生林の遊歩道を歩いて、ヒメシャラの大木などを見学した。轟の滝奥地原生林は、 https://misakimichi.com/archives/2486

その先の3段滝の所から本格的な沢登りをした。小松尾公園までは、約1km。渓谷の上流部となるので、沢はなだらか。滝らしい滝もなく、涼を味いながら、ゆっくり2時間ほどで、上流の林道橋に出た。普通は30分コース。途中、右岸側で原生林にあった幹囲1.75m(推定樹齢150年)クラスのヒメシャラ2本が、別に見つかったのは収穫だった。

林道橋は右へ行くと、すぐグリーンロードに出る。小松尾公園に12時20分に着き、13時まで昼食とした。大正元年に植えられた山犬谷200年杉、幹囲2.79mの大木探しに行きたかったが、またとする。そのまま、大渡橋まで山道を下った。「ひめしゃら橋」は流されていた。14時に大渡橋の車へ戻った。

長崎の古写真考 ボードインアルバム: 2 長崎の町と精得館(医学校) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 ボードインアルバム: 2 長崎の町と精得館
(医学校) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ボードインアルバム 見開き: 2 長崎の町と精得館(医学校)【4枚組の①②③④】
ボードインアルバム 見開き: 3 海からの出島【2枚組の①②】
ボードインアルバム  26頁:28 海から見た大浦居留地
ボードインアルバム  29頁:31 飽の浦からの汽船と南山手
ボードインアルバム  37頁:40 金比羅山か
ボードインアルバム  48頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の①②③】
ボードインアルバム  50頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の④⑤⑥】
ボードインアルバム  53頁:51 稲佐山から見た長崎のパノラマ
ボードインアルバム  61頁:54 長崎のパノラマ
ボードインアルバム  64頁:56 高鉾島
ボードインアルバム  68頁:60 中島川の一瀬橋

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム 外国人が見た幕末長崎」長崎文献社が、最近、2011年6月10日発行されている。
「長崎大学コレクションⅠ 明治七年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社2007年11月9日発行に続く第2集の古写真集。定価(税込み)2940円。

画像解説で理解しにくいところが、第2集にもある。撮影場所の現地確認があまりなされていない。本ブログの「長崎の古写真考」において、疑問点や撮影場所をすでに説明しているので、次の記事を参考とし研究を進めてほしい。

ボードインアルバム 見開き: 2 長崎の町と精得館(医学校)【4枚組の①②③④】
目録番号:6678 長崎のパノラマ(10)
https://misakimichi.com/archives/2817

ボードインアルバム 見開き: 3 海からの出島【2枚組の①②】
目録番号:6196 海からの出島鳥瞰
https://misakimichi.com/archives/2180

ボードインアルバム  26頁:28 海から見た大浦居留地
目録番号:6272 海から見た大浦居留地
https://misakimichi.com/archives/2878

ボードインアルバム  29頁:31 飽の浦からの汽船と南山手
目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3)
https://misakimichi.com/archives/2186

ボードインアルバム  37頁:40 金比羅山か
目録番号:6268 金比羅山
https://misakimichi.com/archives/2271

ボードインアルバム  48頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の①②③】
ボードインアルバム  50頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の④⑤⑥】
目録番号:6199  軍艦入港で緊迫する長崎港
拡大写真がなくわからなかったが、写真集6枚目の②が、目録番号:6272「海から見た大浦居留地」と同じ写真。目録番号:6272 の撮影地は、「出島」からとなっている。
https://misakimichi.com/archives/2878

ボードインアルバム  53頁:51 稲佐山から見た長崎のパノラマ
目録番号:6165 稲佐山から見た長崎鳥瞰
https://misakimichi.com/archives/2804

ボードインアルバム  61頁:54 長崎のパノラマ
目録番号:6158 長崎鳥瞰
https://misakimichi.com/archives/1928

ボードインアルバム  64頁:56 高鉾島
目録番号:6160 高鉾島(46)
https://misakimichi.com/archives/2712

ボードインアルバム  68頁:60 中島川の一瀬橋
目録番号:6162 中島川一の瀬橋(2)
崎陽八景の版画は、「市瀬晴嵐」となっている。

長崎の古写真考 長崎古写真紀行:48 南山手居留地

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古写真紀行:48 南山手居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎古写真紀行:48 南山手居留地
〔画像解説〕  石炭積み込みの汽船が停泊する長崎港
飽の浦から見た明治中期の長崎港。対岸は鍋冠山山麓の南山手居留地から浪の平町、古河町である。港内には多くの汽船が停泊している。左手前の船には何本ものはしごが掛けられ、大勢の人が、団平船で運んできた石炭を船に積み込んでいる。当時は陸から直接積み込むことができず、海上で石炭を積み込んでいた。
長崎港は、高島炭鉱等で良質の石炭が産出したため、明治期には石炭の補給港としてにぎわった。貿易額では、横浜港の1割以下しかなかったが、汽船の寄港数は横浜の数倍に達していた。

目録番号: 987 飽の浦からの汽船と南山手
〔画像解説〕  超高精細画像
長崎市街地の西岸、飽の浦と立神の中間岩瀬道の身投崎付近から、鍋冠山麓の南山手外国人居留地南限と古河町を写した写真である。年代を特定できる構造物はないが、南山手の居留地の進展状況から、明治10年(1877)代後期から明治20年(1887)代前期の撮影である。長崎港に3艘の大型の船が撮影されている。1艘の船に石炭が積み込まれている。高島炭鉱等で良質の石炭が算出したために、長崎港は明治期には石炭の補給港として賑わった。陸上からの石炭を補給する施設がないために、和船で運んできた石炭を補給している。船の向こうは、南山手居留地の南限であり、大規模な洋館が鮮明に撮影されている。明治後期に造られる、マリア園や現在保存されている建物は見られない。石炭を補給している船の向こうに見えている坂道は、現在のどんどん坂である。写真の左隅に、後にロシア領事館と教会が造られる場所が見える。海岸線は、浪の平町から古河町の日本人住居地域である。

■ 確認結果

目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手」が、最近発行された柴多一雄氏(前長崎大学附属図書館長)著「長崎古写真紀行」長崎文献社2011年6月刊118頁に掲載されている。
長崎新聞龍馬が動く関連企画「長崎遠めがね 古写真に見る町と人」をまとめた古写真集。右下に現在の写真を対比させているが、撮影場所がビルに隠れてわかりにくい。

データベース画像解説の「身投岩」の岬とは、現在の長崎市岩瀬道町「三菱重工業(株)長崎造船所本館」が建つところ。古写真の「右下」ではなく、「左下」の岩が「身投岩」のようである。この間に湾入があり、現在は第3ドックができている。浪の平の背後の山は鍋冠山。真ん中に星取山がわずかに覗く。右奥の遠い山は戸町岳である。

「三菱重工業(株)長崎造船所本館」は入構禁止なので、私は現在の写真を正門前から写した。実際の撮影場所は、鍋冠山をもう少し下から見上げているので、本館ビル下、迎賓館「占勝閣」となった先端あたりからではないだろうか。
本ブログの次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1590

なお、目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊62頁にも掲載されている。同解説は次のとおり。撮影年代は「1890年頃」となっている。
85 長崎港 ca.1890 長崎
鎖国時代唯一の外国貿易港は、明治になっても良港として外国船の出入りでにぎわった。この角度では船影がまばらだが、港全体はパノラマ撮影によらなければ写せない。稲佐山側から港内を撮影したもの。