投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 912 海岸の風景(1)
〔画像解説〕
場所未詳の海岸の漁村。干潮の海岸に漁船と思われる和船が10艘近く置かれ、中央には砂浜で人が写されている。漁村のほとんどの屋根が藁葺きで、僅かに瓦屋根が混じっている。横浜の近くと思われる

■ 確認結果

目録番号: 912「海岸の風景(1)」は、2010/3/2 記事を参照。次のとおり記していた。
https://misakimichi.com/archives/2252

目録番号: 912「海岸の風景(1)」は、かなり大きな漁村の港で、背後に高い山が写っている。
横浜で発刊された英字新聞「ザ・ファー・イースト」の掲載写真とわかった。九州大学デジタルアーカイブを見ていたら、同じ写真が Vol.2 No.6 1871/8/16 にあった。「指宿付近からの開門岳」と説明している。

新聞掲載写真の下には、「ODOMIWARRA-NEAR  CAPE  CHICHAKOFF」の解説英文がある。「NEAR CAPE」は「近く 岬」だろうか。「ODOMIWARRA」「CHICHAKOFF」がわからない。
「指宿付近からの開門岳」では、手前に池田湖があると景色は似るが、海岸とすると指宿の浜あたりとなり、開門岳から遠くなる。参考のため指宿からの写真を、鹿児島県総合観光サイトから載せた。九州大学に撮影場所の見解があれば、教えていただきたい。

長崎大学のデータベース上では、「横浜の近くと思われる」と解説し、イースト写真との説明はない。しかし最近になって、長崎大学古写真研究会編「古写真研究 第1号」長崎大学附属図書館平成6年発行61頁に、当時、岡林助教授らの次の研究があることを見つけた。

第2表 長崎大学附属図書館が所蔵する「The Far East」の写真目録の中
通し番号  26  (掲載)年月日  1871.8.16  
欧  名  ODOMIWARRA-NEAR  CAPE  CHICHAKOFF
和  名  大泊村ーチチャコフ岬付近
整理番号  19−28
タイトル  海岸の風景〔不詳〕

海岸の風景〔不詳〕としているのが、この目録番号: 912「海岸の風景(1)」の作品である。和名「大泊村ーチチャコフ岬付近」とは、さてどこなのだろうか。
HPで調べると、「風景のなかの歴史①: 生きてりゃいいさ」の記事に次があった。英公使館の通訳官、アーネスト・サトウとともに英極東艦隊の外輪船、アーガスに乗り込み、薩英戦争をすべて目撃した英公使館の医官、ウィリアム・ウィリスの記録のようだ。

業を煮やした英国はニール代理公使に極東艦隊を鹿児島に派遣し、直接、薩摩藩と交渉し、英国側の要求を実現するように命じた。キューパー提督の指揮のもと、艦隊は翌1863(文久3)年8月6日、横浜を出港し、鹿児島へ向かった。燃料を節約するために主に帆走に頼り、横浜から約1000キロを航海し、大隅半島の先端、佐多岬(英国はチチャコフ岬と呼んだ)沖に到着したのは5日後の8月11日午後だった。キューパー提督が率い、ニール英国代理公使などが乗艦する旗艦ユーリアラス、それにパール、パーシューズ、アーガス、コケット、レースホース、ハヴォックの計7隻による当時の大艦隊である。艦隊が佐多岬を回り、山川港を通過して鹿児島湾に入ると、大隅・薩摩半島各地から一斉に烽火が上がり、号砲も放たれた。…

この資料から「ODOMIWARRA-NEAR CAPE CHICHAKOFF」は、目録和名どおりとすると、「チチャコフ岬」は大隈半島先端の「佐多岬」。「大泊村」は佐多岬手前、現在の南大隈町大泊港とわかった。横浜近くはあまり考えられない。イースト写真は掲載が1871.8.16だから、ウィリアム・ウィリス記録時のものではないだろう。

撮影場所を「大泊港」とすると、ブログ「大隈半島 時の風 太郎が行く」により、大泊港背後に似たような姿の山の写真があった。古写真どおり撮影できる場所があるかもしれない。
薩摩半島の「開門岳」とすると、「指宿」温泉あたりからでは遠すぎる。近い「山川港」あたりも考えられる。山とともに砂浜の漁村の解明も必要だろう。
現地調査できないので、長崎大学側または地元で検証をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。

作品番号:10 星取山から長崎港を見下ろす  (28−23)長崎大学附属図書館所蔵
〔画像解説〕 ながさき・出島「古写真の世界」展 写真集 59頁
安政6年(1859)、日本が開国すると、もはやオランダ人を市街から隔絶する必要がなくなった。出島は、次第に周辺部が埋め立てられ、江戸時代の扇形の形を変形させ始める。古い出島の波止は壊されて、慶応元年(1865)に新しい波止201.6坪が築造された。慶応2年(1866)、外国人居留地への編入後、出島から浪の平に至る海岸道路を建設するために、慶応3年(1867)6月、出島の海側に4間幅の遊歩道が築造される。出島の外側に4間埋め立てて、新しい石垣が築かれた。この写真は、慶応3年から、明治2年(1869)に出島から築町に出島新橋が架設される間のものである。

作品番号:34 星取山から長崎港を見る    (96−58)長崎大学附属図書館所蔵
〔画像解説〕 同 写真集 63頁
星取山の山上から大浦居留地越しに長崎港を俯瞰したもの。大浦川には明治3年(1870)に架かる下がり松橋はまだなく、弁天橋だけである。出島の外回りに慶応3年(1867)に築造された遊歩道および馬回しが見えるが、その横と築町との間に明治2年(1869)架設される出島新橋はまだ見えないので、この写真は明治元年(1867)頃の撮影であることがわかる。湾奥、浦上川口には享保15年(1730)から埋め立てられた浦上新田(現・茂里町)の形がはっきりとわかる。右側は長崎市街地の中心部である。出島の右側には新地蔵の家並みが、大浦居留地の背後の丘には旗を立てた東山手9番のイギリス領事館が見える。海上には多くの艦船が停泊しているが、左中央の船腹の白っぽい船は砲門を持つ軍艦である。これらの艦船の集結は明治維新の緊張を伝えているようである。

■ 確認結果

2000年10月、浜屋百貨店で開催された日蘭交流400周年記念事業 ”ながさき・出島「古写真の世界」展”に展示された古写真。同写真集の8頁に部分、16頁に全体があった。
タイトルや画像解説は、「星取山」からだった。

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」の作品。撮影場所は、「鍋冠山」ではない。「星取山」からが正しい。現地確認している。
再三、要望しているのに、今もって修正されないのは、どうしたことか。国の科学研究費補助を受けて構築されているデータベース。文化庁は長崎大学学長を指導してもらいたい。
この項は、次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2832

それぞれの画像解説は、上記のとおり。比べてみると「撮影場所」以外にも、「撮影年代」も少し幅があるようだ。説明はなるべく統一してほしい。
星取山山頂から今は木立のため、長崎市街が見渡せない。現在の写真は、少し中腹の造成中「港ヶ丘パーク墓苑」上から写している。

長崎の古写真考 目録番号:な し 16 海側から見た出島

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 16 海側から見た出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 16 海側から見た出島   長崎手帖より
〔画像解説〕 ながさき・出島「古写真の世界」展 写真集 60頁
昭和41年(1966)8月1日発行の『長崎手帖(編集発行人・田栗杢作)』の「長崎のアルバム21」に掲載されている、「埋め立て前の出島」と題された写真である。対岸の稲佐山と出島を背景に、和船を中心に配した構図を考えた写真である。出島の年代は不詳であるが、明治20年代後半、出島が第2次長崎港改修事業により埋め立てられる前の、海岸線が見える最後の出島の写真である。海側に近い距離から出島を撮影した写真は少なく、海側の扇形の張り出した曲線、出島外周の石垣、出島神学校、出島外周の道路と歩く人の姿などが鮮明に撮影されている。埋め立てられる前の出島を、海側から撮影した貴重な写真である。

目録番号:な し  3 新地と出島   (104−21)長崎大学附属図書館所蔵
〔画像解説〕 同 写真集 58頁
大徳寺跡の高台から、新地越しに出島を遠望したもの。次の写真4に建設中の姿が見える。慶応元年(1865)後半の撮影であろう。出島の向こうには、現在の茂里町付近まで湾入していた長崎港が広がり、背後に稲佐山やから岩屋山までの山並みが望まれる。出島右手の樹木が生い茂っているところが長崎奉行所・西役所(現・県庁)の高台で、その下に江戸町、東西の築町、中島川の河口部を隔てて西浜町の地先にあった江戸町の飛地にかけての家並みが見える。新地手前の水面のこちら側、樹木の間に見え隠れするのは、本籠町の民家である。

■ 確認結果

2000年10月に浜屋百貨店で開催された日蘭交流400周年記念事業 ”ながさき・出島「古写真の世界」展”に展示された古写真。同写真集の10頁にあった。
昭和41年(1966)8月1日発行『長崎手帖(編集発行人・田栗杢作)』の「長崎のアルバム21」に掲載された「埋め立て前の出島」と題された作品と解説がある。
長崎大学には所蔵なく、古写真データベースでは見当たらない。

”ながさき・出島「古写真の世界」展”では、「16 海側から見た出島 長崎手帖より」として、上記のとおり画像解説している。「海側から見た出島」には間違いないが、出島を「船上」から撮影した、よほど珍しい写真のようにも感じるタイトルではないだろうか。

撮影地点を特定するため、同写真集5頁に掲載されている「3 新地と出島」(長崎大学附属図書館所蔵)を参考として掲げる。背景は両方とも「稲佐山」と「岩屋山」の山並み。新地蔵所の北西側海岸に立ったら、「16 海側から見た出島 長崎手帖より」は、撮影できたのではないだろうか。
この項は、次の記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/2173
現在の写真は、大徳寺公園から見た新地、出島、稲佐山方面の景色。

なお、同じ古写真は、長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫」平成11年発行の71頁にも掲載されている。解説は次のとおり。長崎文献社所蔵写真と思われる。
小舟と出島、稲佐山
NIBテレビの社屋の方向から見た出島です。明治20年代に東と西そして南方の海面が埋め立てられる以前の出島の雄姿です。南方側の石積みがよくわかります。  明治10年代

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(9〜10) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(9〜10) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(9〜10) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(7〜8) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(7〜8) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(7〜8) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

スクラップ(5〜8)に関して余談。本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行14頁に、次のとおり「調査のいきさつ」を私が記している。
昭和38年当時と思われるが、「みさき道」は誰も歩く人がいなく、それこそひどかった。

はじめに ー 調査のいきさつ 

私にとって「みさき道」は、若い日のにがい想い出がある。記憶はおぼろになっていますが、20歳の頃ですから40余年前、昭和38年当時だと思います。NHKテレビか「新日本紀行」のような番組があり、野母半島の美しい海岸が紹介され、「みさき道」というものが、長崎から脇岬観音寺まであることを知りました。(NHKアーカイブスに問い合わせも不明)

山歩きを少ししてましたから、何の予備知識もないまま、五万分の一地図で山道を探し、朝から出発しました。たしか小ヶ倉から深堀に行き蚊焼に出て、秋葉山に登ったようです。それからがどうした道かよく覚えず、木立の藪や身の丈もある竹薮をかき分けかき分け、五島灘へ沈む赤い夕日を見て下ったところが、黒浜か高浜であって、海水浴場の桟敷に寝たようです。

翌日は海岸の道路を歩き、脇岬観音寺から堂山峠へ登り、遠見山に立って景色を眺められたのはよかったのですが、途中も先も、それはまたひどく荒れた道でした。ちょうどこの頃、自衛隊が亜熱帯植物園から岬木場まで県道を切り開いていたようです。殿隠山の尾根道をきちんと通ったかわかりませんが、その工事道に出ました。山道の悪さにあきれて、あとは川原へ車道を下ったようです。…

さて、「8 命の水 御崎参りの頼りに」の延命水水場で、さわやかなセーラー服の少女2人が写っている。県立野母崎高校に合格し、通学路の確認にきた帰り。三和町の自宅まで歩いて1時間かかるという。山間の川原木場か徳道集落の娘さんと思われる。
思い出の写真となるだろう。岡山のmaki♪さん。こころあたりないだろうか。まさか貴女ではないでしょうね。連絡を取って、「消えた道塚」の記憶を聞いてください。

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(5〜6) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(5〜6) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(5〜6) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

スクラップ(5〜8)に関して余談。本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行14頁に、次のとおり「調査のいきさつ」を私が記している。
昭和38年当時と思われるが、「みさき道」は誰も歩く人がいなく、それこそひどかった。

はじめに ー 調査のいきさつ 

私にとって「みさき道」は、若い日のにがい想い出がある。記憶はおぼろになっていますが、20歳の頃ですから40余年前、昭和38年当時だと思います。NHKテレビか「新日本紀行」のような番組があり、野母半島の美しい海岸が紹介され、「みさき道」というものが、長崎から脇岬観音寺まであることを知りました。(NHKアーカイブスに問い合わせも不明)

山歩きを少ししてましたから、何の予備知識もないまま、五万分の一地図で山道を探し、朝から出発しました。たしか小ヶ倉から深堀に行き蚊焼に出て、秋葉山に登ったようです。それからがどうした道かよく覚えず、木立の藪や身の丈もある竹薮をかき分けかき分け、五島灘へ沈む赤い夕日を見て下ったところが、黒浜か高浜であって、海水浴場の桟敷に寝たようです。

翌日は海岸の道路を歩き、脇岬観音寺から堂山峠へ登り、遠見山に立って景色を眺められたのはよかったのですが、途中も先も、それはまたひどく荒れた道でした。ちょうどこの頃、自衛隊が亜熱帯植物園から岬木場まで県道を切り開いていたようです。殿隠山の尾根道をきちんと通ったかわかりませんが、その工事道に出ました。山道の悪さにあきれて、あとは川原へ車道を下ったようです。…

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(3〜4) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(3〜4) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(3〜4) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

長崎の古写真考 目録番号:4813 茂木街道(5) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4813 茂木街道(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4813 茂木街道(5)
〔画像解説  超高精細画像〕
この写真のタイトルは「長崎からの茂木街道」となっている。撮影時期は彩色写真から見て、明治20年(1887)代である。写真の対象は、比較的規模の大きな住宅の前に止まる人力車に乗った若い女性と車夫の演出写真である。撮影場所は、道路の整備状況から判断して、茂木の港の近くではないかと思われる。明確な場所の特定はできていない。明治時代には、茂木は長崎から小浜、熊本、鹿児島方面へ人や物資を運ぶ重要な港であった。また、居留外国人の保養地として知られていた。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。特に、田上の切り通しの開削工事が困難であった。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。

目録番号:3837 茂木街道田上梶原茶屋 (掲載略)

■ 確認結果

きょう2012年2月11日付、朝日新聞長崎地域版”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「田上の東郷・梶原茶屋」古老の証言から特定。解説は次のとおり。
「これまで撮影場所も建物の名前も不明でしたが、今年に入って長崎市の茂木支所職員が地元の古老に確かめ、昭和初期まで田上の中心地にあった東郷茶屋であることがわかりました。場所は現在の長崎バス田上バス停付近。手前の石垣は隣の茶屋、鶴見荘のものです」

「東郷茶屋」は、データベースでは目録番号:4813「茂木街道(5)」の作品。私も以前から田上の茶屋と思っていたが、深く調査はしなかった。看板「江戸町の広島岩作商店」も興味はあった。
ところで、本ブログこの古写真考は、別に「東郷茶屋」の疑問ではない。茶屋がそんないきさつでわかったなら、次のデータベース作品も、「撮影場所:神戸」となっているが、実は「茂木街道」関係の古写真なのである。

地元茂木の関係者や長崎大学附属図書館は、まだ知らないと思われる。早く正しい検証をお願いしたい。
この記事は再掲。次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2218

目録番号:1962 山間の水車小屋  撮影地 茂木町の河平川岸
https://misakimichi.com/archives/2210
目録番号:1963 八坂神社      撮影地 鍛冶屋町の八坂神社
https://misakimichi.com/archives/2211
目録番号:1964 弟を背負う兄と妹 撮影地 茂木町の茂木街道「河平橋」手前
https://misakimichi.com/archives/2212
目録番号:1965 山腹から望む港町 撮影地 桜木町の弥生が丘バス停付近
https://misakimichi.com/archives/2213
目録番号:1966 漁村の風景     撮影地 茂木町の茂木郵便局前
https://misakimichi.com/archives/2214
目録番号:1967 海岸を散歩する外国人 撮影地 茂木町の茂木郵便局先
https://misakimichi.com/archives/2215

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(1〜2) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(1〜2) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(1〜2) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」  平成12年

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陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」  平成12年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎歴史文化協会「ながさきの空」第12集 平成12年から、陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」。十人町から蚊焼間の「その一」は、前の記事とした。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行30〜31頁ですでに紹介済み。写真は、三和行政センター前広場へ移設されている「みさき道の道塚」、蚊焼古茶屋坂の「みさき道入口看板」、みさき観音の「脇岬観音寺本堂」。

陸門 良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」
長崎歴史文化協会「ながさきの空」第12集 平成12年  35〜36頁

私の所属する、あゆみハイキング・クラブは御崎街道歩きの二回目として、蚊焼から脇岬の観音寺までの三里の道を、平成十一年十二月五日に歩きました。私は、街道歩きが自分の天職と公言しているY氏と三回に渉り、調査のため御崎道を歩きました。Y氏は九州の各街道を全部歩いた後、東京の日本橋までを各地の名所、旧跡を訪ねながら歩く事を夢みています。
長崎から脇岬までの街道は、何時の頃からあったのかは、はっきりしていません。それに、時代と共に道筋も変わっていることでしょう。長崎談叢第十九輯『維新前後に於ける長崎の学生生活』関寛斎の日記、司馬江漢の『御崎参詣の記』、および、原田博二氏の『観音信仰と御崎街道』を参考として御崎街道を歩くことになりました。

第一回目は、Y氏と蚊焼より歩きはじめ、旧茶屋跡から、秋葉山の稜線を歩きました。この山中には、現在道塚は一本も残っていません。二百五十四メートルの頂上近くに郷路八幡神社が祀られていて、この神社の近くに平家の残党がこの地で果てたと伝えられ、近くには墓石らしき石塚が残っています。今は雑木に被われて展望はありませんが、江戸時代は雑木が少なかった様で、寛斎の記述には「此の処東西狭くして直に左右を見る。東は天草、島原あり、遥かに其の中間より肥後を見る」と記してあり、私達も木の葉の間から遠く五島列島を見ることが出来ました。この郷路八幡の近くに、ビックーサンと呼ばれている日蓮宗の尼僧の墓が一基あり、「妙道尼信女」「文政三年旧六月廿三日」と刻されています。  

これより下ると、以下宿との別れ道に「長崎ヨリ五里」「御崎ヨリ二里」「文政七年申十一月今魚町」と刻した道塚があり、これより十分進むと川原への分かれ道があり、ここに二本の道塚があります。奥の道塚は「みさき道、今魚町、上川原道」とあり、手前の道塚は「右御崎道、左川原道」と刻してあり、この手前の道塚は墓石を利用した珍しい道塚です。
ここより御崎道は二つのコースに別れます。①二ツ岳、生目八幡、岬木場、長迫、殿隠山、堂山峠に行く道。②以下宿、高浜、古里、堂山峠へと行く道筋があります。しかし①の道筋はゴルフ場となり、通行禁止で、殿隠山から堂山峠に至る道は現在ヤブとなっており、道筋は失われています。

Y氏と一回目の調査の時、①のコースを調べたのですが、どうしても堂山峠に辿り着く事が出来ず、迷った末に遠見山に登りました。この山には時代は不明ですが、狼煙(のろし)場と遠見番所跡が残り、また先の戦時中の観測台跡が頂上近くに残っています。
Y氏と二度目の調査は秋葉山のヤブ払と徳道から以下宿、高浜、古里のコースを歩きました。以下宿に下る道筋に「みさき道、安政四年中秋」の道塚があり、ほどなく毛首の延命水があり、「奉供延命水」「安政四丁巳仲秋吉祥日」「長崎今下町施主中尾民助高浜村」と刻されていて、この場所は駕籠立場であって、御崎詣りの人々の恰好の休み場であったことでしょう。高浜は浦迫が中心となる町で、山城跡に真宗の金徳寺があり、また深堀一族を祀っている浄土宗の正瑞寺があります。

御崎道は毛首から蔭平に進み海沿いの道を古里まで歩きます。今は県道となり車が激しく往来しています。古里は、昔あぐり高浜と呼ばれていたそうです。Y氏と堂山峠の登り道を見た時、これは並大抵のヤブではないと判断し一応この日は引き返しました。
三回目は古里から歩きだしました。Y氏の御両親は脇岬の出身で、現在も墓地は脇岬にあり、Y氏の話では「母は、大正五年脇岬で生まれ、十八の時、当時同村より長崎に出て働いていた父の元に嫁ぐため、堂山峠を歩いて長崎まで行きました。母は下駄を履いて、親類の者に花嫁道具を担いでもらって、大変難儀してこの堂山峠を越えた事を、死の直前まで話していました」とのことでした。関寛斎の日記にも「此峠道中第一の嶮なり、脚労し炎熱蒸すが如く困苦云うべからず、下りて直に観音寺あり」と記述されています。

私とY氏は、古里を出発する時、近くの商店に四人の老婦人が世間話をしておられたので、話の輪の中に入って、堂山峠から観音寺までの道筋を尋ねてみました。道筋はY氏の母上が話しておられたのとほぼ同じでした。その老婦人達の話によると堂山峠越の道は、昭和二十年代まではよく行商に行く道として利用していたとの事でしたが、最近は通る人もなく、大木が倒れ、ダンジクという竹がヤブとなって通れないとのことでした。
老婦人達との話の中で、こんな会話がありました。「おばさん達は、何んの行商にいったとね」「米ば担いで行ったと。脇岬には米んなかもんね」という返事でした。司馬江漢の日記にも「脇津は亦長崎より亦暖土なり。此辺の土民瑠(琉)球イモを常食とす。長崎にては芋カイを食す芋至て甘し。白赤二品あり」と記しています。

Y氏と私は意を決して、このヤブ道を切り開くことにしました。古里から堂山峠の手前までは意外と簡単に行けたのですが、これからが大変でした。たしかに道筋らしき敷石のある道があるのですが、倒れた木と竹をY氏と二人で山刃・ノコ・カマを使い分けて進むのですが、思う様に進まず、約七時間かけて峠から観音寺までの道を切り開きました。その時二人とも話す事もできぬほど疲労していました。二人とも「あした、仕事出来るやろか?」とキズだらけの手を見ながら帰路につきました。

(注) 「みさき道」のルート紹介や、歩いた道が正しかったかは別とし、なんとか脇岬観音寺までたどりついた陸門氏とY氏の、平成11年12月の貴重な踏査記録。
実は文中に、重要なことを書かれている。以下宿の道筋(高浜延命水手前)に「みさき道、安政四年中秋」の道塚があったら13本目の道塚となる。

「みさき道本道」は、ゴルフ場道塚から確かに高浜へ下り、「関寛斎日記」とおりである。
道塚はゴルフ場造成の平成5年頃まで確かにあった。近くに畑を持つ高浜松尾栄氏の証言を得た。平成18年1月に3者で現地調査したが土砂に埋められたか、道塚はもうなかった。
この項は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/154