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ドラゴンプロムナード  長崎市元船町

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ドラゴンプロムナード  長崎市元船町

今頃、紹介するのもなんだが、いやだね、こんなの。長崎港の景観を壊し、間違った建築が歩いた。巨大なオレンジの球はただ飾り物。
私はある目的があって、きのう訪ねた。それは後の記事とする。

プロムナードの詳しくは、次ブログなど参照。長崎新聞記事も同から(掲載年月日不明)。概要は長崎県(長崎港湾漁港事務所)HPから。
ながさきのへそ (長崎見聞録)  港にそぐわぬドラゴンプロムナード
http://nagaheso.blog21.fc2.com/blog-entry-20.html

長崎新聞社の記事を全文引用——-
『長崎のプロムナード利用低迷 使い勝手悪く打開策見えず』
龍踊りをモチーフにしたデザインで、オレンジ色の球体が目立つ「ドラゴンプロムナード」

長崎県が管理する長崎市元船町の「みなとのみえるプロムナード(愛称ドラゴンプロムナード)」が、利用低迷の打開策が見つからず、老朽化した設備補修もままならない状況が続いている。指定管理者制度導入も検討するが、利用料を徴収できる活用方法がないことがやはりネックとなり、担当課は頭を抱えている。
ドラゴンプロムナードは1998年4月に供用開始。倉庫の屋上部を県民が憩い、集える展望プロムナードとして、約7億円で整備。営利目的以外の活動に無料開放している。延べ床面積は約5千平方メートルで、木製デッキ、オレンジ色の巨大な球体などが特徴。デザインは長崎くんちの「龍踊り」がモチーフという。

県港湾課によると、利用状況が低迷する原因は使い勝手の悪さ。屋根がないため、雨天時は活用できない。人通りが多い都市計画道路浦上川線からは長い階段を上っていくしかなく、昼間でも施設は閑散としている。売りのはずの展望も施設の構造で周囲が見渡せず、老朽化による危険性のため球体部分は現在は立ち入り禁止。まさに“八方ふさがり”の状況だ。
だが「老朽化したまま放置できない。しかし補修するにも費用対効果を考えないといけない」(同課)と、担当部署を超えた利活用検討会を昨年、発足。庁内でアイデアを募り、前例にとらわれない活用方法を探った。四回開いた会議では図書室やビアガーデン、ペットショップ、ストリートミュージシャンの広場など議論百出。民間ノウハウ活用による指定管理者制度導入も視野に入れるが、決定打となる妙案はまだ見つからない。同課は「都市計画道路の整備で、動線ができた。引き続き、検討を続けたい」と出口を探している。

アルカディア きょう長崎港へ入港

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アルカディア きょう長崎港へ入港

ながさき旅ネットによると、きょう以降3月末までの長崎港入港予定クルーズは、次のとおり。

平成24年(2012年) 長崎港入港予定表   (3月末までの分)
船  名  トン数  入港月日  入 港  出 港  船 籍  船客数

アルカディア 82,972 2月23日 12:30 20:00 バーミューダ 2,120
クラブ・ハーモニー 25,558 2月24日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 2月27日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
ダイヤモンド・プリンセス 115,875 3月1日 6:00 18:00 バーミューダ 2,600
クラブ・ハーモニー 25,558 3月2日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
コロンバス 15,067 3月3日 7:00 17:00 バハマ 420
クラブ・ハーモニー 25,558 3月5日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 3月9日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
アザマラ・クエスト 30,277 3月12日 12:00 20:00 マルタ 700
サガ・ルビー 24,492 3月12日 6:00 19:00 英国 664
クイーン・メリー2 151,400 3月20日 8:00 18:00 バーミューダ 3,108
クラブ・ハーモニー 25,558 3月20日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 3月23日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 3月26日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
ダイヤモンド・プリンセス 115,875 3月27日 7:00 18:00 バーミューダ 2,600
シー・プリンセス 77,499 3月28日 7:00 18:00 バーミューダ 1,950
アテナ 16,144 3月28日 11:30 20:00 ポルトガル 652
クリスタル・セレニティ 68,870 3月29日 8:00 17:00 バハマ 1,080

長崎の古写真考 ふるさと長崎 36頁 第027景 金比羅山と烽火山

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長崎の幕末・明治期古写真考 ふるさと長崎 36頁 第027景 金比羅山と烽火山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ふるさと長崎133景
36頁 第027景 金比羅山と烽火山(ホテルから城の古址方向を望む・2000年)
〔作品解説〕
その日は雨だった。ホテルの部屋から見えるのは、中島川の大井手橋方向だけ。これは以前すでに描いている。部屋を出て廊下の北端の非常口のドアを開けるとこの風景が見えた。雨の降り込みを気にしながら描く。背後の山は、左が金比羅山(366m)、右が健山(300m)に続く烽火山(426m)。江戸時代異国船の接近を警戒して、烽火台が設けられていたのだ。山頂から四方八方眺望を楽しんだ記憶がある。その前のこんもりした丘が城の古址。ここは見るとおりこんもりと樹木に覆われ、隠れ家のような面白味はあったが、眺望は利かなかった。
長崎中学の新入生たちは、入学後間もない時期にこの山に連れてこられ、上級生たちにデカンショ節や教師の仇名入り数え歌などを教わったりした。
「一つとせ 人もよく知る長中の動物園(教師を動物に見立てて)の数え歌—
(中略)
五つとせ 威張って歩くは馬の— たまには予習もして来いよ」 などという辛辣な一節もあった。

■ 確認結果

古写真ではない。現代のスケッチ風景。喜多迅鷹氏著「ふるさと長崎133景 きた・としたかスケッチ紀行」長崎新聞社平成17年発行36頁から「第027景 金比羅山と烽火山(ホテルから城の古址方向を望む・2000年)。
中島川の大井手橋が見えるから、伊勢宮近く伊勢町「トレディアーホテル中島」(現在は閉店)からだろう。

非常口を開けて反対の北東側を描いている。地形図のとおり金比羅山(正しくは366.3m)は、長崎バイパスへ続く西山県道谷間のまだ左にあり、このスケッチには表れない。描かれているのは、城の古址から後ろの山、健山(300m)と烽火山(426m)だろう。
長崎新聞社は地元だから、きちんと監修してほしかった。現在の写真は、ビルで山並みが見えない。新大工通り入口と長崎市民会館付近からの確認写真を載せる。

星取山「金星太陽面通過観測の地」の遺構がないか

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星取山「金星太陽面通過観測の地」の遺構がないか

この項は、「長崎の古写真考」において、星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える 2007年7月の記事で、一部にすでにふれていた。(写真1、2)
https://misakimichi.com/archives/141
詳しくは、本会の研究レポート第3集平成19年4月発行に、関係資料とも154〜167頁に収録しているので参照。次の文は、ブログ記事では省略していた。

…フランス隊の金比羅山における観測の双極となる、アメリカ隊の星取山観測地点の重要な「囲い石」などが、かつてあったのに、時代の混乱等のためなど無造作に壊されてきた。
今回の説明板は「さるく博」期間中の仮設と思われるが、この際、見学者が納得できるような恒久的なものを造るため、NTTがさらに市に協力し、研究協力・敷地提供・木立伐採・維持管理など、特別な配慮をしていただけないかと感じる。

アメリカ隊は金星観測のほか、天文観測により長崎と東京との経度差観測を行った。電測場所は特定できないが、松ヶ枝にあった当時のベルビューホテル(現在は長崎全日空ホテルグラバーヒル、前東急ホテル)内であることは確かである。
1997年、長崎県測量設計業協会が創立20周年に当たり設置した「我が国初の経緯度原点確定の地」の碑は、諸般の事情が重なりあって金比羅山に設置された。今となって碑を移設することは、経費がかかるので、なんともできないと聞いている。
世界の金星観測史上における長崎星取山の史跡の重要さも、もっと全体が理解すべきではないだろうか。

(2)平成19年2月の調査報告
最近、川上氏と会ったとき、市博物館は、星取山の観測地点は無線中継所内の「藤棚のあるところ」と以前からしているとはじめて聞いた。これまでの文章は、昨年行ったきりで書いていたから、再確認と写真撮影があり、2月24日星取山へ出かけた。
敷地はフェンスに囲まれ、穴にレンズを差し込んで撮った写真が左である。芝の中央に何か碑があった。これが観測碑だろうか。そうするとここは中継所入口のすぐ右側で、フェンスの外囲いを代え開放しても支障がない場所と思われる。
ついでに辺りを見てまわった。この場所の下手の林内に古い石垣が一部残っていて、古写真の石垣とも似ている。雨水が流れるところには、廃材とともに古い煉瓦片が2個あった。
以上は、まだはっきり確認していない感想だった。そういった場所ということを紹介してみた。
写真は「長崎無線中継所内の藤棚がある場所 何か碑が見える」と、「写真大きな木の後ろに古い石垣が一部残っている」の2枚を掲載した。(写真3、4)

2012年の今年2月になって、宮さんが星取墓地公園内の陸軍省要塞標の標石を訪ねた。ついでに星取山無線中継所まで伐採帯を歩き、何かの土台跡だろうと写真を写してきた。(写真5)
これは丸い石垣のように見えるので、以前の調査でそんなものはなかったはずと不思議に思い、2月11日川上氏と星取山の同地を現地再確認した。伐採した木が枯れこづみ方によって、写真写りがそう見えただけのようである。石垣はなかった。
研究レポートで記しているが、星取山一帯は戦時中、高射砲陣地があり、昭和30年代はクレー射撃場があったと、地元自治会長から聞いている。伐採帯の左右や星取墓地公園付近の林間を探すと、いたるところに石垣、水槽タンク、茶碗片などその建物跡はまだ残っている。(写真6、7)

関係資料とした中、「金星太陽面経過観測記念碑二十周年記念誌」1994年12月同記念会(神奈川県厚木市)発行 武石信之氏稿「長崎星取山のアメリカ隊観測地跡」21〜23頁には、次のような研究もある。

現在、大平山(星取山)山頂には、「長崎統制無線中継所」があってマイクロ波中継のアンテナ用鉄塔2基を備えた面積約6000㎡の施設がある(昭和25年に開設、そこの地番は長崎市上戸町455、1/2500『長崎市基本図』によって、数値(2)の地点を探すと、上記「無線中継所」の構内ではなくて、同所正門から南へ31メートルほどの傾斜地になる。現在その地点付近は、草木が繁茂していて、観測器械の土台石などを見つけることは、容易ではない。(地点図は最後)
この地点は、図1に見る、周囲の状況とは一致しない点もあるが、日面経過を、終わりまで観測するのに必要な、東西方向の視界は良好である。戦時中、この付近に砲台が設けられたというので、それとの関連も調査する必要がある。…

現地写真は重複するが、本年2月11日の川上氏との星取山現地再調査で、特に確認したのは、「無線中継所」構内に立ち入れないので、正門南の方の傾斜地である。
現在となって、もはや観測器械の土台石など見つかろうはずがない。私たちが今回確認したのは、傾斜地で土管、防空壕などだった。(写真8、9)
中継所のフェンス内では、(良い方へ解釈して)古写真にある観測望遠鏡を据えたか?脚元のコンクリート塊らしいのは残っていた。(写真10)
写真2の「藤棚のあるところ」の一角は、正門の中の右手の方である。碑は何なのだろうか。このフェンス外の下あたりに低い石垣が少し残っている。(写真11、12)

(追 記  2012年2月22日)
藤棚のところにあった碑は、ほしなべさんからコメントあり、次の記事を参照。1990年星取在勤者一同が建立した「惜別の碑」で、金星観測とは関係ない碑とわかった。ほしなべさんが撮影していた実物写真を末尾に追加した。  http://blogs.yahoo.co.jp/hoshinabedon/36086417.html

星取墓地公園登り口の不思議な石積み  長崎市星取2丁目

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星取墓地公園登り口の不思議な石積み  長崎市星取2丁目

星取山のNTT長崎統制無線中継所の南東側尾根にある大正寺管理「星取墓地公園」。公園内の陸軍省「長崎要塞第二地帯標」の標石が、執念で掘った高橋氏によって「第二十七号」と番号確認のうえ、どう埋め戻されているか、宮さんの記事もあり先日2日11日、確認に行った。
墓地公園の要塞標は、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/536

この1枚目写真の左側、九電送電鉄塔が立つ場所は、墓地から一段低く草の広場となっている。墓地公園への登り口道路となっている。鉄塔の根元にある石積みがある。以前見かけたときは、旧戸町村との藩境石塚かとも感じたが、そんなに古い石積みではない。
結構大きいので、今回よく写してきた。コンクリートにより固めた所がある。何か記念碑が立っていて、記念碑が倒れ横にした台部分とも思える。

上には平たい大石を乗せてかぶせている。表面に線刻がある。この字をどう読めるだろうか。「山下」?とかは、かろうじて読める。記念碑か顕彰碑、特別な墓石とも思える。
さて、この石積みの正体は? 地元か地主、寺あたりに聞いたら、すぐわかるだろうが、手間がいる。謎は多い方が楽しい。どなたか知らないだろうか。

琴ノ尾岳の山岳史跡めぐり  2012年2月

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琴ノ尾岳の山岳史跡めぐり  2012年2月

2012年2月19日(日)曇りときどき小雪。琴ノ尾岳(451.4m)の山岳史跡めぐり。参加6人。みさき道歩会の例会。西海市などに続く山岳史跡めぐり。
JR大草駅9:40発ー伊木力−佐瀬烽火台跡(12:10着 昼食 12:40発)ー一ノ鳥居ー琴ノ尾岳烽火台跡ー琴ノ尾岳14:30着ー扇塚峠ー前田川内洞穴ー毘沙門天神社ー舟津橋バス停16:42着(徒歩距離 約12km)

帰りの交通の便を考え、予定の逆コースとした。Audi展示会があっていたJR長崎駅9:12発で大草駅まで行き、9:40歩き出した。伊木力小学校跡など見ながら、大村湾沿いに県道207号を西へ五十石公民館まで行く。
山腹の佐瀬郷集落の上に、琴ノ尾岳北側、もう1つの「烽火台跡」がある。こちらが長崎県指定史跡。大草から歩いて訪ねると遠かった。12時過ぎ昼食。

植林地境の尾根を約30分まっすぐつき上げ、近道して上の車道と出合う。車道は左へ琴ノ尾公民館の三叉路まで行く。作業所下へ下る農道があり、急坂を少し下ると、往時の伊木力参詣道「一ノ鳥居」がある。登山者は存在をほとんど知らない鳥居。
三叉路から山頂まで2km、車道を登る。山頂近く駐車場の所から「琴ノ尾岳烽火台跡」を見学。琴ノ尾岳山頂には14:30着いた。展望台から長崎、大村方面が望める。

岡岳ピークを通る急斜面登山道を扇塚峠まで下り、長与舟津橋の方へ車道を下山する。途中、「右なべいし(鍋石様)みち」の標石が崖にあり注意。
「前田川内洞穴」(洞穴は毘沙門天側の車道から尾根を近道して谷へ下れる)と「毘沙門天神社」を見学、舟津橋バス停に16:42着いた。バスがすぐ来た。
各史跡は本ブログ次の記事を参照。

佐瀬烽火台跡  https://misakimichi.com/archives/306
一ノ鳥居      https://misakimichi.com/archives/305
前田川内洞穴  https://misakimichi.com/archives/2859
毘沙門天神社  https://misakimichi.com/archives/2858

宮さんの参加記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29292274.html

崎戸島特設見張所聴音所と海軍用地などの標石

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崎戸島特設見張所聴音所と海軍用地などの標石

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の、標石探しと研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料。
2012年1〜2月、西海市崎戸島の特設見張所聴音所と海軍用地などの標石を探した記録。

高橋輝吉氏稿  崎戸島特設見張所聴音所と海軍用地などの標石

西海市崎戸町に旧海軍の標石があると、長崎の知人(注 onnanomiyako2007 さんの情報により私が高橋氏へ知らせた)からはがきが届いた。前々より一度は行ってみたいと思っていた島だった。いろいろ調べているうちに、崎戸島の西端に、旧日本海軍の「特設見張所聴音所」があるとのこと。ホテル咲都のその先の先に「特設見張所聴音所」あり、大きな建物でした。

当時は○秘地帯で、声にもならなかったと思う。例の如く調べて廻った。有りましたぞ。「海軍用地」などの標石と「三角点」(コンクリート)。「特設見張所聴音所」の建物は大きく2階建て。窓が大きいのも気になる。雨天も看視したのかなー。

左横に展望台あり。見るは前方海上。廻り窓が多い。大正13年3月潜水艦事故。45名の顔が思い浮かび、叫んでみたかった。
見つけた標石は、「海軍用地」(号なしの1本)、「第三十二号」、「第三十四号」、「三角点」(コンクリート)の4本。この高い山が「耳」の役目をしたのかなー。

(崎戸島特設見張所聴音所の現地説明板)

この施設は、旧日本海軍佐世保鎮守府の特設見張所の中の聴音所として昭和13年(1938年)に建設され、終戦までの7年間、海底のスクリュー音等をキャッチするための施設でした。
二度とあのような悲惨な戦争の起こることのないよう、後世に残すため保存しています。
崎 戸 町

長崎の古写真考 ながさき浪漫 102頁 白魚とりの浦上川

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 102頁 白魚とりの浦上川

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
102頁  白魚とりの浦上川
〔画像解説〕
昔、初夏の風物詩は? そうです。浦上川の白魚とりでした。海から遡上する白魚を一網打尽?とはいきません。なんしろ網は小さい。でも、これで一合枡に一杯ぐらいはあるかもね?
大正の中期・浦上川?

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の102頁に掲載されている「白魚とりの浦上川」。長崎文献社所蔵写真と思われる。長崎大学の古写真データベースでは見当たらない。
説明文は「ながさき浪漫会」。上記の画像解説に別に問題はない。

ただ、「大正の中期・浦上川?」とある。私の関心は白魚とりではなく、対岸高台に写った白い建物と背景の岩屋山にある。この建物は、被爆直後の2枚目写真(長崎原爆資料館所蔵)どおり、開校当時の「城山尋常小学校」(現在は長崎市立城山小学校)の校舎であろう。

長崎市立城山小学校HPによる「学校の紹介」は、次のとおり。大正12年頃、開校当時の学校を姿を写した貴重な写真と言える。背景の岩屋山の位置から、浦上川と下の川が合流する現川口町の川岸から、撮影したと思われる。
確認写真は、岩屋山山頂からと川口町高架道上から。

城山小学校の紹介   2011年4月

本校は, 長崎市のやや北西部に位置する城山町の緑豊かな丘の上にあり, 全校児童488名,19学級の学校です。大正12年, 九州初のコンクリート3階建て校舎を持つ城山尋常小学校としてスタートし, 創立86年目を迎えます。

当時の城山尋常小学校は緑に囲まれた白亜の校舎で, モダンな学校として有名でした。
昭和20年8月9日長崎市に落とされた原子爆弾により, 爆心地からわずか500mの距離にあった本校は, 瞬時に美しい校舎や林間, 1400余名の児童,31名の教職員, 105名の学徒報国隊員等を亡くすという悲しい歴史も背負っています。…

長崎の古写真考 ながさき浪漫 97頁 トンネルは未知の世界ののぞき窓

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 97頁 トンネルは未知の世界ののぞき窓

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
97頁  トンネルは未知の世界ののぞき窓
〔画像解説〕
我が国の写真術の開祖、上野彦馬翁の名が入ったトンネルの写真です。となれば、さあー、どこかしら? 道路トンネルは、彼の存命の時は、まだ、ほとんど開通していません。長崎本線のどこかのトンネルやろね?

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の97頁に掲載されている「トンネルは未知の世界ののぞき窓」。長崎文献社所蔵写真と思われる。長崎大学の古写真データベースでは見当たらない。
説明文は「ながさき浪漫会」。上記の画像解説に別に問題はない。

ただ、このトンネルを「長崎本線のどこかのトンネルやろね?」としている。わかって謎かけだったら失礼となるが、長崎近くで考えられるのは、明治31年(1898)に開通した、長与町本川内郷のJRトンネル「松ノ峠(「松の頭」の表記もあり。まつのとう)隧道」(延長1094m)である。
煉瓦造りの重厚な入口(ポータル)を持つ。開通した当時、日本国内の鉄道トンネルでは5番目の長さ。上野彦馬は、明治37年(1904)長崎で死去。享年67。存命中だった。

現在の本川内側入口2枚目の写真は、ブログ「鉄りすと」ロケハン中(撮り鉄・本川内編(9月10日・その1))2008年から。銘板や上部がはっきり確認できないが、間違いないだろう。ほかは私の写真。伊木力側入口も見せる。ウィキぺディア・フリー百科事典による説明は、次のとおり。

長崎本線(ながさきほんせん)は、佐賀県鳥栖市の鳥栖駅から長崎県長崎市の長崎駅までを結ぶ九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(幹線)である。ほかに喜々津駅 – 長与駅 – 浦上駅間の別線を持つ。長崎線とも呼ばれる。…
長崎本線は、九州鉄道の手により現在の佐世保線・大村線のルートで建設された。鳥栖 – 早岐間と長与 – 長崎間が開業した1897年より全通するまでの約1年間は、大村湾に連絡船を開設して暫定的な連絡機関としていた。…
1898年(明治31年)11月27日 【延伸開業】*大村 – 諫早 – 長与(鳥栖 – 早岐 – 長崎間が開通) 【駅新設】諫早、喜々津、大草 …

長崎の古写真考 ながさき浪漫 84頁 新旧市街をつないだ新大橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 84頁 新旧市街をつないだ新大橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
84頁  新旧市街をつないだ新大橋
〔画像解説〕
明治時代の長崎港は埋め立てと浚渫(しゅんせつ)の歴史でした。新しい橋が生まれては、埋め立てで、その役割を終えていきました。
明治2年に架けられ同22年解体の新大橋(築町〜新地町の間)

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の84頁に掲載されている「新旧市街をつないだ新大橋」。長崎文献社所蔵写真と思われる。長崎大学の古写真データベースでは見当たらない。
説明文は「ながさき浪漫会」。上記の画像解説に別に問題はない。

ただ、「新大橋」の上流、写真右側にアーチ式石橋が写っている。新地蔵所の「正門橋」である。貴重な写真のため、石橋の説明もほしかった。現在の新地中華街入口「新地橋」の場所に架かっていた。撮影は大徳寺跡の高台からだろう。上野彦馬作品の拡大ではない。
次を記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2173