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長崎の古写真考 目録番号:5868 茂木への道(5) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5868 茂木への道(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5868 茂木への道(5)

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

目録番号:2264  茂木街道(3)
〔画像解説〕
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、昭和9(1934)年には新県道(現国道324号線)が開通した。

目録番号:4718 峠の人力車(2)

■ 確認結果

きのう、2012年3月3日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「茂木街道の転石付近 開削後まもない光景」。
解説は「上の写真は英海軍の見習い将校ヘンリー・スチュアートが1890(明治23)年、開削されたばかりの茂木街道を通って茂木へ旅行した際に撮影したものです。…場所は転石付近で、茂木方向を写しています。…
1894年ごろに撮影された下の写真は、絵の具で彩色された幻灯機用のガラス板です。同じ写真が横浜の写真家玉村康三郎のアルバムに収蔵されているため、製作者は玉村と思われます。… 写真に写る街道は、まだ新しい道の雰囲気を伝えています。中央の人力車は写真右下方向に曲がって山道をくだり、平口橋を経て茂木に至ります」とある。

長崎大学のデータベースでは、上の写真は目録番号:5868「茂木への道(5)」、下の写真は目録番号:1365「茂木街道(2)」。玉村アルバムの同じ写真は、目録番号:1365「茂木街道(2)」の作品である。
写真は田上から下った「柳山辺り」は、旧街道の道なので解説誤り。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1879
いずれも、明治20年(1887)6月開通した「茂木新道」すなわち「明治旧県道」の、転石から平口橋の谷間へくだる旧カーブ付近を、撮影しているのは間違いない。

上の写真は、ホテル古都あたりから撮影している。少し下って谷間が広け、カメラの向きを変えて撮影したのが、下の写真であろう。
今回、古写真考とするのは下の写真には、まったく同じような場所から撮影した参考写真がある。年代は新しいと思われるが、目録番号:4718「峠の人力車(2)」であるから紹介する。
転石から「明治旧県道」の旧カーブを河平川の方へ下って行き、高架橋(唐八景トンネルの国道324号)の下にあるのが、「平口橋」である。

長崎の古写真考 目録番号:3799 茂木街道(4) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3799 茂木街道(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3799 茂木街道(4)
〔画像解説〕   超高精細画像
茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠にある場所が田上であり、途中の休息をとるために茶屋ができた。この写真は、明治20年(1887)頃の田上の茶屋を撮影した写真である。明治時代には、茂木は長崎から小浜、熊本、鹿児島方面へ人や物資を運ぶ重要な港であった。また、居留外国人の保養地として知られていた。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。特に、田上の切り通しの開削工事が困難であった。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。田上峠は長崎から茂木に到る中継点に当たり、峠に茶屋ができて賑わった。

目録番号: 337 茂木街道田上(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
上記と同じ。省略。

目録番号: 366 茂木街道田上(2)   ((1)と同じ写真。掲載略)
〔画像解説〕
長崎から茂木へ行く途中の峠。長崎から茂木への要路で田上峠は茂木口といわれていた。峠の茶屋と人力車が時代を感じさせる。整理番号8-11と同一ネガからの焼き付けと思われる。

■ 確認結果

先週、2012年2月25日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「田上の茶屋 木おけから湯気たつ」。
解説は「…この場所は、背後の田上の切り通しから下りてきた茶店です。写真には「長崎の茂木街道」と英語の説明書きがあります。先々週紹介した田上の交差点から茂木に少し下り、若菜川の源流となる小川と交わるあたりです。…下の写真は同じ場所を田上側から撮影しています。…」とある。

まぎらわしい説明だろう。「田上の交差点から茂木に少し下り、若菜川の源流となる小川と交わるあたり」とは、田上の交差点から200mほど下った橋のある「転石」角あたりを考える。やや遠過ぎる。上の写真の目録番号:3799{茂木街道(4)」は、茂木側から田上側を、下の写真の目録番号: 337「茂木街道田上(1)」は、田上側から茂木側を撮影している。
きょうの掲載記事「茂木街道の転石付近」も確認を要することがあり(次記事とする)、きょう一緒に現地で調査してきた。現在の写真はそれぞれのとおり。

河平のご年配長橋さんが、昔の田上の茶屋のことを良く覚えておられた。上の写真で言うと、左は「石津酒店」、右は「木村茶屋」という茶屋だろう。2月11日付の判明した「梶原茶屋」は、現在の「長崎バス田上発着場」など挟んで、その上の方にあったという話である。
戦後、昭和24〜25年頃までこの建物は残っていた。転石角には寿司・竹の子弁当の店があった。河平川の平口橋先には大楠の根元に「楠茶屋」もあったらしい。

「石津酒店」は、現在も同じ場所に酒店ビルがある。主の話でも位置的に間違いないだろうと確かめた。したがって、上の写真の撮影場所は、現在の茂木から上がってきた長崎バス「田上」バス停あたりから。山手からの小川と「出合う」と言うべき場所だろう。
田上のこの谷の川は、正しくは「河平川」の源流。田手原町から流れるのが「若菜川」本流である。長崎大学及び長崎市役所茂木支所で、茶屋名とも撮影場所の再検証をお願いしたい。

長崎の西空の夕日  12− 2

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長崎の西空の夕日  12− 2

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1      2012年 2月 9日の16時37分頃
写真  2〜 5  2012年 2月11日の17時57分頃
写真  6〜 7  2012年 2月12日の18時01分頃
写真  8      2012年 2月27日の18時17分頃
写真  9〜12  2012年 2月29日の17時54分頃

宮崎川の呼称表記と石橋  「モウタレ」は「馬渡」?

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宮崎川の呼称表記と石橋  「モウタレ」は「馬渡」?

長崎市宮崎町を流れる「宮崎川」。上流に宮崎ダムができ、川原海水浴場の北側で橘湾へそそぐ。三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊、「第一章 交通・運輸 第一節 交通」458頁の記述は、次のとおり。
二 陸上の交通
…昔の街道を『橘湾の漁労習俗』(五八・三)には次のように書いている。
(一)川原道
年崎のホリ首の丘を通り、川原本郷にでる。えべす坂を越え、モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り、宮崎に入る約三・五キロの道をいう。
(以下、(ニ)蚊焼道から(六)深堀道は、省略)

引用資料「橘湾の漁労習俗」は、香焼図書館の蔵書としてある。昭和58年3月長崎県教育委員会発行の「長崎県文化財調査報告書第63集」である。第1章民俗環境の「交通」の項で道路が出てくる。地元の故老を話者とし集め、聞きとり調査を中心に、観察と文書調査等をあわせて行った。
「為石・川原・宮崎」地域の調査結果は、三和町郷土誌458頁「陸上の交通」にあるとおり、それ以上の街道の道の記述はない。
この項は、次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/23250590.htm

(一)川原道に記された「モウタレ川」は、「宮崎川」のことである。地元故老の話として出てきた、おもしろい呼称の川名ではないか。
県立長崎図書館所蔵、庶務課史誌挂事務簿「西彼杵郡村誌」明治18年5月脱稿の、「河原村」川の項は次のとおり。「宮崎川」ですでに記されている。
宮 崎 川  三等深処二尺浅処五寸広処六間狭処一間清水ニシテ緩流タリ舟筏不通水源ハ村ノ西方高浜村界ナル大岳ノ諸渓潤ヨリ出デ東流シテ字宮崎ニ至リ海ニ入ル長三十一丁四十間

「モウタレ」を「牛」のよだれか小便ぐらいにしか思っていなかったところ、最近になって貴重な史料を見つけた。伊能忠敬研究会の長崎入江研究室HP「伊能忠敬の長崎市測量」。
http://www6.cncm.ne.jp/~fab4wings/0911_new.htm
「みさき道」ルートも現在、解明依頼中。完成次第、本ブログで詳細地図を報告したい。 

伊能忠敬『測量日記』  (現代語訳)
文化10年(1813)  測量地  現在の町名 野母崎樺島町・為石町
九月十一日
晴れ曇り。…我等(ワレ。忠敬).門谷.尾形.保木.佐助は六っ時後(午前6時過ぎ)に脇御崎村即ち高来郡佐嘉領を出立した。
同所の字トイカケ浜のト印より初めて、左山の方に沿海を測る。仏崎。スシ鼻。字木場(長崎市脇岬町)。御料所高木支配の川原村字木場(長崎市宮崎町)。岡ノ尾鼻(大瀬鼻)。女池(大池)が海辺にある。東西に五町(545.45m)ばかり、南北に三町(327.27m)ばかり。池の御前(池の御前神社。阿池姫伝説がある)という小社がある。この池の主を祭るという。又、男池がある。なお大きな池であるという。字宮崎。又は池ノ浜という。川原本村。馬渡川(宮崎川)は小流。恵美須崎(蛭子崎)。佐嘉領高来郡為石村。為石川(大川)は小さい砂の川である。止宿の測所下に為印で打ち止める。

沿海一里三十五町五十間(7,836.36m)。八っ半時(午後3時)に為石村(長崎市為石町)に着く。
止宿は本陣が利右衛門宅、脇宿が定治郎宅。茂木村の庄屋頭で年寄の又平治が(挨拶に)来る。この夜は晴天で測る。

伊能忠敬『測量日記』には、「川原本村。馬渡川(宮崎川)は小流。恵美須崎(蛭子崎)」とある。この「馬渡川(宮崎川)」が、訛って「モウタレ川」と地元で呼ばれたのではないだろうか。「馬」が「牛」に変わった? 地図は同HPから。
九月四日の日記では、高島・中の島・端島(軍艦島)などは、御料所と佐嘉領の所領入り乱れ、争論があったことがわかる。

あと1つは、地元故老の「モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り、宮崎に入った」という、石橋があったかどうかの話。年代がはっきりしない。現地は現在の県道34号「宮崎橋」の少し下流を、宮崎川へ降りて渡ったようである。
「三間ま(?)申」は意味がわからない。長さとすると約5.4mの石橋。三和町郷土誌の編さん委員だった地元の故高崎市郎先生に聞いても、石橋はご存知なかった。両岸から石垣を築き、間が木橋だったのではないかとは話していた。

現在の川底でも、飛び石を削ったような岩面とか、せんたく石と言われる石は残っている。この場所を渡っていたという地元の方の話は聞いており、地蔵堂が川岸に残っている。
三和町今昔(4)「宮崎橋とせんたく石のこと」の、記事と写真を参照。
https://misakimichi.com/archives/2139

伊能忠敬研究会の入江様のアドバイスは、次のとおり。
「モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り」の部分についてですが、「モウタレ川三間、ま申の石橋を渡り」と読み、「ま申」という地名や字にある石橋とは考えられませんか。「真申(まさる)」という地名は、佐世保市中心部の西、相浦の北にもあります。
測量日記には「馬渡川」と書いていますが、忠敬は聞き書きで書いていることが多く、日記と藩の書き上げのでは読みが同じでも文字が違うことはままあります。ですので、地元の案内人(庄屋が多い)か付廻役が「モータレ川」と言ったのを「馬渡川」と記入したのではないでしょうか。

寺町墓地の「従是南大音寺境内」標石  長崎市高平町

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寺町墓地の「従是南大音寺境内」標石  長崎市高平町

2012年2月16日に宮さんが見つけた標石。私も以前見てたはずだが、当時はありふれた標石としたのだろう。鍛冶屋町側の寺町通りから大音寺と晧台寺の間の「幣振坂」に入り、寺町墓地(一般的な呼称)の中、「楠本イネ顕彰碑」を過ぎ、急な石段をかなり登る。
風頭町の住宅近くまで来ると、道脇が広場となり休石が2つ置いてある。街路灯との間に苔むした古い石柱が残る。町界町名で示すと、どうも「高平町24街区」あたり。

「従是南大音寺境内」と刻む。横23cm、縦12cm、高さ52cmほど。寺町墓地内の大音寺境内境界石である。別の方へ下り、寺を通って山門まで出たが、ほかでは見あたらなかった。
古い記事だが次は、長崎新聞コラム「水や空」から。長崎の墓地散歩はかなり運動となる。

寺町墓地散歩  (2006年1月30日付)

寒がゆるんだある日の昼下がり、長崎市の繁華街に近い寺町界隈(かいわい)を歩いている途中、ふと「幣振り坂」を上る気になった。長年長崎に暮らし存在は知りながら一度も歩いたことがなかったからだ▲延命寺と長照寺の間(注・こちらも別の「幣振坂」である)にある急な坂道。その昔、郷民がこの坂から石を下ろそうとしたが、あまりの重さで動かず、幣を振り音頭を取ってようやく下ろすことができたとの言い伝えからその名が付いた▲ついでに白状すれば、あまりに急で長い坂なので屁(へ)をふりふり上ったからつけられた名前と随分長く思っていた。市内にはほかにもこの名の坂があるという。上っていくと急斜面に墓地が広がっている▲何げなく歩いていると「楠本イネの墓」の案内板があった。ご存じシーボルトの娘で西洋医学教育を受けた日本の女医の草分け。手を合わせると波乱に満ちた生涯を思い起こし、身近に感じられた▲また幕末の砲術家で知られる高島秋帆ら高島家墓地と遭遇。荒木宗太郎の墓もあった。朱印船貿易商荒木の妻はアンナン(ベトナム)国王親せきの娘で、当時市民からアニオーさんと呼ばれ親しまれていた▲散歩を続けると歴代唐通事や豪商の墓も見つけ、図らずも歴史上の人物と出会った気になった。上り詰めると風頭町。振り返れば長崎港が眼下にあった。下りる際石段を数えたら400段を超えた。きのうからランタンフェスティバルが始まった。歩くと長崎の街は奥が深い。(貞)

宮さんの記事は次を参照。風頭山頂広場の自然石標石「晧台寺境」に続き、お手柄だった。
http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/archive/2012/02/16

鹿児島県の素朴な地蔵・田の神・青面金剛

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鹿児島県の素朴な地蔵・田の神・青面金剛 

宮崎市在住、HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」氏の、足跡 -その530- 末吉町〜松山町〜東串良町〜鹿屋市〜都城市(2012.02.19)から、鹿児島県の素朴な神々などの一部を紹介する。書庫は該当がないため、一応「北鹿児島」に整理。
http://5.travel-way.net/~niemon/

「そろそろ田の神の季節がやってきたようです。鹿児島をぶらついていたら、結構、田の神などに出会いました」
「今では田の神や仁王像、青面金剛等の石造物を追いかけながら、ついでに石造アーチ橋を探し回っています。見つからない時の落胆を和らげるためでもあります」とあった。

写 真  1〜 2   2.檍神社  2012.02.19 曽於市末吉町南之郷 檍(あおき)

檍神社と小戸の池  本殿裏の安産子育地蔵
「檍神社はもと村社であった。祭神は伊弉諾命、泥土煮命、大戸道命、面足命、伊弉冊命、沙土煮命、大戸辺命、惶根命である。
創建は、上代よりということである。三国名勝図会によると、当地は伊弉諾尊が檍原の中津瀬で祓除をした名跡に依て勧請したとある。
境内に『小戸池』がある。この辺りも昔は小戸といったと図会にある。小戸池は今も神社の近くにあり、妊婦が、この水を飲むと安産だといい伝える。
妊婦の家では必ず二人連れで瓶をもって小戸池の水を汲みに来る。その際瓶の口を流れおちる水にあてばいで、瓶の口を逆に下流に向けながら汲むのである。お産が流れるように軽いようにとの願いである。帰りは知人にあっても、一人は休まず瓶を持って帰る。もし立どまると産が重いのである。
家へ帰ったら、この水を井戸に入れて、朝夕小戸池の神水を飲むことにするのである。」

写 真  3      4.川東中園の田の神  2012.02.19 肝属郡東串良町川東

お寺の前の角地に田の神。女性のようにも見えます。
明治四十二年八月十五日 東串良村川東中園郷中

写 真  4      24.上野町の青面金剛  2004.08.16 鹿屋市上野町

写 真  5 №6,245 14.大渡橋(仮称)  2012.02.11 指宿市十二町大渡

2012年2月11日、国道269号線下で、同氏が発見した大渡橋(仮称)
橋幅:12.7m  径間:2.4m  拱矢:1.2m  基礎5段H:1.7m

長崎の古写真考 ふるさと長崎 65頁 第056景 金比羅山遠望

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長崎の幕末・明治期古写真考 ふるさと長崎 65頁 第056景 金比羅山遠望

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ふるさと長崎133景
65頁  第056景 金比羅山遠望 (坂本町・2000年)
〔作品解説〕
道一つを隔てた下界の方から浦上天主堂を描いた帰り道、長崎大学医学部沿いの道を辿り、大学付属病院近くで左手を見ると、いかにも長崎らしいこんな風景が目に入った。小学校6年生になった頃、母親に連れられて目の精密検査に病院に来たことが思い出された。詳しい検査をされた覚えがあるが、近視はそのままになった。前述のとおりこの辺りは馴染みが薄いが、それでも親友と一緒に、この近くにあった彼の親戚の家に遊びに行ったこともある。そこで背革クロス製の美しい大型の本を見た。中は『波』(山本有三作)という小説。世の中にこんな面白い小説があったのかと驚きながら、早速借りて帰ったのを覚えている。その親友の母親は、あの原爆投下の日、この親戚の家に来ていて亡くなったという。それ以後、いくら彼を誘っても彼は長崎へはもう行きたくないと答えるばかりである。

■ 確認結果

古写真ではない。現代のスケッチ風景。喜多迅鷹氏著「ふるさと長崎133景 きた・としたかスケッチ紀行」長崎新聞社平成17年発行65頁から「第056景 金比羅山遠望」(坂本町・2000年)。筆者のスケッチ場所は、大学病院前から医学部通りへバス通りを曲がったすぐの小橋脇の石段から、東側の眺めを描いている。

このスケッチ場所を流れる川には、被爆遺構と思われる小さな煉瓦造アーチ式石橋が上下に2つ残り、私には行き慣れた場所だった。ただ、スケッチ背後の高い建物や、山がどこかまでは良く見たことがなかった。
坂本1丁目8街区角の橋のところから、風景を確認した。背後の高い建物は、長崎市立江平中学校、山は金比羅山(標高366.3m)山頂に間違いなかった。

長崎の古写真考 ふるさと長崎 61頁 第052景 眼鏡橋畔風景 

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長崎の幕末・明治期古写真考 ふるさと長崎 61頁 第052景 眼鏡橋畔風景 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ふるさと長崎133景
61頁  第052景 眼鏡橋畔風景 (諏訪町・1995年)
〔作品解説〕
寺町通りや中通りも楽しいが、川端通りもまた楽しい。とくにあまりきれいに整備されていない東側に、思いがけない昔のたたずまいが残っている。この骨董屋さんもいつ頃から続いているのか、私の子供の頃からあったような気がしてくるほど。まだ小学校に上がる前の頃、父親に連れられて浜町あたりまで行くと、往きに帰りによく古道具屋に立ち寄った。父はいそいそと、私はうんざりしながら…。考えてみると、昭和初年の頃は不景気だったはずだが、父は道具をいじり、俳句を作り、弓やテニスに熱中し、ビリヤードにまで出掛けていた。職場では運動会も盛んで、野球チームもあり、慰安会と称するものに行ってみると、顔見知りの父の職場の人たちが、大真面目で演劇などをやっていた。大陸ではもう戦争が始まっていたのに、おかしな時代だった。(あとで聞くと、この古道具屋は戦後のもので、この数年後、近くへ移転したということだった)

■ 確認結果

古写真ではない。有名な長崎「眼鏡橋」現代のスケッチ風景。喜多迅鷹氏著「ふるさと長崎133景 きた・としたかスケッチ紀行」長崎新聞社平成17年発行61頁から「第052景 眼鏡橋畔風景」(諏訪町・1995年)。
2枚目の現在の眼鏡橋写真と比べると、ある違いに気付くだろうか。石橋登り口の石段数がスケッチては5段なのに、写真では2段である。

これは私のまったく思い違い。魚の町(または栄町)側から写すとそうなる。眼鏡橋の石段数は、実は魚の町側は2段、諏訪町側は5段と、不均衡な造りとなっている。川岸の高さ違いか?
眼鏡橋を渡って、諏訪町側から写した写真が4枚目。スケッチどおり5段あった。したがって、(諏訪町・1995年)、「眼鏡橋」を諏訪町側から描いた作品と確認した。
知らなかったなー、こんなことと思い、石段数のこの作品を取り上げてみた。

長崎の古写真考 ながさき浪漫 100頁 旭町、漁師の人の応援団

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 100頁 旭町、漁師の人の応援団

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
100頁  旭町、漁師の人の応援団   
〔画像解説〕
洋館の倉庫や事務所が並んでいますが、大浦ではありません。対岸の旭町の町並みです。水産の基地長崎は、この町に働く人達と豊かな海、そして勤勉な漁師の努力によって発展していったのです。    明治の末

目録番号:5122 長崎大波止桟橋
〔画像解説〕
明治末から大正初年にかけての大波止海岸の絵葉書。長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった。大波止海岸は明治37(1904)年に埋立て護岸工事で整備された。桟橋に停船中の船は対岸の水の浦、旭町の渡船である。出島の前方付近から、長崎市街地の海岸線を大黒町砲台付近にかけて撮影した写真である。

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の100頁に掲載されている「旭町、漁師の人の応援団」。長崎文献社所蔵写真と思われる。説明文はながさき浪漫会。
長崎大学の古写真データベースでは見当たらないが、目録番号:5122「長崎大波止桟橋」に、明治末から大正初年にかけての同じような山並みの写真がある。

ペンキ字の「日東製氷稲佐工場」は当時、稲佐橋下流の浦上川沿いに、赤レンガ建物が3棟あったらしい。現在の旭大橋付近で、光町や旭町となる。
「旭町、漁師の人の応援団」の作品が旭町とすると、当時の桟橋?あたりから撮影した写真であろう。ドラゴンプロムナード階上方向からの確認写真どおり、背景は稲佐山や岩屋山のもう少し高い稜線となるはずなのに、両方ともおかしな写真である。

説明文のとおり、別の町の製氷工場とは考えられない。目録番号:5122「長崎大波止桟橋」と山並みを対比するとまったく同じようである。「長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった」とわざわざ解説している。
「旭町、漁師の人の応援団」も、写真の検閲により背景の山が一部塗りつぶされたと考えると、この製氷工場は「旭町」と思われる作品だが、どなたか他に知らないだろうか。
2004年7月22日長崎新聞掲載「消えた”証人” 長崎の被爆遺構(2)」の、記事と同写真は次のとおり。同じ建物かどうかはわからない。

せめぎ合い    民間の所有、保存に限界
「原爆とのかかわりを新聞報道で知るまで、建物の価値に思い至らなかった。事情があり、やむを得なかった」
爆心地から南へ二・一キロ、浦上川の河口近くにあった日本冷蔵稲佐製氷工場跡(長崎市光町)。元所有者の関係者が、建物取り壊しの経緯を振り返る。
赤れんがの三棟は戦時中、海軍に納める食料の保存や冷蔵に使われていた。原爆で屋根が抜け落ち、社員三人が死亡。被爆直後には、缶詰などの食べ物を求め大勢の被災者が集まった。
戦後の一時期、かまぼこ製造工場となり、操業をやめた一九五〇年以降も、外壁などが被爆当時のまま残されていたが、敷地売却に伴い、九六年十月までに三棟全部取り壊された。現在、別の会社の駐車場などとして使われている。…

なお、製氷工場の同じ写真は、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版の64頁にも掲載されていた。同解説は次のとおり。撮影場所は明記されていない。

108 大日本製氷会社長崎出張所
明治22年、松田源五郎・香坂留彦は5㌧の製氷機械とラムネ製造機を九州では一番はじめに設置して長崎製氷会社として発足、その後幾度かの変遷を経て昭和3年大日本製氷会社と合同した。当時における冷凍能力100㌧、冷蔵能力10㌧という設備は九州随一のものであった。(写真は昭和初年)

単純な推測だが、背景の山並みが修正ないものとすると、倉庫の建物を比較する必要があるが、篭町日浦海岸の埋立地にあった「十軒蔵」も考えられる。対岸の新地側から撮影できる写真と思われる。現在の写真は、新地湊公園から写した。ここに製氷工場があったかはわからない。

長崎の古写真考 ながさき浪漫 25頁 雨上がりの町並みです…

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 25頁 雨上がりの町並みです…

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
25頁  雨上がりの町並みです…
〔画像解説〕
袷の着物。春先の雨上がりでしょうか? 影を後ろに引いている。これは昔の町並みからはお昼過ぎの構図です。でも、そうしたらどこかなーと思います。特定はできませんが、大正時代の雨上がりの町並みです。

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の25頁に掲載されている「雨上がりの町並みです…」。
右下に(泉)、泉写真館所蔵写真である。説明文はながさき浪漫会。
長崎大学の古写真データベースでは見当たらないが、目録番号:3237「大波止大黒町を望む」に、明治初期の同じような山並みの写真がある。

「雨上がりの町並みです…」の作品には、特徴的な建物が中央右の大通り沿いに写っている。背景の山並みを立山とすると、現在、元船町に数棟残る倉庫群とも考えられたが、どうも違った。
これと同じ写真が、長崎県営業写真家編纂委員会編「写真時代の夜明け 長崎県写真百年史」平成元年発行194頁に掲載されていた。同解説は次のとおり。写真集には、「八軒倉」を写した別写真が190頁にもあった。

懐かしのから傘風景     長崎・広馬場(新地銅座付近)
大正・昭和の初期は、この付近が市の中央部から南部に向かう交通の要点で、波(浪?)の平・戸町方面への乗合自動車がここから出ていた。写真の日本髪に和服、高下駄、信玄袋、片手にから傘、いかにも時代が偲ばれて懐かしい。右手遠くの倉庫は銅座八軒倉、左側に長崎名物の石畳が雨で光っている。  (大正10年頃)

現在は籠町となる。銅座観光通りの現地へ行くと、江山楼向かいの駐車場前にさるく説明板が設置されていた。「八軒倉」ではなく、正しくは通称「十軒蔵」という。確かに同所一帯に昭和50年代まで、一部の建物が残っていた。今でも「喜楽園」ビル上に屋根の片割れなど確認できる。
さるく説明板の写真は、銅座橋側から写しているので、反対の広馬場側から十軒蔵を同じ場所に置き、今回の現在の写真を写してみた。

道路の状況は同じようになる。背景の山並みは風頭山の稜線であろう。高いビルのため広馬場側からは見通しが効かないので、銅座橋の方へ寄って確認した。
古写真の倉庫群は、銅座観光通りの新地中華街側に建ち並んでいた「十軒蔵」に間違いないだろう。 
長崎県文化振興課 ながさき歴史発見・発信プロジェクトHP「旅する長崎学(たびなが) ふるさと写真館」大正時代にも、この写真は掲載されているが、撮影場所不明となっていた。