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陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」  平成11年

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陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」  平成11年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎歴史文化協会「ながさきの空」第11集 平成11年から、陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」。蚊焼から脇岬観音寺間の「その二」は、次の記事とする。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行28〜30頁ですでに紹介済み。写真は、十人町石段登り口の「みさき道(御崎道)の道塚」。「この道塚から始まり、かつては「みさき道」と刻まれていた」と、説明している。

陸門 良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」
長崎歴史文化協会「ながさきの空」第11集 平成11年  45〜46頁

今、全国各地で旧街道を歩く会が盛んに行なわれています。私が所属している、あゆみハイキングクラブも、山行の一部として街道歩きを取り入れ長崎街道を歩いています。この会では、ただ歩くだけでなく名所旧跡を訪ね、見聞を広めながら歩く事を目的としています。今回は長崎から脇岬の観音寺までの七里の道のりを歩く事となり、第一回目は長崎から西彼三和町までの四里を歩きました。
同行二人の杖をつき、御崎の由緒ある観音寺の千手千眼観音に思いを馳せながら歩きはじめました。起点は十人町である。梅ヶ崎から十人町に上がる石段の付け根の所に、昔はユダヤ教会があったそうです。この教会は第一次世界大戦の際、敵国財産として没収され、その後は荒れるにまかせていたが昭和二十一年に取り壊されてしまいました。
この教会を建立したのはユダヤ人のゴンドレーキが主となり、世話人はレスナーやナフタリー・エスコーンと言うユダヤの人々だったそうです。ユダヤ人は寺院を建てる時には貴金属を祭壇の下に埋めるそうで、ユダヤ人が長崎を引き揚げる時、教会の飾りは全部取り外して持ち帰ったそうですが、祭壇下の貴金属は掘り出す事が出来なかったと言う話ですから、あるいは、今でもそのまま埋まっているかも知れません。

四海楼ガレージの坂道を登り右に曲がり、石段を登った所に長崎から御崎まで、今魚町(現魚の町)の人々が五十数本の道標を建てたのですが、第一番目の道標が、ここ十人町で「みさきみち」「今魚町」と刻まれているはずですが、現在はかんじんの文字は消えて、時の流れを感じます。このあたりは昔の面影が残り石段もゆるやかで、レンガ塀や格子づくりの家などが残りしっとりと落ち着いていました。
坂の途中に小説『お菊さん』を書いた、フランスの作家ピエール・ロチ寓居の地という碑が建っています。ロチは明治十八年長崎に約一ヵ月ほど滞在し、その間十八歳の長崎娘「おきく」と結婚した事になっています。この体験をもととして書いたのが小説『お菊さん』である。安政の開国により、この地区が外国人居留地となり、ここに居留地界の碑が建っています。
洋館群の急な坂を下ると大浦石橋に出ます。江戸時代ここまでが海でした。現在石橋は道路の下になっていますが、今もそのままの型で残っています。少し行くと出雲町の元遊郭街へと出ます。この遊郭街は明治二十五年に浪ノ平から移転して来たもので、現在は一軒のみ残り今にも倒壊しそうになっています。この遊郭街は丸山などと違い、客も一般庶民が多かったとの事、最盛期には十六軒の遊郭と三百五十人の娼妓がいたそうです。

この道を登り、二本松神社に出て少し行くと旧御崎道で唯一の街道らしい場所に出るのですが水道工事のため多くの石畳が破壊されています。なんとか元に修復してほしいものです。この道の中ほどに「みさきみち」の道標がひっそりと立っています。この道を下ると、長崎甚左衛門の一族である長崎氏の墓地があり、今も子孫の方により大切にまつられています。
戸町小学校から新小ヶ倉一丁目にさしかかると、「従是南佐嘉領」の碑があり、これから先は佐嘉藩深堀領となります。ダイヤランド入口手前に「力士墓」の碑があり、この碑の前の植木屋の庭の中に小さく破損した「みさきみち」の道標が人々に忘れさられながらひっそりと立っています。ダイヤランド団地の造成で古道に行く道がなくなり御崎道はここで途切れてしまいます。
今回は磯道町から土井首、毛井首を通り深堀の町へと出た。深堀の町は長崎近郊では唯一城下町的な姿を残している町です。由来記によれば、八百年前までは深堀を中心に戸町から野母崎まで散在する島々を含めて「戸八ヶ浦」と呼んでいました。建長七年(1255)に鎌倉幕府の命を受けた三浦能仲が地頭職として赴任し地名を「深堀」と改め、十七代仲光の代に、諫早西郷家より西郷純賢を養子とし鍋島に改姓し、佐嘉鍋島家の家臣となりました。

深堀を過ぎると、大籠町に至る。上の善長地区は文化年間(1804)に三重の樫山からキリスト教には寛大であったこの地に六家族が旅芸人の風を装い住みついたそうです。住みつく条件は八幡神社の毎月の祭礼及びお水方として領主用の水(お茶の水)汲みの役を果たす事でした。そして表向きは菩提寺の信徒でした。善長とはポルトガル語で異教徒から転化したものです。
この地区の墓地にはキリスト教様式の寝墓が多く、また氏神の新田神社は新田義興を祀っていますが、鳥居には隠し十字があり、奉献の奉の字が となり、神社家紋○一は石祠上部にある○大と○一とが合体されて○となり大神デウスを表していると思われ、石祠の屋根側面は大三角形で三位一体を表すそうです。石祠の屋根前面には蟹の彫塑があり、この地区の人々は蟹を食べないそうです。
この地区の上部が千二百年前頃の朝鮮式の山城で標高三百五十米の頂上付近には五条の空堀と、俵石と言われる柱状節理の円柱状の石群があります。江戸時代中期の画家、司馬江漢の「御崎紀行」には、「皆路山坂にして平地なし」と記されています。三和町に入ると「みさきみち」の道標二本が立っていました。

岩永 弘氏資料 「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏

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岩永 弘氏資料「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。岩永 弘氏資料「長崎近郊のみさき道」。2001年初夏刊「長崎“街道周辺の史跡”」に収録。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行41〜43頁ですでに紹介済み。写真は、上戸町二本松山中の「みさき道」道塚と、ダイヤランド入口手前の「源右衛門茶屋」などの碑。

岩永 弘氏資料 「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏作成
「長崎“街道周辺の史跡”」に収録   143〜150頁

江戸時代、長崎から長崎半島野母崎町の脇岬にある観音寺まで、みさき観音参りと言って長崎の善男善女が七里の山道を歩き通してお参りした。元気なものは夜明け前に出発して、夜遅く帰着する一日がかりの行程で、無理な人は泊まりがけで往復した。新婚夫婦も手を携えてお参りしたという。この風習は、現代のような交通網の発達しない昭和前期ころまでつづけれられたとのことである。この道程を「みさき道」と言って、今魚町の信者が天明四年(1784)50本の道塚を寄進したが、今日、確認できるのは8本ほどしか残っていない。
時代の進歩とともに交通道路が逐次建設されて、みさき道は寸断され、また山道も荒れていて昔のみさき道をたどることはできない。今日、わずかに残る道塚や道中の史跡など、まず長崎近郊のみさき道を辿りながら往時をしのんでみることにしょう。

◎十人町のみさき道塚
新地の湊公園さき、十人町にのぼる坂の角は太閤寿司で、すぐ右に上る階段が続いている。若干のぼった右側の町内掲示板と電柱の間に、高さ70cmの朽ちた石塚が立っている。町中にあり、いわゆる一番目の道塚と見てよいだろう。なんの説明板もないが大切に保存してほしいものである。
だらだら坂のとちゅうには、フランスの文豪ピェ—ルロチと日本娘お菊さんが一ヶ月あまり新婚生活を送った寓居跡もあり碑が立っている。
十人町の町名は江戸時代、港の遠見番十人の役宅があったところからきている。坂段をのぼりつめると、右側赤レンガ塀角に大きな居留地境の碑が残っている。旧幕時代、外国人はこの区域外に居住することは禁止されていた。
道路左側塀には記念碑がはめられていて、文久二年(1862)日本最初の英国聖公会堂(新教)がたてられた跡、鎮西高校(現、諌早市)の前身、鎮西学院発祥の地ということなどが記るされている。昔、みさき道として、この地は低い峠であった。
右に活水女子大の赤屋根校舎、赤レンガ塀の続く石畳の道、三角溝の側溝と異国情緒ただよう道を左の方へ進んで行く。車もときどき通るくらいで静かである。やがて道向いに南山手のグラバー園、大浦諏訪神社、妙行寺、国宝大浦天主堂そして下方に孔子廟と、長崎独特の風景が目に入ってくる。

◎オランダ坂
急な石畳の坂である。途中、左側にお寺の誠孝院、右側は再建された東山手洋館群で古写真などの資料が展示してある。往時のみさき道は、この坂を下ると入り江の迫った石橋電停あたりから急な坂道の続く出雲町へと上がって行った。

◎出雲町から二本松神社へ
出雲町から二本松神社へのぼる道は一帯が急斜面で住宅が密集し、狭い車道も曲がりくねっている。出雲天満宮わきをとおり、あえぎながら上がっていくと、やがて峠で小さな二本松神社が有る。ここには昔、長崎に入るための関所が設けられた戸町峠である。
右側のみちは鍋冠山(169m)に通じていて公園も設けられ、港夜景の美しいところである。長崎の南から東にかけて山裾を縦断する県道(小ヶ倉—田上線)が建設中で、上戸町からこの二本松までおよそ千mは既に完成していて目下(平成11年)田上までの延長工事が進行中である。

◎戸町のみさき道
鍋冠山裾一帯の市営アパート群を見ながら二本松神社より、ゆるやかな広い車道を200mくだると左側に入り込む道がある。このみちは350m先にある九州セルラー電話(株)上戸無線局へ通じている。避雷針をつけた大きな四本柱塔がすぐ目につく。
無線局の手前より左側の林に下る幅2m程の山道がある。この道が当時のままの「みさき道」である。なだらかな山道を3分ほど進んで行くと三叉路となり、道塚が立っている。林内にあるため摩滅することなく「みさ起みち」「今魚町」とはっきり刻まれている。真っすぐ進むと上戸町の墓地群へ、下って行くと弁慶岩橋のところへ出る。

◎弁慶岩橋あたり
三叉路で下り坂の山道を100mおりて行くと、ちょうど弁慶岩橋(1984年架)の袂に出る。谷に渡された橋である。ここよりさらに100m先の林に、守る人も居ないような荒廃した祠と弁慶岩がある。朽ちた立岩不動明王の赤鳥居、岩窟の祠、そして、数々の像が祭られている。
目につくのは、色あせた彩色陶製?の女神像である。おさげ髪で袴をつけ、靴を履いた姫の姿である。由来は知るすべもないが、空想すると500年の昔、戸町を放浪した草住御前がモデルかもしれない。黒石の老女像は話によるとここの創始者の由なるも、名前は分からない。
さらに奥の峻険な岩の坂段を60mほどのぼると堂々たる断崖窟(広さ4㎡)内に熊野権現大明神が祭られている。頂きは樹木がしげっていて弁慶岩の全容がつかめない。弁慶岩橋ができる前、小さな牛若丸岩もあったとか、近くの人の話である。下側に広い車道が通じていても、いま尚この地域は秘境の趣を呈している。ここの探訪を終えて、先程の三叉路に戻り真っすぐ進んで行く。

◎戸町長崎氏の墓
三叉路から林内の「みさき道」をあるいて七分で視界がひらけ斜面墓地帯にでる。下り坂途中に戸町長崎氏の墓がある。天正時代(1580年代)長崎甚左衛門の三番目の弟、重方(惣兵衛)は妻の実家戸町氏に迎えられ、戸町惣兵衛と称し戸町の地頭として戸町を支配したが、のち長崎に戻った。この墓は後継一族の墓で正面両側の墓碑(長崎丈左衛門、同夫人)戒名の中に勇猛という字がはいっているのも、なにか曰くありそうである。

◎宝 輪 寺
墓地をくだり、すぐ戸町バイパスの横断歩道をわたると、左角はガソリンスタンドでこの前の道を五分ほど歩いて行くと右うえに宝輪寺が見える。宝輪寺は小高い丘のうえにあり、この地は大昔、深堀氏の祖、三浦氏の居城、城の尾砦のあったところで今でも片方は険しい谷で、大昔の面影をのこしている。境内隅には霊をなぐさめるべく城の尾砦武士の墓碑がある。
宝輪寺は寛永18年(1641)修験僧、増慶が八幡町に大黒天を祭ったのが始まりで、その後、油屋町(清水寺下、いまの西田病院あたり)にうつり、昭和前期まで同地で、現在この地に再建されている。幕府直轄の寺としてこの寺は格式があったようで、元禄年間長崎奉行所の法螺貝安置所として不測の時とか、奉行巡検のさい用いられた。この法螺貝は本堂内の右側に安置されている。
本堂前面には後奈良天皇(在位1526−57)勅願所と書かれたおおきな木札もその格式をしめしている。境内に各人が幸を祈願するための「なで大黒」が据えられている。また長崎四国38番霊場でもある。

◎境界石標
宝輪寺を拝観後、さらに進んでいくと戸町中学校のところに出る。中学校を左に見て六分程まっすぐ進むと三叉路に出る。左側のゆるやかな下り坂は戸町バイパスに通じている。これまで歩いてきた道は旧道で、「みさき道」でもある。さらに少し歩いて行く途中の左側、原田邸(新小が倉1丁目1番)のかどに「従是南佐嘉領」の石標がたっている。長崎は江戸時代、天領であったが、この一帯から南は鍋島藩の所領であった。もう少しで戸町峠バイパスの峠である。

◎二力士墓
戸町バイパスはゆるやかな坂となり、峠わきに二力士の墓が移設されている。団地のダイヤランドは峠のさき左にはいったところである。二力士の説明碑がすえてあるのでそのまま掲載しょう。

◎みさき道塚と谷桜力士墓
二力士墓碑の道向かいは高比良造園で、園内上の土手隅に「みさき道塚」が残っている。文政六年(1823)今魚町と刻まれている。また上段土手の竹林内に円筒形の谷桜力士(俗名川向実松)の墓がある。明治25年10月15日建之と刻してある。みさき道沿いにあり、行き来する人も香華を手向けたことであろう。
長崎近郊のみさき道探訪もとりあえずここまでとして、さきの二力士説明碑にある源右衛門茶屋にも関係のある古い話を紹介して終わることにしよう。

◎虫追いの行事
昔8,9月頃、村中の子供青壮老年総出で虫追いと言う行事を行った。青赤の色紙で登旗をつくり、太鼓、鐘などを打ち鳴らして小ヶ倉海岸より源右衛門茶屋まで行列して、再び引き返した。そして海岸で為盛、糖盛二人の武士のワラ人形を立てて、射落とした。
伝説によると為盛、糖盛と言う二人の武士が敗戦して百姓家にかくれたが、百姓がその筋に密告し連行された。このとき武士は大いに怒って、吾らが死んだら虫になって村民に仇を打つであろう、と言い残した。このため後年、村民たちは二人の人形を作り、射落として虫追いの行事をするようになった。 「大正7年小ヶ倉村郷土誌、小ヶ倉尋常小学校」より

(注) 筆者は長崎市南公民館の歴史講座などを長年にわたり担当されているだけに、長崎市近郊の街道など9コースについて、実際に歩いたガイドブックとなっている。ただ、上戸町長崎氏の墓や宝輪寺下の道を「みさき道」のコースとするのには、疑問があろう。

前掲わたりどり氏HPなどと言い、多くの方の「みさき道」研究が、市中からなんとか小ヶ倉や土井首、深堀あたりまではたどりつくが、その先がホニャラ…で終る。
長崎街道や時津街道などに比べ、深堀道・為石からの長崎往還・御崎道・野母道・川原道など、肝心の地元街道の正しい検証が、これまでほとんど行われなかったと言える。本会の研究レポートやこのブログを参考とし、地元をはじめ多くの方が研究を進めてほしい。

わたりどり氏HP 「みさき道」 掲載年不明 

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わたりどり氏HP 「みさき道」 掲載年不明 

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。平成18年当時のわたりどり氏
HP 「みさき道」 掲載年不明。HPは削除か。現在では見当たらない。 
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行37〜39頁ですでに紹介済み。南長崎ダイヤランド内の「みさき道」は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/362
写真は、ダイヤランド内の籠立て場だったと思われる付近からの小ヶ倉と港外の島の遠望。

わたりどり氏HP 「みさき道」 掲載年不明

みさき道、いよいよスタートです!
第1日目 長崎の町ん中を出て  4月16日晴れ

スタートの十人町までやってきた。ここから、脇岬・観音寺までの長い徒歩の旅が始まる。スタートの道塚を見つけた。もっとしっかりしたものと思いきや、意外にもろそう。よくこれが道塚だとわかったものだ。十人町の道塚 町の掲示板の横にひっそりと。住宅地の小さな石畳の通りを歩いてゆく。
ほどなく、ピエル・ロチ寓居の地 と書かれた石碑の横を通る。長崎に滞在したフランス海軍士官がピエル・ロチ(ピエール・ロティ)が、この町で日本人女性と共に1ヶ月間過ごした記録を著した『お菊さん』は今でも出版されている。しかし、長崎にはこのような話はよくあるが、1ヶ月だけの恋って辛くはないだろうか。そんな彼らの思い出の前を通り過ぎる。
またほどなくして、遠見番跡 と書かれた案内板の前に着く。案内板には「鎖国時代、外国船の入港・出港に際しての監視及び長崎奉行所までの伝達機関として野母・小瀬戸・梅ヶ崎・勧善寺(後に永昌寺)に遠見番が設置されていた。この付近に遠見番10人の官舎が設けられていたことから、十人町 と名付けられた。」と書いてある。そうだったのか…だから十人町。歴史を感じるなぁ。しかしここから野母まで通うの大変だったろうな…(毎日じゃないだろうけど)

振り返ると長崎の市街地が少し見える。石畳の細い道。住宅の間の普通の通りという感じ。この細道を登りきると、大きな通りに出た。通りを右に行く。いわゆる、オランダ坂 という有名な道だ。上の画像の洋風の建物は活水女子大学。少し進んで下を見下ろすと…おお、これまた洋風建築。なかなか異国情緒漂う雰囲気。表から見ると…あ、屋根の間から孔子廟の屋根が! ↓の下です。(孔子廟はこんな感じ) せっかく高台の気持ちのいい道だったのに、下り坂となり早くもオランダ坂終点。下から見たオランダ坂終点。けっこう急登!?
一度、石橋電停付近へ出て、バス道路を横切り、お肉屋さんと果物屋さんの間の通りを行く。道なりに行くとグラバー園にショートカットできるスカイロードの入り口につきあたるのでそこを左に。ここから完全な、住宅地の通路となる。車の通れない細道。
ほどなく、共同の水場?のような場所を目にする。昔はここで、井戸端会議などやっていたのかな… 蛇口の下が濡れている。まだ使われているのかな。チビももを抱いてずんずん歩く。まわりを見渡せば… 左側 丘にへばりつくように立ち並ぶ家々。右側 どこまでも続く横道。車の入れないこともあり、石段には猫がくつろぎ、子供が遊ぶ。迷路のような歩き道。ああ、長崎の典型的な家並だ。とても懐かしく思えた。ほどなく出雲二丁目。車道に合流したところで今日の行程はおしまい。

第2日目 わたしのふるさと  5月4日晴れ

1日目の終点、出雲からのスタート。車道と合流し、もくもくと二本松へ向けて登る。石垣のムラサキカタバミを愛でる私。昔からの道だからか、あちこちで神様が見守っておられる。道のところどころで神様を祀ってある。容姿は様々。この道は昔、戸町道と呼ばれていたらしい。戸町⇔市街地の重要な道。現在では昭和40年以降に造られた県道が戸町へのメインルートとなっているが、実はこの出雲→上戸町の道が圧倒的に近い。徒歩では特に。
カンカン照りの中を歩きに歩いてやっと頂上…二本松地区へ到着。正面は二本松神社。この社殿は昭和4年に作られたらしい(石碑より)。この神社をとりまく戸町道は、昭和8年に改修されたらしい(石碑より)。現在の道の状況から言えば、移築した方がスムーズに通行できそうな感じにこの神社は立ちはだかっている。でもあくまで神社はこの場所、という住民の声が聞こえそうだ。この位置にあるからこそ、昔の風景を思い浮かべることができる。旧道 という雰囲気を醸し出している。二本松地区から見た景色 海が見える。
大きな道路を渡って、左の細道へ入る。民家が立ち並ぶ。ここからも景色がよく、稲佐山と鍋冠山が同時に見える。やがて、道路をはずれて山道へ…さぁ、ここからが昔のままのみさき道。石垣の跡 きちんとした道だったらしい。石段もきれいに残っている。道幅も広い。そして、ほどなく道塚発見!!間違いなくここはみさき道。しかもきれい!!!ほぼ完璧な形で残っている! ↓アップはこちら。江戸時代の道しるべとは思えない…風雨や人々の開発の手から逃れた貴重な一本。

山を抜けるとこの景色 もう上戸町に到着。県道へ出て、ガソリンスタンドの横の道へ入る。右手は広い敷地・立派な庭木・おおきな鯉のぼりが並ぶ…そう、武家屋敷のよう(実際、長崎港を開いた長崎最後の殿様・長崎甚左衛門の三番目の弟の筋の子孫が住んでおられるらしい。しかもその方は私の同級生)。戸町中学校の脇を通り、新戸町を歩く。公民館前の蓑川永太郎翁の記念碑の前を通過。通いなれた中学の通学路がみさき道だったなんて… 昔よりひらけて、空が広くなった気がする。
これより南は佐賀領 と書かれた石標。なんと新小ヶ倉から南側は佐賀の領地だったのだ。しらなかった。坂を上り、県道にぶつかる。モスバーガーで一服して再び歩き出す。峠のガソリンスタンドの隣の造園屋さんの中に道塚は立っていた。これは探しに探した。草の中に埋もれている。ここからは宅地造成により昔の道はどうだったか定かではない。
道塚付近に建つ力士塚。天保10年頃に東京相撲で活躍した二子島力士と慶応4年ごろに宮相撲で強豪であった熊ヶ谷力士のもの。またこの界隈はみさき道の主要路で、観音寺参りの商人や、深堀武士たちの往来も激しく一軒の茶屋があったと伝えられ、今でも「ゲンネン茶屋」(源右衛門茶屋)と呼んでいる(碑文より)。

下る。くぐる。登る(206段)。わざわざダイヤランドにここまで回り道してアプローチしたことはなかったなぁ。そしてダイヤランド(新興住宅地)に入り、籠立て場(昔の休憩ポイント)に到着。って、かなり殺風景な籠立て場(跡)だな。たぶん昔の籠立て場からこんな景色が見えていたはず。
ここからまた山道に入る。この道がまた細い。昔は殿様の通る「殿様道」といわれていたらしいが、まったくその面影はない。かごが通れる幅じゃない。ほとんど斜面。景色だけは素晴らしい。しばらく藪を歩くと鹿尾川の上に出る。川へ下りてみると、昔のみさき道であったという飛び石のなごり?のような風景に出会う。川には他に大きな石は見当たらない。当時は飛び石を渡って↓の神社を経由していたという。
川沿いに国道へ出て、横断歩道を渡る。土井の首郵便局の道を通る。ここは私が幼稚園の時、毛井首から土井の首へ一人で毎日通った通園路だった(さらに土井の首からバスに乗って浪の平まで通っていた)。誘拐の危険性も少ない、古きよき時代の話である。海へ出た。土井の首村の役場の跡を通る。そういえば小学生の頃は、洋風な白っぽい木造の建物がまだあった! あれは役場だったのかなぁ… しかし、土井の首村が長崎市に編入されたのは昭和13年。もしあれが役場だったとしたらあの建物はかなり古いものだったということになる。今は取り壊され、こんな感じに。土井の首は、私が5歳から12歳までを過ごしたふるさと。ふと、同郷の福田清人先生の「春の目玉」を思い出す。

春の目玉
ぐっと大きく 目を見開いて  すべてのものを よく見よう  君の目玉に映るものを
よく見分けて どんどん伸びていこう  君の美しい心は 君のよく澄んだ目玉に
春の光のようにあらわれる
土井の首小学校の学び舎で、大きな声でのびのびと歌っていた。あの頃が懐かしい。福田先生がどういったお方かというお話はここでは割愛させていただくが、みさき道に関する句を詠まれ、諏訪神社に句碑があるという。
岬道 おくんち詣での思い出も
なつかしい思い出を胸に土井の首を去る。江川の橋を渡る。昔、母から叱られると決まって「お前は、江川の橋の下でひろった」と言われていた。いくらなんでもこんなドブに捨てる人はいないだろう、と子供ながらに思っていた…(苦笑) 末石の工業地帯を歩く。末石は私が物心つくまでの間暮らしていたところ。私が詳しいのはこのあたりまで。やがて、新道の高架をくぐって深堀へ入る。雰囲気がこれまでとがらりとかわる。町のところどころに、波止恵比寿。旧道にもかかわらず人の往来がはげしい。ほどなく武家屋敷跡に到着。歴史ある深堀の町については、次回、出発時に。(写真略)

(注) 第1集では、資料掲載を省略したHP。九州東海大学W.Ⅴ(ワンダーホーゲル)部OGで長崎在住の方か。歩いた年がHPでは不明。現在ではこのHPは見当たらない。今となっては貴重な記録。当時の著名な方などの資料コースをもとに、「みさき道」を踏査されたと思われる。

上戸町墓地を通り、ダイヤランド入口ではいったん小ヶ倉側へ下り、ダイヤランドへアプローチ。そんな回り道は考えられない。きついはずで籠立て場の場所も違う。土井首から毛井首経由は、明治になって開けた道。江川橋や平瀬の海岸道もなかった。
資料コースはその後、修正されているようだ。三和町郷土誌の概念図も了承をお願いしたい。

「慶長肥前国絵図」明治前期再写本に見る「みさき道」

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「慶長肥前国絵図」明治前期再写本に見る「みさき道」

財団法人鍋島報效会「徴古館」(ちょうこかん 佐賀市松原2−5−22)は、旧佐賀藩主・侯爵鍋島家伝来の歴史資料・美術工芸品を展示する博物館。
同館所蔵品紹介HPに、「慶長肥前国絵図」の天保模写本と、それをもとにした明治前期再写本がある。解説は次のとおり。

掲載図は、国絵図がはっきりした明治前期再写本の長崎半島部分拡大図。河川は青、道路は赤、国界は黒、郡界は白、藩領界は茶で色分けされている。
小さな街道は表れていないが、「みさき道」(「御崎道」ないし「野母道」)は、当時から高浜へ下り殿隠山・遠見山尾根は通っていないことがわかるだろう。
この項は、次の記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/3077

慶長肥前国絵図      江戸時代 竪234cm 横249cm
けいちょうひぜんくにえず

慶長10年(1605)諸大名は幕府の命により国絵図と郷帳を作成・提出した。天保8年(1837)の模写本と、それをもとにした明治前期の再写本の2本が現存する。河川は青、道路は赤、国界は黒、郡界は白、藩領界は茶で色分けされ、地名は長方形の枠内に記入され、その横に石高が付されている。また郡別に大きな長方形の枠をつくり、その総石高・田畑面積・寺社領石高・物成・小物成が記されている。

筑後との境から長崎までのいわゆる長崎街道の経路は、田代・瓜生野宿・轟木宿村・寒津・竜蔵(造)寺城・八戸・加世(嘉瀬)・牛津町・山口で分かれ、一方は六角・須古郷・高町・常広城(鹿島)の先で分かれ、一方は塩田・大草野・嬉野へ、常広城の先でもう一方は浜町・長田村(高木郡)へ、山口で分かれたもう一方は小田・大町・焼米・志久・北方・高橋町・花島・志田・塩田へつながる。江戸時代初期の街道の状況がうかがわれる。

村岡 豊氏HP 「長崎県の坂」  (現在は「長崎坂づくし」)

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村岡 豊氏HP「長崎県の坂」 (現在は「長崎坂づくし」)

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。平成18年当時の村岡 豊氏HP「長崎県の坂」(現在はHPタイトル「長崎坂づくし」)から、「女の坂」と「しりくい坂」(尻喰坂)。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行35〜37頁ですでに紹介済み。写真は、村岡氏撮影の当時の「女の坂」と、現在の「女の坂」首なし地蔵、「尻喰坂」以下宿側入口の状況。この谷間を左上へ越した。

村岡 豊氏HP「長崎県の坂」 (現在は「長崎坂づくし」)

女の坂(おなごのさか・おんなのさか) 長崎市深堀町5丁目〜長崎市大籠町善長谷

長崎市深堀町5丁目から長崎市大籠町(おおごもりまち)善長谷(ぜんちょうだに)の間に通じる坂道を、いつのころからか「女の坂」と呼んでおり、道ばたには古い石の地蔵があります。
旧藩時代、領主の命を受けて注進の文箱を携えてこの道を往来するとき、もし途中で妨げる者があれば斬り捨てご免を許されていた。ある夜、急ぎの使者がこの坂道にさしかかったとき、たまたま一人の身重の婦人が路傍で休んでいました。
婦人は注進と知るや「決してあやしい者ではございません…」との言葉も終わらぬうちに、一刀のもとに斬り捨てられてしまった。
その後、夜ここを通りかかると、恨めしそうな姿をした女があらわれ通行人に声をかけるようになった。「女の亡霊!女の坂」と、いつとはなしに「女の坂」と呼ぶようになったそうです。
領主のお声がかりで、同志相寄りここに地蔵尊を迎え、女の霊を慰めることになったという。
「長崎県大百科事典」(辻本義典担当) 長崎新聞社 昭和59年
(参考文献 「西海の伝説」山口麻太郎著 第一法規出版 昭和49年)
書籍では「おんなのさか」となっていますが、地元の人は皆「おなごのさか」と言っておられました。

1997/12/31 女の坂・深堀〜善長谷(隠れキリシタンの村・善長谷教会があります)まで、実際に歩いてみました。
深堀小学校の南側にある、川内公民館前の道を墓地の方へ登ります。山腹の途中にある「キリシタン墓地」の前から、右に行きます。杉林の先の谷間にお地蔵様がありました。お地蔵様の前から右にまいて登っていくと、途中に「大きな石」が左手にあります。さらに右の方向へ登っていきますが、この先からが途中でけもの道になりイバラが道をおおっていたりで、山歩きにかなり慣れている人以外は、女の坂を善長谷まで登るのは今では無理です。善長谷のお婆ちゃんに話を伺いましたが、海岸の新道が出来るまでは、女の坂を通って深堀小学校に通学されたそうです。
お地蔵様を一人では見つけることが出来ず、お地蔵様まで深堀町5丁目の高比良せいの様に案内して頂きました。高比良さんはかつて郵便局にお勤めで、女の坂を登って善長谷まで速達の郵便を届けておられたそうです。地元の人は、この道を「とのさん道(殿様道)」と呼んでおられたので、この道も「御崎道」の一部なのでしょう。

御崎道について

長崎から(館内〜戸町〜子ヶ倉〜深堀〜蚊焼)、野母崎・脇岬までの七里(約28Km)の道。江戸時代から、長崎の人たちによる「観音信仰」が大変盛んで、行楽をかねての観音寺参り(御崎詣)でにぎわいました。また、野母の権現山に遠見番所が寛永十五年(1638年)に設置され、外国船を発見すると直ちに長崎奉行に注進され、軍用道路的な性格も有していました。
地元の人々は、とのさん道(殿様道)と呼んでいます。御崎道の詳細については「三和町郷土誌・昭和61年発行・観音信仰と御崎道/原田博二」をご覧下さい。

しりくい坂(しっきぃ坂)   西彼杵郡野母崎町黒浜〜野母崎町以下宿

昔、長崎に出入りする要路が六つあり、その一つが「御崎道(みさきみち)」です。御崎道の、野母崎町(のもざきちょう)黒浜〜野母崎町以下宿(いかやど)の間の山越えの急峻な坂です。
前に行く人の、尻を食いつきそうな急な坂。
〈親和文庫第18号 長崎ぶらり散歩 原田博二著 親和銀行 平成7年4月発行〉
東彼杵郡波佐見町には、尻喰坂という地名があります。「波佐見の地すべり地名には…崩の迫(くえのさこ)、ぬず場、ユルギ、ユルサ、小樽、尻喰坂、八の久保などがある。…」として紹介されています(佐世保の歴史・地理/吉富一)。土石流が襲ってきて、逃げまどう人々をのみ込んでしまったのでしょうか?
地元の人は「しっきぃ坂」と言っておられました。

1997/12/31 しりくい坂を以下宿から、実際に歩いてみました。
海岸沿いの国道499号線の以下宿のバス停から山の方(東側)へ入り、「野母崎町消防団第12分団以下宿倉庫」前から山への道(北へ)です。竹薮の間を通って、谷間の急な坂を登っていきますが、今では道がはっきり分かりませんでした。
以下宿のお婆ちゃんに話を伺いましたが、黒浜に高浜小学校の分校があり、しりくい坂を通って分校に通学されたそうです。〈野母崎町以下宿の山口登さんに、坂の場所を教えて頂きました〉

(注) 平成18年当時の村岡 豊氏HP「長崎県の坂」。「長崎県の坂」またはそれぞれの坂名により検索していた。作成の着眼に感心した資料である。
現在は、HPタイトル「長崎坂づくし」となって、内容は一新している。「女の坂」のみ、東山手と南山手・小島周辺の坂の中に含まれ掲載されている。

「女の坂 深堀〜善長谷 市内からは離れていますが、思い出に残る坂道でしたので収録しました。隠れキリシタンの里・善長谷と深堀をつなぐ道でした。今は途中まで通れますが、善長谷までは草木が生い茂って行けません」とあるが、道はすでに平成17年頃、私たちが切り開き大籠町まで完全復元。長崎学さるく行事「江戸期のみさき道歩き」などで歩いている。

後段の「御崎道について」や「しりくい坂」は、現在のHPでは省略されたが、黒浜〜以下宿間の「しりくい坂」(尻喰坂)は、「岳路みさき道」の区間である。
私たちが同じく平成17年頃、踏査して切り開きルートは確認。一部行事で利用している。

「女の坂」は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/412
「尻喰坂」は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/134

ちゃんぽんコラム「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年

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ちゃんぽんコラム「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。みろくやHP ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム 第130号「みさき道は、抜け荷の道?」2003年3月。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行35頁ですでに紹介済み。

みろくや HP 「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年3月
ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム  第130号

長崎から長崎半島を南下して西彼杵郡野母崎町脇岬に至る約28Kmの古い街道をご存じですか? この道は「みさき道」と呼ばれ、江戸時代は脇岬にある観音寺へ参詣するための道でした。この観音寺は京都の御室仁和寺(おむろにんなじ)の末寺とされ、当時の観音信仰の一大霊場だったそうです。
鎖国時代の長崎の人々は物見遊山、今でいうハイキングに近い感覚で参詣し、おおむね1泊2日の行程で行き来していました。中には朝早いうちに出発して参詣を済ませ、夕方には戻ったという健脚もいたというから驚きです。

みさき道は唐人屋敷にほど近い十人町から始まります。そこの坂段を上り、東山手から石橋へ下り、出雲町〜二本松〜戸町中学校〜ダイヤランド〜土井首郵便局〜深堀町〜大籠町〜三和町(西彼杵郡)〜蚊焼峠〜黒岳〜野母崎町殿隠山〜堂山峠〜観音寺というルートです。(分カル人ハカナリノ長崎通)
現在のみさき道は、車道になっているところもありますが、山あいや小高い丘をいく土の道も多く、便利なハイキンググッズに身を固めた現代人でもその道のりはかなり大変そうです。道筋にはこの街道の整備に出資した「今魚町」(現在の魚の町)の町名が記された道塚が数カ所残されています。

みさき道のスタート地点、「十人町(じゅうにんまち)」の町名はちょっと変わってます。江戸時代、脇岬にほど近い権現山で長崎港に入港する外国船を見張るための「遠見番所」に勤める役人が10人いて、交代で勤務する彼らの役宅10軒がこの町にあったからだそうです。(通勤ガ大変ダネ)
この「権現山遠見番所」は、島原の乱で一揆軍を攻め落とした直後、幕府がポルトガル船の来航を見張る為に設けたのが始まりです。さらに長崎半島には海防警備のため台場や番所が全国に類を見ないほど何カ所も設置されました。いわばこの一帯は日本屈指の要塞地帯だったのです。みさき道はそういったところに勤める役人らの通る道、いわば軍事の道でもあったといえます。

またみさき道は、抜け荷(非合法な商取引)の道ともいわれています。脇岬が唐船の風待港だったことから、その時を利用して抜け荷をやる人が観音参りと称してこの道を往来したというのです。抜け荷は発覚すると遠島(島流し)などの厳しい処罰を受けましたが、それでも魅力は大きかったらしく、あとを絶ちませんでした。
抜け荷といえば、もと遠見番が、仕事を辞めた後も役宅の近くに住み、そこから唐人屋敷まで穴を掘って品物を得、抜け荷をしたという珍事件が長崎奉行所の犯科帳に記されているそうです。(遠見番ハ薄給デ暮ラシモ厳シカッタヨウデス)

◎参考とした本と資料
「わが町の歴史散歩(1)」(熊弘人著) 「長崎ぶらり散歩」(原田博二著) 「白帆注進」(旗先好紀・江越弘人著) 「第65回みろくや長崎食文化講座〜みさき道って何?〜」(講師 中島 勇)

(注) みろくやHP「ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム」は、気のきいた長崎歴史コラム。ただ、この「みさき道は、抜け荷の道?」は、参考とした本と資料に一部、疑問が多い。
「みさき道」のルートや密貿易との関連は、コラム筆者自身で正しく研究してほしかった。

草住尾根から兜岳・八郎岳へ  2012年2月

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草住尾根から兜岳・八郎岳へ  2012年2月

2012年2月5日(日)曇りのち雨。草住尾根から兜岳(標高462m)・八郎岳へ。参加12人。みさき道歩会の例会。雨のため八郎岳は中止。
江川総合運動公園9:30−草住町—草住尾根—江川からの登山道合流点10:57—兜岳
(12:15 昼食 12:45)—(八郎岳—落矢尾根—落矢ダムは変更)ー前記合流点に戻る—江川町14:00(徒歩距離 約8km)

朝から雲行きが悪いが、きょうのコースは、草住尾根の「陸軍要塞標」探しと登山道整備が目的。行けるところまで行く。江川総合運動公園から推定「みさき道」を逆にたどり、草住市営住宅集会所まで行く。
長崎ペット霊園との間に登り口があり、明治地図の小径が残る。深堀城山と鹿尾林道に陸軍省「長崎要塞第二地帯標」が現存し、線で結ぶと草住尾根の道にも現存する可能性がある。

草住尾根の道は、たいして荒れていなく、登山道整備の必要もなく、江川から登る道との合流点に着いた。途中は唯念寺植林園や九電江川線鉄塔を通った。この間の道脇に「陸軍要塞標」は見あたらなかった。地元の山主・伊東氏の話でも記憶ない。
後は通常の登山道を兜岳を目指して登った。平成8年の「土井首中学校同窓会植林地」を過ぎると山頂までわずか。兜岳12:15着。昼食。
小雨が降りだし八郎岳へは行かず、そのまま同じ道を江川からの登山道合流点に戻り、江川町へ下った。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29235239.html

八郎岳登山口の駐車場などの整備について  長崎市政への提案と回答

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八郎岳登山口の駐車場などの整備について  長崎市政への提案と回答

長崎市市政への提案制度があり、提案書式によりメールでもできる。長崎市平山町の八郎岳登山口に、登山者用駐車場など整備するよう、昨年8月から再三要望しているが、全く必要性を認識していなく進展がない。
市長と良く協議し12月に最終回答を求めたが、回答は次のとおり。またしても要領を得ない。

警察に路上駐車を取り締まれと、対応を願ったのではない。提案の主旨とは逆である。地元自治会に用地提供などまず相談すべきではないか。費用対効果等はこの件では持ち出す問題ではない。必要性は認めるが、予算がないなら「ない」と回答すべきではないか。
実際は「公衆トイレ」も市民農園と兼用し設置してほしい。国道側には「八郎岳登山口」の案内表示も必要だろう。駐車場がある登山口から登れと指導しながら、今回は「元宮公園」も駄目と言う。登山口の駐車場がなおさら必要ではないか。

提案制度には匿名が認められているのに、氏名など記入せよとおかしなことを言う。私だけではなく市民全体や市外からの登山愛好者に、納得できる回答をお願いしたい。要点のみ簡潔にまとめてもらいたい。長崎市HPによる回答掲載が、何よりも遅い。提案制度が形だけとなっている。
長崎市長がまずしっかりして、実現へ向け努力してもらいたい。長崎市として恥ずかしい対応である。

八郎岳は長崎県立公園である。こちらこそ公園は気持ちよく利用したい。市民農園や元宮公園駐車場も開放すれば済むことである。長崎県から長崎市に対する指導が必要なのではないか。県とも協議してほしいと前から要望していた。
市のいつまでもつまらない回答に、私はこれ以上付き合いたくない。長崎市の最終回答を公表し、皆さんの判断をお願いしたい。平成23年8月分以降の回答は、長崎市提案HP参照。

(提案内容  2011/12/16(金) 11:15 送信)

八郎岳登山口の駐車場などの整備について

八郎岳登山口の登山者専用駐車場、登山案内図などの整備について、8月から再三提案しています。回答がまったく要領を得ません。これまで質問した事項に、要点のみ簡潔に回答してください。
1 八郎岳は野母半島県立公園です。登山口に登山者専用駐車場、登山案内図などが必要と認識されていますか。
2 市民農園駐車場が登山者禁止としているのは、あまりに閉鎖的です。スペースを広げるなどして早急に対応してください。
3 路上駐車などで、近隣に迷惑をかけています。現地調査をして地元自治会などと相談し、次善の解決策を考えてください。
4 登山口付近に市有地や遊休土地はいくらでもあります。予算をかけずに、土地を活用する方法を考えてください。
5 登山口の駐車場整備が当面どうしても駄目なら、元宮公園駐車場を利用するよう案内板と公園地図を掲示してください。
6 八郎岳は遭難難事故が発生しています。山頂の緑の基金と同じ「八郎岳周辺案内図」を、登山口にもぜひ設置してください。
7 九州百名山で市外から訪れる登山者が最近多くなっています。長崎市としてはずかしくない対応をお願いします。
8 市長とよく協議し、責任ある最終回答をお願いします。各事項について個別にもれなく回答してください。

(回答内容等  2012/2/4(土)? 長崎市HP回答掲載) 

ご投稿いただきありがとうございます。ご提案について次のとおり回答します。
まず、「3路上駐車」の件につきましては、所轄の大浦警察署に情報提供し、対応をお願いしたところです。
次に「5登山者の元宮公園駐車場の利用」につきましては、当駐車場は、多目的広場や遊戯広場、少年交流センターや庭球場などご利用の方々のために整備しています。
ご提案の八郎岳登山者へ公園駐車場を利用するよう案内板と公園地図を掲示することにつきましては、公園利用者の駐車場利用に支障をきたす恐れがあることから、対応は困難ですので、何卒ご了承いただきますようお願いいたします。
今後とも、長崎市の公園におきましては、誰もが気持ちよく利用できるよう維持管理に努めてまいります。

また、提案の「6八郎岳」は遭難事故が発生しています。山頂の緑の基金と同じ「八郎岳周辺案内図を登山口にもぜひ設置してください。」という提案につきましてお答えします。
前回投稿いただきました折にご回答させていただきましたとおり、八郎岳周辺における道標等の整備につきましては、平成21年度より山岳会や長崎県等のご協力をいただき、設置箇所の増設や改修を行っており、登山者等の利便、安全な登山を行っていただくための対策を講じております。
ご提案の案内図につきましても、来年度事業で設置箇所の土地所有者のご理解、ご協力をいただき設置したいと考えております。なお、設置箇所につきましては、現在、登山口の一つであるサイクリング道路の側にある墓地のコンクリート擁壁の側面を考えていますが、他にご提案箇所がございましたらお知らせください。
その他の項目につきましては、すでに10月と12月に回答したとおりです。

本市としましては、「八郎岳登山口の駐車場の設置」の件につきましては、所管課が費用対効果等、総合的に判断して回答しておりますが、これまでのメールでのやりとりでは納得していただけないと思いますので、ぜひ、ご連絡先を教えていただき、直接説明したいと思います。今後、同一案件での再提案につきましては、回答はできかねますのでご了承ください。
また、市政への提案に際し、メールアドレスの記入がありませんので、別件の提案をされる場合は必ず、氏名、住所、電話番号、メールアドレスを必ずご記入ください。
H24.1.5回答

(関係所属)
みどりの課 095-829-1171  農林整備課 095-820-6569  広報広聴課 095-829-1114

みさき/​michitoの占いカルテ  2012年2月3日(金)

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みさき/​michitoの占いカルテ  2012年2月3日(金)

”Yahoo!占い” トップ画面で「自分の占いカルテを見よう」に、きょう偶然に載っていたカルテ。
さてどうだろうか。年齢がどうしょうもない。

みさき/​michito
・名前: みさき 道人   星座: やぎ座  性別: 男性   血液型: –

12星座でみるやぎ座の基本性格
やぎ座は、責任感の強い人。若いうちから精神的に大人で、本人は早く成功をものにしたいと思っています。でも、若いうちはどうしても忍耐を強いられることが多く、実際に自分の思い通りになるのは40代から、ということが多いようです。上質のワインのように、年齢とともによくなっていく人が多い星座です。

血液型でみる基本性格
・血液型が非公開か未登録のため表示できません。
・みさき/michitoの恋愛行動パターン
星座 血液型 性別  星座×血液型×性別がわかると、恋愛行動パターンが表示されます。

今日のみさき/michitoの運勢(12星座占い)
・総合運
ストレスがたまっていたらウォーキングを
いろいろと考えすぎて、よけいな心配を抱えないように注意したい日です。自分の頭と心が一致しないように感じるかもしれませんが、どこかでそのふたつが重なる点があるはず。少し時間をとってそれを探ることで、今抱えている課題を乗り越えることができますよ。モヤモヤした気持ちがたまったら、気持ちを切り替えるためにウォーキングを。良い情報が得られそうなので、いつも楽しく話ができるような友人に連絡をとってみましょう。
開運おまじない
シャツを着るときは一度ボタンを全部はずし、左腕からそでを通しましょう。
・恋愛運
せっかくいい話があっても、あなたがそれに乗らなければみすみす機会を逃してしまうことだってあります。慎重さも大事なことですが、石橋をたたいてばかりでは後から悔しい思いをすることもあるでしょう。ときには楽天的になって吉です。
・金運
・仕事運

ジーニーさんからの今週のメッセージ
・2012年1月30日〜2012年2月5日
外国語を学ぶのに言語体系を完全に理解する必要はないし、辞書に載っている言葉をすべて覚える必要もない。まずは毎日の暮らしの中で実用的なことや、好きなことに関連した言葉を覚えることから始めるだけでも大いに効果的である。最近のあなたは大きなことを成し遂げようという気持ちから、物事を少し難しく考えすぎていた傾向があるので、今週を境に「考えるだけでなく、感じることで学ぶ」ように意識を切り替えてみよう。

脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」 平成16年

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脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」 平成16年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年から、観音寺、棚瀬、熊根の石灯籠、交通機関。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行122〜124頁ですでに紹介済み。写真は、遠見山から見た脇岬・樺島、棚瀬(ビーチロック)、熊根の石灯籠と奥に観音寺。

脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年  5〜10頁

〔6〕史跡、文化財
圓通山観音寺  709年行基菩薩によって建立される。
仏教伝来は538年(552年説もあります) 飛鳥寺は596年 法隆寺は607年
法隆寺建立よりわずか100年後に建てられた非常に古いお寺であることがわかります。
由来 野母崎町郷土誌より『七観音伝説』  肥後の国、宇土郡の丸木橋の由来により 「7つに切って流された橋木が次の7つの地に流れつき観音様としてまつられた。」熊本 松尾町、佐賀 太良町、高来町 湯江、飯盛町 田結、佐世保 福石、有家町 原尾、野母崎 脇岬

1 観音寺の文化財
ア 十一面千手観音立像〔国指定〕 象高2メートル半(8尺) 頬のはりは豊かで、穏やかに円満な面相は藤原彫刻で、象容は平安末期の特色をもち、頭体根幹部は一財(材か)で、寄せ木造りによって完成されている。
イ 天井絵〔県指定〕 花弁絵が主で、石崎融思一族のほか川原慶賀の名も見られる。
ウ 観音寺.宝篋印塔〔県指定〕 熊本の名僧「豪潮」長崎の福島清七の寄進により建立「豪潮塔」とも呼ばれている。県下では七基だけしかないと云う。
エ 梵鐘〔町指定〕 1491年 8尺(約2メートル半)の大鐘 天草から来た海賊に持ち去られる。1492年 宗像郡曲村相国山東光寺より購入。1745年 長崎金屋町糸屋氏浄財を募って資金を献上した。深堀藩家臣長淵九佐衛門、長崎鍛冶屋町の安山国久にこれを改鋳させる。
オ 観音寺にあるその他の文化財〔町指定等〕 僧形座像(なでぼとけ) 達磨大師半身画像 涅槃図 観音寺歴代住職頂相画像 慈悲円通 地獄十王図など

2 観音寺外で見る文化財、史跡
ア 棚瀬のビーチロック〔県指定〕 脇岬トンボロ(陸けい砂洲)の西海岸に、干潮時に現れる岩礁がある。この岩礁は洗濯板の様な形から土地の人は棚瀬とよんでいる。深成岩類や変成岩類が石灰質でかためられたもので、熱帯や亜熱帯の海岸にだけ見られる。第4紀中積世(8000年→4000年前)にできたものである。
イ 祇園山のノアサガオ〔県指定〕 (略)
ウ 弁天山の樹叢〔県指定〕 (略)
エ 杉家の墓碑群〔町指定〕 (略)
オ 神ノ上遺跡〔町指定〕 (略)
カ 熊根の石灯籠〔町指定〕 脇岬南側海岸五島灘から吹きつける荒波を受けとめるように、西南2キロメートルにわたり熊根という砂丘がある。この中央の高所に高さ約5メートルの大石灯籠がある。この付近は昔から航海の難所で遭難する船も多かったので村人たちが浄財を集めて天明2年(1782年)この大石灯籠を建立して航行する船の目印にしたと云う。「観音寺保存古文書より」

〔8〕交通機関
明治16年(1883年) 長崎—野母航路開始される(三山汽船)
年代は定かではないが、荷物運搬専用の船「渡海船」は脇岬—長崎間で運航されていました。
昭和10年(1935年) 野母—脇岬間にバス運行(長彼自動車KK)
その頃はまだ矢戸の山路や干潮時に磯づたいに歩く人が多かったようです。
この頃、長崎に行くには野母—長崎間の船便を利用していたが昭和16年頃の船賃は52銭だった。
(当時、大人が1日働いて1円もらうことは多くはなかった。したがって貧乏学生には52銭のお金がなく歩いて往復したことがしばしばありました。)
昭和15年(1940年) 長崎バスが長彼バスと合併する。
昭和16年(1941年) 戦時統制により経営合理化の為、野母−脇岬間は長期の運休となる。
その後、この間に馬車が運行されたが火災にあい中止された。
昭和18年(1943年) 県道、野母—長崎間開通する。
昭和23年(1948年) 長崎自動車、大波止—野母間の運行を開始して野母—脇岬線と連絡する。
昭和37年(1962年) 茂里町—脇岬間に延長される。

(注) 寛斎日記に表れた観音寺の清人の書「海天活佛」の額は、住職の話では今はない。「蒙古船化石」は洗濯板の形をした棚瀬(ビーチロック)のこと。珊瑚礁のある南方に多く見られるが、日本本土では宮崎県青島とともに、脇岬のは規模が大きく珍しい。
熊根の石灯籠は、伝承では「抜け荷灯籠」とも言われ、番所から役人が5日に1回来るので点灯しているかどうかで合図したらしいが、真偽は不明である。
野母商船の長崎—野母航路は、昭和38年8月廃止された。(野母崎町郷土誌年表)