投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長崎の古写真考 長崎古えはがき 時津 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 時津 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
時 津
時津の石橋

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「時津」及び「時津の石橋」は、本ブログ次を参照。すでに調査済みである。
https://misakimichi.com/archives/2847
「TOKITSU」は、時津町浦郷の「八幡神社」。南側(現在の時津警察署あたり)から撮影しているのではないだろうか。「古長崎101景」では、時津八幡宮神社のタイトルとなっている。
「THE STONE BRIDGE AT SUIKOEN TOGITSU NEAR NAGASAKI」は、時津町元村郷字丸田の「丸田橋」ではないだろうか。

長崎の古写真考 長崎古えはがき 大井平川石橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 大井平川石橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき
大井平川石橋

目録番号: 2130 中島川に架かる桃渓橋(1)
〔画像解説〕  超高精細画像
現在は、一般に中島川と呼ばれているが、上流の大手橋の袂に長崎氏の大手門があったことから堂門川と呼ばれた。写真下部分が日見峠方面からの川、銭屋川(中島川)との合流地点である。桃渓橋は堂門川に延宝7年(1679)、永島仁左衛門こと僧ト意が出来大工町に架けた長さ12.4m、幅3.4mのアーチ石橋である。昔、この辺りの川端は桃の木が多く植えてあり、桃の木大工町と言われ、この名が付けられた。写真左側に松の大木、その前に不動明王堂、奥には金比羅山、写真右側角の人家の前に明治4年(1871)設置の街路灯が見える。桃渓橋は、堂門川と銭屋川が合流する地点より上流部にあったので、これまでの大水害(享保、寛政、文化)で被害は受けても、一度も崩落することはなかった。昭和57年(1982)の長崎大水害でも被害を受けたが、崩落をまぬがれ、建設当時の面影を持つ橋の一つである。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「大井平川石橋」は、橋名不明。明治時代の「大井手橋」も考えられるが、橋の長さや姿が違う。長崎大学データベースの目録番号: 2130「中島川に架かる桃渓橋(1)」のとおり、「桃渓橋」ではないだろうか。
石橋の形や、背後の金比羅山などの稜線が合う。左側岸の松の向きが違うのが気になるが、同じ長崎古えはがき中の「中島川の石橋」も、「桃渓橋」である。

この項は、本ブログ次を参照。現在の写真は、二又と言う西山側からの川(二又付近は「大井平川」と呼ばれた)と中島川本流の合流地点あたりから撮影した。
https://misakimichi.com/archives/2455

武功山から烽火山へ  2013年2月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

武功山から烽火山へ  2013年2月

2013年2月17日(日)曇り。武功山から烽火山(標高426.0m)へ。大荷床から番所道を下る。参加13人。みさき道歩会の例会。
中川八幡神社9:36—武功山11:04—大荷床11:29—烽火山11:48(昼食)12:23—大荷床—番所道旧番所跡12:55—新番所跡13:10—鳴滝3丁目13:46—中川電停14:06(徒歩距離 約7km)

きょうの目的は、武功山ピーク石の刻面確認と烽火山の史跡探訪。長崎街道食違角から狗走り尾根へ上り、武功山ピークに1時間半ほどで着いた。ここは昔、お堂があったという。積み上げた石に刻字があると、陸角氏から聞いていた。
裏面を確認すると、小さな字で「徳太郎」と読めたが、文献など詳細は不明。

烽火山頂上の長崎県指定史跡かま跡は、草刈りした直後。風もなく、のんびり昼食できた。長崎市中はランタン祭りで賑わっていることだろう。
かま跡近く、長崎奉行所支配勘定役で赴任した大田南畝(蜀山人)が雄大な景色を漢詩で詠じだ「南畝石」の石碑と、烽火山十景の「飲澗亀石」を見学。

大荷床へ戻り、古書に記す旧時の正道「番所道」を鳴滝3丁目へ下る。烽火山に勤番していた時代の旧番所と新番所跡が途中に残る。当会などがこの番所道を発見、整備してから4年ほど過ぎた。久し振りに下りに歩いたが、登山者が多く利用するポピラーな道に変わっていた。
同じ南畝の鳴滝にある七面山詩碑、シーボルト記念館、鳴滝、中川橋など見学しながら、中川電停で解散した。

長崎の古写真考 長崎古えはがき 牛ノ天満宮

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 牛ノ天満宮

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき
長崎市中川郷牛ノ天満宮

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「長崎市中川郷牛ノ天満宮」は、「桜馬場天満神社」の御神牛だろう。
当時は御神橋脇にあったようだ。戦時中供出され、現在ある銅牛は説明板のとおり、平成4年正月に大久保月光氏らが奉献された。山崎和國氏制作。牛の姿は変わっている。

長崎市新大工町商店街からシーボルト通りへ向かう。商店街を出た交差点のすぐ先の通りの左に鳥居があり、奥へ行くと「桜馬場天満神社」がある。祭神は菅原道真公。創建は慶長12年
(1607)。
御神牛は道真公の生まれ年の縁と、大変可愛がられた牛が、天満宮をお参りしたことから、天満宮のシンボルのようになっている。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1426

長崎の古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口
〔画像解説〕  超高精細画像
立山中腹から市街地北部と湾口を撮影した写真である。撮影年代は、写真左端の梅香崎居留地の埋め立てがすでに完成しているので文久2年(1862)以降、さらに、大浦居留地の端の大浦川に、明治3年に架設される下り松橋(松ヶ枝橋)が見えないので、幕末から明治3年(1870)までの写真である。長崎大学所蔵の、この角度から撮影した写真の中で、最も古い写真である。写真左の松の木の向こうの一群の建物は出島で、変流前の北側から見た出島である。松の木の手前は、長崎奉行所の北役所の建物である。出島から写真右にかけての沿岸部は、大波止から浦五島町、大黒町にかけての沿岸部である。写真右隅が、現在のJR長崎駅付近である。明治10年(1877)起工明治26年(1893)完成の第1次長崎港改修事業による、沿岸部の時津新道がまだ完成していないので、写真の沿岸部は江戸時代の状態であり、それぞれの家の裏側が海に接している。大波止から大黒町にかけての沿岸部には、各藩の蔵屋敷や倉庫業等の規模の大きい屋敷が連なっている。

目録番号:2249 長崎港のパノラマ(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
立山中腹から市街地北部と湾口を撮影した着色写真である。船の配置から(1-35)と同じ写真である。撮影年代は、明治23年(1890)以降明治30年(1897)までと考えられる。写真左中央付近に緑色の木立があるが、その左に県庁舎があり、その右が出島である。出島の端にトラス橋が見えるが、これは第1次長崎港改修事業の中島川変流工事で変流した中島川河口に、明治23年(1890)に架設された新川口橋である。また、出島から大波止・浦五島町・大黒町に至る海岸線に、時津新道が建設されている。写真左側の緑の平地は、旧佐賀藩の砲台であり、海岸線に並ぶ大砲を見ることができる。明治10年(1877)代の写真【目録番号2899(整理番号58-30)】と比べると、海岸線付近の建物が建て変わり、海岸線に向いて長い倉庫群が形成されている。写真下部中央に家並みの中に道路があり、この道路が海と接する付近が、岩原川河口で、河口に架かる岩原橋が見えている。明治22年(1889)の市制施行直後の、長崎市街地北部と、後に内陸化する砲台付近の海岸線が撮影されている。

■ 確認結果

長崎税関では一般の方々に広く税関の役割を知っていただくため、長崎税関本関1階(長崎市出島町)に資料展示室を設けており、どなたでも無料で見学できます。(長崎税関HP)
【資料展示室の主な展示内容】
・長崎税関の歴史  ・税関業務の紹介 ・管内の輸出入品 ・けん銃、不正薬物の密輸の手口 ・コピー(偽ブランド)商品 ・ワシントン条約該当物品 ・引揚者からお預かりした証券類 などを実物や写真・パネルで紹介しています。

「長崎税関の歴史」パネルは、税関の前身である「運上所」下り松派出所の建物の位置などを説明するため、上段にデータベースの目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」、中段に目録番号:2249「長崎港のパノラマ(2)」、下段に「現在の長崎港(長崎市役所提供)」の写真を展示している。
撮影地は、いずれも立山山頂かその中腹となるが、古写真と比較した現在の撮影地は、正しく解明されていない。さまざまな疑問がある現在の写真が紹介されている。

長崎港の全体をなるべく写したかも知れないが、その面では「現在の長崎港(長崎市役所提供)」も、安易な市の提供写真と思われる。
現在の正しい写真が撮影できないならともかく、長崎港口の山の稜線や島々の姿が、古写真の2点と合っていない。長崎市広報広聴課にも、この際、撮影地の徹底した研究をお願いした。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2328

長崎の古写真考 目録番号:4215 長崎港と中町教会(2) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4215 長崎港と中町教会(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4215 長崎港と中町教会(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
福済寺裏山から長崎市街地北部と長崎港口を撮影した写真である。目録番号2900(整理番号58-31)と同じ場所から撮影したもの。明治29年(1896)に建設された中町教会が写されている。明治32年(1899)7月17日外国人居留地が撤廃され、同年8月要塞地帯法が公布され、長崎市内の写真撮影が禁止された。このために、撮影時期は明治29年(1896)から明治31年(1898)までの間である。安政5年(1858)から撮影され始めた市街地の写真は、明治32年(1899)に禁止になったので、最後の時期の1枚ものの写真である。写真下部は、戦前には国宝建造物(現国指定重要文化財)であった福済寺の本堂の屋根である。中央の赤い煉瓦の建物は、旧大村藩屋敷跡に建設された完成直後の中町教会である。いずれも昭和20年(1945)8月原子爆弾で全壊した。写真右の煉瓦の建物は、煙草専売公社の建物である。写真中央の沿岸部には、海側に向いた倉庫の建物が並んでおり、国内航路により流通する物資が保管されている。長崎大学所蔵の中の写真で、最後の時期になる写真である。

目録番号:5110 長崎福済寺上からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)
〔画像解説〕  なし

■ 確認結果

目録番号:4215「長崎港と中町教会(2)」と、目録番号:5110「長崎福済寺上からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)」を、3枚組のパノラマ写真とした画像を、HP”NAGASAKI GENEI”の「長崎手彩色古写真」で見た。
キャプションは、たしかに左側の写真から「B 205」(この写真はデータベースで見当たらない)、「B 206」、「B 207」とある。

撮影地は、「福済寺」の旧本堂「方丈」(原爆後、向きを変えて再建されている)の後ろ高台墓地からであろう。右側写真の大屋根が「福済寺」の本堂「大雄宝殿」で、現在、萬国霊廟長崎観音が建っている。

これがパノラマ写真に間違いないとすると、長崎大学は撮影年代とも研究を行い、データベースはそのように正しく解説してほしい。この項は、本ブログ次も参照。
中央の写真、目録番号:4215「長崎港と中町教会(2)」の寺の屋根が、「福済寺」の本堂「大雄宝殿」でないことは、すでに指摘していた。
https://misakimichi.com/archives/1885
https://misakimichi.com/archives/1577

三和地区の大ツバキ  市指定「藤田尾のツバキ」ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

三和地区の大ツバキ  市指定「藤田尾のツバキ」ほか

長崎半島の樹木で、長年、探しているのは、「ゆうこう」とともに、「ツバキ」の大木である。
茂木地区の「大崎の大ツバキ」が、かつて長崎市天然記念物だった。平成7年当時、すでに極限状態で、枯れ死しすぐに指定が取り消された。幹周り1.2mくらいの木だったろう。
https://misakimichi.com/archives/425

2005年(平成17年)1月、三和町が長崎市に編入した。町指定の「藤田尾のツバキ」(写真 1〜 3)が、長崎市天然記念物となり引き継がれた。
当時の現地説明板は、次のとおり。なお、この30mほど下方の海岸の景色が見えるところに、幹周り1.63mの別のツバキの大木(写真 4)が生える。
https://misakimichi.com/archives/220

指定の理由  藤田尾のツバキ
市内で最大のツバキである。県指定天然記念物”福江の大ツバキ”に匹敵するほどの大きさである。根元より幹は2つに分かれ地上2mのところから大枝を出して樹勢も極めて旺盛である。
指定の参考資料
目通り  1.48m(大) 0.9m(小)  樹 高  11.2m
樹 広  9.7m東西  7.6m南北    樹 齢  推定約300年
根元周り 2.8m

長崎市教育委員会が、平成20年2月に新しく設置した説明板では、次のとおりとなった。
https://misakimichi.com/archives/1573

市指定天然記念物  藤田尾のヤブツバキ
指定年月日  平成17年8月22日(旧町指定年月日 平成元年3月16日)
所在地  長崎市藤田尾町472番地
樹齢約300年(推定)、樹高約11m、根回り約2.8mを測る。根元より幹は2つに分かれ、地上約2mのところから大枝を出している。樹勢は極めて旺盛である。
この地域はヤブツバキの古木が多く、その中でもこの木は最大のものである。
長崎市教育委員会 (平成20年2月設置)

「藤田尾のツバキ」は、根回り約2.8mを測るが、根元から2本の幹がすぐ分かれる。現在では目通り1.8m(大) 1.0m(小)と大きくなっていた。この30mほど下方の別のツバキの大木も、幹周り1.7mくらいだった。
先日、生育条件が同じような三和地区で、2本の大ツバキに偶然出会った。

まず1本は、宮崎町にある(写真 5〜 8)。川原大池先のバス終点「川原木場公民館前」バス停から、左下の集落へ下る。人家が途切れ、農道の行き止まりまで下る。右の石垣に、根か幹かわからないような、複雑にからみあったツバキの古木が生えている。
高さ1.3mの目通りで単純に測ると、大きさは2.2mほどあった。この上で2本の幹に分かれ、分幹は1.2m(大) 1.0m(小)。樹高12mくらいである。

あと1本は、布巻町にある(写真 9〜11)。栄上手前の「元宮公園」バス停から三和病院の左後側へ回る。登りにかかる三叉路で左の道に行くと、民家玄関の登り坂段の石垣に生えている。ツバキの2本の幹を利用し、樹上にベランダ付部屋を建てていた。
これは根元の大きさだが、2.0m(大) 1.3m(小)あった。樹高約12m。

樹形・樹勢は、長崎市指定天然記念物「藤田尾のツバキ」に到底、及ばない。1本の幹だけ比べると、これより幹周りが大きく(計測は再調査要)、珍しい。5年越しの念願が、なんとかかなったような2本の大ツバキの木である。
五島列島の大ツバキは、本ブログ次を参照。
福江の大ツバキ(大窄)  https://misakimichi.com/archives/1072
月ノ浦のツバキ(上五島) https://misakimichi.com/archives/1159
稗ノ口のツバキ(青方)   https://misakimichi.com/archives/1160

飛行船? メットライフアリコ「スヌーピーJ号」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

飛行船? メットライフアリコ「スヌーピーJ号」

飛行船「スヌーピーJ号」は皆様に元気をお届けすべく、日本各地を旅しています。
様々なイベントを上空から撮影したり、社会貢献活動の一環として活用するなど、幅広く登場しています。

飛行船は本日も長崎ランタンフェスティバル会場上空を中心に飛行しています。夜間も飛行するので、ぜひ空を見上げてみてください!
2月4日〜17日 長崎 (係留地は神の島工業団地内)  2月18日〜関東へ移動。
基本的に月曜日・火曜日はフライトをお休みします。

長崎の古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む
〔画像解説〕  超高精細画像
南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である。船の形から、幕末から明治初期の写真である。上野彦馬アルバムに貼られているものである。長崎湾の中央におびただしい数の艦船が結集している。多くの船はまだ機帆船で、近代的な艦船になっていない。このことから、写真の撮影時期がわかる。写真の左手は、飽ノ浦・稲佐地区で、左隅の白い建物の一群は、官営飽ノ浦製鉄所の建物である。その先に、稲佐地区の岬が見えている。右岸側は長崎市街地の沿岸部であり、浦五島町から大黒町である。市街地の北の端が西坂の丘である。右上の山は立山で、山裾の建物は、筑後町の寺院群である。写真正面の岬の突端に聖徳寺が見えている。そこから下、写真中央の海岸線が浦上新田である。その後、明治・大正・昭和と長崎湾の埋め立てが進み、長崎湾のこのような広大な姿を見ることはできない。幕末から明治初期の開港後の雄大な長崎港の姿を撮影した写真である。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2013年2月9日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
5301「南山手より長崎港湾奥を望む」の作品が、「明治初期の長崎港 まさに船の博物館」として掲載された。解説は、
「国内外の艦船でにぎわう長崎港です。1872年ごろ、上野彦馬が撮影しました。外国人居留地の地図で確かめてみると、撮影地はグラバー邸の建てられた3番付近のようです。…」

さて、撮影地は、「グラバー邸の建てられた3番付近」だろうか。長崎大学データベースの「長崎居留地マップ」を掲げるので、考えてもらいたい。
この作品のポイントは、左奥の稲佐山の北東尾根と岩屋山稜線の重なり具合である。撮影地が「グラバー邸の建てられた3番付近」では、高度が高く重なりがあわない。
あと一段下の7番と9番の間の通りを、6番か54番(現在の長崎海洋気象台)の坂段か敷地の高台から撮影しているのではないか。

あと1点は、写真右側の通りの下に、大きな旗竿が立つ。この建物の説明も必要だろう。それによって撮影年代がはっきりしてくる。
この項は、本ブログ次を参照。「長崎今昔」の解説は疑問が多い。少しは本ブログの以前からの指摘を参考として、現地確認などを必ず実施してほしい。
https://misakimichi.com/archives/1894
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/archive/2009/1/6

「みさき道」を歩こう 第5回  2013年2月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

「みさき道」を歩こう 第5回  2013年2月

長崎新聞カルチャーセンター 2012年度後期野外講座 ”「みさき道」を歩こう”。 企画立案 林先生・現地ガイド 江越先生

江戸時代、長崎の人たちは脇岬の観音寺まで七里の道を歩いて、”観音寺詣で”をしました。その道は長崎半島の尾根筋の山間に現在も残っていて、当時の道塚が数本残っています。
観音寺には、唐絵目利きの石崎融恩や出島絵師の川原慶賀らによって描かれた天井絵もあり、往時の豊かな観音信仰の一端をうかがうことができます。

2013年2月9日(土)曇り。その第5回目。長崎バスで亜熱帯植物園サザンパーク先まで行き、岬木場の「長迫」バス停で降りる。モトクロス場や風力発電風車のある所である。
11:00出発。長崎半島東回りみさき道は、殿隠山の鞍部から脇岬へそのまま下るが、きょうは殿隠山ー遠見山ー堂山峠ー水仙の里公園へ尾根を歩く。山歩きを楽しむコース。

殿隠山を下りかけたら、北へ早くも帰るツルの渡りの声を聞いた。木立が切れ、姿が見えたときは、すでに上昇気流に乗って高く舞い上がり、うまく写せなかった。
遠見山(標高259.0m)には12:30着。きょうは曇りだが、樺島沖の正面に鹿児島県甑島列島が望める。眼下の脇岬ビーチロックも、ちょうど干潮のため全体が見えた。

遠見山で昼食後、堂山峠に13:20着。きょうは観音寺へ下らず、のもざき水仙の里公園へ向けて、西北尾根道を進む。普段は歩けないコースだが、草刈りを先月末していた。
堂山峠から1時間ほどで、前野母崎町焼却場の正門手前に出た。あとはのんびり高台からの海の景色や開花した梅を見ながら、車道を水仙の里公園入口のバス停まで下った。