投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−49 高鉾島

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−49 高鉾島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
169頁  ⅤⅠ−49 長崎港・高鉾島、1861年、ベルグによるスケッチに基づくリトグラフ
〔図版目録〕
ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作、「長崎の高鉾島」。
アルベルト・ベルグ画に基づくフォトリトグラフ。出典(略)

目録番号: 2922 高鉾島(14)
〔画像解説〕   超高精細画像
大型アルバムの1枚を剥がしたもので、キャプションにG42.TAKABOKO,(PAPPENBERG),NAGASAKIと印字されている。これは横浜の小川一真のアルバムからである。高鉾島の古写真は多いが、対岸の神ノ島側から撮影されたものは少ない。高鉾島は鎖国時代にキリシタンが処刑された殉教の島として外国人に知られていた。写真は、長崎市街の対岸にあたる稲佐側の神ノ島から高鉾島および現マリア観音前を写したものである。岬における海岸近傍の集落の様子がよく撮影されている。右側の海に張り付いた民家は風除けのためかすべて瓦葺きである。船は伝馬船であり、波を避けて内湾に係留されている。畑が海の傍まで切り開かれている。中央の民家は風当たりの強い岬の鼻に立てられ、階段には石段が積まれ、軒先には水甕と桶がみえる。縁側と戸口に干してあるのは穀物であろうか。このあたりは隠れキリシタンが住んだ集落で、「神」の地名が多い。背景右側は香焼島、遠景は長崎半島の山々である。目録番号4084(整理番号79-2)と同じアングルである。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

169頁のⅤⅠ−49「長崎港・高鉾島」は、1861年、ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ。これは長崎港入口の風景である。中央右の大きな島が高鉾島、左は現在、白亜マリア像が建つドンク岩、その横は神ノ島の幼稚園が建つ岬となる。背後の山は天門峰である。

長崎大学のデータベースでは、目録番号: 2922「高鉾島(14)」の解説にある「背景右側は香焼島」側から逆に描いたこととなるが、香焼島の陸地からではなく、高鉾島にまだ近寄ったその沖に停泊していた遠征団艦船の上から描いていると思われる。
当時の写真と違い、スケッチならどこからの船上でもできる。

現在の写真は、伊王島行きの船上から近くを写した。
最後の写真は、ブログ知人キャプテンタッちゃんが、2013年2月21日に海上のポイントで再確認してくれた撮影写真。鮮明に位置関係がわかるだろう。スケッチはデフォルメがある。

南方熊楠が愛した「安藤みかん」  和歌山県田辺市

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南方熊楠が愛した「安藤みかん」  和歌山県田辺市

ブログ知人からコメントがあり、毎日新聞記事(ズーム拡大)に和歌山県田辺市に生育する「安藤みかん」が、掲載されていることを教えてくれた。
とらっぷ・ぱっく ミカン絶滅危惧種  http://blogs.yahoo.co.jp/bear38pooh/67780247.html

南方熊楠顕彰館HPや同顕彰会ブログによると、「安藤みかん」の果実の色・形・切口は写真のとおり。田辺市の指定文化財一覧には、載っていなかった。
四国でも「にたり」「ゆこう」「仏手柑」とか呼ばれるダイダイが交配したような、独特な柑橘類があるが、酸味が強いらしい。
珍しい柑橘を紹介  http://blogs.yahoo.co.jp/toma223rmao5hotmail/56900837.html

ユズとザボンが自然交配してできたとされ、世界のスローフードに認めらた長崎地方の「ゆうこう」(最後の写真)とは、いずれも別種であろう。

もう一度食べたい:安藤みかん 味控えめ、熊楠を魅了
毎日新聞 2013年01月29日 東京朝刊

◇邸内に3代目細々と 復活栽培徐々に
「南方熊楠(みなかたくまぐす)が愛した『安藤みかん』。私は、そのみかんを見たことも、食べたこともないのです。探してもらえませんか」。この松の内、年賀あいさつを交わす電話の向こうから、そんなリクエストがあった。相手は和歌山県湯浅町の矢櫃(やびつ)祐一郎さん(59)。3年前、三宝柑(さんぼうかん)の取材でお世話になった柑橘(かんきつ)農家である。紀州が生んだ知の巨人・熊楠が、その果汁を日本のグレープフルーツとして愛飲したという安藤みかん。地元の柑橘農家でさえ目にすることのない“幻のみかん”を追ってみる。

矢櫃さんが「安藤みかん」の名を知ったのは昨年暮れに発売された月刊「文芸春秋」創刊90周年記念号。特集「歴史を動かした90人」のなかに南方熊楠と安藤みかんのくだりがあったという。
電話のあと、何年か前に読んだ「素顔の南方熊楠」(谷川健一・中瀬喜陽・南方文枝著、朝日文庫)を手にして、私は「アッ」と声を上げた。「安藤みかん」の記述のあるページに付箋がしてあったのだ。

早速、熊楠が明治、大正、昭和の時代を過ごした和歌山県田辺市にあたり、今も残る熊楠邸に「ある」と分かった。紀伊田辺駅から車で10分。訪ねると屋敷内の庭に2本、安藤みかんが植わっていた。熊楠が存命中にあった3本は枯れてしまい、今あるのは1985年に移植したものと、
94年に植えた接ぎ木苗で、いわば3代目。「移植した木は当時のお手伝いさん方にあったもの。ここ2〜3年、樹勢が衰え、実がつかない」と橋本邦子さん(64)。熊楠の妻松枝さんの遠縁にあたり、文枝さん(熊楠の長女)と庭で遊んだ思い出なども語ってくれた。

「庭のみかんは十数年前、文枝さんと一緒に食べたのが最後です。味はどうだった? それがおいしいとは思わなかったのです」と申し訳なさそう。グレープフルーツ代わりにと普及を図った熊楠の思いは「結局は実らなかった」と話す。
94年になって植えた約2メートルの安藤みかんには4個の実がなっていた。イチョウの葉のような黄色。肌がツルッとしている。許可をもらって、根元に落ちていた実を二つ、いただいた。
(以下 略)

長崎の古写真考 目録番号: 978 長崎製鉄所飽の浦工場

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 978 長崎製鉄所飽の浦工場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 978 長崎製鉄所飽の浦工場
〔画像解説〕  超高精細画像
この写真は、飽ノ浦製鉄所の整備された時期の工場を撮影したものである。長崎大学附属図書館には、これより古い写真目録番号5314(整理番号102-20)がある。その写真と比べると、工場内の建物が幾つか建て代わり、また新しい建物が整備されている。長崎が開港する前の安政4年(1857)には長崎港の東側、飽の浦地区(現在の三菱造船所)では、幕府はオランダ人ハルデスの指導のもとに、大型船の建造を目的とした長崎製鉄所の建設を始め、文久2年(1862)に完成させている。この長崎製鉄所は、主に機械施設が中心の工場であった。煙突のある鍛冶場は、ボイラー室で煉瓦造の建物である。右の建物は、日本で最初に鉄製のトラスの小屋組を採用した轆轤盤細工所で、多くの工作機械が据え付けられていた。この写真は、工場を高台から撮影しており、そのために遠景が湾の奥まで見えている。写真左の先にある岬は、稲佐地区の集落である。市街地は写真の左から右にかけて、西坂から、大黒町の砲台場、浦五島町が撮影されている。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2013年2月2日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
978「長崎製鉄所飽の浦工場」の作品が、「飽の浦の長崎工作分局 外国人招き技術移植」として掲載された。解説は、
「1879年ごろ、上野彦馬が撮影した飽の浦の長崎工作分局です。現在の三菱重工業長崎造船所の前身に当ります。…」

さて、撮影者が長崎大学データベースでは、「撮影者未詳」のまま、超高精細画像やこの新聞記事では、「上野彦馬」となっている。〔アルバム名: 上野彦馬〕のため、そう判断されたかも知れないが、 「上野彦馬」撮影とする根拠を具体的に説明してほしい。データベースがいつまでも「撮影者未詳」のままでは、利用者・読者は困惑する。
目録番号で一連の写真976〜984についても撮影者の考えを聞きたい。

次に撮影年代だが、「1879年(明治12年)ごろ」とは、初期の長崎製鉄所の姿からだけで判断されているようだが、作品の黄線部分に注視し、超高精細画像で拡大して見てもらいたい。
丸尾海岸の海軍埋め立て地の建物様子の観点からも、撮影年代の研究を慎重にする必要があろう。明治10年のイギリス海軍の長崎港の海図と明治13年の日本海軍の海図(元は同じ)には埋め立て地に細長い倉庫が1棟だけしかなく、明治17年測図の国土地理院旧版地図には3棟が並んで建っている。

同所を同じように写している「飽の浦恵美須神社写真の成立順序」囂庵氏考察HPにも表れ、このあたりは、古写真研究者の間でも研究課題である。撮影年代の研究も、対象を広げて深めてもらいたい。
この項は、本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/2333

深堀城山とかき焼き新年会  2013年2月

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深堀城山とかき焼き新年会  2013年2月

2013年2月3日(日)快晴。深堀城山(標高350.4m)とかき焼き新年会。参加11人。みさき道歩会の例会。
江川総合運動公園9:49—ナフコ奥谷地蔵10:20—愛宕神社跡11:38 昼食 12:10—深堀城山12:26—俵石12:43—南竿浦14:26—江川かき焼き屋15:00〜16:30(徒歩距離 約8km)

会の目的、地元の古道発見及び新ルート踏査に戻り再出発。ナフコ奥谷の道を尾根まで草刈り整備した。地元土井首では、この道を「殿様道」というが、長崎から深堀へ入るには遠回りとなり、「みさき道」とは考えられない。竿浦方面から深堀へ入る間道ではないか。文政年間の首なし地蔵があり、街道の趣きはある。

深堀城山への登山道尾根に出て、展望が良い愛宕神社跡広場で昼食とした。三菱重工香焼造船所の方向に、アリコ飛行船「スヌーピーJ号」が上空を飛んでいた。ノルウェーから受注した世界初、三角形の船「3次元海底資源探査船」が完成間近かである。

城塁を回り、深堀城山頂からいったん俵石まで下る。柱状節理の風化石。普通は平山台団地の方へ下るが、新ルートを踏査するため、俵石上の道をまっすぐ進んだ。
城山の山腹を巻いて、お水場の分岐まで戻った。ここから東側へ炭焼き窯跡などが残る尾根道の踏跡を下って行ったら、南竿浦へ出た。手入れをするとまだ使える古道だが、下りは長かった。

国道を歩いて江川へ戻り、以前長崎ちゃんめんだった店がかき焼き屋に変わっているので、ここで新年会。大村湾産のいろんな新鮮な貝類が2000円で食べられる。かき焼きは3月末までの営業である。

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−48 外国人居留地

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−48 外国人居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
169頁  ⅤⅠ−48 長崎 外国人居留地、1861年、ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ
〔図版目録〕
ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作、「長崎の新居留地」。
アルベルト・ベルグ画に基づくフォトリトグラフ。出典(略)

目録番号: 5865 出島の商館長邸横の日本庭園から大浦居留地方面を望む
〔画像解説〕
安政5年(1858)の開国条約締結直後の1862年、長崎を訪問したミルトン・ミラーが撮影した、長崎の最も古い風景写真のなかの1枚。当時出島の南側中央のオランダ商館長邸を訪問したと思われるミラーが、屋敷横の日本庭園から、第二次埋め立てが完了し建物が建ち始めた大浦居留地を遠望している。左の大きな白黒の柱はオランダ国旗の旗竿であり、右には妙行寺(当時イギリスの仮領事館)の屋根が見える。妙行寺横にはまだグラバー邸は見えない。ライデン大学に寄託されているボードウィン・コレクションにも同じ写真が存在する。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

169頁のⅤⅠ−48「長崎 外国人居留地」は、1861年ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ。出島から大浦海岸の新居留地を描いている。奥の高い山は鍋冠山である。麓に妙行寺の屋根が見えるが、大浦天主堂や南山手居留地はまだ建築されていない。
長崎大学のデータベースでは、目録番号: 5865「出島の商館長邸横の日本庭園から大浦居留地方面を望む」に、1862年ミルトン・ミラーが撮影した同じような向きの古写真がある。

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−47 出島橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−47 出島橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
169頁  ⅤⅠ−47 長崎、出島橋、1861年、ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ
〔図版目録〕
ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作、「出島の橋」。
アルベルト・ベルグ画に基づくフォトリトグラフ。出典(略)

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

169頁のⅤⅠ−47「出島橋」は、1861年ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ。「出島橋」と省略されているが、「出島の橋」に間違いない。左上に「DESIMA」と記している。
これは、現在の国指定史跡「出島和蘭商館跡」にある出島絵図説明板や出島模型(橋の模型は少しおかしい)のとおり、出島「表門の橋」(石橋)を、出島埋立地の東端から描いている。
奥が長崎港で、背後の山は稲佐山の北東尾根である。

出島復元整備事業で出島「表門の橋」を、再び中島川に架ける計画がある。古写真は見あたらず、この1861年ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフは、貴重な史料となる。
長崎市出島復元整備室は、このフォトリトグラフの存在を知っているのだろうか。川岸には橋が架かっていた場所の石材のような石がまだ散乱している。
現在の「出島橋」という名称の橋は、出島跡のすぐ上流にトラスト工法の鉄橋が架かり、出島「表門の橋」とは、架橋場所が違うので、誤解のないようお願いしたい。

「ゆうこう」の木4本?、川原木場で見つかる  長崎市宮崎町

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「ゆうこう」の木4本?、川原木場で見つかる  長崎市宮崎町

これはまた驚いた。「ゆうこう」の木がまとまって見つかった。日曜午後、N氏から電話があり、「ゆうこう」3本発見という。川原大池先の鶏放し飼い卵屋に、「ゆうこう」の実が置いてあり、どこにあったか聞き出し現地へ行ったらしい。
地図を送ってもらうと、岬木場県道大カーブ山羊小屋のは、前の記事で紹介している木だった。
https://misakimichi.com/archives/3537

バス終点川原木場公民館下の2本は、1月20日半島東回りみさき道踏査で歩いた旧県道だが、駐車場下までは見ていない。当日、N氏奥さんが見かけた木という。きのう現地へ確認に行った。一見「ゆうこう」に見えるが、皮はツルツルし果汁が甘かった。
せっかく来たから、近く一帯で「ゆうこう」を探す。あるはあるは、民家や道路や畑の脇に4本ほど見つけた。結構、大きな高木もある。住民に聞くと、このあたりでは「ゆうこう」は、一般的に植えられていたと話す。

この頃はだれも見向かず放置されているが、「ゆうこう」の木が現在も良く残されている集落である。県道上の木場公民館奥の集落も探したが、ここではほとんど見かけない。
スイートスプリングのような紛らわしい木があり、「ゆうこう」研究川上氏と再度、確認したい。

長崎の古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3863 立神ドック(1)
〔画像解説〕  超高精細画像
この写真は、長崎市街地の長崎港を挟んで西岸の立神にある、三菱会社の立神ドックである。写真右側の海の向こうに東山手居留地が遠望できるが、東山手の丘の上にすでに活水学院の明治15年創建のラッセル館が見えている。明治10年(1877)代後期の写真である。目録番号4729(整理番号93-21)の写真は、ほぼ同じ角度から撮影した写真であるが、施設の整備状況からみて、こちらの写真が5年程経たものである。ドックハウスが完成し、ドックの周りにさまざまな施設が整備されている。ドックには修理のために、戦艦が入っている。立神ドックは明治7年(1874)、フランス人技師ワンサン・フロランの指導によって構築され、明治12年(1879)に竣工した。長さ135.7m、幅33.4m、深さ、11.6mの本格的なドックである。明治17年(1884)7月長崎造船局は三菱に払い下げられ民営になった。写真は明治20年(1887)代の、三菱会社に払い下げられた後の立神ドックを撮影した写真である。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2013年1月26日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
3863「立神ドック(1)」の作品が、「三菱造船所の第1ドック 法規制前、自由に撮影」として掲載された。
新聞記事の解説で、今回も疑問を感じたのは、撮影者を推定する次のキャプションの部分。

「…写真の右隅に「B208 TATEGAMI DOCK NAGASAKI」と印字されています。数字の前にアルファベットがつくのは、イタリア人写真家ファルサーリか東京の鹿島清兵衛、または横浜の江南信國の写真ですが、特定できません。…」

長崎大学データベースで長崎関係をザッと調べると、数字の前にアルファベット「B」がつくのは、次の作品がある。画像が小さいのは、判読不能。
B ?   目録番号:2878 南山手ベル・ビュー・ホテル入口  撮影者:未詳
B 208 目録番号:3863 立神ドック(1)  撮影者:未詳
B 206 目録番号:4215 長崎港と中町教会(2)  撮影者:A.ファサリ
B ?   目録番号:4216 諏訪神社の鳥居(3)  撮影者:A.ファサリ
B 219 目録番号:4802 中島川と万橋  撮影者:A.ファサリ
B 222 目録番号:4803 諏訪神社の鳥居(4)  撮影者:A.ファサリ
B 220 目録番号:4804 中島川に架かる桃渓橋(4)  撮影者:A.ファサリ
B 218 目録番号:4806 南山手からの大浦居留地(4)  撮影者:A.ファサリ
B 203 目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島  撮影者:A.ファサリ
B 212 目録番号:4808 長崎ホテル(2)  撮影者:A.ファサリ
B 211 目録番号:4809 長崎駅(現浦上駅)(1)  撮影者:A.ファサリ
B ?   目録番号:4810 諏訪神社旧中門(3)  撮影者:A.ファサリ
? 227 目録番号:4813 茂木街道(5)  撮影者:A.ファサリ

「アルバム名: ファサーリ写真集」からの写真が多いため、イタリア人写真家「撮影者:A.ファサリ」としたのが多いが、はたしてそうだろうか。「東京の鹿島清兵衛、または横浜の江南信國」撮影とは、あまり考えられない。
前の記事で、数字の前にアルファベット「A」がつくのを考えてみた。今回の「B」も、もちろん「特定できません」と断っているが、「撮影者:A.ファサリ」とするのは、数々の疑問がある。ここでは、詳しく述べない。

私が調べた上記「B」リストを参考にして、長崎大学附属図書館及び「長崎今昔」執筆者において、「A」の場合とともに、撮影者の正しい研究を進めてほしい。
「証拠は存在しない。新聞発表に仮説をむやみに使うのは如何かと。…古写真は少数の専門家のものに情報が集中されていると、間違いをディスカッションによって訂正していくプロセスが失われてしまいます」との感想を聞いている。
朝日新聞「長崎今昔」で、最近4回立て続けにこのような事例があった。あえて問題としておく。

長崎外の古写真考 目録番号:6490 竹川町

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6490 竹川町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6490 竹川町
〔画像解説〕  なし

明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋
208頁  E06 共同社
〔画像解説〕
「共同社」「近事評論」「与論新論」と書かれた看板がかかる。共同社は尾張町2丁目の南端(現銀座6丁目)にあった新聞社。手前の道は現6丁目と7丁目の間の現交詢社通りである。「近事評論」は、明治9年6月創刊で、同16年5月終刊。明治9〜15年頃。M

■ 確認結果

目録番号:6490「竹川町」は、ボードインコレクションだが、タイトル「竹川町」以外、画像解説がない。
石黒敬章著「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」角川学芸出版平成23年発行の208頁「E06 共同社」に掲載があり、画像解説は上記のとおり。

長崎外の古写真考 目録番号: 382 東京の道路

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 382 東京の道路

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 382 東京の道路
〔画像解説〕
英語で「東京」という解説だけである。

明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋
22頁  F08 吹上御苑を囲む段堀
〔画像解説〕
吹上御苑の西側と北側の内堀(半蔵門と千鳥ヶ淵)には、その内側にもう一筋、半蔵門から三日月堀まで段堀がめぐらされていた。正徳年間(1711〜1716)に掘られたらしい。写真は北側の段堀で代官町の側から西に向かって写したもの。明治10年頃か。C

■ 確認結果

目録番号: 382「東京の道路」は、英語で「東京」という解説だけである。
石黒敬章著「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」角川学芸出版平成23年発行の22頁「F08 吹上御苑を囲む段堀」に掲載がある同段堀周りの直線部分の道路を、逆向きに撮影しているのではないか。

これだけの同じような長い赤レンガ塀囲みの内部は、「吹上御苑」が十分考えられる。堀の幅が狭いのは、内堀(半蔵門と千鳥ヶ淵)の内側にもう一筋、めぐらされていた「半蔵門から三日月堀までの段堀」のためだろう。
道路は広いが舗装がなく、車の多く通るような道ではない。橋が架かった入り口門もあり、場所特定を地元にお願いしたい。