長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 978 長崎製鉄所飽の浦工場
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号: 978 長崎製鉄所飽の浦工場
〔画像解説〕 超高精細画像
この写真は、飽ノ浦製鉄所の整備された時期の工場を撮影したものである。長崎大学附属図書館には、これより古い写真目録番号5314(整理番号102-20)がある。その写真と比べると、工場内の建物が幾つか建て代わり、また新しい建物が整備されている。長崎が開港する前の安政4年(1857)には長崎港の東側、飽の浦地区(現在の三菱造船所)では、幕府はオランダ人ハルデスの指導のもとに、大型船の建造を目的とした長崎製鉄所の建設を始め、文久2年(1862)に完成させている。この長崎製鉄所は、主に機械施設が中心の工場であった。煙突のある鍛冶場は、ボイラー室で煉瓦造の建物である。右の建物は、日本で最初に鉄製のトラスの小屋組を採用した轆轤盤細工所で、多くの工作機械が据え付けられていた。この写真は、工場を高台から撮影しており、そのために遠景が湾の奥まで見えている。写真左の先にある岬は、稲佐地区の集落である。市街地は写真の左から右にかけて、西坂から、大黒町の砲台場、浦五島町が撮影されている。
■ 確認結果
朝日新聞長崎地域版2013年2月2日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
978「長崎製鉄所飽の浦工場」の作品が、「飽の浦の長崎工作分局 外国人招き技術移植」として掲載された。解説は、
「1879年ごろ、上野彦馬が撮影した飽の浦の長崎工作分局です。現在の三菱重工業長崎造船所の前身に当ります。…」
さて、撮影者が長崎大学データベースでは、「撮影者未詳」のまま、超高精細画像やこの新聞記事では、「上野彦馬」となっている。〔アルバム名: 上野彦馬〕のため、そう判断されたかも知れないが、 「上野彦馬」撮影とする根拠を具体的に説明してほしい。データベースがいつまでも「撮影者未詳」のままでは、利用者・読者は困惑する。
目録番号で一連の写真976〜984についても撮影者の考えを聞きたい。
次に撮影年代だが、「1879年(明治12年)ごろ」とは、初期の長崎製鉄所の姿からだけで判断されているようだが、作品の黄線部分に注視し、超高精細画像で拡大して見てもらいたい。
丸尾海岸の海軍埋め立て地の建物様子の観点からも、撮影年代の研究を慎重にする必要があろう。明治10年のイギリス海軍の長崎港の海図と明治13年の日本海軍の海図(元は同じ)には埋め立て地に細長い倉庫が1棟だけしかなく、明治17年測図の国土地理院旧版地図には3棟が並んで建っている。
同所を同じように写している「飽の浦恵美須神社写真の成立順序」囂庵氏考察HPにも表れ、このあたりは、古写真研究者の間でも研究課題である。撮影年代の研究も、対象を広げて深めてもらいたい。
この項は、本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/2333