長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4215 長崎港と中町教会(2) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:4215 長崎港と中町教会(2)
〔画像解説〕 超高精細画像
福済寺裏山から長崎市街地北部と長崎港口を撮影した写真である。目録番号2900(整理番号58-31)と同じ場所から撮影したもの。明治29年(1896)に建設された中町教会が写されている。明治32年(1899)7月17日外国人居留地が撤廃され、同年8月要塞地帯法が公布され、長崎市内の写真撮影が禁止された。このために、撮影時期は明治29年(1896)から明治31年(1898)までの間である。安政5年(1858)から撮影され始めた市街地の写真は、明治32年(1899)に禁止になったので、最後の時期の1枚ものの写真である。写真下部は、戦前には国宝建造物(現国指定重要文化財)であった福済寺の本堂の屋根である。中央の赤い煉瓦の建物は、旧大村藩屋敷跡に建設された完成直後の中町教会である。いずれも昭和20年(1945)8月原子爆弾で全壊した。写真右の煉瓦の建物は、煙草専売公社の建物である。写真中央の沿岸部には、海側に向いた倉庫の建物が並んでおり、国内航路により流通する物資が保管されている。長崎大学所蔵の中の写真で、最後の時期になる写真である。
目録番号:5110 長崎福済寺上からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)
〔画像解説〕 なし
■ 確認結果
目録番号:4215「長崎港と中町教会(2)」と、目録番号:5110「長崎福済寺上からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)」を、3枚組のパノラマ写真とした画像を、HP”NAGASAKI GENEI”の「長崎手彩色古写真」で見た。
キャプションは、たしかに左側の写真から「B 205」(この写真はデータベースで見当たらない)、「B 206」、「B 207」とある。
撮影地は、「福済寺」の旧本堂「方丈」(原爆後、向きを変えて再建されている)の後ろ高台墓地からであろう。右側写真の大屋根が「福済寺」の本堂「大雄宝殿」で、現在、萬国霊廟長崎観音が建っている。
これがパノラマ写真に間違いないとすると、長崎大学は撮影年代とも研究を行い、データベースはそのように正しく解説してほしい。この項は、本ブログ次も参照。
中央の写真、目録番号:4215「長崎港と中町教会(2)」の寺の屋根が、「福済寺」の本堂「大雄宝殿」でないことは、すでに指摘していた。
https://misakimichi.com/archives/1885
https://misakimichi.com/archives/1577