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長崎外の古写真考 マンスフェルト集 78P 知恩院入口の参道、西京

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長崎外の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 78P 知恩院入口の参道、西京

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第六章 京都・大阪  78P  知恩院入口の参道、西京
京都市東山区新橋通、知恩院入口の参道。知恩院は法然上人の吉永禅房にはじまる、浄土宗総本山。三門は、徳川秀忠による日本最大の楼門である。元和5年(1619)着工、2年後に完成している。参道にはランプが立ちならび、井戸の横にはまげ姿の男性が佇んでいる。マンスフェルトが業者から買ったものである。
090 サイズ/234mm×185mm 大

目録番号: 5710 参道

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。
78P「知恩院入口の参道、西京」は、長崎大学データベースでは目録番号: 5710「参道」が同じ作品。京都市東山区の「知恩院黒門通り」であろう。知恩院三門より一筋上(北)の通りとなる。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2309

目録番号:5710「参道」と同じような構図の古写真が、ウェブ「洛中洛外散策」百年前はこんな風景 にあるので、次を参照。現在の写真も同ウェブから。
http://www2.ocn.ne.jp/~teiten/meiji.html
京都府立総合資料館所蔵資料データベース「京都北山アーカイブズ」の矢野家写真資料明治頃の京都および近郊の名所等 Iに作品49「知恩院黒門通」として同古写真は収録されている。
http://www.pref.kyoto.jp/archives

78P「知恩院入口の参道、西京」において、「京都市東山区新橋通(東方が三門への知恩院通?)、知恩院入口の参道」とするのは解説間違いで、1つ北の「知恩院黒門通り」となろう。
「井戸の横にはまげ姿の男性が佇んでいる」も「井戸」ではない。黒門の前にある周囲に石柵をめぐらした「瓜生石」。石の下を掘ると、二条城まで続く抜け道があると言い伝えられている。
通りは地図を参照。知恩院黒門から撮影した「華頂道」ではないか。東山区「古門前通り」の一部で東側。「知恩院黒門通り」とも呼ばれる。「瓜生石」の最近写真は、京都市上西氏撮影。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第三章 茂木  35P  茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて
茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下でくつろぐマンスフェルト一行の人夫たち。まだまげを結っている男性が多い。次ページの写真とあわせてみると、一行は茂木滞在中、この元庄屋宅を宿舎にしたように思われる。熊本からの旅行中であろうか。
016 1872年頃 マンスフェルトか サイズ/205mm×156mm 大

目録番号: 6282 農夫たち(2)
〔画像解説〕    ボードインコレクション
ボードイン博士が長崎郊外の散策中に出会った「物売り」の行商人たちです。竹籠のなかには人参、ネギ、菜っ葉、魚が見えます。茂木方面から長崎に向かう行商人ではないでしょうか。足に脚絆を巻き、履物は地下足袋と草鞋です。天秤棒は竹からできています。ボードイン博士の撮影依頼に応じた笑顔が少しこわばっているのが印象的です。 -6282-

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。
35P「茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて」は、木の背後に薄く写る山が、茂木の汐見崎の稜線と同じだから、撮影場所は「茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下」に間違いないと確認できる。

ふと思い出したのは、長崎大学データベースの目録番号: 6282「農夫たち(2)」(目録番号:6281「農夫たち(1)」も同写真)の人物。ボードインコレクションにあり、「ボードイン博士が長崎郊外の散策中に出会った「物売り」の行商人たちです。…茂木方面から長崎に向かう行商人ではないでしょうか。…」
35P「茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて」の右端2人を拡大した。顔・ポーズとも似ているようでもあり、余談として人物の確認をお願いしたい。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 33P 茂木の海岸に沿って

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 33P 茂木の海岸に沿って

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第三章 茂木  33P  茂木の海岸に沿って
茂木の旧庄屋屋敷あたりから撮影された茂木海岸と茂木村本郷の家並み。マンスフェルトは茂木旅行に大型カメラを持参し、これを撮影したようである。写真は埋め立て前の片町付近で、左奥の寺は玉台寺。僧寶譽の創建で、島原の領主松倉氏の代に第3世義山和尚が再建した。
018 1872年頃 マンスフェルトか サイズ/207mm×156mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。
33P「茂木の海岸に沿って」は、解説では「写真は埋め立て前の片町付近」としているが、「片町」は若菜川の右岸一帯のため、場所が違う。

長崎市役所茂木支所に展示している「茂木港今昔」の次の地図と説明どおり、大正時代に埋め立てられたのは、「橋口、中、寺下」の海岸である。
「若菜橋」も、橋口側の位置が、現在の橋とは異なっている。
この項は、本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/2147

茂木港今昔
この地図は、大正時代の埋め立て前と現在の海岸線を比較したものです。現在のフェリー乗り場や新田の汐見崎観音寺付近は岩場で、橋口、中、寺下の海岸は砂浜でした。
若菜橋も橋口側の位置が異なっています。

33P「茂木の海岸に沿って」の撮影場所は、「旧庄屋屋敷あたりから」。現在は弁天橋があるSマート茂木店前あたりからであろう。左奥の寺も、「玉台寺」に間違いない。大イチョウがすでに撮影されている。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 12・13P 愛宕山からの景色

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 12・13P 愛宕山からの景色

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第二章 長崎  12・13P  愛宕山からの景色
愛宕山の中腹から茂木街道が走る谷をはさんで、小島郷佐古に建つ長崎医学校および大徳寺の丘越しに出島方面をのぞむ。出島の手前の白い家は明治3年(1870)ごろ建った中国商社広隆号。中央右の大きな屋根は正覚寺。その右上の茂みに旧長崎奉行所西役所の建物は撮影直前に消失している。中央付近は花街の寄合町。
001・002 1871年頃 マンスフェルトか サイズ/193mm×90mm 大 ほか

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。

12・13P「愛宕山からの景色」は、右中央に「正覚寺」が写っている。「小島郷佐古に建つ長崎医学校および大徳寺の丘越しに出島方面をのぞむ」とあるが、この写真では「長崎医学校および大徳寺」は、写真外の右側となり、確認できない。
データベースでは、目録番号: 2871「高野平からの小島山手遠望」(掲載略)に同じような景色があり、間違って解説の参考とされたのではないか。

これに対し、12・13P「愛宕山からの景色」は、「愛宕山の中腹から」の撮影であるが、中腹とはどのあたりであろうか。
現地を調べたところ、高平町の榎観音堂の上、長崎玉成高校校舎写真の左上石垣付近(高平町15街区)で、全体の景色が見え正覚寺が同じように確認できるので、撮影場所の参考とされたい。古写真の大木が観音堂のかっての榎だったとも考えられる。
写真の「中央付近は花街の寄合町」との解説は、少し疑問を感じる。

長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備  2012年11月

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長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備  2012年11月

2012年11月4日(日)曇りのち雨。長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備。参加7人。みさき道歩会の例会。
長崎バス川原公園前バス停9:40—三和記念公園—脇岬村路分岐9:58—熊ノ岳中腹
12:00 昼食 12:30—熊ノ岳12:51—三和記念公園13:48(徒歩距離 約7Km)

4月の川原木場に続き、長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備。今回は川原からの高浜村路である。三和公民館展示ホール奥の中庭に1本の標石が残る(写真13)。
「東 脇岬」「南 明治三十二年十一月建」「西 高濱」「北 川原村字池田」と刻む。もともと建っていた場所は、川原小池(現在の三和記念公園)上の脇岬村路と高浜村路との分岐である(写真2の地点)。 

詳細なルート図は省くが、明治34年測図の地形図のとおり、標石が示す「西 高濱」は、川原小池上から熊ノ岳の中腹を巻いて登り、徳道へ至る。ここから高浜村路と分かれ、二ノ岳麓を行った脇岬観音寺参りの話は、地元郷土史家の故高崎先生から「自分らは(「東 脇岬」の川原木場を通る脇岬村路ではなく)、この道を行った」と聞いていた。

高浜村路の道は、現在の「熊ノ岳いこいの里」車道沿いの山中に良く残る。戦後も生活道路や通学路として利用され、たいした草刈りを要せず整備できた。
きょうは徳道上のサイクリング道路出合までの予定だったが、午後から雨の天気予報のため、熊ノ岳(標高288.4m)へ上がった。山頂に着いた13時頃、すぐ雨が降り出し、傘をさして川原へ下った。

長崎の古写真考 彦馬の世界 206P 寺院楼門

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 206P 寺院楼門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 206P 寺院楼門  (長崎歴史文化博物館蔵)
幕末から明治初期に撮影。鶏卵紙。

目録番号: 5360 悟真寺(3)   超高精細画像
〔画像解説〕
上野彦馬の撮影。稲佐山の麓にある悟真寺は、長崎郊外におけるキリシタン禁制後に復興された最初の仏教寺院として知られ、江戸時代を通じて中国人やオランダ人、幕末以降はロシア人らの墓所に当てられた。浄土宗の寺院だが、背後にそういう国際墓地があることで著名である。画面中央には、右に山門、左に本堂が写っている。重層、入母屋造の本堂は、文化11年(1814)に再建されたものがその後数度の修理を経て残存していたが、原爆で倒壊し、戦後、山門の真後ろに位置に鉄筋コンクリートで再建されている。山門はいわゆる龍宮門形式の重層門であるが、この形式となったのは、文政年間の絵図ではまだ冠木門に描かれているので、元治元年(1864)の修復時かと推定される。撮影時期は不詳だが、明治中期頃であろうか。山門の向こうには本堂脇の鐘楼と背後の庫裏が覗いている。現在は、山門前の石段等も向きを変えて大幅に改造されている。

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
206P「寺院楼門」は、寺名の解説がなく不親切であろう。長崎大学データベース目録番号:
5360「悟真寺(3)」と同じ作品で、長崎市稲佐の「悟真寺」である。本堂は原爆で倒壊し、戦後、山門の真後ろに位置に鉄筋コンクリートで再建されている。

この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2819
長崎大学データベースで目録番号:5360「悟真寺(3)」は、撮影者未詳が〔撮影者:上野彦馬〕と現在は訂正されているが、目録番号:6261「稲佐の悟慎寺」(掲載略)は、間違ったタイトルの寺名のままである。

長崎の古写真考 彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校 (長崎大学附属図書館蔵)
撮影年代未詳。鶏卵紙。写真中央左は立山の旧長崎奉行所(旧長崎奉行所は西と立山の2か所あった)、その右は明治7年(1874)に新築されたばかりの長崎官立師範学校の建物である。長崎奉行所の原型を写す写真は珍しい。長崎官立師範学校の右上背景の山の中腹の中に坂本龍馬で有名な亀山社中が写っていることが研究者により確認されたといわれる。

目録番号: 6030 旧長崎奉行所と師範学校

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
160P「旧長崎奉行所と師範学校」の解説には、別に問題はない。ただ、「長崎官立師範学校の右上背景の山の中腹の中に坂本龍馬で有名な亀山社中が写っていることが研究者により確認されたといわれる」とは、次のような経過がある。

この項は、本ブログ次の記事を参照。疑問に思うのは、作品の撮影場所である。
朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか
https://misakimichi.com/archives/2158
長崎大学データベースでは、目録番号: 6030「旧長崎奉行所と師範学校」の作品。

朝日新聞や朝日選書によると、長崎居留地研究会の研究は、「現在の長崎市玉園町の丘の中腹から撮影したとみられる。…写真の中から旧長崎奉行所の堀の位置や山の稜線を目印に撮影場所を特定した」とし、撮影場所を「玉園墓地」(永昌寺墓地か)からとしている。
長崎歴史文化研究所もこの場所で納得しているようだが、古写真の玉園町の家並みの状況と、奉行所からの距離を考えると、まったくの誤認ではないか。遠くの寺名も見誤っている。

私が撮影した場所は具体的には、「聖福寺」大雄宝殿の背後、開山老和尚(鉄心)塔所がある石段の入口あたりの道。全体の景色はこの場所からしか今は写せない。
理由は、URL記事にしたとおり。民家が墓地となることはない。上野彦馬が重い撮影器材を持ち、何も玉園墓地の上まで登る必要はない。撮影しやすいところで写せる。

長崎の西空の夕日  12−10

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長崎の西空の夕日  12−10

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1〜 3  2012年10月 5日の17時58分頃
写真  4      2012年10月 7日の18時03分頃
写真  5      2012年10月 8日の18時04分頃
写真  6〜 8  2012年10月 9日の17時59分頃
写真  9〜10  2012年10月19日の17時51分頃
写真 11      2012年10月21日の17時30分頃
写真 12〜13  2012年10月24日の17時30分頃

松林重宗氏画文集「長崎を描いてさるく」  その一部から

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松林重宗氏画文集「長崎を描いてさるく」  その一部から

先輩の水彩画家・松林重宗氏の絵日記風な画文集「長崎を描いてさるく」が、出版されている。
長崎市内・郊外と日帰りで行ける県内70箇所で描いた10号以下の小作品130点を収録。
A4版縦80ページ 2012年8月発行 販売価格 2,000円。
申し込み方法は、同氏HP「松林水彩ギャラリー」へ。 http://www8.ocn.ne.jp/~matsu3/

日本水彩画会会員。HPには水彩画による市内近郊の風景画を中心とした作品展示、画集、展示会出展案内がある。
出版を知らず、これまでうっかりしていたが、33頁に私と本ブログが登場していた。画文集の一部を紹介する。写真は私も同じところへ行き、同じような風景を写していたので、URL記事参照。

33ページ  名残の紅葉(医学部構内) F10(2011)・ポンペ会館 F4(2011)
長崎大学医学部構内である。長崎では師走になっても紅葉が見られる。ここの校庭では銀杏の黄葉がきれいであるが、今回は図書館の黒いシルエットをバックに桜やカエデなど名残の紅葉をねらった。12月としては暖かい方でさほど寒さを感じなかった。学食で若い医学生に混じって暖かい食事をとったせいもあるのだろう。
ところで、この絵が一段落して2枚目の4号を描いていると、突然山仲間だった友人が現れた…。彼のブログにも、この絵と私の写生姿が載っている。(2011月12月)
本ブログの次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3048

40ページ  太田尾のあこう F6(2012)・ビニールハウス(飯香の浦) F4(2009)
太田尾の海岸にはあこうの防風林がありその長さは200mほど、中でもこのあこうは巨大で石垣塀の石を取り込んで実に堂々としている。10年ほど前に初めてここを訪れたときは、この生命力豊かな姿に心を惹かれて夢中になって描いた。
今回、画文集を出すにあたり、また描きにやって来たが明暗の調子が難しく悪戦苦闘であった。
太田尾の隣の集落である飯香の浦では南向きで暖かそうな谷間にビニールハウスがぎっしりと並んでいる。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1656

49ページ  大立神岩 F10(2008)・野母崎海岸 F6(2009)
長崎半島の先端には権現山があり、その南西側は厳しい断崖になって海に落ち込んでいる。その又先端から100mほどの海中に立っているのがこの岩である。
以前から描きたいと思っていたところで、海岸の岩や砂の上を1時間ほど歩いてようやくたどり着き、風に何度かイーゼルを倒されながら3時間ほど粘った。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1655

68ページ  千々石の秋 F19(2009)・千々石棚田 F3(2008)
千々石にはジオパークに指定されている断層帯の崖が続いているが、この崖の上からの眺めは絵になり、南向きで暖かいので秋から冬にかけた時期にいつも出かけている。そのころには、この大銀杏が色づき、斜面の棚田も収穫の時期で一面黄金に輝く。遠くにはビニールハウスが逆光に光っている。
それから晩秋になると残った稲株からまた芽が出てこれも春のように美しい。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2063

長崎の古写真考 彦馬の世界 153P 飽の浦恵美須神社

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 153P 飽の浦恵美須神社

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 153P 飽の浦恵美須神社 (長崎大学附属図書館蔵)
明治10年(1877)頃撮影。鶏卵紙。対岸側は出島で、これと同じアングルで明治5年(1872)に内田九一が撮影している。写真の左側に飽の浦町の集落、対岸は長崎市街中心部の海岸線である。左側の山は金比羅山・立山である。現在は海岸線は埋め立てられ、写真でのみ当時をうかがうことができる。

目録番号: 5312 飽の浦恵美須神社(6)
〔画像解説〕
明治10年(1876 「1877」が正)頃、長崎の稲佐にあった飽の浦神社(恵美須神社)を撮影したもので、同じアングルで明治5年(1872)天皇巡幸に随行した内田九一が撮影しているが、比べてみるとこの写真では神社横の民家の屋根が壊れている。社屋は消滅しているが神社は現存している。

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
153P「飽の浦恵美須神社」は、内田九一の作品とされる解説を参考に記している。両作品ともこのカメラの方向では、出島や梅香崎までは写らないので、「対岸側は出島」とはならない。
風頭山すらまだ写真の右外だから、対岸は大黒町・五島町・大波止あたりまでであろう。

飽の浦恵美須神社の左右が「飽の浦町」の集落。主な集落は右側。左は当時「瀬の脇」といった。左奥に水の浦、そして大鳥崎、稲佐崎があった。
長崎大学データベースでは、目録番号: 5312「飽の浦恵美須神社(6)」の作品。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2833
丸尾海岸の埋め立て状況と年代、内田九一とされる天皇巡幸の際の作品撮影者は、まだ研究の必要があり、東京の先生など現在、調査中。