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角川書店刊 ”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年ほか

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角川書店刊 ”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年ほか

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。角川書店刊”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年と、熊弘人著”長崎市わが町の歴史散歩(1)東・南部” 新波書房 平成5年の「古道町」。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行102頁ですでに紹介済み。

角川書店 「日本地名大辞典 42長崎県」 昭和62年 867頁

ふるみちまち 古道町 〈長崎市〉
〔近代〕昭和24年〜現在の長崎市の町名。もとは長崎市土井首町の一部。町名のもとになった元来の小字名古道は、鹿尾川の渡り場から北へ字大道(現古道町)の坂を登り山一つ越えた小ヶ倉界の谷間を指し、数軒の農家と水田・畑があったが、現町域は広く鹿尾川以北の山林部を包括する。昭和35年の世帯数10・人口30。昔の古道の谷は南長崎ダイヤランドの造成で埋められた。なお、古道の字名は、江戸期に長崎から野母崎への御崎道が通っていたことによるが、土井首村のコースは字古道から字大道を降りて鹿尾川の渡し場(大山祗神社の北北西150m地点)を渡り、字京太郎からその背後の山を越え、字草住の谷沿いを南下していたという。

(注) 「みさき道」(御崎道)の土井首村コースを記しているが、「渡し場」の表現とも、関寛斎日記や文久元年同村地図などと比べると、特に「字京太郎から背後の山を越え」た部分(現在の草住町杠葉病院分院に回る)は疑問がある。
詳しくは、「地名」等の解釈と特定において説明しているが、今後の考証を待ちたい。

熊弘人著 「長崎市わが町の歴史散歩(1)東・南部」 新波書房 平成5年

古道町(古道町) みさき道               342頁
長崎市十人町から野母崎町脇岬に至る行程七里(27.5キロ)の道をいう。
脇岬は、鎖国時代には中国から長崎に向う唐船の風待港であったことから、長崎の抜荷商人達はみさきの観音寺参りと称して密貿易の利を得るため、このみさき道を利用していた。現在、十人町や新小ヶ倉1丁目に当時の標柱が残っている。
なお、土井首村内のみさき道のコースは、字古道から字大道(磯道町)を降りて鹿尾川の渡し場を渡り、字京太郎から背後の山を越えて草住の谷沿いを南下していたといわれている。

(注) 上記資料などをそのまま引用している。「抜け荷」や「土井首村のコース」については疑問がある。鹿尾川は「渡し場」でなく「渡り場」か。飛び石で渡った。

この項は、本ブログの次の記事を参照。写真が大山祗神社鳥居前、長崎大水害で改修された鹿尾川の川底に残る飛び石跡? 一部は長崎市立土井首中学校の前庭石となっている。
地図は文久元年(1861)「彼杵郡深堀郷図」小ヶ倉・土井首村部分(長崎歴史文化博物館蔵)。
平凡社「日本歴史地理体系43 長崎県の地名」2001年刊 「御崎道」
https://misakimichi.com/archives/29
「古道」という道があったか。また、字「大道」とはどんな意味がありどの位置か
https://misakimichi.com/archives/365
大山祗神社前鹿尾川の奇岩上渡りと京太郎背後の山越えは
https://misakimichi.com/archives/388

山川出版社刊 ”42 長崎県の歴史散歩”の「観音寺」 1989年・2005年

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山川出版社刊 ”42 長崎県の歴史散歩”の「観音寺」 1989年・2005年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。山川出版社刊 ”42 長崎県の歴史散歩”の「観音寺」 1989年と2005年版。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行102〜103頁、第2集平成18年4月発行25〜26頁ですでに紹介済み。

新全国歴史散歩シリーズ42「長崎県の歴史散歩」 1989年 71〜72頁
長崎県高等学校教育研究会社会科部会編  山川出版社

みさきの観音禅寺  ■西彼杵郡野母崎町脇岬 JR長崎駅バス脇岬行観音寺入口下車3分
長崎半島の南端に野母崎町がある。その最南端にある権現山(198m)は陸繋島で四方が一望できるので、1638(寛永15)年遠見番所が置かれて、外国船の来航を長崎奉行所に通報した。
東海岸にまわると、弁天島へと陸繋砂州が伸びる脇岬である。その北方の殿隠山の山すそに、709(和銅2)年行基菩薩の開基という観音禅寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、ヒノキ一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。“みさきの観音”と呼ばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者も多く、その道を「みさきみち」と呼んだ。長崎市十人町の活水女子短大への登り口に「みさきみち」と刻まれた標石があり、ここから道は八郎岳(590m)の中腹を南下して観音禅寺に至る。その途中三和町の徳道集落には「長崎より五里、御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎にむかう唐船が風待ちのため寄港したことも多く、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。長崎の抜荷商人は観音寺詣りと称して、密貿易の利を求めてみさきみちを利用したといわれる。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女名も多く、観音堂内陣の150枚の天井板絵(県文化)は船津町(現在の恵美須町)の商人が奉納したもので、1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一家や出島絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人の目をみはらせるとともに、当時の抜荷商人の豪勢さをしのばせている。

(注) 「殿隠山の山すそ」は「遠見山(259m)の山すそ」、「みさきみち」は刻面のとおり「みさき道」、「八郎岳(590m)の中腹を南下して」は「八郎岳(590m)のふもとと半島の山を南下して」の表現がよいと思われる。
密貿易は確かに多かったが、通常は長崎から遠く離れた海域で「船」によって行われ、「みさき道」がどのように利用されたかはっきりしない。「長崎犯科帳」も数例しかない。唐貿易の主な輸出品となった海産物の調達のため、この道が利用されたのではないか。
天井板絵を含め、寺への寄進者が「抜荷商人」のようであり、記述は再考願えればと思う。

歴史散歩(42) 「長崎県の歴史散歩」 2005年  66〜68頁
長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史文科会編  山川出版社

⑦ 旧炭鉱の島々を望む長崎半島の史跡
観 音 寺(37)   国重文の千手観音立像を安置 行基伝承を付帯
095-893-0844  長崎市野母町脇岬 JR長崎本線長崎駅 バス脇岬行観音寺入口 徒歩3分
長崎半島の南端に野母崎町がある。東海岸へまわると、弁天島へと陸繋砂洲がのびる脇岬である。その北方の殿隠山の山裾に、709(和銅2)年行基の開基という観音寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、檜一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。「みさきの観音」とよばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者も多く、その道を「みさきみち」とよんだ。十人町から活水女子大学へのぼる上り口に、「みさきみち」ときざまれた標石があり、ここから道は八郎岳(590m)の中腹を南下して観音禅寺に至る。その途中、三和町の徳道集落には、「長崎より五里 御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎に向かう唐船が風待ちのため多く寄港し、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。長崎の商人のなかには観音寺詣りと称して、抜荷(密貿易)の利を求めて、みさきみちを利用したものもいたといわれる。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女の名も多くみえる。観音堂内陣の150枚の天井絵(県文化)は、船津町(現、長崎市恵美須町)の商人が奉納したものである。1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一族や絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人びとの目をみはらせるとともに、当時の長崎商人の豪勢さをしのばせる。
また樺島には、国の天然記念物に指定されているオオウナギの生息地もあり、体長2mにもなるオオウナギが樺島の共同井戸に古くから住みついている。

権現山展望公園(38) 長崎半島の先端 異国船来航を奉行所へ通報
長崎市野母町野母 JR長崎本線長崎駅 バス野母崎方面行野母 車10分
野母半島県立公園の先端にある権現山(198m)頂上の展望台は、日本本土の最西端にあたり、四方に天草・雲仙、五島灘、高島や香焼、長崎方面、遠くは鹿児島県甑島を一望することもできる。古来,名僧の登山が多かったともいわれているが、1638(寛永15)年遠見番所が設置されて、外国船の来航を発見すると注進船で長崎奉行所へ通報された。
この注進方法をさらに迅速化するため1688(元禄元)年、信号による連絡方法が採用され、小瀬戸や梅香崎、観音寺に番所が設けられ、幕府の異国船警備の一役をになってきた。その後、明治・大正・昭和各時代をつうじて日本海軍の望楼がおかれ、第二次世界大戦当時は、電探基地・高射陣地が設置された。終戦後はアメリカ軍のレーダー基地となり接収されていたが、現在はバーゴラや椿公園、まごころの鐘などの施設の整った公園になっている。

(注) 先の研究レポート資料11刊行本の新版である。2005年6月改定発行されたのを知らず、1989年旧版を紹介していた。字句は一部修正されているが、まだ全体にやや正確さを欠く箇所が感じられる。当時の唐貿易の状況は別資料で紹介してみた。

江上忍氏県議会だより掲載記事 「みさき道」 平成15〜17年

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江上忍氏県議会だより掲載記事 「みさき道」 平成15〜17年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。江上忍氏県議会だより掲載記事「みさき道」平成15年〜平成17年。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行153〜154頁ですでに紹介済み。

其の2の「観音参り」は三和町郷土誌850頁、為石の「オカンノン様参り」は852頁にある。これら近郊の行事で「山道を通った」という記述は重要であるが、どのコースを通ったまでは詳細がない。推定できるのは、明治18年「西彼杵郡村誌」にあった「脇岬村路」である。
今回の調査は、野母崎町関係もわからないことが多く協力を依頼した。江上先生もそのひとりである。やはり地元は別の視点があり、たいへん参考となった。川原方面から脇岬に至る半島東回りのコースも多く利用されたようである。川原で明治のその道塚まで見つかった。

しかし今回の調査は、関寛斎の歩いたルートを通し、文久元年のみさき道(御崎道)の本道がどこか、文献・街道図・道塚で考えなければならないので、ご了承をお願いしたい。
特に其の1において、みさき道の本道が「今のゴルフ場から殿隠山、遠見山、堂山を経て」観音寺に至るとする点は疑問が多く、これまで指摘している。

江上忍氏県議会だより掲載記事 「みさき道」 平成15年〜平成17年

「みさき道 其の1」    第1号補足版 平成15年発行
長崎から御崎の観音様に通ずる山道は、「みさき道」と呼ばれています。天明八年(1788)長崎を訪れた江戸の画家司馬江漢の「西遊日記」に長崎の人に誘われて観音詣でをしたことが次のように書かれています。「十二日天気にて朝早く御崎観音へ皆々参ルとて、吾も行ンとて爰より七里ノ路ナリ。(中略)皆路山坂ニして平地なし、西南をむいて行ク。右は五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり。二里半余、山の上を通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。」
又寛政六年(1794)に刊行された「西遊旅譚」には、「(前略)向所比国無、日本の絶地なり。脇津人家百軒余、此辺琉球芋を食とす。風土暖地にして雪不降。」とあります。
長崎の十人町からスタートとして、新戸町、小ヶ倉、深堀、蚊焼峠(秋葉山)、今のゴルフ場から殿隠山、遠見山、堂山を経て観音寺に至る七里の道です。観音寺の上のお堂に上かる石段の右下に、このみさき道の道標五十本を寄付したことを示す石柱があり、「道塚五拾本、今魚町、天明四年」などと刻してあります。
十人町二丁目から右折して石段を昇って自治会掲示板そばに第一号があり、今は読めませんが、「みさき道」と書かれていたといいます。このほか上戸町山中や小が倉二丁目の旧道など六ヵ所が確認されています。高浜山中の自転車道には「長崎ヨリ五里御崎ヨリ二里」とあり、「文政七年申十二月今魚町」と読めます。嶮しい山中に重い道標を五十本も設置した「みさき道」は昔の人にどのように利用されていたのか。国道四九九号と重ね合わせて議会だよりの編集後記の標題とした次第です。(略)

「みさき道 其の2」    第2号 平成16年4月23日発行
前回の県議会だよりにみさき道のことを書きました。長崎から御崎の観音様に通ずる山道のことです。長崎の十人町から二本松、上戸町、新戸町を経て、いったんは鹿尾川に突きあたって磯道にくだり、土井首、深堀、大籠から晴海台と平山台の間を通り、国道499号の晴海台入口道路のちょっと栄上寄りの所に出ます。あとは秋葉山、ゴルフ場、殿隠山、遠見山、堂山と全て尾根道です。途中蚊焼から黒浜、以下宿を通って徳道で尾根道に合流するコースと徳道から高浜、古里を通って堂山峠に至るコースもあったようです。今でいうバイパスだったのでしょう。
寛永15年(1638)老中松平伊豆守が日野山(今の権現山展望公園)に遠見番所を設置して、遠見番十人が長崎から交代で勤務するようになって、みさき道は軍用道路としても重要になってきました。十人町という町名は、遠見番十人の役宅があったことから名づけられたものです。
寛政6年(1794)に刊行された江戸の画家司馬江漢の「西遊旅譚」に「長崎より七里西南乃方、脇津と云所あり。戸町深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏て行事二里半余、山乃頂人家なし。右の方遥に五島見是ヨリ四十八里。左の方天草島、又島原、肥後の国見て、向所比国無、日本の絶地なり。」とあります。最果ての地に50本もの道標を建て、京や江戸の文人墨客まで足を運んだ「みさき道」とはなんだったのでしょう。
三和町郷土誌の年中行事の欄に「脇岬参り」として、「元日の午前中、漁師の男衆はフンドシ裸姿の素足で、船名旗や大漁旗をたてた漁船で脇岬の観音様へ参詣する。脇岬の観音様は古くは肥御崎寺(ひのみさきてら)と記されて由緒のある名山であった。—中略—なお、女性は1月17日に観音様参りをする。」とあります。また為石では毎月17日「オカンノン様参り」をしたとの記録もあります。観音様の話はあとに譲り、みさき道の話を続けます。
なぜ山の上を通ったのかといえば、海岸は絶壁で通れないところが多かったからでしょう。市民病院や湊公園辺りは海で、浪の平や小曽根辺りも絶壁で戸町まで行くのも山越えでした。おかしなことに、「みさき道」を地元の人は知りません。「みさき道」は、長崎や深堀、三和町などの人たちが御崎の観音様にお詣りするための道で、地元の人が長崎に行くための道ではなかったのです。地元の人が長崎に行くには、高浜、岳路を通って蚊焼に出るか、木場、川原を通って為石に出る方が楽なのです。
文久元年の4月に、御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生関寛斎は、尾根道から高浜に下り、古里、堂山コースを通ったようで、「下りて高浜に至る、此の処漁場なり、水際の奇岩上を通る凡そ二十丁、此の処より三崎まで一里なりと即ち堂山峠なり、此峠此道路中第一の嶮なり、脚労し炎熱蒸すが如く困苦云ふべからず、下りて直に観音堂あり。」と書いています。尾根道を通って堂山に下るのは易いが、堂山峠を登るのは古里側からも脇岬側からも難所だったのです。
三和町郷土誌には、18ページにわたって「みさき道」のことが詳しくし紹介されているのに、野母崎町の郷土誌にはなにひとつ載っていません。さきの関寛斎についても年表の中に「文久元年4月3日長崎遊学中の関寛斎(のちに医者)、長崎—戸町—加能(鹿尾)峠—小ヶ倉—深堀—八幡山峠—蚊焼峠—長人—高浜—堂山峠—観音寺のコースで歩く。」とあります。「みさき道」の文字はありません。

「これより観音道山道十丁 みさき道(其の3)」  第3号 平成17年4月28日発行
長崎から御崎の観音様へお詣りする人たちは、物見遊山を兼ねて尾根道を歩いたようです。この「みさき道」のほかに海路がありました。野母と脇岬を結ぶ国道脇に「従是観音道山道十丁」と書かれた石柱があります(「従是」は「これより」と読みます。)。野母の港からこの道標のところまでは、畑道や砂浜を通れますがそれから先は切り立った岩盤が海に突き出ており通れませんでした。仕方なく山道に入り、わずか1キロぐらいで海水浴場の近くに出ます。
この石柱には、「元禄十丁丑九月吉日願主敬建」とも書かれており、みさき道に今魚町によって建立された五十本の標柱とは、年代も百年ほど古く、今から三百年ほど前のものです。
長崎野母間の定期船は明治16年に三山汽船(本社時津港)により、一日二便が運航されていますが、それ以前にもなんらかの船便があったようです。長崎遊学中の医学生関寛斎は、文久元年(1861)4月3日みさき道を歩いて観音寺を訪れた翌日、野母に行き、「船場に至り問ふに北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、」と記しています。
漂白の俳人山頭火も、昭和七年二月七日に観音寺を訪れていますが海路だったようです。その前に滞在した長崎の俳友宅は、大浦の酒屋さんで、酒好きの山頭火にとっては、どんなにありがたかったのではないでしょうか。「人のなさけが身にしみる 火鉢をなでる」という句を残しています。「まえにうしろに海の見える 草に寝そべる」は、脇岬の砂丘での句です。

写真は、脇岬海岸にある「従是観音道」「山道十丁」の道塚。本ブログの次を参照。
https://misakimichi.com/archives/97

野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」 平成14年

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野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」 平成14年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」平成14年の27〜29頁。野母崎町のうつりかわりをしらべよう「みさき道をももっとくわしくしらべよう」。野母崎町は旧町名。

みさき道をももっとくわしくしらべよう (29頁部分)                
きみたちは、脇岬にある観音寺を知っていますか。このお寺は、たいへん歴史のあるお寺で、長崎からたくさんの人がおまいりにきていました。
朝まだ暗いうちに長崎を出発し、今の戸町、深堀町、蚊焼町へと進むころには、日もすっかりのぼって、そのあたりのとうげで一休みしたそうです。天気のいい日には、伊王島や高島まで見わたせたそうです。
しかしそこからがたいへんで、秋葉山の頂上まで一気にきつい坂道を上ったそうです。そこからは、山の尾根を歩き、殿隠山、堂山峠、遠見山、観音寺へと歩きつづけました。観音寺でお昼ご飯を食べ、長崎にもどると、もう夜になってしまった、ということです。…

この資料は、本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行155〜157頁ですでに紹介済み。
同資料は野母崎町の小学3,4年生の社会科学習の副読本だった。たまたま脇岬公民館にあって目にした。今回の調査による文献史料や道塚からすると、「みさき道」は基本的に、高浜に下り古里から堂山峠を越えて、観音寺に行くコースと思われる。
「野母道」でもあるので、高浜・古里を通らないと、地元には遠回りとなろう。

教材が根拠としているのは、同27、28頁にあるとおり「二人は町民センターで、とても古いむかしの地図を見つけました。このふしぎな地図について話をしていると、係の人が話をしてくれました。…また昔の人が通っていた「みさき道」がかかれています…」から続く。
古い地図とは、元禄14年(1701)「肥前全図」(長崎半島部分)。長崎歴史文化博物館蔵。この図は、正保4年(1647)「肥前一国絵図」とともに、昭和61年「野母崎町郷土誌」の巻頭頁にある。研究レポートでは1集5頁。

この図を後ろに再掲した。図中の陸部の赤細線が道を示している。黒太線は当時の彼杵郡と高来郡の郡界であろう。殿隠山、遠見山の尾根に、赤細線の街道の道は通っていない。「みさき道」自体まだ不明? 正保4年(1647)「肥前一国絵図」も参考のため。赤二重線は村界。
郡界の黒太線などを「みさき道」と見誤った考察を、野母崎町教育委員会がしたものと思われる。長崎市中から脇岬観音寺まで1日で往復するのも、特別に頑強な人しか考えられない。

「みさき道」がまだ教材となっているなら、県立高校生用の山川出版社刊「長崎県の歴史散歩」と同じく、記述は再考願えればと思う。

長崎市 広報ながさき掲載記事「みさき道」 平成17年3・4月号

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長崎市 広報ながさき掲載記事「みさき道」 平成17年3・4月号

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎市 広報ながさき掲載記事「みさき道」。平成17年3月号 ながさき自由研究所 其の五十七「みさき道」と、平成17年4月号 其の五十八「続・みさき道」。ズーム拡大。

この資料は、本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行168〜169頁ですでに紹介済み。
同資料の「みさき道ルート図」。点線で示している道は、疑問が多い。土井首から深堀までは江川経由。深堀から大籠までは「女の坂」を通る。または平山経由。徳道里程道塚からは殿隠山・遠見山は通らない。高浜へ下り堂山峠を越す。

各所に残る12本の道塚や、長崎医学伝習所生「関 覚斎日記」など各史料・古地図類から、これが江戸時代盛んだった「みさき観音参り」の、一般的な正しい道と思われる。
それをはっきり説明したうえで、現在、歩ける道としてこのルート図を掲げてもらわないと、誤解を生みかねない。自由研究はかまわないが、「広報ながさき」などの記事とするなら、今後とも正しい調査研究と報道をお願いしたい。

時津街道の滑石にある道案内標石その後

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時津街道の滑石にある道案内標石その後

時津街道の滑石にある道案内標石については、2007年7月記事で、次の2本を載せていた。
https://misakimichi.com/archives/87

平宗橋際の標石  18cm角、高さ60cm。
「+西浦上村字平宗」「明治三十三年九月」「長與→」「→長崎」

滑石入口の標石  18cm角、高さ40cm。埋設のため( )は推定
「+(西浦上村字横道)」「明治三(十三年九月)」「←長(崎) 時(津)→」「三重」

平宗橋際の標石は、現在もそのまま同地にあるが、道の尾駅までの市道は拡幅され付け変わっている。平宗橋の道は、車はもう通らないようになった。
滑石入口の標石も、滑石公民館前付近が現在、交通渋滞緩和のため「滑石町(横道工区)街路改築工事」が、広範囲に施工されている。
きのう通りかかった。滑石入口の標石が、工事でどうなるか気になり、確認してきた。歩道部分の街路工事にもかからず健在だった。

この標石は、滑石公民館前から右手の三叉路の方へ少し行くと、理容大石駐車場角にある。長崎新聞道ノ尾・滑石販売センターが対面。ここが昔の時津街道や明治県道の重要な分岐点だった。それを示す貴重な道標である。
以前は下部が埋設されていたが、いつの間にか台石の上に立ち、地上に姿を見せたものに建て変わっていた。4面の刻字がほぼわかった。刻面は次のとおり。
最初の写真が、以前に下部が埋設し3面も判読できなかったときの標石の姿。

滑石入口の標石  18cm角、高さ50cm。。( )部分は欠落のため推定。
「+ 西浦上村字(横道)」「明治三十三年九月」「←長(崎) 時(津)→」「←三重 瀬戸」

潜伏キリシタン墓碑群が発見される  長崎市多以良町

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潜伏キリシタン墓碑群が発見される 長崎市多以良町

2012年1月20日付朝日新聞長崎地域版の記事は、次のとおり。12月23日同研究会が現地説明会を行っており、長崎新聞・西日本新聞などは、昨年24日既報済み。

多以良町垣内の現地は、県道28号により滑石トンネルから畝刈へ下る。満寿美新館先の右側にサンコー石油ガソリンスタンドがある。このすぐ上の林内に墓地があるので、手前の手すり石段から上がり、左へ行く。上部は地区の新しい墓地となっている。

潜伏キリシタン墓 64基            2012年01月20日 朝日新聞
◇長崎・多以良で確認 佐賀藩飛び地 弾圧なく?

江戸時代初期から幕末にかけて造られたとみられる潜伏キリシタンの墓が64基、長崎市多以良町の垣内地区に残っていることを、外海キリシタン研究会(会長=大石一久・長崎歴史文化博物館研究グループリーダー)が確認した。一帯が佐賀藩の飛び地だったことから、弾圧を免れた可能性があるという。

墓は急斜面の山肌を削った約120平方メートルの平地に、長方形の石を地面に伏せて並べた「長墓(ながばか)」が40〜50センチの等間隔で並んでいた。
最大のものは縦約1.8メートル、横約1メートル。墓の一つには、十字架を意識したと考えられる一本柱の石柱が脇に立ててあるなど、江戸時代初期のキリシタン墓の特徴があるという。

2年ほど前、長崎歴史文化博物館が所蔵する文久2(1862)年の絵地図に「ハカ」と記されているのを見つけ、調査を始めた。絵地図と現在の地図を照らし合わせて調べたところ、同じ場所に同じ広さの墓があるのを突き止めた。
江戸時代の垣内地区は佐賀藩深堀領の飛び地で、周囲はすべて大村藩領だった。大石さんは「大村藩は長墓をキリシタン墓として徹底的に破壊したが、深堀領には弾圧が及ばず、残った可能性がある。弾圧にも温度差があったのではないか」と推測している。

垣内地区は昭和40年代までキリシタンの信仰組織があったといい、墓地は先祖の墓として今も年2回、地元住民が掃除をして守り継いでいるという。清水紘一・元中央大教授(キリシタン史)は「潜伏キリシタンの墓は破壊し尽くされたと考えられてきたので驚いた。学術的にも貴重だ」と評価している。(江崎憲一)

三和町内地名のルーツ 長い尾根が続く蚊焼の「長一尾」

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三和町内地名のルーツ 長い尾根が続く蚊焼の「長一尾」

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その32 長い尾根が続く蚊焼の「長一尾」。
三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.243(平成14年8月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

字図は、三和町平成7年12月修正「三和町全図」から。関覚斎日記で「長人」とあるのは、現在の字名で「永一尾」である。普通は蚊焼峠から徳道に至る山林地帯を指す。字名の如く長い平らな一つの尾根で高低はあまりない。約3.5kmの稜線の道である。
蚊焼から鯨浜へ行く波戸峠や、山の反対側、徳道のサイクリング道路高所あたりからここを望むと、地形の特徴がよくわかる。永一尾の西側は三和町と野母崎町の町境であった。町境の稜線沿いに「みさき道」は南のピーク(石コロバカシ=黒岳)の方に向かう。

三和町内地名のルーツ その32 長い尾根が続く蚊焼の「長一尾」  浦里宇喜男

蚊焼本村から南に位置し、海抜100mから200mの広々とした山林地帯、ここが「長一尾」である。読んで字の如く、川原の秋葉山から、野母崎町高浜境まで、長い尾根が続いている。この尾根道が、11月24日、本町で開催された、長崎県地方史研究大会で、本町の史談会長、中島勇先生の講演テーマ、「観音信仰とみさき道」として、とり上げられたのである。ここで、三和町郷土誌での「長一尾」「みさき道」を繙いてみよう。(以下郷土誌より)

川原道をしばらく進むと焼却場に出るが、「御崎道」はこの焼却場の少し手前から山道にかかる。ここは「長一尾」と呼ばれ、秋葉山の頂上近くまで一気に上るのである。そして上りつめたところに郷路八幡が祀られている。平家の主従5名ばかりが、ここで果てたと伝えられており、元の墓も近くの林の中に残っている。

長崎医学伝習所生、関寛斎も「蚊焼島(日記原文から「峠」が正)の上三十丁(約三粁)ばかりを“長人”といふ、此の処東西狭くして直ちに左右をみる、東は天草、島原あたり、その中間より肥後を見る」と記述しているように、上るまでは大変であるが、いったん上ってしまうと、上は平坦な道を稜線に沿って進むので、寛斎の言うように、”東西狭くして左右を見る”という感じであろう。(以下省略)

また、この「長一尾」は旧深堀藩であった蚊焼村と、長崎代官支配の川原村との境界であり、その境界とり決めの古文書には次のように記してある。
今度、公儀より絵図の儀、仰下され候は、境目相改め候覚、一、かやき村、かわら村境の事、右のはしの川内(橋河内)河境より長ひとお(長一尾)山谷境大通より高浜境迄みなふわけ(稜線〔みのう〕わけ)なり。(以下略)

先日、秋葉神社お詣りの帰途、この長一尾のみさき道を歩いてみた。最近、長崎の某山岳会の好意で案内標識も整備されており、中高年の山歩きには最適のコースと感じた次第である。

この稿は本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行152頁ですでに紹介済み。本ブログでも2007年7月27日記事に転載していたが、ルーツ全体をまとめたため、改めて再掲した、
https://misakimichi.com/archives/136

毎日新聞「私家版・ながさき遺産」を考える 長崎市のレンガ造アーチ式石橋

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毎日新聞「私家版・ながさき遺産」を考える 長崎市のレンガ造アーチ式石橋

教会群や産業遺産群で「世界遺産」登録を目指す長崎。けれど暮らしの周囲を見渡せば、未来に残したいものはそこここにいっぱい潜んでいる…と、毎日新聞長崎地方版の正月紙面から、シリーズ企画「私家版・ながさき遺産」がはじまった。
まだ記者の観点によるものが多いが、2012年1月13日付は次のとおり、「7 長崎市の「裏眼鏡橋」 商売繁盛の願“懸け”」であった、

銀屋町の「ししとき川」には、元眼鏡店シンボルとしか言えないこの通称「裏眼鏡橋」(写真1)から、20mも離れないすぐ上流の銀屋町公民館角にあるレンガ造アーチ式石橋「稲荷橋」?(写真2)の存在に気付かなかったのか、「えごばた」の説明もない。
https://misakimichi.com/archives/810
明治21年刊行の長崎年表によると、中島川石橋群に対応する「鍛冶屋町裏の屠鹿川に架った七つの小さな橋があり」、昔は一目におさまったのではないかと、「長崎手帖」編集者故田栗杢作氏がNo.13で「茶のみ話」に記している。

一 目 七 橋
これは橋好きの私に、岩永さんがわざわざ明治二十一年刊行の長崎年表を見せて下さったものです。昔は編笠橋附近から川下の眼鏡橋の方を眺める石橋風景を「一目七橋」と言ったらしいので、見せて貰った年表の鍛冶屋町裏の屠鹿川に架った七つの小さな橋も、昔は一目におさまったのではないかと思って、表題を借りました。
屠鹿川に架った橋は、その名はおろか姿すら薄くなっていますが、七橋とも鍛冶屋町に架って、上流から言いますと、磨屋町のは屠鹿(とろく)橋、銀屋町のが稲荷橋、東古川町のは川添橋、本古川町のは鍛冶橋、榎津町の孕(はらみ)橋、萬屋町のは斜(ななめ)橋、アーケードの下の東浜町から架っているのは浜口橋です。(西古川町 金物店 岩永関夫氏)

桜町・栄町の「地獄川」にも、同じようなレンガ造アーチ式石橋が2橋(写真3,4)現存し、本ブログ記事にしている。 https://misakimichi.com/archives/787
長崎大学病院の近辺にも、小さなレンガ造アーチ式石橋が2橋(写真5,6)残る。貴重な被爆遺構と思われる。 https://misakimichi.com/archives/613
特に前記の3橋は、毎日新聞長崎支局(魚の町)のすぐ近く。現地を訪ね地元の記憶を聞き、市橋梁台帳等で架橋いきさつ、年代などを、ぜひ解明してほしい。
「私家版・ながさき遺産」の企画は、読者があまり知らない、もう少し長崎の深い歴史を感じさせる内容の記事にお願いしたい。本ブログは外にも、長崎の珍しい遺産の情報を多く載せている。

私家版・ながさき遺産:/7 長崎市の「裏眼鏡橋」 商売繁盛の願“懸け” /長崎

日本最古のアーチ形石橋として、長崎を代表する観光スポットに数えられる国重要文化財「眼鏡橋」(長崎市)。橋が架かる中島川から約200メートルの距離に、もう一つの眼鏡橋がある。

通称「裏眼鏡橋」。同市鍛冶屋町から繁華街へ続く静かな路地を歩くと、大きな眼鏡が突然視界に入ってくる。“本家”はアーチ形の橋脚が川面に反射して円を描くが、“裏”は橋の欄干そのものが眼鏡の形。うっすら赤色を帯びていて、色あせたそのフレームは長い年月を感じさせる。それもそのはず。以前この場所で開業していた眼鏡店「コクラヤ2号店」の名残りで、同店の元代表・高浪藤夫さん(79)が約40年前、店の裏手を流れる「ししとき川」に架けたものだ。

「ただでさえ静かな路地。店の目印になるように、商売繁盛の願いを込めました」と懐かしそうに話す高浪さん。長さ約1・5メートル、幅約1メートルの眼鏡ができると裏口にもかかわらず、多くの人が橋を渡って来店したという。10年ほどでコクラヤが同市万屋町に移転すると、後には仏具店が入店。82(昭和57)年に起きた長崎大水害では、本家を一部崩壊させた水の威力にも耐え抜いて無事だった。

テレビやインターネットでも紹介され、カメラを手に訪れる観光客も少なくない。今、店の裏口として使われることはなくなったが、市内に5店舗を構えるコクラヤで働く人々の隠れたパワースポットにもなっている。
「400年以上の歴史がある本家・眼鏡橋に負けないように、これからも頑張らんば」。小川に「架けた」眼鏡に、商売繁盛を「懸けた」高浪さん。長崎を代表する地元企業の原点遺産は、御利益満点。あなたも願を「かけて」みる?【梅田啓祐】