練習用」タグアーカイブ

岩屋山から十郎岳へ 2012年1月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

岩屋山から十郎岳へ 2012年1月

2012年1月15日(日)くもり。九州自然歩道により岩屋山(標高475.2m)に登り十郎岳(標高248m)へ縦走。参加17人。みさき道歩会の例会。
下大橋公園9:30発ー油木−九州自然歩道—岩屋山11:40着 昼食 12:15発)—十郎岳13:30着—かきどまり総合運動公園14:00着(徒歩距離 約7km)

新春「みさき道」初歩きに続き、新年初めての本格的な山登り。水仙ウォークや七高山めぐりを避け、市北部の山「岩屋山」とした。
「岩屋山」は七高山の一つ「愛宕山」の代わりに登ってよいとされる。私は、かきどまり総合公園へ車を置きに行ったため、小江原から登り岩屋山頂で落ち合った。
3枚目の写真は、山頂への石段登りにかかる所にある大正14年「福田村西浦上村境石」と刻んだ珍しい石。写りが悪かった。 https://misakimichi.com/archives/132

岩屋山頂で昼食。相変わらず登山者が多い。くもりのため山頂からの展望は、きょうもすっきりしない。午後は、かきどまり総合運動公園上の十郎岳へ縦走。絶壁の十郎岳は初めての人もおり、眼下の手熊・柿泊などの景色を楽しんでもらった。
岩屋山頂近くを除き、全体になだらかな植林地内の登山道が続く。歩きやすいコースである。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29148809.html
パノラマのすばらしい写真がある。

三和町内地名のルーツ 蚊焼と川原の最短の街道「川原道」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

三和町内地名のルーツ 蚊焼と川原の最短の街道「川原道」

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その28 蚊焼と川原の最短の街道「川原道」。
三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.239(平成14年4月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

字図は、三和町平成7年12月修正「三和町全図」から。本稿は蚊焼と川原を結んでいた「川原道」。長崎県立図書館所蔵「西彼杵郡村誌」明治18年(三和町郷土誌1054頁に転載あり)によると、「河原村」の項に「蚊焼村路 三等村ノ東北字宮田ナル高浜村路ヨリ分レ西北行シテ蚊焼村界(峠)ニ至ル長サ十五町巾一間」とある。蚊焼村には特に記されていない。
「みさき道」に関係する野母崎ゴルフ場内の地蔵墓石に刻まれた「川原道」は、高浜と川原を結んでいた街道(河原村からは「高浜村路」)のことである。

三和町内地名のルーツ その28 蚊焼と川原の最短の街道「川原道」  浦里宇喜男

蚊焼の南東丘陵地帯に「川原道」なる字名がある。為石地区の「橋山」、川原地区の「東橋山」に接し、旧村時代は村境をなしていた。町の環境センターは、「東橋山」に位置している。
さて、何故「川原道」なのであろうか。冒頭申し上げましたように、蚊焼と川原の最短の道が、この地を通っているからであろう。

ご案内のように、70年前の昭和初期、町内には現在の国道、県道は極一部しか開通しておらず、筆者の記憶では、現在の国道499号線が、県道として、布巻を通り蚊焼に通じていたようである。特に川原地区から長崎市に行くには、為石を通り現在の役場庁舎横を通って、蚊焼海岸から野母汽船を利用するのが、一般的な交通手段であった。
特に、川原地区の上揚、橋川(現上川地区)は、為石を経由することなく、この「川原道」を利用するのが直線的であり、また、経済的でもあった。

過日、この「川原道」に残っている旧街道を訪ねてみた。現在の町道蚊焼川原道線、また、環境センター敷地で中断されてはいるが、雑木林の中にその小径がある。そして、この街道の一番の高処と思われるところにお地蔵さんを発見した。像の正面は「南無菩薩」とあり、両側面に、願主、河原村、(氏名不詳)。建立が天保五年(1834)午十月となっている。

余談になりますが、面白いのは、街道とお地蔵さんの関係である。過る3月3日、深堀町の県営住宅団地から、竿の浦に通じる「殿様道」を歩いてみた。距離にして3km足らずの小径であるが、直線的なコースのため、山越えとなっている。この間、なんと、3体のお地蔵さんにお会いした。鎮座の場所も街道の難所と思われるところ、また、人里に遠いところにあり、旅人とお地蔵さんの関係を思い知らされた次第である。

この稿は本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行152頁ですでに紹介済み。「川原道」については、三和町「さんわの足跡」平成16年発行の10頁「渡海船による行商」に思い出の記録がある。「主に里道(川原道)を通った」
最後の写真は、「みさき道」の蚊焼峠入口。「川原道」の一部でもある。なお地蔵は、「橋山」高処のは、地形変りヤブ道で未確認。「竿の浦」のは現ナフコ背後の谷道に現存している。

三和町内地名のルーツ 長崎半島の大往還だった「東大道」「西大道」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

三和町内地名のルーツ 長崎半島の大往還だった「東大道」「西大道」

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その9 長崎半島の大往還だった「東大道」「西大道」。
三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.220(平成12年9月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

字図は、三和町平成7年12月修正「三和町全図」から。晴海台団地上あたりの地域が字「東大道」「西大道」である。平凡社「長崎県の地名 日本歴史地名体系43」58頁の「御崎道(みさき道)」の説明によると「正保2年(1645)長崎代官末次平蔵のもとで国絵図作製のために村境が定められるが、「野母道」「大道」などするのが(「御書其外書抜」菩提寺文書)、当道に相当する」とある。

三和町内地名のルーツ その9
長崎半島の大往還だった「東大道」「西大道」  浦里宇喜男

蚊焼松尾の東側丘陵地に、「東大道」「西大道」なる字名がある。現在、この地を町道松原線(建設当時は大道松原線、昭和40年完工)が通っている。晴海台進入路から分岐して鶴南養護学校、開成学園の西側を通り長崎市の平山台団地に通じている。最近では「学園通り」なる呼び方もあるとか。また、国道499号線のラッシュを避けての香焼町への通勤者にも利用されているようである。

さて、大道なる地名の由来は何であろうか。中世城郭の研究者で、古代山城研究会荒濱茂先生の言によれば、鶴南養護学校の南側一帯の東大道、西大道、東井田は、深堀藩の居城であったろうとのことで、俵石城の支城(城砦)ではないかと言う。過日(7月13日)荒濱先生の案内で現地を踏査したが、雑木林の中に、砦の犬走りと称する石垣が原型に近い姿で残っており、その感を深くした次第である。その当時から、西大道、東大道と呼んでいたのであろうか。

「御崎街道(みさき道)」も、この地域を通過しており、脇岬の観音詣でや長崎港外停泊の唐船との交易関係者も、ここを通行したのである。
また、明治35〜6年頃までは為石、川原の小学校には、高等科がなく、更に進学するには深堀小学校の高等科に行く以外にはなく、この道を通学したとのことである。

中世の築城の時代から、現代まで「東大道 西大道」は字名の示すとおり、長崎半島の大往還であった。そしてご案内のとおり、この地域から眺める落日の景観は実にすばらしく往来の旅人は、腰をおろして一息いれたことでおろう。
「東大道 西大道」「御崎街道」「大道松原線」「町道松原線」「学園通り」。さて、21世紀の次の名は。 

この稿は本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行151頁ですでに紹介済み。同「みさき道」のコースに関する素朴な疑問と考察の68〜70頁において、私たちの考え方を記している。本ブログでは、次の記事となるので参照。
https://misakimichi.com/archives/430
https://misakimichi.com/archives/431

三和町内地名のルーツ 夜盗、追剥が出没した?「石コロバカシ」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

三和町内地名のルーツ 夜盗、追剥が出没した?「石コロバカシ」

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その8 夜盗、追剥が出没した?「石コロバカシ」。
三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.219(平成12年8月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

標高243.6mの「石コロバカシ山」は、黒浜の背後にあり目立つ山。私たちは便宜上「黒岳」と呼んでいる。「みさき道」は、東側斜面の山腹を行き、サイクリング道路に出る。徳道の里程道塚があるすぐ手前付近の山である。
字図は、三和町平成7年12月修正「三和町全図」から。写真は現在の「黒岳」山頂。三角点と陸軍省「長崎要塞区域標 第七号」が残る。

三和町内地名のルーツ その8 夜盗、追剥が出没した?「石コロバカシ」  浦里宇喜男

本町の川原と野母崎黒浜との境界をなす尾根に「石コロバカシ」なる字がある。長崎半島の尾根筋に当たり、山の頂上には国土地理院の三角点があり、243mを示している。この石コロバカシ山の東側斜面の下の方に”みさき道(御崎街道)”が通っている。現在この石コロバカシ山から800m位の所に”みさき道”の道標が残っていて”長崎ヨリ五里”の文字が見える。

さて何故に「石コロバカシ」なのだろうか。地形上から見れば、川原側も黒浜側も急峻で、山の上から小石でも転がすと、周辺の土砂を巻き込んで、土砂煙をあげて一気に斜面をころがり”みさき道”に達するであろう。
ここで一つの仮説を立ててみたい。ここは”みさき道”の要路にあたり、また前述のように危険な場所でもあったろう。

三和町郷土誌等によると、江戸時代当初より、この”みさき道”を通って、野母崎脇岬の観音寺参詣が盛んであったという。またこの時代は、オランダ船、唐船(中国船)も盛んに長崎港に入港しており、最盛期だった元禄時代には、年間200隻近くの唐船が入港していたという。
そして、この貿易船のうち何隻かは長崎港外において、密貿易のようなことをやっていたにちがいない。その場所は長崎半島の先の方ではなかったろうか。この闇取引の関係者は、大金を懐にして、早朝か夜陰にまぎれて、この”みさき道”を急いだであろう。

いつの世も悪は悪として存在しており、夜盗追剥の類が、この大金を懐にした商人たちの動きを見逃すはずはなく、この場所が夜盗追剥にとって絶好の仕事場ではなかったろうか。「石コロバカシ」の急傾斜面を利用して、身を隠しながら”石を転がし、また石を投げて”通行の商人たちを窮地に陥れて懐の大金を襲ったのではなかろうか。
今回の地名考は、少し飛躍した感がありますが、一つの仮説としてお読み頂き、御容赦願いたし。

この稿は本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行151頁ですでに紹介している。「石コロバカシ」などは、同1集、「みさき道」のコースに関する素朴な疑問と考察の
73頁において、私たちは次のとおり記しているので、参考として読んでもらいたい。

9 黒岳とはどこか
この南のピークが「黒岳」である。山頂には標高243.6mの三角点と、明治33年6月の陸軍要塞区域標がある。いつか「黒岳」と聞き黒浜の背後にあるので、何とはなしに納得し今も使っているが、明治18年「西彼杵郡村誌」高浜村の地勢の項に「艮位(北東)ヨリ正南ニ亘リ石転シ二ノ嶽及殿隠等高嶺ヲ負ヒ西北傾イテ低ク海ニ瀕ス」とあり、正しい山の名称は「石転シ」(いしころはし)と思われる。目立つ山で端正な姿であるのに、なぜこんな名前なのか。山頂は村境だが、高浜村も蚊焼村もその字名は当時は表れてない。今の字名で三和町にこの山の西斜面に「石コロバカシ」の字名があった。

10 石コロバカシの字名はなにか
関係資料の浦里氏「三和町内地名のルーツ」は、「石コロバカシ」にふれられているが、定かな内容でない。黒岳は目立つ山で、陸軍要塞区域標があり昔の砦も考えられる。
同じような字名は、茂木田上に「転石」(ころびいし)がある。真鳥氏「地名のルーツを探る 長崎・野母半島」は、茂木「転石」を狩猟に関わりあり、山刀は獣を仕留める武器だけでなく、狩が終ったあと獲物を分配するための尺度として使われた。山刀の幅を物差として「二転ばし」「三転ばし」などと量って獲物の分配を行った。この獲物の分配を行う場所のことを言ったのであろう、とのことである。
しかし、黒岳にいる大型の獣といえば狸しかいない。近くの「熊の岳」の「クマ」は、道や川の折れ曲がっている所或いは奥の引っ込んだ所を言う古語らしい。海で生活するここら辺りに狩猟は考えられない。昔はひょっとすると、現在八郎山系にだけ生息する鹿がここにもいたのか。
推測されるのは、このあたりは最近できた宮崎ダムの源流部である。山が入り組み水が多く湧いて、大雨のとき土砂崩れが起りやすかったのではないか。盗賊の話は、土井首杠葉病院登り口の岩でも聞いた。
「以下宿」も「みさき道」の道中の宿となにか関わりないか調べたが、載っていなかった。

11 徳道の里程を刻んだ道塚はなにか
野母崎徳道の車道三叉路に立つ大型道塚で、「長崎ヨリ五里」「御崎ヨリ二里」とある。古い道塚と思われがちだが、「文政七年(1824)申十一月 今魚町」とある。今魚町系の建立年のある道塚では一番新しく、観音寺の「道塚五拾本」の寄進の約束から40年が経過して立てられた。
なぜここに里程を刻んだ大型道塚が立てられたか。ここはまっすぐに以下宿に下る山道があった地点で、少し手前では黒浜へも分岐する。その道が「みさき道」と交差する。徳道は当時から半島交通の要所であって、字名は「得な道」の意味があるらしい。 

三和町内地名のルーツ 茶屋があった蚊焼の「古茶屋」

イメージ 1

イメージ 2

三和町内地名のルーツ 茶屋があった蚊焼の「古茶屋」

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その5 茶屋があった蚊焼の「古茶屋」。三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.216(平成12年5月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行150頁ですでに紹介済み。この項は本ブログの次を参照。
https://misakimichi.com/archives/367
https://misakimichi.com/archives/368
三和町郷土誌392頁に記す「蚊焼茶屋」や「蚊焼峠」の推定は、実際と場所が違うようである。浦里先生の解説が正しいことを、私も字名や水脈などから確認している。

三和町内地名のルーツ その5 茶屋があった蚊焼の「古茶屋」  浦里宇喜男

国道499号線の蚊焼入口バス停の南側一帯の丘陵地が、字「古茶屋」である。昭和30年頃までは、畑地帯であったが、町道蚊焼川原道線の整備により、現在は住宅団地となっている。蚊焼の東の丘の上のグリーンタウンである。
最近、昔の街道歩きがブームとなっているようですが、この「古茶屋」の地も、御崎道街道(みさき道)の要衝にあたり、岬の観音様参りの人達で賑わったとのことである。

本町の蚊焼地区内にも、2本のみさき道の道標(みちしるべ)が残っており、本町の得道のとなりの野母崎町の西徳道には「長崎ヨリ五里、御崎ヨリ二里」「文政七年申十一月今魚町」の立派な道標が残っている。
三和町郷土誌を繙いてみますと、「観音信仰と御崎街道」の中に次のように記してあります。郷土誌より抜粋=文久元年(1861)4月3日から4日にかけて御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生、関寛斎という人の日記をもとにして往時の御崎街道をたどってみる。

『午下がりは殊に峠道ゆへ炎熱蒸すが如く、汗をもって単物を濡らすに至れり、三十丁許にして、蚊焼峠の「茶屋」に至り、清水に咽をうるをして汗を拭ふ。西北は港内にして、その西岸は遥に絶え、香焼島、マゴメ島、伊王島、高島、遥かに松島の瀬戸見ゆ』とある。以下略。

さて、関寛斎が休んだという「茶屋」はどのあたりであろうか。過日、町道蚊焼川原道線を歩いてみた。新道と旧道の合流点の桑原建設作業所から宝和金属の工場の間が一番眺望もよく、寛斎の日記にもあるように、香焼、伊王島、高島は勿論遠く池島まで望むことができる。グリーンタウンの入り口付近の「草積祠」なる石仏も、これまた西北を望んで建ててある。蚊焼峠の「茶屋」もこの辺にあったのだろうと独り呟きながら峠を越えて帰路に着いた次第である。

三和町内地名のルーツ 徳道は得峠(とくどう)では

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

三和町内地名のルーツ 徳道は得峠(とくどう)では

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その2 「徳道」は「得峠」(とくどう)では。三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.213(平成12年2月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

この資料は本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行149頁ですでに紹介済み。
真鳥喜三郎著「地名のルーツを探る 長崎・野母半島」昭和59年刊60頁の「ア 徳道」に同じ説明がある。それから引用されたのだろう。

三和町内地名のルーツ その2 徳道は得峠(とくどう)では  浦里宇喜男

徳道地区は、三和町の一番の高地(標高150mから200m)にあり、また、峠に位置する集落である。この地の地名は、本町川原から野母崎町高浜に通じる幹線道(旧道)を挟んで、大字川原字徳道と大字宮崎字得道となっている。
ご案内のとおり、この野母半島には昭和初期まで県道もなく、東の天草側と西の五島灘側との交通手段は徒歩以外の何ものもなく、その要路としてはこの徳道の峠越えの道と、現在の役場の庁舎の前を通っていた為石から蚊焼までの幹線道(旧道)の2本の道路だけであった。

大型荷物は海上輸送が主であったが、一般の荷物輸送は、牛の背、人の背以外に方法はなく、少しでも低い峠道を選ぶのは当然のことであった。
それで、徳道なる地名は、「得をする峠」即ち「得峠」からきたものと考えたい。
山越えに便利な峠「とう」が濁音化して「どう」となったものと思われる。また「とく」は損得の「得」の意味であって、遠回りして骨折り損にならない「得」な道から「通行に便利な峠の道」「得峠」「徳道」となったのだろう。

現在、この地は川原地区、宮崎地区、木場地区からの車道が集中しており、野母崎の黒浜、以下宿、高浜に通じている。このように交通の要所となっていることからも、昔からよく利用されていた峠道であったことがわかる。

長崎外の古写真考 目録番号:1770 神戸港全景(1) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1770 神戸港全景(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1770 神戸港全景(1)
[画像解説]
諏訪山からみた神戸全景である。左中央の六角屋根の建物は明治15年に建設された、県議会議事堂である。明治中期の写真である。

[画像解説  超高精細画像]
写真を縦(南北)に走る道路は、諏訪神社の参道に至るので諏訪筋と呼ばれていた。諏訪筋の右手(西側)には、庭園を造成中の小寺泰次郎(こでらやすじろう)の屋敷(現在の相楽園[そうらくえん])があり、その向こうの何棟かの大きな建物は、明治10年(1877)に校名を改称してここに校舎を新築した神戸師範学校。諏訪筋左側の畑の南側一画は、現在は兵庫県公社館、県庁の第2・第3号館があるあたりで、東西の道路に面した左右対称の建物は、明治11年に新設された附属小学校の校舎であろう。その向こうの白く着色された建物は、明治20年(1887)に落成した兵庫県警察本部庁舎。その南側に兵庫県庁舎がある。その向こうの南北に2棟対称に建つ建物群は、同17年(1884)に竣工した神戸小学校の校舎である。左手には八角形の県会議事堂(明治15年[1882]完成)が見える。この地域は、現在も兵庫県行政の中枢部にあたる。明治中期の撮影であろう。

目録番号:2823 神戸市街の遠景(2)
[画像解説]
諏訪山から神戸港を望む。明治中期。彩色は施されていないが目録番号4480と同じ写真。中央の、東西の道路に面した左右対称の建物は、明治11年新設の (神戸師範学校) 附属小学校の校舎、その向こうには、明治20年 (1887) に落成した兵庫県警察本部庁舎や兵庫県庁舎がある。南北の道路を隔てて、附属小学校の右手には師範学校。

目録番号:4480 神戸港全景(2)
[画像解説]
諏訪山から神戸港を望む。明治中期。現中央区の風景。彩色が施してあるが、目録番号2823と同じ写真。左寄りに八角形の県会議事堂 (明治15年(1882)完成) 、その向こう (南) に外国航路の船舶を繋留する鉄桟橋 (明治17年竣工) が見える。南北の道路の右手に、庭園を造成中の小寺邸 (現在の相楽園(そうらくえん)) 。

■ 確認結果

目録番号:1770「神戸港全景(1)」など3作品は、同じ写真。神戸港の船舶位置や神戸市街の建物などが同じ作品が、「写真の中の明治・大正 −国立国会図書館所蔵写真帳からー」に掲載されている。同データは次のとおり。
したがって撮影年代は、「明治33年頃」となろう。

神戸港  交通
掲載資料 地理写真帖 内国之部 第2帙  刊行年 明33.6  請求記号 YDM202552
住所表記(明治期) 神戸市  住所表記(現在) 神戸市

長崎外の古写真考 目録番号:2848 天神橋(2)

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2848 天神橋(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2848 天神橋(2)
[画像解説]
天神橋は天満橋・難波橋とともに「浪華三大橋」と呼ばれたが、最長を誇ったのが天神橋である。明治18年(1885)の淀川大洪水で落橋し、明治21年(1888)に鉄橋となった。

■ 確認結果

目録番号:2848「天神橋(2)」と同じ作品が、「写真の中の明治・大正 −国立国会図書館所蔵写真帳からー」に掲載されている。同データは次のとおり。
したがって撮影年代は、「明治33年頃」となろう。

天神橋  交通
掲載資料 日本之名勝  刊行年 明33  請求記号 YDM23032
住所表記(明治期) 大阪市北区/東区  住所表記(現在) 大阪市北区/中央区

長崎外の古写真考 目録番号: 149 大阪城外堀六番櫓(3)

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 149 大阪城外堀六番櫓(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 149 大阪城外堀六番櫓(3)
[画像解説]
大坂城外堀に面する内側城壁と六番櫓を、現在の上町筋方面(外堀南西角)より望む。この高石垣に見られる勾配は、石材を規格化することによる新しい技法で、元和・寛永年間に登場した築城技術の特徴を示している。

■ 確認結果

目録番号: 149「大阪城外堀六番櫓(3)」と同じ作品が、「写真の中の明治・大正 −国立国会図書館所蔵写真帳からー」に掲載されている。同データは次のとおり。
したがって撮影年代は、「明治36年頃」となろう。

大阪城 その他
掲載資料 日本之勝観  刊行年 明36.9  請求記号 YDM23029
住所表記(明治期) 大阪市東区法円坂町  住所表記(現在) 大阪市中央区大阪城

長崎外の古写真考 目録番号:2591 西大谷円通橋(4)

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2591 西大谷円通橋(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2591 西大谷円通橋(4)
[画像解説]
西大谷円通橋を皎月池南西縁より北北東に望む。円通橋は安政3年(1865)に築造された石橋である。その形より眼鏡橋と称され、幕末から明治にかけて紅白の蓮が眺められる景勝地であった。橋上の高欄脇には蓮を眺めるモデルの男性が立っている。橋向こうに建つ茶店には人影が見える。

■ 確認結果

目録番号:2591「西大谷円通橋(4)」と同じ作品が、「写真の中の明治・大正 −国立国会図書館所蔵写真帳からー」に掲載されている。同データは次のとおり。
したがって撮影年代は、「明治33年頃」となろう。

眼鏡橋  寺社
掲載資料 日本之名勝  刊行年 明33  請求記号 YDM23032
住所表記(明治期) 京都市下京区五条通東山  住所表記(現在) 京都市東山区五条橋東