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八郎岳登山口の駐車場などの整備について  長崎市政への提案と回答

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八郎岳登山口の駐車場などの整備について  長崎市政への提案と回答

長崎市市政への提案制度があり、提案書式によりメールでもできる。長崎市平山町の八郎岳登山口に、登山者用駐車場など整備するよう、昨年8月から再三要望しているが、全く必要性を認識していなく進展がない。
市長と良く協議し12月に最終回答を求めたが、回答は次のとおり。またしても要領を得ない。

警察に路上駐車を取り締まれと、対応を願ったのではない。提案の主旨とは逆である。地元自治会に用地提供などまず相談すべきではないか。費用対効果等はこの件では持ち出す問題ではない。必要性は認めるが、予算がないなら「ない」と回答すべきではないか。
実際は「公衆トイレ」も市民農園と兼用し設置してほしい。国道側には「八郎岳登山口」の案内表示も必要だろう。駐車場がある登山口から登れと指導しながら、今回は「元宮公園」も駄目と言う。登山口の駐車場がなおさら必要ではないか。

提案制度には匿名が認められているのに、氏名など記入せよとおかしなことを言う。私だけではなく市民全体や市外からの登山愛好者に、納得できる回答をお願いしたい。要点のみ簡潔にまとめてもらいたい。長崎市HPによる回答掲載が、何よりも遅い。提案制度が形だけとなっている。
長崎市長がまずしっかりして、実現へ向け努力してもらいたい。長崎市として恥ずかしい対応である。

八郎岳は長崎県立公園である。こちらこそ公園は気持ちよく利用したい。市民農園や元宮公園駐車場も開放すれば済むことである。長崎県から長崎市に対する指導が必要なのではないか。県とも協議してほしいと前から要望していた。
市のいつまでもつまらない回答に、私はこれ以上付き合いたくない。長崎市の最終回答を公表し、皆さんの判断をお願いしたい。平成23年8月分以降の回答は、長崎市提案HP参照。

(提案内容  2011/12/16(金) 11:15 送信)

八郎岳登山口の駐車場などの整備について

八郎岳登山口の登山者専用駐車場、登山案内図などの整備について、8月から再三提案しています。回答がまったく要領を得ません。これまで質問した事項に、要点のみ簡潔に回答してください。
1 八郎岳は野母半島県立公園です。登山口に登山者専用駐車場、登山案内図などが必要と認識されていますか。
2 市民農園駐車場が登山者禁止としているのは、あまりに閉鎖的です。スペースを広げるなどして早急に対応してください。
3 路上駐車などで、近隣に迷惑をかけています。現地調査をして地元自治会などと相談し、次善の解決策を考えてください。
4 登山口付近に市有地や遊休土地はいくらでもあります。予算をかけずに、土地を活用する方法を考えてください。
5 登山口の駐車場整備が当面どうしても駄目なら、元宮公園駐車場を利用するよう案内板と公園地図を掲示してください。
6 八郎岳は遭難難事故が発生しています。山頂の緑の基金と同じ「八郎岳周辺案内図」を、登山口にもぜひ設置してください。
7 九州百名山で市外から訪れる登山者が最近多くなっています。長崎市としてはずかしくない対応をお願いします。
8 市長とよく協議し、責任ある最終回答をお願いします。各事項について個別にもれなく回答してください。

(回答内容等  2012/2/4(土)? 長崎市HP回答掲載) 

ご投稿いただきありがとうございます。ご提案について次のとおり回答します。
まず、「3路上駐車」の件につきましては、所轄の大浦警察署に情報提供し、対応をお願いしたところです。
次に「5登山者の元宮公園駐車場の利用」につきましては、当駐車場は、多目的広場や遊戯広場、少年交流センターや庭球場などご利用の方々のために整備しています。
ご提案の八郎岳登山者へ公園駐車場を利用するよう案内板と公園地図を掲示することにつきましては、公園利用者の駐車場利用に支障をきたす恐れがあることから、対応は困難ですので、何卒ご了承いただきますようお願いいたします。
今後とも、長崎市の公園におきましては、誰もが気持ちよく利用できるよう維持管理に努めてまいります。

また、提案の「6八郎岳」は遭難事故が発生しています。山頂の緑の基金と同じ「八郎岳周辺案内図を登山口にもぜひ設置してください。」という提案につきましてお答えします。
前回投稿いただきました折にご回答させていただきましたとおり、八郎岳周辺における道標等の整備につきましては、平成21年度より山岳会や長崎県等のご協力をいただき、設置箇所の増設や改修を行っており、登山者等の利便、安全な登山を行っていただくための対策を講じております。
ご提案の案内図につきましても、来年度事業で設置箇所の土地所有者のご理解、ご協力をいただき設置したいと考えております。なお、設置箇所につきましては、現在、登山口の一つであるサイクリング道路の側にある墓地のコンクリート擁壁の側面を考えていますが、他にご提案箇所がございましたらお知らせください。
その他の項目につきましては、すでに10月と12月に回答したとおりです。

本市としましては、「八郎岳登山口の駐車場の設置」の件につきましては、所管課が費用対効果等、総合的に判断して回答しておりますが、これまでのメールでのやりとりでは納得していただけないと思いますので、ぜひ、ご連絡先を教えていただき、直接説明したいと思います。今後、同一案件での再提案につきましては、回答はできかねますのでご了承ください。
また、市政への提案に際し、メールアドレスの記入がありませんので、別件の提案をされる場合は必ず、氏名、住所、電話番号、メールアドレスを必ずご記入ください。
H24.1.5回答

(関係所属)
みどりの課 095-829-1171  農林整備課 095-820-6569  広報広聴課 095-829-1114

みさき/​michitoの占いカルテ  2012年2月3日(金)

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みさき/​michitoの占いカルテ  2012年2月3日(金)

”Yahoo!占い” トップ画面で「自分の占いカルテを見よう」に、きょう偶然に載っていたカルテ。
さてどうだろうか。年齢がどうしょうもない。

みさき/​michito
・名前: みさき 道人   星座: やぎ座  性別: 男性   血液型: –

12星座でみるやぎ座の基本性格
やぎ座は、責任感の強い人。若いうちから精神的に大人で、本人は早く成功をものにしたいと思っています。でも、若いうちはどうしても忍耐を強いられることが多く、実際に自分の思い通りになるのは40代から、ということが多いようです。上質のワインのように、年齢とともによくなっていく人が多い星座です。

血液型でみる基本性格
・血液型が非公開か未登録のため表示できません。
・みさき/michitoの恋愛行動パターン
星座 血液型 性別  星座×血液型×性別がわかると、恋愛行動パターンが表示されます。

今日のみさき/michitoの運勢(12星座占い)
・総合運
ストレスがたまっていたらウォーキングを
いろいろと考えすぎて、よけいな心配を抱えないように注意したい日です。自分の頭と心が一致しないように感じるかもしれませんが、どこかでそのふたつが重なる点があるはず。少し時間をとってそれを探ることで、今抱えている課題を乗り越えることができますよ。モヤモヤした気持ちがたまったら、気持ちを切り替えるためにウォーキングを。良い情報が得られそうなので、いつも楽しく話ができるような友人に連絡をとってみましょう。
開運おまじない
シャツを着るときは一度ボタンを全部はずし、左腕からそでを通しましょう。
・恋愛運
せっかくいい話があっても、あなたがそれに乗らなければみすみす機会を逃してしまうことだってあります。慎重さも大事なことですが、石橋をたたいてばかりでは後から悔しい思いをすることもあるでしょう。ときには楽天的になって吉です。
・金運
・仕事運

ジーニーさんからの今週のメッセージ
・2012年1月30日〜2012年2月5日
外国語を学ぶのに言語体系を完全に理解する必要はないし、辞書に載っている言葉をすべて覚える必要もない。まずは毎日の暮らしの中で実用的なことや、好きなことに関連した言葉を覚えることから始めるだけでも大いに効果的である。最近のあなたは大きなことを成し遂げようという気持ちから、物事を少し難しく考えすぎていた傾向があるので、今週を境に「考えるだけでなく、感じることで学ぶ」ように意識を切り替えてみよう。

脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」 平成16年

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脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」 平成16年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年から、観音寺、棚瀬、熊根の石灯籠、交通機関。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行122〜124頁ですでに紹介済み。写真は、遠見山から見た脇岬・樺島、棚瀬(ビーチロック)、熊根の石灯籠と奥に観音寺。

脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年  5〜10頁

〔6〕史跡、文化財
圓通山観音寺  709年行基菩薩によって建立される。
仏教伝来は538年(552年説もあります) 飛鳥寺は596年 法隆寺は607年
法隆寺建立よりわずか100年後に建てられた非常に古いお寺であることがわかります。
由来 野母崎町郷土誌より『七観音伝説』  肥後の国、宇土郡の丸木橋の由来により 「7つに切って流された橋木が次の7つの地に流れつき観音様としてまつられた。」熊本 松尾町、佐賀 太良町、高来町 湯江、飯盛町 田結、佐世保 福石、有家町 原尾、野母崎 脇岬

1 観音寺の文化財
ア 十一面千手観音立像〔国指定〕 象高2メートル半(8尺) 頬のはりは豊かで、穏やかに円満な面相は藤原彫刻で、象容は平安末期の特色をもち、頭体根幹部は一財(材か)で、寄せ木造りによって完成されている。
イ 天井絵〔県指定〕 花弁絵が主で、石崎融思一族のほか川原慶賀の名も見られる。
ウ 観音寺.宝篋印塔〔県指定〕 熊本の名僧「豪潮」長崎の福島清七の寄進により建立「豪潮塔」とも呼ばれている。県下では七基だけしかないと云う。
エ 梵鐘〔町指定〕 1491年 8尺(約2メートル半)の大鐘 天草から来た海賊に持ち去られる。1492年 宗像郡曲村相国山東光寺より購入。1745年 長崎金屋町糸屋氏浄財を募って資金を献上した。深堀藩家臣長淵九佐衛門、長崎鍛冶屋町の安山国久にこれを改鋳させる。
オ 観音寺にあるその他の文化財〔町指定等〕 僧形座像(なでぼとけ) 達磨大師半身画像 涅槃図 観音寺歴代住職頂相画像 慈悲円通 地獄十王図など

2 観音寺外で見る文化財、史跡
ア 棚瀬のビーチロック〔県指定〕 脇岬トンボロ(陸けい砂洲)の西海岸に、干潮時に現れる岩礁がある。この岩礁は洗濯板の様な形から土地の人は棚瀬とよんでいる。深成岩類や変成岩類が石灰質でかためられたもので、熱帯や亜熱帯の海岸にだけ見られる。第4紀中積世(8000年→4000年前)にできたものである。
イ 祇園山のノアサガオ〔県指定〕 (略)
ウ 弁天山の樹叢〔県指定〕 (略)
エ 杉家の墓碑群〔町指定〕 (略)
オ 神ノ上遺跡〔町指定〕 (略)
カ 熊根の石灯籠〔町指定〕 脇岬南側海岸五島灘から吹きつける荒波を受けとめるように、西南2キロメートルにわたり熊根という砂丘がある。この中央の高所に高さ約5メートルの大石灯籠がある。この付近は昔から航海の難所で遭難する船も多かったので村人たちが浄財を集めて天明2年(1782年)この大石灯籠を建立して航行する船の目印にしたと云う。「観音寺保存古文書より」

〔8〕交通機関
明治16年(1883年) 長崎—野母航路開始される(三山汽船)
年代は定かではないが、荷物運搬専用の船「渡海船」は脇岬—長崎間で運航されていました。
昭和10年(1935年) 野母—脇岬間にバス運行(長彼自動車KK)
その頃はまだ矢戸の山路や干潮時に磯づたいに歩く人が多かったようです。
この頃、長崎に行くには野母—長崎間の船便を利用していたが昭和16年頃の船賃は52銭だった。
(当時、大人が1日働いて1円もらうことは多くはなかった。したがって貧乏学生には52銭のお金がなく歩いて往復したことがしばしばありました。)
昭和15年(1940年) 長崎バスが長彼バスと合併する。
昭和16年(1941年) 戦時統制により経営合理化の為、野母−脇岬間は長期の運休となる。
その後、この間に馬車が運行されたが火災にあい中止された。
昭和18年(1943年) 県道、野母—長崎間開通する。
昭和23年(1948年) 長崎自動車、大波止—野母間の運行を開始して野母—脇岬線と連絡する。
昭和37年(1962年) 茂里町—脇岬間に延長される。

(注) 寛斎日記に表れた観音寺の清人の書「海天活佛」の額は、住職の話では今はない。「蒙古船化石」は洗濯板の形をした棚瀬(ビーチロック)のこと。珊瑚礁のある南方に多く見られるが、日本本土では宮崎県青島とともに、脇岬のは規模が大きく珍しい。
熊根の石灯籠は、伝承では「抜け荷灯籠」とも言われ、番所から役人が5日に1回来るので点灯しているかどうかで合図したらしいが、真偽は不明である。
野母商船の長崎—野母航路は、昭和38年8月廃止された。(野母崎町郷土誌年表)

長崎の西空の夕日  12− 1

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長崎の西空の夕日  12− 1

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは今年も続く。

写真  1      2012年 1月21日の17時41分頃
写真  2〜 4  2012年 1月25日の17時27分頃
写真  5〜 9  2012年 1月27日の17時18分頃
写真 10      2012年 1月31日の17時39分頃
写真 11〜14  2012年 2月 2日の11時46分頃

きょう2月2日の長崎は寒い。庭の石橋に積雪、めだか鉢は凍りだした。海は荒れている。

野母崎町「野母崎町郷土誌」から観音寺・殿隠山・権現山など 昭和61年

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野母崎町「野母崎町郷土誌」から観音寺・殿隠山・権現山など 昭和61年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町「野母崎町郷土誌」改定版 昭和61年から、(2)御崎観音寺禅寺、(3)高浜の八幡神社(殿隠山関係)と、遠見番所や関寛斎の野母権現山記録関係。野母崎町などは旧町名。

この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行121〜122頁ですでに紹介済み。写真は、祇園山から見た高浜海水浴場・殿隠山・遠見山と、野母権現山から見た野母全景の昔(昭和34年撮影 軍艦島資料館展示)と今、長崎方面。

野母崎町 「野母崎町郷土誌」 改定版 昭和61年

(2)御崎観音寺禅寺                133頁
(略)弘安4(1281)年、蒙古来襲のときに、この円通山から霊火が飛んで、南北に10里あまり連なり、陸へ上がることができずにいるうちに暴風雨が吹いて船は沈没した。これらの船は折重なって瀬になり、今でも残っているという話がある。(略)
野母崎に残る話は、九州西方の海域が江南部の進攻、退去の経路となっているので荒唐無稽と片付けるわけにはいかないので言い伝えのとおり収録した。(略)
また同寺の年表359頁の中に「1611 慶長16年 長崎のキリシタン本堂を襲う。」とある。

(3)高浜の八幡神社(殿隠山関係)     140〜141頁
(略)以上のように高浜は江戸時代、かなりはっきりいたにもかかわらず、深堀、高浜氏の名を使わず、三浦姓だけにとどめようとしている。深堀能仲と系図にはあるのに三浦能仲でとおしている。そして、源氏ゆかりの三浦氏でなく、平家落人としての三浦氏を表に出したいようにも受け取れる。殿隠山という名にこだわったのだろうか。これは「トノガクラ山」の訛ったものであると考える。狩倉というのは「中世、地頭領主が独占し、百姓の用益権に制限を加えた広大な山野」(柏書房〈日本史用語大辞典〉)をいう。深堀町の東、鹿尾川の京太郎町付近にあった京太郎狩倉と同じで殿(領主)の狩倉の意味であろう。殿隠山の落人伝説が架空なものとなれば、あと古里から高浜へ発展は深堀時綱が正安3(1302)年に惣領家から「あぐり高浜」を譲与され、その子政綱の時、高浜本村を与えられた高浜氏の発展が背景にある。
高浜では、はっきりしていることを隠して、古老伝説としてぼかしている。大正7年、郷土誌を編集する時、編者も同じ疑問を抱いていた。何故ぼかす必要があったのか。一つは天領と佐賀藩とはっきり区分する必要があったのか。(略)

1 野母崎町史年表(近世編)       249頁・264頁
1638 寛永15 松平信綱は島原からの帰途長崎に入り、外国船の入港に対する警報機関として、長崎の斧山(のちの烽火山)山頂に狼煙台、野母日野山(現:権現山)に遠見番所を設置させた。
(この注記中)(略)また、佐賀藩では脇御崎の鷹鳥山(銅山=堂山)山頂に遠見番所が設けられ、その外に高島や伊王島にも設けてあった。脇御崎遠見番所は高島に伝え、高島は深堀に送り、深堀は大黒町の佐賀屋敷に伝えて、そこから、長崎奉行所の立山役所に送る仕組みであった。そこで、天領側と佐賀藩側とどちらが早く伝わるか、競争となるために、野母の遠見番所では、佐賀藩に信号が解らないよう、時々合図の方法を変えたという。(略)

(注) 遠見番所は元禄元年(1688)頃から、白帆船注進に変わり旗で合図するようになっている。佐賀藩蔵屋敷跡は五島町寄りの長崎駅前交差点あたり。
殿隠山の狩倉というのが「中世、地頭領主が独占し、百姓の用益権に制限を加えた広大な山野」とすると、一般人の入域を制限したとも考えられる。遠見番所のあった遠見山といい、この辺りのルートは古地図や字図調査でも不明で、なお検証の必要がある。

「野母崎町郷土誌」は「みさき道」の記述はない。同年表264頁に次があるのみである。前掲の脇岬江上氏の資料も参照のこと。

1861 文久1 4月3日 長崎遊学中の関寛斎(のちに医者)、長崎—戸町峠—加能(鹿尾)峠—小ヶ倉—深堀—八幡山峠−蚊焼峠—長人—高浜—堂山峠—観音寺のコースで歩く。
4月4日 棚瀬をみて野母権現山の遠見番所へ行く。帰途は高浜を通り長崎へ向う。この日記の特徴は歩くコースがよくわかること。(長崎談叢19輯)

(注) 関寛斎一行が4日、棚瀬をみて「野母権現山の遠見番所へ行く」とあるが、これは同年表編者の誤りであろう。日記の関係文の前後は、「北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、由つて只一望のみにて漁家にて喫茶す」とあり、この後に「南西に高山あり」と野母権現山の説明が続き、野母を「五ツ半(今の午前9時頃)時発足し」た。「只一望のみ」とあり北風が強い日で朝の時間的に無理であろう。

「陸軍地」の境界石柱  長崎市西町

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「陸軍地」の境界石柱  長崎市西町

本ブログを最近見はじめた onn*n*miyak**007 さんから、標石の情報コメントをもらった。
「今日(2012/1/29)、西町小学校裏手で、「陸軍地」という標識を見つけました。場所は、わかりずらいですが、西町12の表示板がありました。西町から小江原に抜ける道の手前から、左の小道に入ったところです」
標石に関心を寄せたこんな情報は嬉しい。年末には鹿児島の方が、金比羅山で陸軍要塞標を偶然見つけ、わざわざ知らせてくれた。

長崎市西町の標石は、正面のみ「陸軍地」と刻む。 15cm角、高さ44cmほど。軍の境界石柱と思われる。場所は、長崎市立西町小学校裏手というより、小学校入口前の交差点を直進。最近開通した「市道油木町西町線」を上がる。
長崎大国際交流会館の先に「合同宿舎西町住宅」があり、このビル裏手の高台小道にあるので、市道がUカーブしたところを途中まで登り、左のまっすぐな小道を50mほど下った方がわかりやすい。

10街区「松崎」宅の玄関対面。「西町12」の街区表示板は、街路灯に設置されていた。付近は現在、長崎拘置支所、白鳥公園・大アパート群などもあり、広大な谷間の平野部である。戦時中まで、軍用地として使用されたろう。何の施設だったかは、どなたかに調べてもらいたい。
あたり一帯を広く探したが、ほかに同じ境界石柱は見当らなかった。この1本だけ、原子爆弾や都市開発にのまれず、残った貴重な標石ではないだろうか。
なお、ブログを見たら私を引用し、この標石は2009年5月紹介されていた。髭親父さん。失礼しました。http://blogs.yahoo.co.jp/bikeroyaji/27173474.html

「長崎要塞地帯(区域)標」の外、陸・海軍の軍用地又は境界石柱は、長崎近郊では次の場所にも残っているのを確認している。
浜平1丁目  https://misakimichi.com/archives/232
南山手町   https://misakimichi.com/archives/96
神の島周辺  https://misakimichi.com/archives/113
野母権現山  https://misakimichi.com/archives/56

長崎奉行所立山役所の境石「従是御立山」  長崎市立山1丁目

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長崎奉行所立山役所の境石「従是御立山」  長崎市立山1丁目

長崎市立山1丁目の諏訪公園内。大クスノキ内の急カーブ市道を「六角堂」の広場まで登る。市道左手カーブミラーの石垣下を覗くと、「従是御立山」と刻まれた中くらいの自然石が見える。刻面がこちらを向いている。

長崎webマガジン”ナガジン” 発見!長崎の歩き方「お諏訪の杜の庭園伝説」(2009年12月)による説明は、次のとおり。  http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0912/index.html
地元お住いの井村啓造さんの話。六角堂一帯の“石ヶ原”も、東照宮に対する畏敬の念を現すために造られた庭園だったのではないかと推測している。

…井村さん「子どもながらに、ウチはよその家と何か違うな、と思ってましたね。」
聞くところ、かつては料亭を営んでいたのだそうだ。こんな高台の、当時ではとても不便そうな場所に「料亭」? そんな、子どもの頃の井村さんの遊び場所は、もちろん、お諏訪さんの境内だった。「六角堂」が整備されたのは、今から約30年前。井村さんの子ども時代のこの辺りには、木々がうっそうと茂り、巨大な自然石がゴロゴロ転がった、格好の遊び場。

井村さん「ここ石の上を、ぴょんぴょん跳んで遊んでいたんですよ。」
また、木々に覆われたこの辺り一帯が探検にうってつけの場所だった。仲間達と駆け廻る中、それほど気にも止めずに見ていた石に刻まれた文字。当時は、「…立山」。”立山”の文字しか見えなかった。

井村さん「それが、大人になってから気づいたんですよ。この石に刻まれた字が、“従是御立山”、つまり、ここからが長崎奉行所立山役所の敷地だという境界を示す石だということをね。」

茂った草で下の方は見えづらいが、草をよけると確かにその石には刻まれていた。位置的に何の疑うべきところもない。大きさからいっても、どこからか運んできたものとは思えない。立山役所の時代からこの場所に鎮座してきた石なのだ。そして、周囲には他にも大きな石が散在している。

井村さん「すると、この石を境にして、立山役所と諏訪神社と、くぎられていたってことですよね。当然、この道はまだなく、このような自然石がもっとあったんです。」…

野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」 平成5年

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野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」 平成5年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」平成5年から、3 高浜海岸の今と昔(高浜)と、6 野中の一本松。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行120〜121頁ですでに紹介済み。写真は「浜添」という高浜海水浴場あたりと、先の現料亭「松美」入口にある「忍の地蔵」、そして高浜へ下る途中、「延命水」水場の右側にあったという「野中の一本松」跡。

野母崎町・野母崎町教育委員会 「のもざき漫歩」 平成5年

3 高浜海岸の今と昔(高浜)          8〜12頁
(略)幼い私も、籠を届ける父について行くことがたびたびでした。野母方面へ行くのに、浜添から「忍の地ぞう」の下を通り、その浜へ出ると、なだらかな砂の道となっていました。そこは満潮時になると、潮がガンブリ満ちて通れませんでした。
小古里の浜の小川の尻も、崖地の下に石を並べて飛び石をつくり、その上を跳んで渡りました。海岸沿いは、ほとんど砂浜を歩いたり、石垣で護岸をしている、畑のきしを歩くのが普通でした。長浜から南越にかけて、五百メートルほども長い砂浜が続いていたので、幼い私の目には、物すごく広い砂原のように見えました。父の話によれば当時、小学校の運動会も、この地で催していたということでした。
浜添の海岸は、通称「前の浜」といいます。その砂の丘を「クマン峠」といいました。そこには毎年、夏になるとハマユウが白い花をつけ、快い香りを放って咲きました。渚では、ハマグリとシジミがたくさんとれていました。クマン峠から浜辺まで、なだらかな白い砂の流れが、南手から北へ長く続いた眺めは、海の青と調和して、それはそれは、絵になる光景をそなえておりました。(略)

6 野中の一本松               22〜24頁
現在、毛首の集落から東北の方向に三百メートル程へだてたところに『野中』という字があります。そこは徳道を経て三和町川原の方へ通じる道がひらけています。その途中に大きな松の木が一本あったことから『野中の一本松』と、いつのころからか村人は呼んでいたそうです。
それはそれは大きいばかりでなく、枝振りの美しさも他に類を見ない松でした。てっぺんまでの高さは二十メートル、周りが十五、六メートルもあったろうといわれています。まして、この木の近くに混々(滾々が正)と清水が湧き出て、通行人は言うまでもなく、当時黒浜、以下宿から本村の学校へ通う子供たちの憩いの場所でもありました。
ところで、この松は根ッコから一メートルぐらいのところが空洞になっていて、その中は畳二枚も敷ける程の広さで、おとなが立てるほどの高さはあったといいます。穴の中は自然にできたのでなく「金ノミ」で削りとられていたようで、内側の壁は風化した土はだを見るようでした。当時。村へ出まわる巡礼や、物乞いが、雨風をしのぎ冬の季節をここで過ごしていたようであります。
ところが、北風の強い昼下がりのできごとでありました。もうもうと立ちのぼる黒煙は、『野中の一本松』の方向だと村人たちがさわぎ出しました。もっとも近い毛首の人たちは手に手に手桶を持ってかけ上っていきました。近くの川から水を汲み、穴めがけてヒッかけたので、消し止めるには長くかかりませんでした。後になって村の人の話しでは、穴の中で焚き火をしての不始末からではなかったかということでした。そのことから二日、三日と経ったころ、松葉がだんだん緑を失い、ひと月とたたないうちに枯れ木となってしまいました。
この松の木の近くに、白くコケでおおわれた石碑が建っていますが、さらにそのそばにはお地蔵さまが祭られてあります。この松と碑とお地蔵さまの三体には何か因果関係があるのではないかと思われます。しかし、現在では巨木はなく地蔵さまと碑が、むかしの物語を秘めて、語ることもなく残っているだけであります。

(注) 現在、国道499号となっている県道長崎〜野母間は、昭和18年開通と野母崎町郷土誌年表にある。高浜海岸の話はその以前の思い出で、高浜から古里までの道の様子を伝えている。この頁には昔の海岸線と道を今と比較した地図がある。街道といわれる道と少し違うが、参考となる。浜添は今も字名「浜ゾ」で残る。

砂の丘「クマン峠」の名は不思議である。脇岬の砂丘も「熊根」という。「クマ」は道や川の折れ曲がっている所、あるいは奥の引っ込んだ所を言う古語らしい。曲がった地形をあらわすのか、熊野神社に関係するのか。

野中の一本松は、清水が湧く「延命水」の石祠の右側にあった。松ヤ二採取で戦後、枯れたという。この話は川原道の道筋であったことを伝え、黒浜・以下宿から高浜に行くにもここに上って、「みさき道」と合流していたと考えてよい内容の資料である。
このほか野母の漁師の始まり、観音寺の観音像の由来など史実と民話を平易に収録している。

小長井の毘沙天岳ウォークとかき焼き新年会  2012年1月

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小長井の毘沙天岳ウォークとかき焼き新年会  2012年1月

2012年1月29日(日)快晴。小長井の毘沙天岳(標高161.4m)ウォークとかき焼き新年会。参加14人。みさき道歩会の例会。
長崎8:40−小長井のオガタマノキ10:03ー柳南公民館10:31ー毘沙天岳10:56ー小長井漁協かき焼き小屋12:10ー竹崎城展望台13:59ー有明海の湯14:49ー長崎16:35(徒歩距離 約2km)

長崎から車3台で長崎バイパス、諫早の国道207号新道により小長井へ向かう。JR長里駅から左の谷間の川内集落に入り、日本一のオガタマノキの巨樹を見学する。
小長井のオガタマノキは、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/506
そのままレインボーロードへ上がり、毘沙天岳の後ろとなる柳南公民館に車を置く。弘法堂があり、竹崎街道がここを通る。

去年は国道の方から登った。今年はその反対側から。畑道のような車道を15分ほど歩くと毘沙天公園駐車場に着く。山頂へはあと5分ほど坂段の遊歩道を登ると、左の岩場に見晴し台がある。有明海が前面。竹崎半島・小長井町・雲仙岳が広大に望める。
三角点がある山頂とその下りからは、多良連峰や聖母の騎士学園の白い建物が見える。石碑が多い参道をまっすぐ下って行き、一周するような形で、柳南公民館の車に30分ほどで戻った。

長崎ではランタン祭り。きょうは快晴とあって、国道筋のかき焼き小屋はどこも満員だった。小長井漁協かき焼き小屋は、30分ほど待って屋外に席を作ってもらった。地元産は品切れ。岡山産でまかなっていた。屋外はポカポカ陽気、かきと酒が進んだ。
県界を越し、竹崎城展望台で展望を楽しみ、「有明海の湯」に浸かる。長崎へは高速道路を利用し16時35分帰り着いた。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29207109.html

「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」  平成13年

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「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」  平成13年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。寺井房夫編 東京 福田はる刊「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」平成13年3月発行。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行111〜112頁ですでに紹介済み。写真が大山祗神社鳥居前の鹿尾川底に残る飛び石跡?と、長崎市立土井首中学校の前庭石。どの石かはもう不明。

「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」 19〜20頁
寺井房夫編 東京 福田はる刊 平成13年3月発行

地図に寄せて(2)昭和のカッパ連  取水堰の「ため」
大山祗神社鳥居前の鹿尾川には、「ため」と呼ばれている、取水堰で塞き止められた溜まりがあった。
『私が住んでいた実家は鹿尾川沿いに建っていました。長崎豪雨、昭和57年(1982)7.23の時は床上浸水した程で、川とは切っても切れない縁です。子供の頃は、満ち潮に乗って上って来るボラや、スズキを堰の下で待って、矛で突いたり、ハゼ釣りをしたり、また、上流でフナ釣りをしたりして遊びました。フナがもっとも良く釣れたのが「ため」です。小学校3年生だったと記憶していますが、深い水底を恐る恐るのぞいていたら友達に突き飛ばされて、深みに落ち、無我夢中でバタバタしている中に自然に泳ぎを覚えてしまいました。
中学生になり、長崎市内の中学水泳大会が開催され、この「ため」で練習するようになりました。夏になると、授業が終るとすぐ「ため」に集まり練習に励みます。堰の長さは20メートルはあったと思います。練習は、優勝経験のある先輩がストップウオッチを片手に、何回も何回も往復して、泳がされました。私達が優勝できたのは、プールの無い時代、ここで思い切り練習できたからだと、確信しています。
私にとっては、思い出と自然が一杯つまった取水堰の「ため」ですが、今はどうなっているのでしょうか。上流にダムが出来たとも聞いています。水がきれいで、フナやハヤが泳いでいた風景を今でもはっきり思い出します。 土井首中学校第5回卒(昭和27年3月)横川(小川) 等 千葉市在住』

「ため」は、形を変えて、残っている。取水堰は水害後の河川改修工事で取り壊されたが、その岩石は、土地の篤志家の手によって運び上げられ、土井首中学校玄関の前庭に生きている。取水堰の向こうには、松の木が生え、地蔵も立っていた。その昔、長崎への街道の渡しであったという。
海産物と川・山の産物が集まり、水田も開け、山麓には果樹も実のっていた。海、川が交わるこの地は、土井首に早く発生した集落であろうと、ロマンを語る人が多い。(福田清人の)作品に「私はまだ海に入らぬカノヲ川の中流の岸で、群をなして水流に身をゆだねて下流へ向ふ魚の群をみたことがあった。」とあるのはおもしろい。

(注) 土井首中の前庭石は、教頭先生が地元に聞いてくれた。当時河川工事をした地元兵頭建設の社長が亡くなり不明でこれと断定できない。この渡り場所に後年木橋が少し下流にかかったが、何度か流され、沖縄の人の篤志で黒みかげ石で出来たこともあったという。(磯道中山氏)
今は郵政磯道団地ができ、まだ下流に「互助之橋」が架設されている。大潮の時も海面はこの少し上流までしか来ず、飛び石は十分考えられる。国土地理院旧版地図明治34年測図も「渡渉所」。
上流のダムとは昭和63年できた鹿尾ダム。さらに上流の小ヶ倉水源池は大正15年完成している。両ダムのない時代、鹿尾川はかなりの水流があったと思われるが、ここで渡渉できたのではないか。「ため」のコンクリート片と石は、まだ川底に平らな一部が残っている。