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土井首から鹿の岳(仮称)、大山へ  2014年5月

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土井首から鹿の岳(仮称)、大山へ  2014年5月

2014年5月11日(日)快晴。土井首から鹿の岳(仮称 標高約452m)、大山へ。参加4人。みさき道歩会の例会。
土井首バス停9:35—大崎林道入口10:45—鹿尾河原分岐11:41—鹿尾河原12:00(昼食)12:30—鹿の岳展望岩13:29—熊ヶ峰登り林道14:12—竹林広地14:49—大山カトリック教会15:40—大山入口バス停16:20(徒歩距離 約9km)

土井首から熊ヶ峰と悪所岳へ登り宮摺まで、長崎半島を横断する予定だったが、あまりの長丁場に今ではもう体が動かない。熊ヶ峰手前の新設林道まで出てから、時間も足らず大山へとそのまま下った。
土井首大山祇神社先から、八郎岳への大崎林道へ入り、旧登山道をたどる。大崎林道は法面崩落し、平成29年4月まで通行止めの標識があった。植林地の旧道には、「長崎要塞第三?地帯標 第十六号」が残るが、登山者もほとんど気付いていない。

大崎林道をいったん横切る。ここに当会のプレートと朝霧の「熊ヶ峰まで2時間」の道標がある。竹林や植林地内を行き、鹿尾河原へ下る鞍部へ出る。大崎林道の急カーブ真下となる尾根である。そこから約20分下ると、鹿尾川上流の渡渉点に着く。「鹿尾河原」と呼んで、やや広地となっており、昼食とした。
この先が植林を間伐しており、登山道がわかりにくく、急斜面の迂回路となっていた。やっと旧道へ出て、「鹿の岳」(仮称)のピークを目指す。だんだん登りがきつくなってくる。このピークは登山道から少し西へ入る。

展望がよい岩場のピークで、特に鹿尾ダム大橋の上に目立つ山である。名前がないので、とりあえず「鹿の岳」と呼ぶこととした。標高は約452mあった。周りの木立が伸びており、伐採に時間を取った。時間を見るともう2時近くとなっており、先を断念した。熊ヶ峰の登り口に知らない間に林道ができていた。これを下り終点まで行き、強引に熊ヶ峰の中腹を巻くと、竹林の広場があり、タケノコを採る作業場となっていた。車がここまで入るので、その林道を下ると大山教会へ出た。あとは大山入口のバス停へ下る。

途中、大山の集落で駐車場車止めに使用している石柱2本。よく見ると「西道仙」書である。長崎史談会原田先生の話では、長崎市中の有名なところから、移している石柱で、歴史的価値が高いらしい。

これが、実物大ダンボール蒸気機関車D51  東彼杵町で11日まで公開

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これが、実物大ダンボール蒸気機関車D51  東彼杵町で11日まで公開

ダンボール約4千個を使った蒸気機関車(SL)D51の実物大模型を、東京の設計事務所を退職した長崎県南島原市の島英雄さん(64)が10カ月かけて製作し、3日から東彼杵町の町総合会館文化ホールで一般公開している。11日まで。入場無料。
機関車はステージ上に設置している。ステージに上がって目の前で見ることもできる。本体+炭水車で、全長約20m、高さ約4m、幅約3mと迫力満点。東彼杵町が特に要請して開催された。模型は町民が組み立てた。
3日からきょうまでの累計観覧者数は、全国から訪れ約11,000人という。次回は南島原市で6月中に予定。近くの通りで東彼杵町の新茶まつりもあっていた。
東彼杵町による開催お知らせ及び西日本新聞の記事は、次のとおり。

第1回巡回展 – D51 蒸気機関車 原寸ダンボール模型を作る
第1回巡回展示のお知らせ

長崎県東彼杵町総合会館文化ホール グリーンハートホールにて第一回巡回展を開催しております。劇場型ホールのステージの上に、まちづくり会議のみなさんや住民の方々といっしょに機関車を組み立てました。壁面を利用して、蒸気機関車の映像を映したり、素晴らしい音響設備を使って臨場感あふれる走行音や鉄道にまつわる音楽を聴くことができます。また、ぬりえのワークショップも開かれておりますので、鉄道に興味のないお子さんもごいっしょに楽しめるイベントです。

開催内容
主   催   長崎県東彼杵町役場
展示場所   東彼杵町総合会館文化ホール グリーンハートホール
開催期間   平成26年5月2日(土)〜5月11日(日)
5月2日(金)  9:30〜組立   
5月3日(土)〜6日(火)  10:00〜17:00 一般開放
5月7日(水)〜8日(木)  予約団体見学のため閉館
5月9日(金)〜11日(日) 10:00〜20:00 一般開放
5月3日(土)10:00からオープニングセレモニーを行います。
入 場  料  無料
同時開催   おもちゃ作りのワークショップ  指導:山田祐(少年山荘P)   
東彼杵町及び長崎県特産物の販売
問い合わせ先 東彼杵町役場まちづくり課  電話 0957-46-1111                

実物大SL、段ボール4千個で製作 長崎の建築士が一般公開 [長崎県]
=2014/05/04付 西日本新聞朝刊=

段ボールを使った蒸気機関車(SL)の実物大模型を、東京の設計事務所を退職した長崎県南島原市の島英雄さん(64)が10カ月かけて製作し、3日から同県東彼杵町の町総合会館文化ホールで一般公開している。11日まで(7、8日は休館)。入場無料。
模型は「デゴイチ」の愛称で親しまれる「D51」。全長約20メートル、幅約3メートル、高さ約4メートル。南島原市の市場関係者から譲り受けた段ボール箱約4千個を使い、約1700個の部品を製作。旧国鉄の設計図を参考に、駆動装置などは実物を採寸して、ボルトなどの細部も忠実に再現した。町のボランティアとともに、2日がかりで重量1・5トンの車体へと組み上げた。
島さんは1級建築士で、大の鉄道ファン。幼い頃から実物大のSL模型を作るのが夢だったという。各地から早速、展示の引き合いがあり、福岡市や南島原市などで巡回展を計画している。島さんは「子どもたちにものづくりの楽しさを伝えたい」と話している。

大正十一年頃のガラス写真 219  (一覧橋か古町橋?)

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大正十一年頃のガラス写真 219  (一覧橋か古町橋?)

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
整理番号 219  (一覧橋か古町橋?)

目録番号: 410 中島川の橋
[画像解説]  超高精細画像
中島川に架かる一覧橋(手前)と古町橋(奥)で、古町橋左側の手前には、東本願寺の末寺である向陽山光永寺がある。一覧橋の上には人力車と車夫,山高帽の男性,着物姿の男性、また橋の袂には街灯があり、明治を代表する風俗が見られる。一覧橋は、桶屋町と本紙屋町間に明暦3年(1681)唐通事高一覧(日本名:渤海久兵衛)が架けた長さ18.0m、幅4.2mの唐風石橋である。光永寺は、幕末、中津藩の福沢諭吉が長崎留学時代に寄宿した寺であり、また、明治時代には初めての長崎県議会の議場にもなった寺である。堂門川と銭屋川の合流地点より下流にある一覧橋は、これまでたびたび水害に見舞われ崩落と再建を繰り返している。享保6年(1721)流失、元文頃再建、寛政7年(1795)崩落、享和元年(1801)再建、昭和57年(1982)の長崎大水害で崩落した。現在は水害に強い石橋として、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わった。

目録番号: 3860 中島川の古町橋と光永寺
[画像解説]  超高精細画像
東本願寺の末寺である向陽山光永寺の伽藍、古町橋上に明治を象徴する人力車と車夫が見える懐かしい写真である。古町橋は、古町と本紙屋町間に元禄10年(1697)河村嘉兵衛母妙了が架けた長さ16.9m、幅4.2mの唐風石橋である。写真右側奥に見えるのは、文化12年(1815)に再建された本堂の屋根であるが、惜しくも焼失した。山門は重要文化財に指定されていたが、近年改築された。幕末、中津藩の福沢諭吉が長崎留学時代に寄宿した寺であり、また、明治時代には初めての長崎県議会の議場にもなった。堂門川と銭屋川の合流地点より下流にある古町橋は、これまでたびたび水害に見舞われ、崩落と再建を繰り返しているが、昭和57年(1982)の長崎大水害でも崩落した。現在は水害に強い石橋として、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わっている。

目録番号:3235 中島川と編笠橋(3)
[画像解説]  超高精細画像
写真左側に松の大木、川面に編笠橋の影を映し、橋の袂の山門後ろに工場の煙突、森の中に諏訪神社、背景には左側に金比羅山の稜線が見える。橋の袂にある山門は、明和3年(1766)建立の太平寺の山門である。太平寺は、寛延3年(1750)この地に建立され、宝暦7年(1757)に新橋町(旧日本赤十字社跡地)、明治10年(1877)現在地の浪の平に移転した。編笠橋は、元禄12年(1699)岸村夫妻が今博多町と本紙屋町間に架けたアーチ石橋である。この石橋は中島川に架けられた最後の石橋となった。寛永の頃、この辺りに遊女屋があり、世間体をはばかり深編笠で顔を隠して廓通いをしたので、この名が付いたと言われる。本紙屋町は、昔紙漉町(かみすきまち)といって、紙を漉く職人で出来た職人町である。写真左側の松の木の下に漉いた紙を乾燥している風景が見える。昭和57年(1982)の長崎大水害で崩落し、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わった。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

中島川の石橋で、調査保留としていた最後の整理番号219。入江氏から次のような教示があった。
「ガラス写真を一見すると光栄寺付近では?と思いました。背景に山が無いので、川下方向を撮影しています。それに川の右川沿いには道がありません。ここから類推すると、古町橋から見た一覧橋ではないでしょうか」。
長崎大学データベースには、明治期に撮影された上記目録番号の近くにある石橋の作品があるが、撮影向きは反対が多い。

ガラス写真は拡大すると、石橋の背景に高い山並みがない。中島川上流の手前の橋上からすぐ下流の石橋を撮影しているのは間違いないだろう。手前の橋下にはやや高い堰があり、右側の川岸石垣に和傘が6本干している。橋の右岸には白塀とか思える建物の造りがあり、木立が高い。
これから推測すると、たしかに位置関係から「古町橋から見た一覧橋」、または1つ上流の漉紙乾燥と和傘干しの似たような風景から「編笠橋から見た古町橋」が、中島川の石橋群では最も考えられる。

石橋の姿は、長崎大水害後、道に対して平たかったのが、ほとんど階段のある石橋に変えて再建された。堰も掘り下げられた。昔の姿を留めない。ガラス写真に光永寺でもはっきり写っていたら、まだ確認できるのだが、肝心の背景の山並みもはっきりしない。
両者どちらの石橋かは、現在の写真を添えて、まだ研究課題としたい。どなたか正しい検証をお願いしたい。

2014長崎帆船まつり  長崎港で5月1日まで

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2014長崎帆船まつり  長崎港で5月1日まで

長崎水辺の森公園、出島ワーフ周辺で開催。2014年4月29日午後の会場の様子。妻が出かけた。長崎観光/旅行ポータルサイトながさき旅ネットの案内は、次のとおり。
これだけの集客である。長崎県美術館では、片岡鶴太郎展があっているが、長崎開港当時を写す「長崎古写真の世界展」を、来年から長崎市・長崎県美術館・長崎大学附属図書館の共催で、ぜひ実現してほしい。
県民ギャラリーで、入場無料でできる。その方が帆船まつりにふさわしく、遠来の観光客も楽しめるだろう。

2014長崎帆船まつり

港町長崎に国内外から大型を含む数々の帆船が集結する日本で随一の帆船イベント!
期間中は帆船が真白な帆を広げる「セイルドリル(操帆訓練)」、船内を見学できる「船内一般公開」、帆船に乗って長崎港内をクルーズする「体験クルーズ」などの帆船をメインとしたイベントの他、ヨットやカヌー、ロープワーク(縄結び)教室などの体験型イベントなども充実! 
ライトアップ・イルミネーションのほか期間中の28日(月)と29日(火・祝)には打ち上げ花火が上がります。そのほかにも、参加型のイベントや物産市など、いろんな催し物がもりだくさん!

開催の場所 長崎市長崎港(長崎水辺の森公園、出島ワーフ周辺)
開 催 日  2014年4月27日(日)〜5月1日(木)
問い合わせ 095-822-8888 長崎市コールセンター あじさいコール

諫早市多良見町に残るアーチ式石橋と伊木力往還めぐり  2014年4月

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諫早市多良見町に残るアーチ式石橋と伊木力往還めぐり  2014年4月

2014年4月27日(日)晴。諫早市多良見町に残るアーチ式石橋と伊木力往還めぐり。参加6人。みさき道歩会の例会。20日が雨のため、延期して実施。長崎近郊の石橋めぐりは、西彼杵郡長与町、長崎市船石町に続く3回目。今回は大村殿様道で松ノ頭峠を越す「伊木力往還」の現況調査もする。
大草駅9:47—山川内東跨道橋・山川内橋梁10:29—千々石ミゲルの墓10:56—野川内踏切11:22—幸仏橋11:50(昼食)12:30—重尾—松ノ頭峠13:53—松ノ頭トンネル口14:05—本川内駅14:30(徒歩距離 約8km)

長崎駅9:13発長与経由竹松行乗車。大草駅で降りて伊木力の方へ戻る。琴海中学校先の国道に「千々石ミゲルと見られる墓」の道案内があり、山川内川の上流へ田の中の直線農道を約500mほど遡る。
明治31年開通した長崎本線旧線の高い土手下に、アーチ式の跨道橋や橋梁が近く並んで3つ見える。山川内東跨道橋・山川内橋梁は、造りが大きく立派な切石の放物線アーチで見事である。
3つ目のレンガ造山川内跨道橋をくぐると、右手斜面に「千々石ミゲルと見られる墓」がある。

トンネルを戻り集落内を行くと、伊木力往還の道となる。途中で野川内桁橋を渡り、その小川上線路にレンガ造野川内東橋梁がある。野川内踏切先の下部にも野川内橋梁を確認できる。明治地図によると伊木力往還はこの道と思われるが、今回のメイン「幸仏橋」を見学するため、幸仏集落側へ戻る。
「幸仏橋」は壊れかけたアーチ式の小さな石橋。桜の木の根元にあり現在の橋の右下にある。O氏が渡ったが、大丈夫だった。12:30分まで昼食。

県道脇にあるみかん原木は見ず、そのまま重尾集会所前を通って旧道を松ノ頭峠まで登る。この道が大村郷村記の記すもう一方の往還のようである。トンネル上の琴の尾岳車道入口三叉路のところが、伊木力往還「松ノ頭峠」である。あとは本川内駅を目指して下るだけ。谷間沿いに往還の道が町道として残り、JR松頭トンネルの入口と長与ダム堰堤の鯉流しを見ると、本川内駅はすぐだった。

今回訪ねた石橋の、HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータは、次のとおり。「千々石ミゲルの墓石発見」は、2004/02/28 【共同通信】配信記事。
「伊木力往還」松ノ頭峠部分の推定ルート図は、goo地図利用の入江氏作図(赤は国絵図と明治の地図を基に引いた線で、青は郷村記を基に引いた線)による。

№1,964 山川内東跨道橋(仮称)(石造アーチ橋としてカウント)
諫早市多良見町山川内(やまがわうち)
橋幅:20.34m  径間:6.0m  環厚:61cm
架設:明治31(1898)年頃  JR長崎本線 長崎線
遠目にはRCアーチに見えましたが、立派な切石の放物線アーチです。

№1,963 山川内橋梁(仮称)  (石造アーチ橋としてカウント)
諫早市多良見町山川内(やまがわうち)
山川内川  径間:8.5m  環厚:61cm
架設:明治31(1898)年頃  JR長崎本線 長崎線

№1,962 山川内跨道橋(仮称)
諫早市多良見町山川内(やまがわうち)
橋幅:26.1m  径間:3.65m  拱矢:1.83m
架設:明治31(1898)年頃  JR長崎本線 長崎線
4重巻きたて、アーチ部長手積み、基礎部イギリス積み

№3,779 野川内桁橋
諫早市多良見町野川内(のがわうち)
橋幅:3.9m  径間:0.9m  桁厚:15cm
単径間桁橋

№3,780 野川内東橋梁
諫早市多良見町野川内(のがわうち)
橋幅:13.0m  径間:1.8m  拱矢:0.9m  基礎H:3.6m(下流側)
架設:明治31(1898)年頃  JR長崎本線

№2,622 野川内橋梁
諫早市多良見町野川内
橋幅:m  径間:m  拱矢:m
架設:明治31(1898)年頃  JR長崎本線 長崎線

№1,961 幸仏橋
諫早市多良見町野川内
橋長:3.5m  橋幅:1.3m  径間:2.6m  拱矢:1.3m  環厚:39cm
この橋とばかり思っていたら、その下にちょこんと架かっていました。

千々石ミゲルの墓石発見 没年記され、謎の晩年に光
16世紀後半、九州のキリシタン大名がローマに4少年を派遣した「天正遣欧使節」の1人、千々石(ちぢわ)ミゲルのものとみられる墓石が見つかり、長崎県多良見町教育委員会が28日、発表した。  4人のうち、その墓が確認されたのは初めて。墓石には没年も記されており、町教委は「これまで謎とされたミゲルの晩年やキリシタン史を研究する上で大変に意義深い発見」としている。  墓石は旧大村藩領の多良見町山川内郷の民家裏で、みかん畑に立つ高さ約180センチ、幅約120センチ、厚さ約27センチの自然石製。表側に男性と女性の戒名、裏側に施主としてミゲルの四男玄蕃の名が刻まれ、男女とも寛永9年(1632年)没とあった。 石造物を研究している長崎県立口加高校の大石一久教諭が墓石を調査。家系図をたどり、玄蕃が墓の施主となり得る夫婦を調べた結果、ミゲル夫婦以外あり得ないことを突き止めた。     2004/02/28 03:47 【共同通信】

JR長崎本線旧線「大草駅」の歴史  駅舎展示パネルから

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JR長崎本線旧線「大草駅」の歴史  駅舎展示パネルから

「大草駅」は、1898年(明治31年)11月27日に九州鉄道により開設された駅。現駅舎に歴史を刻む展示パネルと、懐かしい写真があった。ウィキペディアフリー百科事典による解説は、次のとおり。

大 草 駅
大草駅(おおくさえき)は、長崎県諫早市多良見町元釜にある、九州旅客鉄道(JR九州)長崎本線(長与支線)の駅である。

駅構造
相対式ホーム2面2線を持つ地上駅。駅舎は諫早方面ホームに接している。2つのホームは屋根無しの跨線橋で繋がっている。跨線橋は大村湾をイメージして、青くペイントされている。ホームは列車の停まる部分のみ嵩上げされている。諫早方面ホームの横に貨物取り扱い時代の側線の跡が残っており、保線用の車両が停車していることがある。
2つ長崎寄りにある長与駅と同じく、長崎本線旧線上にある数少ない交換可能駅である。無人駅であるが、自動券売機が設置されている。かつては業務委託駅だった。

利用状況
2010年度の1日平均乗車人員は180人である。

駅周辺
かつては駅前から長崎空港行きの高速船が出ていた。現在も、大村競艇の開催日には大村競艇場行きの高速船が運航される。
国道207号  大村湾  諫早市役所伊木力支所

バス路線
長崎県営バス 諫早市街・東園方面 – 大草駅前 – 大浦(長崎バス(停留所名は多良見大浦)に乗り継いで長与町・長崎新地ターミナル方面へ行ける)・重尾

歴史
1898年(明治31年)11月27日 – 九州鉄道により開設。
1987年(昭和62年)4月1日 – 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
1989年(平成元年) – 駅舎改築。
2012年(平成24年)12月1日 – 同駅を含む長崎地区19駅にSUGOCAを導入。

隣の駅
九州旅客鉄道長崎本線(長与支線) 東園駅 – 大草駅 – 本川内駅

伊王島灯台からの展望  長崎市伊王島町

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伊王島灯台からの展望  長崎市伊王島町

2014年4月14日(月)、長崎港口にある伊王島灯台の放置されていた次の標石を建て直しに行った。
区—7 伊王島 (確認 長崎要塞区域標? 第十五号)
https://misakimichi.com/archives/272
伊王島灯台から前面に広がる雄大な展望を、参考にパノラマ写真で写してきた。長崎市の課題・要望は、次のとおり。

1 伊王島灯台の近くまで車を入れさせないように、路上駐車を禁じる看板があるが、駐車場の案内がない。島内バスの終点に広い炭鉱住宅跡の空土地があり、駐車場を整備してもらいたい。島内道路狭隘というなら中心アクセスのみ拡幅工事で対応して、積極的に受け入れるべきではないか。
2 遊歩道の舗装が、灯台手前で切れている。国有地かも知れないが、灯台周囲を回る肝心な遊歩道を板石舗装などしてもらわないと、悪天候のとき歩きにくく観光客は困る。
3 伊王島灯台の説明板が、灯台の根元にない。こここそ新旧灯台の歴史や旧灯台の古写真など示す「さるく説明板」が必要ではないか。現在は簡単な「伊王島旧灯台基礎石組」説明板があるだけである。
4 灯台の石垣に立っても、展望案内の写真と説明板がない。せっかくの展望が説明不足となっている。さるくは何も街中だけではない。特に観光シーズンにはさるくガイドの配置も検討してもらいたい。
5 四郎ケ島台場が、長崎台場跡として国指定史跡に3月18日追加指定された。伊王島灯台下に最近建設された展望台は、四郎ケ島と同時に幕末、整備された出鼻台場の遺構を壊したのではないか。史跡保存に対する見識が疑われる。円通庵下台場・出鼻台場・真鼻台場跡は、史跡説明板が必要である。
6 新展望台には、展望説明板があるが、地名や山名の間違いが多い。福田遊園地や平戸島などと堂々と表示している。間違いは早急に是正してもらいたい。
7 灯台下の先端岩場へ下る遊歩道をせっかく下っても、危険ということで先は行き止まりとなっている。これくらいは危険防止の柵をしてどこの観光地でも開発する。ここは海と岩場が見えるようせめて伐採してほしい。 
8 映画やテレビのロケ地案内板も、詳しい説明をつけて積極的に設置してほしい。例えば、最近の吉田修一小説の映画「横道世之介」沖ノ島裏側ロケ地など。
9 伊王島の入り口となる香焼の安保花壇付近が殺風景である。季節の花の種類と面積を広げ、ソフトバンクメガソーラーともにフラワーパークとして整備してほしい。炭鉱跡の説明板も必要である。
10 伊王島は、最近、全国から訪れる人が多い人気スポットである。それにもかかわらずお粗末な観光対応となっている。史跡めぐりやウォーキングにも配慮した島内さるくなどマップを作成し、ターミナルややすらぎ伊王島に数を切らさないにしてもらいたい。

HOME「長崎県の灯台たち」による伊王島灯台は、次を参照。概要は次のとおり。
http://www.nogamidensetu.co.jp/toudai/nagasaki/ioushima.html

6330 伊王島灯台   初点:明治4年7月  国際番号M5194
読み:いおうじま   場所:長崎市伊王島
慶応二年、幕府がアメリカ、イギリス、フランス、オランダ4カ国との間で締結した改税条約(江戸条約)で設置を約束した8カ所の灯台の一つです。「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、明治3年6月に仮点灯、翌明治4年7月に日本最初の鉄造灯台として完成点灯しています。
その後長崎原爆により損傷を受け、昭和29年に四角形の鉄筋コンクリート造(ドームは建設当時のもの)で修復、平成15年に現在の六角形の姿で再建されています。
隣接する「伊王島灯台旧吏員退息所」は同じブラントンの設計で明治10年に完成しています。日本最古の無筋コンクリート構造で、近代化産業遺産に登録されています。
白亜の大きな灯台と洋館の姿は、西洋文明の入口であった長崎の景観に美しく溶け込んでいます。

福島「三春の滝桜」と仙台「ツツジが岡公園」のさくらめぐり

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福島「三春の滝桜」と仙台「ツツジが岡公園」のさくらめぐり

”gonbeyaの部屋”氏(私の先輩)ブログから、東北のさくらめぐり2014年4月20日の記事と写真を転載し、紹介する。
福島県田村郡三春町にある日本三大桜の1つ、国天然記念物「三春滝桜」は、本ブログ「長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3538 先生と子供たちの集合写真」を参照。
https://misakimichi.com/archives/2296
1枚目がこの古写真。三春町HP三春の桜・観光ガイドによる同町の説明は次のとおり。

三春滝桜とは

エドヒガン系の紅枝垂桜(ベニシダレザクラ)で、大正11年10月12日、根尾谷の淡墨ザクラ・山高神代ザクラなどとともに国の天然記念物の指定を受けた名木です。
日本を代表する桜の巨木で、日本三大桜の一つに数えられ、岐阜県の淡墨桜とともに東西の横綱に位置づけられています。
樹齢は1,000年以上といわれ、樹高は13.5m、根回りは11.3m、枝張りは幹から北へ5.5m、東へ11.0m、南へ14.5m、西へ14.0mの巨木で、近くから見た姿は圧巻です。

さくらめぐり   gonbeya 2014/4/20 23:16:42

gonbeでーす。
今年の桜の見納めに、福島、三春の滝桜を見ようと考えました。
もう大分前に滝桜を見に行ったら、その日が開花日という事で、数輪の花だけでした。
桜はその年によって早かったり遅かったりするので、他の桜でも終わったばかりとか、まさに満開という事もあったりしました。
で、滝桜を見ようと考えて、ネットで情報を見て、開花したのを確認後、1週間後くらいが満開というので出かけたわけです。

長崎から羽田へ飛び、東北新幹線で郡山へ行き、ローカル線に乗り換えて三春の駅へ下りました。
今シーズン中で、滝桜へは臨時バスが列車到着に合わせて出てました。
終点の滝の平でバスを降りたのですが、滝桜までは大分離れていて、まだかなというくらい歩かされましたね。
しかし、滝桜はまさに満開状態で、滝のように落ちる感じの桜に圧倒されました。(~▽~@)♪♪♪
人も多く、たくさんの人が群がって眺めているのも、滝に打たれているような感じでした。(写真2〜3)

その後で仙台に泊まったのですが、市内でも桜が満開で、ツツジが岡公園がいいと聞き行ってみると、綺麗な桜が咲き、その下には隙間がないほどのブルーシートが敷かれてました。(写真4〜5)
その日の夕方に職場の仲間で桜見物をするための準備だろうと思いましたが、朝の内から場所の確保に行く人も大変だなと思いましたね。
すっかり堪能して帰ったのですが、来年はどこへ行こうかと早くも考えてます。
ではでは、また〜(^^)/〜〜〜

深堀陣屋跡の現況 (6)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (6)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884
現況(5)は、https://misakimichi.com/archives/3922

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年秋完成を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。

史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。市民や地元にまったく説明がない。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。
カトリック深堀教会、鉄川建築士事務所、施工業者大進建設は見識を疑う。遺構は埋め戻し、65cmかさ上げ施工したというが、基礎工事を見るかぎりあまり信じられない話である。

破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。

深堀の殿様気分では、納骨堂の霊も居心地が悪いだろう。佐賀藩でも諫早や神代と同じような深堀領だった。佐賀の人にも顔向けができない史跡破壊の実情である。
深堀地区では、長崎市は現在、武家屋敷通りの石塀保存など「景観まちづくり」を強く推進しながら、その核となる深堀陣屋跡史跡の破壊を自分たちの仕業で行っている。

小江・小江小浦・柿泊間の明治県道調査  2014年4月

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小江・小江小浦・柿泊間の明治県道調査  2014年4月

2014年4月6日(日)快晴。小江・小江小浦・柿泊間の明治県道調査の2回目。参加7人。みさき道歩会の例会。
新小江橋10:10—旧道調査—2つ穴岩12:10(昼食)12:40—流水路12:59—旧道下り口14:08—柿泊14:30—手熊台場—キリシタン墓—手熊15:20—弁天白浜海水浴場バス停16:00(徒歩距離 約8km)

2013年11月4日(月)に続く明治県道2回目の調査。前回は本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3855
大波止9:04発福田経由相川行で小江バス停に降りる。小江原経由に乗った人が3人おり、タクシーで来るのを待って、出発が遅れた。新小江橋の民家横から明治県道に入る。前回、分岐を間違いピークへ登ってしまったところの山腹の旧道は、だいたい状況がわかったが、畑道を使うよう下ってみて県道入口自体の見直しを考えたい。年代によって使われる道がだいぶん変っているようである。坦々とした山間の旧道は前回どおり。要所にデープを巻いて行く。

小江小浦の上部、大岩2つ穴防空壕下で昼食。かきどまり総合運動公園の流水路は、ロープを用意してきたので、全員が今回は突破し先の道を探す。流水路の作業現場や工事道路が入り混じり、このあたりの変り様は激しい。納得できる旧道はとうとう見つけきらず、小江原堤近くの市道へ出た。ここもまたリベンジ調査の必要を感じた。

前回の旧車道を柿泊・手熊へ下る。手熊台場、白髭神社、キリシタン墓、アーチ式石橋を見学。手熊バス停で一応解散した。希望者のみ柿泊白浜海岸へ歩く。傘岩、海食洞穴、弁天白浜海水浴場を見てバス停へ出た。浜に打ち上げられた新ワカメが収穫だった。
最後は帰り福田本町の長崎サンセットマリーナ。新パソコンは使い勝手が悪く、切り替えがうまくいかない。サポート終了は8日限り。これは旧に戻して作ったので、報告が遅れた。