諫早市多良見町に残るアーチ式石橋と伊木力往還めぐり  2014年4月

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諫早市多良見町に残るアーチ式石橋と伊木力往還めぐり  2014年4月

2014年4月27日(日)晴。諫早市多良見町に残るアーチ式石橋と伊木力往還めぐり。参加6人。みさき道歩会の例会。20日が雨のため、延期して実施。長崎近郊の石橋めぐりは、西彼杵郡長与町、長崎市船石町に続く3回目。今回は大村殿様道で松ノ頭峠を越す「伊木力往還」の現況調査もする。
大草駅9:47—山川内東跨道橋・山川内橋梁10:29—千々石ミゲルの墓10:56—野川内踏切11:22—幸仏橋11:50(昼食)12:30—重尾—松ノ頭峠13:53—松ノ頭トンネル口14:05—本川内駅14:30(徒歩距離 約8km)

長崎駅9:13発長与経由竹松行乗車。大草駅で降りて伊木力の方へ戻る。琴海中学校先の国道に「千々石ミゲルと見られる墓」の道案内があり、山川内川の上流へ田の中の直線農道を約500mほど遡る。
明治31年開通した長崎本線旧線の高い土手下に、アーチ式の跨道橋や橋梁が近く並んで3つ見える。山川内東跨道橋・山川内橋梁は、造りが大きく立派な切石の放物線アーチで見事である。
3つ目のレンガ造山川内跨道橋をくぐると、右手斜面に「千々石ミゲルと見られる墓」がある。

トンネルを戻り集落内を行くと、伊木力往還の道となる。途中で野川内桁橋を渡り、その小川上線路にレンガ造野川内東橋梁がある。野川内踏切先の下部にも野川内橋梁を確認できる。明治地図によると伊木力往還はこの道と思われるが、今回のメイン「幸仏橋」を見学するため、幸仏集落側へ戻る。
「幸仏橋」は壊れかけたアーチ式の小さな石橋。桜の木の根元にあり現在の橋の右下にある。O氏が渡ったが、大丈夫だった。12:30分まで昼食。

県道脇にあるみかん原木は見ず、そのまま重尾集会所前を通って旧道を松ノ頭峠まで登る。この道が大村郷村記の記すもう一方の往還のようである。トンネル上の琴の尾岳車道入口三叉路のところが、伊木力往還「松ノ頭峠」である。あとは本川内駅を目指して下るだけ。谷間沿いに往還の道が町道として残り、JR松頭トンネルの入口と長与ダム堰堤の鯉流しを見ると、本川内駅はすぐだった。

今回訪ねた石橋の、HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータは、次のとおり。「千々石ミゲルの墓石発見」は、2004/02/28 【共同通信】配信記事。
「伊木力往還」松ノ頭峠部分の推定ルート図は、goo地図利用の入江氏作図(赤は国絵図と明治の地図を基に引いた線で、青は郷村記を基に引いた線)による。

№1,964 山川内東跨道橋(仮称)(石造アーチ橋としてカウント)
諫早市多良見町山川内(やまがわうち)
橋幅:20.34m  径間:6.0m  環厚:61cm
架設:明治31(1898)年頃  JR長崎本線 長崎線
遠目にはRCアーチに見えましたが、立派な切石の放物線アーチです。

№1,963 山川内橋梁(仮称)  (石造アーチ橋としてカウント)
諫早市多良見町山川内(やまがわうち)
山川内川  径間:8.5m  環厚:61cm
架設:明治31(1898)年頃  JR長崎本線 長崎線

№1,962 山川内跨道橋(仮称)
諫早市多良見町山川内(やまがわうち)
橋幅:26.1m  径間:3.65m  拱矢:1.83m
架設:明治31(1898)年頃  JR長崎本線 長崎線
4重巻きたて、アーチ部長手積み、基礎部イギリス積み

№3,779 野川内桁橋
諫早市多良見町野川内(のがわうち)
橋幅:3.9m  径間:0.9m  桁厚:15cm
単径間桁橋

№3,780 野川内東橋梁
諫早市多良見町野川内(のがわうち)
橋幅:13.0m  径間:1.8m  拱矢:0.9m  基礎H:3.6m(下流側)
架設:明治31(1898)年頃  JR長崎本線

№2,622 野川内橋梁
諫早市多良見町野川内
橋幅:m  径間:m  拱矢:m
架設:明治31(1898)年頃  JR長崎本線 長崎線

№1,961 幸仏橋
諫早市多良見町野川内
橋長:3.5m  橋幅:1.3m  径間:2.6m  拱矢:1.3m  環厚:39cm
この橋とばかり思っていたら、その下にちょこんと架かっていました。

千々石ミゲルの墓石発見 没年記され、謎の晩年に光
16世紀後半、九州のキリシタン大名がローマに4少年を派遣した「天正遣欧使節」の1人、千々石(ちぢわ)ミゲルのものとみられる墓石が見つかり、長崎県多良見町教育委員会が28日、発表した。  4人のうち、その墓が確認されたのは初めて。墓石には没年も記されており、町教委は「これまで謎とされたミゲルの晩年やキリシタン史を研究する上で大変に意義深い発見」としている。  墓石は旧大村藩領の多良見町山川内郷の民家裏で、みかん畑に立つ高さ約180センチ、幅約120センチ、厚さ約27センチの自然石製。表側に男性と女性の戒名、裏側に施主としてミゲルの四男玄蕃の名が刻まれ、男女とも寛永9年(1632年)没とあった。 石造物を研究している長崎県立口加高校の大石一久教諭が墓石を調査。家系図をたどり、玄蕃が墓の施主となり得る夫婦を調べた結果、ミゲル夫婦以外あり得ないことを突き止めた。     2004/02/28 03:47 【共同通信】