月別アーカイブ: 2013年2月

長崎の古写真考 長崎古えはがき 牛ノ天満宮

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 牛ノ天満宮

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき
長崎市中川郷牛ノ天満宮

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「長崎市中川郷牛ノ天満宮」は、「桜馬場天満神社」の御神牛だろう。
当時は御神橋脇にあったようだ。戦時中供出され、現在ある銅牛は説明板のとおり、平成4年正月に大久保月光氏らが奉献された。山崎和國氏制作。牛の姿は変わっている。

長崎市新大工町商店街からシーボルト通りへ向かう。商店街を出た交差点のすぐ先の通りの左に鳥居があり、奥へ行くと「桜馬場天満神社」がある。祭神は菅原道真公。創建は慶長12年
(1607)。
御神牛は道真公の生まれ年の縁と、大変可愛がられた牛が、天満宮をお参りしたことから、天満宮のシンボルのようになっている。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1426

長崎の古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口
〔画像解説〕  超高精細画像
立山中腹から市街地北部と湾口を撮影した写真である。撮影年代は、写真左端の梅香崎居留地の埋め立てがすでに完成しているので文久2年(1862)以降、さらに、大浦居留地の端の大浦川に、明治3年に架設される下り松橋(松ヶ枝橋)が見えないので、幕末から明治3年(1870)までの写真である。長崎大学所蔵の、この角度から撮影した写真の中で、最も古い写真である。写真左の松の木の向こうの一群の建物は出島で、変流前の北側から見た出島である。松の木の手前は、長崎奉行所の北役所の建物である。出島から写真右にかけての沿岸部は、大波止から浦五島町、大黒町にかけての沿岸部である。写真右隅が、現在のJR長崎駅付近である。明治10年(1877)起工明治26年(1893)完成の第1次長崎港改修事業による、沿岸部の時津新道がまだ完成していないので、写真の沿岸部は江戸時代の状態であり、それぞれの家の裏側が海に接している。大波止から大黒町にかけての沿岸部には、各藩の蔵屋敷や倉庫業等の規模の大きい屋敷が連なっている。

目録番号:2249 長崎港のパノラマ(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
立山中腹から市街地北部と湾口を撮影した着色写真である。船の配置から(1-35)と同じ写真である。撮影年代は、明治23年(1890)以降明治30年(1897)までと考えられる。写真左中央付近に緑色の木立があるが、その左に県庁舎があり、その右が出島である。出島の端にトラス橋が見えるが、これは第1次長崎港改修事業の中島川変流工事で変流した中島川河口に、明治23年(1890)に架設された新川口橋である。また、出島から大波止・浦五島町・大黒町に至る海岸線に、時津新道が建設されている。写真左側の緑の平地は、旧佐賀藩の砲台であり、海岸線に並ぶ大砲を見ることができる。明治10年(1877)代の写真【目録番号2899(整理番号58-30)】と比べると、海岸線付近の建物が建て変わり、海岸線に向いて長い倉庫群が形成されている。写真下部中央に家並みの中に道路があり、この道路が海と接する付近が、岩原川河口で、河口に架かる岩原橋が見えている。明治22年(1889)の市制施行直後の、長崎市街地北部と、後に内陸化する砲台付近の海岸線が撮影されている。

■ 確認結果

長崎税関では一般の方々に広く税関の役割を知っていただくため、長崎税関本関1階(長崎市出島町)に資料展示室を設けており、どなたでも無料で見学できます。(長崎税関HP)
【資料展示室の主な展示内容】
・長崎税関の歴史  ・税関業務の紹介 ・管内の輸出入品 ・けん銃、不正薬物の密輸の手口 ・コピー(偽ブランド)商品 ・ワシントン条約該当物品 ・引揚者からお預かりした証券類 などを実物や写真・パネルで紹介しています。

「長崎税関の歴史」パネルは、税関の前身である「運上所」下り松派出所の建物の位置などを説明するため、上段にデータベースの目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」、中段に目録番号:2249「長崎港のパノラマ(2)」、下段に「現在の長崎港(長崎市役所提供)」の写真を展示している。
撮影地は、いずれも立山山頂かその中腹となるが、古写真と比較した現在の撮影地は、正しく解明されていない。さまざまな疑問がある現在の写真が紹介されている。

長崎港の全体をなるべく写したかも知れないが、その面では「現在の長崎港(長崎市役所提供)」も、安易な市の提供写真と思われる。
現在の正しい写真が撮影できないならともかく、長崎港口の山の稜線や島々の姿が、古写真の2点と合っていない。長崎市広報広聴課にも、この際、撮影地の徹底した研究をお願いした。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2328

長崎の古写真考 目録番号:4215 長崎港と中町教会(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4215 長崎港と中町教会(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4215 長崎港と中町教会(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
福済寺裏山から長崎市街地北部と長崎港口を撮影した写真である。目録番号2900(整理番号58-31)と同じ場所から撮影したもの。明治29年(1896)に建設された中町教会が写されている。明治32年(1899)7月17日外国人居留地が撤廃され、同年8月要塞地帯法が公布され、長崎市内の写真撮影が禁止された。このために、撮影時期は明治29年(1896)から明治31年(1898)までの間である。安政5年(1858)から撮影され始めた市街地の写真は、明治32年(1899)に禁止になったので、最後の時期の1枚ものの写真である。写真下部は、戦前には国宝建造物(現国指定重要文化財)であった福済寺の本堂の屋根である。中央の赤い煉瓦の建物は、旧大村藩屋敷跡に建設された完成直後の中町教会である。いずれも昭和20年(1945)8月原子爆弾で全壊した。写真右の煉瓦の建物は、煙草専売公社の建物である。写真中央の沿岸部には、海側に向いた倉庫の建物が並んでおり、国内航路により流通する物資が保管されている。長崎大学所蔵の中の写真で、最後の時期になる写真である。

目録番号:5110 長崎福済寺上からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)
〔画像解説〕  なし

■ 確認結果

目録番号:4215「長崎港と中町教会(2)」と、目録番号:5110「長崎福済寺上からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)」を、3枚組のパノラマ写真とした画像を、HP”NAGASAKI GENEI”の「長崎手彩色古写真」で見た。
キャプションは、たしかに左側の写真から「B 205」(この写真はデータベースで見当たらない)、「B 206」、「B 207」とある。

撮影地は、「福済寺」の旧本堂「方丈」(原爆後、向きを変えて再建されている)の後ろ高台墓地からであろう。右側写真の大屋根が「福済寺」の本堂「大雄宝殿」で、現在、萬国霊廟長崎観音が建っている。

これがパノラマ写真に間違いないとすると、長崎大学は撮影年代とも研究を行い、データベースはそのように正しく解説してほしい。この項は、本ブログ次も参照。
中央の写真、目録番号:4215「長崎港と中町教会(2)」の寺の屋根が、「福済寺」の本堂「大雄宝殿」でないことは、すでに指摘していた。
https://misakimichi.com/archives/1885
https://misakimichi.com/archives/1577

三和地区の大ツバキ  市指定「藤田尾のツバキ」ほか

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三和地区の大ツバキ  市指定「藤田尾のツバキ」ほか

長崎半島の樹木で、長年、探しているのは、「ゆうこう」とともに、「ツバキ」の大木である。
茂木地区の「大崎の大ツバキ」が、かつて長崎市天然記念物だった。平成7年当時、すでに極限状態で、枯れ死しすぐに指定が取り消された。幹周り1.2mくらいの木だったろう。
https://misakimichi.com/archives/425

2005年(平成17年)1月、三和町が長崎市に編入した。町指定の「藤田尾のツバキ」(写真 1〜 3)が、長崎市天然記念物となり引き継がれた。
当時の現地説明板は、次のとおり。なお、この30mほど下方の海岸の景色が見えるところに、幹周り1.63mの別のツバキの大木(写真 4)が生える。
https://misakimichi.com/archives/220

指定の理由  藤田尾のツバキ
市内で最大のツバキである。県指定天然記念物”福江の大ツバキ”に匹敵するほどの大きさである。根元より幹は2つに分かれ地上2mのところから大枝を出して樹勢も極めて旺盛である。
指定の参考資料
目通り  1.48m(大) 0.9m(小)  樹 高  11.2m
樹 広  9.7m東西  7.6m南北    樹 齢  推定約300年
根元周り 2.8m

長崎市教育委員会が、平成20年2月に新しく設置した説明板では、次のとおりとなった。
https://misakimichi.com/archives/1573

市指定天然記念物  藤田尾のヤブツバキ
指定年月日  平成17年8月22日(旧町指定年月日 平成元年3月16日)
所在地  長崎市藤田尾町472番地
樹齢約300年(推定)、樹高約11m、根回り約2.8mを測る。根元より幹は2つに分かれ、地上約2mのところから大枝を出している。樹勢は極めて旺盛である。
この地域はヤブツバキの古木が多く、その中でもこの木は最大のものである。
長崎市教育委員会 (平成20年2月設置)

「藤田尾のツバキ」は、根回り約2.8mを測るが、根元から2本の幹がすぐ分かれる。現在では目通り1.8m(大) 1.0m(小)と大きくなっていた。この30mほど下方の別のツバキの大木も、幹周り1.7mくらいだった。
先日、生育条件が同じような三和地区で、2本の大ツバキに偶然出会った。

まず1本は、宮崎町にある(写真 5〜 8)。川原大池先のバス終点「川原木場公民館前」バス停から、左下の集落へ下る。人家が途切れ、農道の行き止まりまで下る。右の石垣に、根か幹かわからないような、複雑にからみあったツバキの古木が生えている。
高さ1.3mの目通りで単純に測ると、大きさは2.2mほどあった。この上で2本の幹に分かれ、分幹は1.2m(大) 1.0m(小)。樹高12mくらいである。

あと1本は、布巻町にある(写真 9〜11)。栄上手前の「元宮公園」バス停から三和病院の左後側へ回る。登りにかかる三叉路で左の道に行くと、民家玄関の登り坂段の石垣に生えている。ツバキの2本の幹を利用し、樹上にベランダ付部屋を建てていた。
これは根元の大きさだが、2.0m(大) 1.3m(小)あった。樹高約12m。

樹形・樹勢は、長崎市指定天然記念物「藤田尾のツバキ」に到底、及ばない。1本の幹だけ比べると、これより幹周りが大きく(計測は再調査要)、珍しい。5年越しの念願が、なんとかかなったような2本の大ツバキの木である。
五島列島の大ツバキは、本ブログ次を参照。
福江の大ツバキ(大窄)  https://misakimichi.com/archives/1072
月ノ浦のツバキ(上五島) https://misakimichi.com/archives/1159
稗ノ口のツバキ(青方)   https://misakimichi.com/archives/1160

飛行船? メットライフアリコ「スヌーピーJ号」

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飛行船? メットライフアリコ「スヌーピーJ号」

飛行船「スヌーピーJ号」は皆様に元気をお届けすべく、日本各地を旅しています。
様々なイベントを上空から撮影したり、社会貢献活動の一環として活用するなど、幅広く登場しています。

飛行船は本日も長崎ランタンフェスティバル会場上空を中心に飛行しています。夜間も飛行するので、ぜひ空を見上げてみてください!
2月4日〜17日 長崎 (係留地は神の島工業団地内)  2月18日〜関東へ移動。
基本的に月曜日・火曜日はフライトをお休みします。

長崎の古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む
〔画像解説〕  超高精細画像
南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である。船の形から、幕末から明治初期の写真である。上野彦馬アルバムに貼られているものである。長崎湾の中央におびただしい数の艦船が結集している。多くの船はまだ機帆船で、近代的な艦船になっていない。このことから、写真の撮影時期がわかる。写真の左手は、飽ノ浦・稲佐地区で、左隅の白い建物の一群は、官営飽ノ浦製鉄所の建物である。その先に、稲佐地区の岬が見えている。右岸側は長崎市街地の沿岸部であり、浦五島町から大黒町である。市街地の北の端が西坂の丘である。右上の山は立山で、山裾の建物は、筑後町の寺院群である。写真正面の岬の突端に聖徳寺が見えている。そこから下、写真中央の海岸線が浦上新田である。その後、明治・大正・昭和と長崎湾の埋め立てが進み、長崎湾のこのような広大な姿を見ることはできない。幕末から明治初期の開港後の雄大な長崎港の姿を撮影した写真である。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2013年2月9日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
5301「南山手より長崎港湾奥を望む」の作品が、「明治初期の長崎港 まさに船の博物館」として掲載された。解説は、
「国内外の艦船でにぎわう長崎港です。1872年ごろ、上野彦馬が撮影しました。外国人居留地の地図で確かめてみると、撮影地はグラバー邸の建てられた3番付近のようです。…」

さて、撮影地は、「グラバー邸の建てられた3番付近」だろうか。長崎大学データベースの「長崎居留地マップ」を掲げるので、考えてもらいたい。
この作品のポイントは、左奥の稲佐山の北東尾根と岩屋山稜線の重なり具合である。撮影地が「グラバー邸の建てられた3番付近」では、高度が高く重なりがあわない。
あと一段下の7番と9番の間の通りを、6番か54番(現在の長崎海洋気象台)の坂段か敷地の高台から撮影しているのではないか。

あと1点は、写真右側の通りの下に、大きな旗竿が立つ。この建物の説明も必要だろう。それによって撮影年代がはっきりしてくる。
この項は、本ブログ次を参照。「長崎今昔」の解説は疑問が多い。少しは本ブログの以前からの指摘を参考として、現地確認などを必ず実施してほしい。
https://misakimichi.com/archives/1894
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/archive/2009/1/6

「みさき道」を歩こう 第5回  2013年2月

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「みさき道」を歩こう 第5回  2013年2月

長崎新聞カルチャーセンター 2012年度後期野外講座 ”「みさき道」を歩こう”。 企画立案 林先生・現地ガイド 江越先生

江戸時代、長崎の人たちは脇岬の観音寺まで七里の道を歩いて、”観音寺詣で”をしました。その道は長崎半島の尾根筋の山間に現在も残っていて、当時の道塚が数本残っています。
観音寺には、唐絵目利きの石崎融恩や出島絵師の川原慶賀らによって描かれた天井絵もあり、往時の豊かな観音信仰の一端をうかがうことができます。

2013年2月9日(土)曇り。その第5回目。長崎バスで亜熱帯植物園サザンパーク先まで行き、岬木場の「長迫」バス停で降りる。モトクロス場や風力発電風車のある所である。
11:00出発。長崎半島東回りみさき道は、殿隠山の鞍部から脇岬へそのまま下るが、きょうは殿隠山ー遠見山ー堂山峠ー水仙の里公園へ尾根を歩く。山歩きを楽しむコース。

殿隠山を下りかけたら、北へ早くも帰るツルの渡りの声を聞いた。木立が切れ、姿が見えたときは、すでに上昇気流に乗って高く舞い上がり、うまく写せなかった。
遠見山(標高259.0m)には12:30着。きょうは曇りだが、樺島沖の正面に鹿児島県甑島列島が望める。眼下の脇岬ビーチロックも、ちょうど干潮のため全体が見えた。

遠見山で昼食後、堂山峠に13:20着。きょうは観音寺へ下らず、のもざき水仙の里公園へ向けて、西北尾根道を進む。普段は歩けないコースだが、草刈りを先月末していた。
堂山峠から1時間ほどで、前野母崎町焼却場の正門手前に出た。あとはのんびり高台からの海の景色や開花した梅を見ながら、車道を水仙の里公園入口のバス停まで下った。

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−49 高鉾島

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−49 高鉾島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
169頁  ⅤⅠ−49 長崎港・高鉾島、1861年、ベルグによるスケッチに基づくリトグラフ
〔図版目録〕
ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作、「長崎の高鉾島」。
アルベルト・ベルグ画に基づくフォトリトグラフ。出典(略)

目録番号: 2922 高鉾島(14)
〔画像解説〕   超高精細画像
大型アルバムの1枚を剥がしたもので、キャプションにG42.TAKABOKO,(PAPPENBERG),NAGASAKIと印字されている。これは横浜の小川一真のアルバムからである。高鉾島の古写真は多いが、対岸の神ノ島側から撮影されたものは少ない。高鉾島は鎖国時代にキリシタンが処刑された殉教の島として外国人に知られていた。写真は、長崎市街の対岸にあたる稲佐側の神ノ島から高鉾島および現マリア観音前を写したものである。岬における海岸近傍の集落の様子がよく撮影されている。右側の海に張り付いた民家は風除けのためかすべて瓦葺きである。船は伝馬船であり、波を避けて内湾に係留されている。畑が海の傍まで切り開かれている。中央の民家は風当たりの強い岬の鼻に立てられ、階段には石段が積まれ、軒先には水甕と桶がみえる。縁側と戸口に干してあるのは穀物であろうか。このあたりは隠れキリシタンが住んだ集落で、「神」の地名が多い。背景右側は香焼島、遠景は長崎半島の山々である。目録番号4084(整理番号79-2)と同じアングルである。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

169頁のⅤⅠ−49「長崎港・高鉾島」は、1861年、ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ。これは長崎港入口の風景である。中央右の大きな島が高鉾島、左は現在、白亜マリア像が建つドンク岩、その横は神ノ島の幼稚園が建つ岬となる。背後の山は天門峰である。

長崎大学のデータベースでは、目録番号: 2922「高鉾島(14)」の解説にある「背景右側は香焼島」側から逆に描いたこととなるが、香焼島の陸地からではなく、高鉾島にまだ近寄ったその沖に停泊していた遠征団艦船の上から描いていると思われる。
当時の写真と違い、スケッチならどこからの船上でもできる。

現在の写真は、伊王島行きの船上から近くを写した。
最後の写真は、ブログ知人キャプテンタッちゃんが、2013年2月21日に海上のポイントで再確認してくれた撮影写真。鮮明に位置関係がわかるだろう。スケッチはデフォルメがある。

南方熊楠が愛した「安藤みかん」  和歌山県田辺市

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南方熊楠が愛した「安藤みかん」  和歌山県田辺市

ブログ知人からコメントがあり、毎日新聞記事(ズーム拡大)に和歌山県田辺市に生育する「安藤みかん」が、掲載されていることを教えてくれた。
とらっぷ・ぱっく ミカン絶滅危惧種  http://blogs.yahoo.co.jp/bear38pooh/67780247.html

南方熊楠顕彰館HPや同顕彰会ブログによると、「安藤みかん」の果実の色・形・切口は写真のとおり。田辺市の指定文化財一覧には、載っていなかった。
四国でも「にたり」「ゆこう」「仏手柑」とか呼ばれるダイダイが交配したような、独特な柑橘類があるが、酸味が強いらしい。
珍しい柑橘を紹介  http://blogs.yahoo.co.jp/toma223rmao5hotmail/56900837.html

ユズとザボンが自然交配してできたとされ、世界のスローフードに認めらた長崎地方の「ゆうこう」(最後の写真)とは、いずれも別種であろう。

もう一度食べたい:安藤みかん 味控えめ、熊楠を魅了
毎日新聞 2013年01月29日 東京朝刊

◇邸内に3代目細々と 復活栽培徐々に
「南方熊楠(みなかたくまぐす)が愛した『安藤みかん』。私は、そのみかんを見たことも、食べたこともないのです。探してもらえませんか」。この松の内、年賀あいさつを交わす電話の向こうから、そんなリクエストがあった。相手は和歌山県湯浅町の矢櫃(やびつ)祐一郎さん(59)。3年前、三宝柑(さんぼうかん)の取材でお世話になった柑橘(かんきつ)農家である。紀州が生んだ知の巨人・熊楠が、その果汁を日本のグレープフルーツとして愛飲したという安藤みかん。地元の柑橘農家でさえ目にすることのない“幻のみかん”を追ってみる。

矢櫃さんが「安藤みかん」の名を知ったのは昨年暮れに発売された月刊「文芸春秋」創刊90周年記念号。特集「歴史を動かした90人」のなかに南方熊楠と安藤みかんのくだりがあったという。
電話のあと、何年か前に読んだ「素顔の南方熊楠」(谷川健一・中瀬喜陽・南方文枝著、朝日文庫)を手にして、私は「アッ」と声を上げた。「安藤みかん」の記述のあるページに付箋がしてあったのだ。

早速、熊楠が明治、大正、昭和の時代を過ごした和歌山県田辺市にあたり、今も残る熊楠邸に「ある」と分かった。紀伊田辺駅から車で10分。訪ねると屋敷内の庭に2本、安藤みかんが植わっていた。熊楠が存命中にあった3本は枯れてしまい、今あるのは1985年に移植したものと、
94年に植えた接ぎ木苗で、いわば3代目。「移植した木は当時のお手伝いさん方にあったもの。ここ2〜3年、樹勢が衰え、実がつかない」と橋本邦子さん(64)。熊楠の妻松枝さんの遠縁にあたり、文枝さん(熊楠の長女)と庭で遊んだ思い出なども語ってくれた。

「庭のみかんは十数年前、文枝さんと一緒に食べたのが最後です。味はどうだった? それがおいしいとは思わなかったのです」と申し訳なさそう。グレープフルーツ代わりにと普及を図った熊楠の思いは「結局は実らなかった」と話す。
94年になって植えた約2メートルの安藤みかんには4個の実がなっていた。イチョウの葉のような黄色。肌がツルッとしている。許可をもらって、根元に落ちていた実を二つ、いただいた。
(以下 略)

長崎の古写真考 目録番号: 978 長崎製鉄所飽の浦工場

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 978 長崎製鉄所飽の浦工場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 978 長崎製鉄所飽の浦工場
〔画像解説〕  超高精細画像
この写真は、飽ノ浦製鉄所の整備された時期の工場を撮影したものである。長崎大学附属図書館には、これより古い写真目録番号5314(整理番号102-20)がある。その写真と比べると、工場内の建物が幾つか建て代わり、また新しい建物が整備されている。長崎が開港する前の安政4年(1857)には長崎港の東側、飽の浦地区(現在の三菱造船所)では、幕府はオランダ人ハルデスの指導のもとに、大型船の建造を目的とした長崎製鉄所の建設を始め、文久2年(1862)に完成させている。この長崎製鉄所は、主に機械施設が中心の工場であった。煙突のある鍛冶場は、ボイラー室で煉瓦造の建物である。右の建物は、日本で最初に鉄製のトラスの小屋組を採用した轆轤盤細工所で、多くの工作機械が据え付けられていた。この写真は、工場を高台から撮影しており、そのために遠景が湾の奥まで見えている。写真左の先にある岬は、稲佐地区の集落である。市街地は写真の左から右にかけて、西坂から、大黒町の砲台場、浦五島町が撮影されている。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2013年2月2日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
978「長崎製鉄所飽の浦工場」の作品が、「飽の浦の長崎工作分局 外国人招き技術移植」として掲載された。解説は、
「1879年ごろ、上野彦馬が撮影した飽の浦の長崎工作分局です。現在の三菱重工業長崎造船所の前身に当ります。…」

さて、撮影者が長崎大学データベースでは、「撮影者未詳」のまま、超高精細画像やこの新聞記事では、「上野彦馬」となっている。〔アルバム名: 上野彦馬〕のため、そう判断されたかも知れないが、 「上野彦馬」撮影とする根拠を具体的に説明してほしい。データベースがいつまでも「撮影者未詳」のままでは、利用者・読者は困惑する。
目録番号で一連の写真976〜984についても撮影者の考えを聞きたい。

次に撮影年代だが、「1879年(明治12年)ごろ」とは、初期の長崎製鉄所の姿からだけで判断されているようだが、作品の黄線部分に注視し、超高精細画像で拡大して見てもらいたい。
丸尾海岸の海軍埋め立て地の建物様子の観点からも、撮影年代の研究を慎重にする必要があろう。明治10年のイギリス海軍の長崎港の海図と明治13年の日本海軍の海図(元は同じ)には埋め立て地に細長い倉庫が1棟だけしかなく、明治17年測図の国土地理院旧版地図には3棟が並んで建っている。

同所を同じように写している「飽の浦恵美須神社写真の成立順序」囂庵氏考察HPにも表れ、このあたりは、古写真研究者の間でも研究課題である。撮影年代の研究も、対象を広げて深めてもらいたい。
この項は、本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/2333