長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
撮影者不詳。大型アルバムに貼り付けられたモノクロ1枚もので、黒ペンによりNagasaki-Posteset telegraphe sur le ‘Bund’,on quai,→Collined’Oura(「バンド」(波止場)における電報電話局、大浦の丘)とフランス語のキャプションがある。これは出島の外海岸から梅香崎の洋館群を撮影したものである。4棟右端は梅香崎1番の長崎郵便電信局(明治19年<1886>に本博多町から移転)であるから、撮影は移転直後の明治20年(1887)頃であろう。以下順に2番デンマークの大北電信長崎局(わが国国際通信の草分け)、3番の日本郵船長崎支店(明治18年<1885>開設)、4番アーレン商会(後の明治36年<1903>に横浜正金銀行が大浦8番から移転)。その左は明治2年(1869)架設の梅香崎橋。その左手の白い建物は梅香崎5番。右端は明治10年(1877)の台風被害から再築された長崎税関の庁舎と倉庫。丘の上には十人町の日本人家屋が立ち並んでいる。

■ 確認結果

目録番号:4864「長崎梅香崎洋館群(1)」の撮影場所は、「これは出島の外海岸から梅香崎の洋館群を撮影したものである」としているが、「古地図から検索」画面のとおり、出島の東側海岸通りから対岸の梅香崎居留地(右から左へ1番〜4番)と梅香崎橋を望んで撮影している。
現在の長崎市民病院あたりとなるだろう。

長崎の古写真考 目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
この写真は、英文で「長崎稲佐の景色」と題されている。飽ノ浦神社(恵美須神社)の境内越しに長崎港を遠望している。同じ写真が上野彦馬のアルバム(66-21)にも収蔵されている。明治初期の撮影と思われる。この写真は、日下部金兵衛写真アルバムに収められている写真である。写真の対象は、恵美須神社の境内とその前に和船が係留されている。写真左側に飽ノ浦の集落とその先に岬がある。対岸は長崎市街中心部の海岸線である。左側の山は金比羅山・立山である。その山裾が筑後町の寺院群であり、山裾の先端付近に諏訪神社がある。海岸線は長崎市街中心部の沿岸部の全域が撮影されている。写真左、岬の先の対岸は西坂付近で、左端が梅香崎付近である。神社の向こうの和船の先に、黒い一艘の船が見えるが、その付近が出島である。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
この写真は英文で「長崎、稲佐の景色」と題されている。飽の浦神社(恵美須神社)の境内ごしに長崎港の風景を遠望している。同じ作品が上野彦馬のアルバムにも収蔵されている。明治初年の撮影と思われる。

■ 確認結果

目録番号:1694「飽の浦恵美須神社(3)」の、超高精細画像データベースは〔撮影者:日下部金兵衛〕となっているが、メタデータ・データベースのとおり〔撮影者:内田九一〕である。明治5年
(1872)、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の1枚。

画像解説中「写真左側に飽ノ浦の集落とその先に岬がある。…写真左、岬の先の対岸は西坂付近で、左端が梅香崎付近である」は、「写真の神社左右が飽ノ浦の集落、左奥に水ノ浦、その先に大鳥崎、稲佐崎の岬がある。…写真左、稲佐崎の対岸は西坂付近である」となろう。
パノラマ写真の2枚目ならわかるが、「出島」や「梅香崎」は、この写真のまだ右外で写っていない。

この項は次の記事を参照。現在の写真は、恵美須神社の場所と背景の山並みがわかりやすいパノラマ写真を掲げた。
https://misakimichi.com/archives/1589
https://misakimichi.com/archives/1588

長崎の古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。

■ 確認結果

目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」の、撮影場所は「鍋冠山」でなく、まだ東方の「星取山」からが正しい。「ドンの山」としている別作品の目録番号:4878「ドン山(から)見た大浦居留地・出島」(掲載略)もある。
現在の写真は、2枚目が「星取山」(山頂は木立となって、古写真どおり確認できない。少し中腹の港ヶ丘パーク墓苑上から写した)、3枚目が「鍋冠山」からである。
大浦川河口と市街地がこのような位置に写るのは、「星取山」からである。

以前から何度となく指摘しているのに、データベースは今となっても撮影場所が、「星取山」からに修正されない。困っているのは利用者や古写真集の出版社である。
最近でも間違った画像解説の写真の提供を受け、そのまま掲載している。長崎大学側は、このような事情がわからないのだろうか。現地確認のうえ、早急に修正すべきである。

4枚目のパンフレットは、2009年4月発行された「長崎さるく幕末編」目次頁。豪華なパンフレット公式資料なのに、左下に堂々と「鍋冠山から望む長崎港(慶応年間)」と説明している。
5枚目の本は、山川出版社が最近、2011年4月25日発行したばかりの古写真集「レンズが撮らえた 幕末の日本」。202頁に掲載された写真は、「鍋冠山からの長崎港」と解説している。

この項は次の記事を参照。いっこうに修正されないので、この作品をあえてまた再掲した。
https://misakimichi.com/archives/1877
https://misakimichi.com/archives/1598
https://misakimichi.com/archives/2736

長崎の古写真考 目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
写真左側が下西山町、右側が片淵である。大手橋の袂から川沿いに、片淵方面へ少し下った所から撮影した写真である。大手橋の袂には、その昔、長崎氏の大手門があったことから川の名も堂門川と呼ばれた。現在は、一般に中島川と呼ばれている。昭和57年(1982)長崎大水害後の災害復旧河川改修工事に伴い、写真中央の川の関は取り壊されてしまった。写真上部、樹木の繁った所の石垣上の建物は、現在の富貴楼である。富貴楼の前身は、千秋亭と言い、寛政の昔から「松森の千秋亭」と言われ、大変有名であった。今も長崎の一流の料亭である。明治20年(1887)頃、長崎を訪れた伊藤博文がここに宿泊した際、女将内田トミの求めに応じて、その名に因んで「富貴楼」と命名したものという。富貴楼の裏口は、松森神社の境内である。樹木の間から松森神社の本殿屋根がみえている。松森神社には、県指定有形文化財「職人尽」の彫刻が本殿を囲む瑞籬の欄間に飾ってある。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
写真上部の建物は現在の富貴楼にあたる。現在は西山川と称されているこの川の周辺はこの写真の景観とは非常に異なっている。背後に写っている山は金比羅山である。

■ 確認結果

目録番号: 650「中島川風景下西山町辺り」は、〔画像解説〕で「川の名も堂門川と呼ばれた。現在は、一般に中島川と呼ばれている」と説明しているが、中島川本流は二股から右へ上がる。
堂門川なら、メタデータ・データベースの解説どおり「現在は西山川と称されている」とし、中島川支流である説明をした方が良いと思われる。

長崎の古写真考 目録番号: 365 茂木街道(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 365 茂木街道(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 365 茂木街道(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠にある場所が田上であり、途中の休息をとるために茶屋ができた。そこを過ぎると、茂木街道は一気に、長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。また、この峠を分水嶺として茂木において橘湾に注ぐ、若菜川が流れている。この写真は、茂木に下る川の街道を撮影した、明治10年代のものである。明治時代になり茂木街道を、人力車や荷車が通行する近代的な道路に改良する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。しかし、街道はまだ人力車が通行可能な近代的な道路となっていない。外国人居留地が建設された当時、外国人が茂木に行く楽しみの一つは、日本の田舎の穏やかで美しい自然に触れることであった。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
茂木街道は長崎から茂木への街道。写真はこの街道途中にある田上を撮影。田上はこの街道の峠になり、街道の要所であった。

■ 確認結果

目録番号: 365「茂木街道(1)」は、〔画像解説〕で「この写真は、茂木に下る川の街道を撮影した、明治10年代のものである。明治時代になり茂木街道を、人力車や荷車が通行する近代的な道路に改良する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。しかし、街道はまだ人力車が通行可能な近代的な道路となっていない」と説明している。

これは誤認だろう。街道のように見えるのは、実は水車の水路である。明治20年(1887)6月開通した人力車や荷車が通る茂木新道は、写真外の右側を通っている。
茂木新道から見た若菜川支流河平川にあった水車小屋の風景となる。したがって、撮影年代はその後と考えられる。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1521

長崎の古写真考 目録番号: 328 大浦海岸通り(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 328 大浦海岸通り(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 328 大浦海岸通り(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
小川一真アルバムの一枚。大浦海岸通りの洋館群が海上から撮影されている。右の橋は明治22年前後に架替えられたポーストリングトラス橋の下り松橋(松ヶ枝橋)で、元の橋は明治3年(1870)に架けられた。建物は右から大浦11番ドイツ領事館、10番は外国人の社交場であった長崎クラブ、9番は2棟あってスタンダード・オイル、8番は空き地で7番はホーム・リンガー商会、6番はイギリス領事館、5番はジャディ・マセソン商会とヴェランダ付き2階建て洋館が続いている。大浦10番の前には電信柱が見える。長崎電灯株式会社ができたのは明治22(1889)年4月で、電信柱は26年(1893)から建てられたので、この写真はそれ以降の撮影である。この建物の屋根越しに明治15(1882)年建築のラッセル館(現活水学院)とその尖塔が見える。海上の小船は大船に荷物を運ぶサンパン。街路の中央(文久年間に埋め立て拡幅)の松の木は大きく成長している。撮影は20年代後半。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
明治中期の大浦海岸通りを撮影した写真である。通りには街灯が設置され、街路樹が植えられている。通りに面して商館や領事館が整然と並んでいる。当時の質の高い景観を見ることができる。手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)。 

目録番号:4732 大浦海岸通り(6)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
作者不詳の大型蒔絵アルバムの1枚でBUND NAGASAKIと印字。ほかの写真の撮影時期から推測して、明治25年(1892)頃、海上から大浦バンドを撮影したものである。右手に少し写っているのが大浦11番のドイツ領事館。10番は居留地の外国人社交場であった長崎クラブ。以下9番スタンダード・オイル。次の洋館も地番は9番である。目録番号328(整理番号8-2)の写真と較べるとこの横の洋館がない。8番は空き地で7番がホーム・リンガー商会。次の旗竿が立っている緑壁の建物が大浦6番のイギリス領事館、5番のピンク壁の大きな洋館にはアジアにおけるイギリスの大商社ジャディ・マセソンが入居していた。丘の上には明治15年(1882)新築のラッセル館(旧活水学院木造本館)が見える。大浦10番の長崎クラブの前には電信柱が見えるが、これは明治26年(1893)以降長崎電灯株式会社が設置したものである。街路の松木の高さを比較することで類似写真の新旧が判る。

■ 確認結果

目録番号: 328「大浦海岸通り(1)」の〔画像解説〕で、超高精細画像データベースは、「海上から撮影されている」とあるが、「下り松橋(松ヶ枝橋)」手前の突堤から撮影できたのではないか。
旧長崎税関下り松派出所(現長崎市べっ甲工芸館)の6番波止と思われる。

メタデータ・データベースは、「手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)」と解説している。「下り松橋(松ヶ枝橋)」でないか。建設年代を記すのは、いかにもこの鉄橋?が明治3年に造られたように取られる。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1539

目録番号:4732「大浦海岸通り(6)」も、海上からではなく、同突堤からだろう。

長崎市教育委員会編「長崎古写真集 −居留地編ー」平成15年刊第3版の62,63頁にも同じような写真が掲載されている。141頁図版解説では、両作品とも「下り松南側の波止から撮影したもの」となっている。 

「幕末・明治期古写真超高精細画像データベース」の改善について

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「幕末・明治期古写真超高精細画像データベース」の改善について

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の”このサイトについて”をクリックすると、「幕末・明治期古写真超高精細画像データベース」も閲覧できる。
長崎の写真201点、長崎を除く全国の写真300点を登載する。最近、構築されたデータベースか。これまでとシステムが変っている。

「ベストショット」では、日本の面影・長崎の面影、「古地図から検索」では、長崎湾周辺・中島川周辺・長崎居留地付近、「古写真を探す」では、撮影者から探す・撮影年代で探す・撮影地域で探す・条件を指定して探すことができるが、構築が不完全で問題点が多い。メタデータ・データベースの最近の追加作品が入っていない。改善をお願いしたい。

■ 確認結果

「古地図から検索」では、古写真を撮影した地点と向きを、拡大地図に赤丸ポイントで示しているが、実際の作品と合わないのが多い。メタデータ・データベースでの修正が反映されていない。拡大地図へすぐ戻れない。拡大地図は、主な地名や山名をはっきり表示しないとわかりにくい。

「古写真を探す」では、撮影者・撮影年代・撮影地域で検索できるが、検索結果の出方がおかしい。例えば「上野彦馬」は70件あるが、最初の30件のみ。Nextないし2頁以降は全体の撮影者の画面となる。その他の撮影者や撮影者未詳も検索できるようにしてほしい。
撮影地域検索は、地図ではわかりにくく地名を表示してほしい。撮影者・撮影年代・撮影地域検索とも、1件を見た後、前後の作品へすぐ進めない。

1例として、メタデータ・データベースの目録番号:2886「中島川と編笠橋(2)」の作品について見てみよう。超高精細画像データベースでのタイトルと画像解説は次のとおり。
この項は次の記事末尾で指摘済。 https://misakimichi.com/archives/2339

2886 中島川と風景(3)
右岸に料亭、その先の阿弥陀橋袂に電柱、奥の白い塀の大きな木がある屋敷は明治15年(1882)に新築された上野彦馬邸(上野撮影局)、左岸の阿弥陀橋の森は伊良林の水神社で、江戸時代に上水道として敷設された倉田水樋の水源である。その手前家の1階の屋根には「時計工」の看板が見える。目録番号341(整理番号8-15)と比較すると、写真手前、川に作られている「水汲場の枡」が新しくなって、写真が新しい。高麗橋上からの撮影で、電柱が立っていることから明治20年代後半の銭屋川(中島川)の風景である。阿弥陀橋は、伊勢町-八幡町間に、元禄3年(1690)日本人町人「園山善爾」が私費で架けた長さ13.4m、幅4.5mのアーチ石橋である。昭和57年(1982)の長崎大水害で被害を受け、災害復旧の河川改修工事でコンクリート橋に変わった。復元を条件に解体されたが、野積のまま放置されている。早く復元して保存したいものである。

これは、次の「2194 中島川と風景(2)」の解説と同じである。写真は「編笠橋」が正しいので、メタデータ・データベースでは、目録番号:2886「中島川と編笠橋(2)」と修正されたのに、超高精細画像データベースでは、タイトルや画像解説がそのままとなっている。

「幕末・明治期古写真超高精細画像データベース」に登載のある作品で、画像解説に疑問があるものを、以下の記事で取り上げてみたい。これまでの「古写真考」と少し重複する作品もある。

長崎の古写真考 目録番号:6075 海上からの出島パノラマ組写真(1) ほか (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6075 海上からの出島パノラマ
組写真(1) ほか (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6075 海上からの出島パノラマ組写真(1)
目録番号:6076 海上からの出島パノラマ組写真(2)
目録番号:6077 海上からの出島パノラマ組写真(3)

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版きのう2011年(平成23年)7月2日付”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「出島の変遷」(クリック拡大)。
「1874年末、大浦沖から撮影された3枚組みの出島のパノラマ写真と、スチルフリード・アルバムに収載された77年ごろの出島です。…」と解説している。

長崎大学データベースでは、上記目録番号の上野彦馬撮影とした「海上からの出島パノラマ組写真」の3枚組の作品である。スチルフリード・アルバムにある写真は、データベースでは見当たらない。
新聞記事の解説では、撮影者の明記がないので、上野彦馬作品でないことが判明したのかも知れない。あと1つは、撮影した場所を「海上からの」に代わり「大浦沖」と解説している。

当時のカメラと技術で、はたして「海上」ないし「大浦沖」、すなわち船の上から、写真をブレることなく撮影できただろうか。どの写真もちゃんと陸上から撮影できる場所があったと思われる。
この項は次の記事を参照。https://misakimichi.com/archives/1924

新聞記事でいうと、パノラマ写真の左側を、スチルフリード・アルバムに収載された下の対比写真「1877年ごろの出島」が、3年経過してもまったく同じように出島を撮影している。
写真右下隅に突堤か海岸通りの縁石みたいなものが写っているのが、その証明となるのではないだろうか。

現在の写真は、大浦海岸通り松が枝橋先、山の見通しが良い「松が枝国際観光ふ頭」入口の陸橋上(現在は撤去されている)から写した。出島はこの写真では中央、長崎県美術館やAIG長崎ビルの後方あたりの位置となる。

長崎の古写真考 目録番号:5360 悟真寺(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5360 悟真寺(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5360 悟真寺(3)

目録番号:5340 悟真寺(2)

目録番号:6261 稲佐の悟慎寺

■ 確認結果

目録番号:5360「悟真寺(3)」は、次の目録番号:5340「悟真寺(2)」と同じ写真である。〔撮影者:上野彦馬〕であろう。
目録番号:6261「稲佐の悟慎寺」は、寺名「悟真寺」が正しい。

長崎の古写真考 目録番号:6678 長崎のパノラマ(10)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6678 長崎のパノラマ(10)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6678 長崎のパノラマ(10)

■ 確認結果

目録番号:6678「長崎のパノラマ(10)」は、2011年6月28日NBC長崎放送”あっ!ぷる”きょうの特集「JIN−仁−がやって来た長崎」で紹介された古写真。タイトルは「小島養生所(精得館)と長崎市街地」となっていた。撮影年代1863年、撮影者未詳。

JIN−仁−は長崎を訪れ、「精得館」でポンペのあとを継いだボードインから西洋医学を学んだ。NBC林田キャスターが、古写真の撮影場所を探していたが、番組では撮影場所を間違って放送した。
私が探した撮影場所は、上の写真の所。活水女子大学上の校舎正門前の十人町10街区「サンシャイン東山手」からが、全体の景色を見通せる。実際はもう少し近づいた下の場所からだろう。青空の日に撮り直したい。

長崎大学データベースの「小島養生所」他の作品と、「養生所跡」碑は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1607
https://misakimichi.com/archives/2184
https://misakimichi.com/archives/98

(2011年12月13日 追記)
きのう長崎市坂本1丁目、長崎大学医学部を訪ねた。正門を入って右側に「良順会館」が、創立150周年記念事業により2007年建設されている。
1Fに「150周年ミュージアム」が設けられており、目録番号:6678「長崎のパノラマ(10)」が「精得館と長崎の街並」のタイトルで展示されていた。
同解説は、追加写真のとおり。撮影場所は「活水女子大学と海星高校の間付近からの撮影」と説明している。私の推定とほぼ違わない。