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長崎の古写真考 マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて(再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考
マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて(再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第三章 茂木  35P  茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて
茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下でくつろぐマンスフェルト一行の人夫たち。まだまげを結っている男性が多い。次ページの写真とあわせてみると、一行は茂木滞在中、この元庄屋宅を宿舎にしたように思われる。熊本からの旅行中であろうか。
016 1872年頃 マンスフェルトか サイズ/205mm×156mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行されている。
35P「茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて」は、木の背後に薄く写る山が、茂木の汐見崎の稜線と同じだから、撮影場所は「茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下」に間違いないと確認できる。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3490

さて、この作品が、朝日新聞長崎地域版きょう2012年12月22日付”長崎今昔 長大写真コレクション”に、「マンスフェルトの荷物運び」として掲載された。解説は、
「1871年ごろ撮影された、休息する荷駄運びの労働者たちです。場所は茂木の庄屋、森岡平左衛門の屋敷前の海岸沿いです。…熊本からの船旅を終えて茂木に上陸したマンスフェルトは、船から宿、さらに日見峠を越えて長崎に荷物を運ぶために多くの労働者を雇わなければなりませんでした」

オランダ人医師マンスフェルトは、小島養生所および精得館を引き継ぐ長崎医学校の3代目の校長だった。5年の任期を終え1871年、3年間の契約で熊本古城医学校の創始にかかわった。長崎滞在中、あるいは熊本時代も含めて、中型カメラを持参して茂木を旅行した。
この作品の撮影年代が、新聞解説では「1871年ごろ」と変わったが、はっきり確認できる記録がないものだろうか。

新聞解説の撮影場所は良いとして、後段の「茂木に上陸したマンスフェルトは、船から宿、さらに日見峠を越えて長崎に荷物を運ぶため」は、「田上峠」の単純な誤りではないか。
執筆者の解説には、疑問とするものが多く、解説がそのつど変わる。朝日新聞社でも事前にチェックを入れてもらわないと、大学・新聞社とも権威が疑われる。訂正記事が必要だろう。

武功山の刻み石  長崎市鳴滝3丁目

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武功山の刻み石  長崎市鳴滝3丁目

本河内または鳴滝から武功山を通って、烽火山へ登る登山道がある。大荷床手前の高いピークが武功山である。標高は340mくらい。山道の登りで1時間以上かかる。
先日、陸門氏(長崎歴史文化協会員)から、武功山のピーク岩背面に「徳太郎」「深山」らしいと読める字の刻みがあった。お堂があった跡らしく、越中・原田先生に聞いてもわからず、刻字の文献がないか、問い合わせがあった。

武功山までの途中には、近年の長崎私有林と水道用地標柱を10本ほど見る。各ピークの上には、自然石を地蔵のように積んでいたのを3ヵ所見るが、刻字まではこれまで岩面を気をつけて見たことがなかった。
中尾氏が調べてくれた。松浦東渓が文化8年(1811)脱稿したという「長崎古今集覧」の、森永種夫氏校訂昭和51年発行長崎文献叢書上巻348頁に、次のとおり「武功山」の記述があるが、これ以上はわからない。

武功山附仙人巌

図志曰鎮東北俗名二 向分(ムカイブン)一 松樹鬱蒼翠色一、乃為二 真道ノ旧塁一 中有二 仙人巌臥龍松斑虎石石鞍山刀落(ナタオトシ)之境 ○又曰仙人巌在二 武功山旧塁之東一 臨二 一瀬渓一 万治中樵夫適見二 一老人一 朱顔白髪草衣而座二 巌上一 還聞二 里胥即発レ 衆偏訪竟不レ 見二 其蹝一 因白レ 官或云山神時見レ 形也其後土人往々遇老人蘿衣扶レ 杖而立 △真道ハ長崎七家ノ一

私も武功山へ登り、ピーク岩を確認したが、背面に字らしきものは見つけきれなかった。手前の地中に埋もれた別の丸い石に、「奉」の字がかすかに浮き出ていたようなのは確認できた。
後日わかったのは、刻字がある石は、積み上げた下の大きな方の石。裏面に小さき字で、「徳太郎」と刻んでいるのは読めた。 

「ミニ眼鏡橋」が48年ぶり諫早市へ里帰り  諫早市高城公園

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「ミニ眼鏡橋」が48年ぶり諫早市へ里帰り  諫早市高城公園

長崎新聞ホームページ:【県内トピックス】2012年12月20日記事は、次のとおり。
いきさつは、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3033
写真の後ろは、1957年の諫早大水害後、諫早公園に移築されている国指定重要文化財「眼鏡橋」と、本明川に架かっていた頃の場所。うなぎ割烹「北御門」近く、現在の橋が架かっている。

5分の1の「ミニ眼鏡橋」

諫早市高城町の諫早公園にある国重要文化財「眼鏡橋」の5分の1サイズの縮尺模型「ミニ眼鏡橋」が、眼鏡橋近くの高城公園に復元され19日、現地で竣工(しゅんこう)式があった。
ミニ眼鏡橋は1957年の諫早大水害後、本明川に架かっていた眼鏡橋を諫早公園に移築する際、誤差や強度などの技術的データを収集するため造られた。64年に埼玉県所沢市のユネスコ村に譲渡されたが近年、諫早市の市民団体「ミニ眼鏡橋の里帰り委員会」が里帰り運動を展開。昨年12月に同市に戻り、7月末から復元作業を続けていた。

ミニ眼鏡橋は長さ約10メートル、幅約1メートルで、請け負った県建設業協会諫早支部が精巧に復元。復元場所は眼鏡橋正面にある芝生広場の一角で、見る場所によっては”親子眼鏡橋”になる。今後は市が管理し、渡ることはできない。
竣工式では高尾茂会長は「眼鏡橋は諫早のシンボル。親子橋として地域振興に役立てていきたい」とあいさつ。宮本明雄市長も「里帰りは諫早の誇りが取り戻せた感がある。後世に受け継いでいきたい」と話した。里帰り記念として、諫早中央保育所の園児が舞を披露した。

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 227P 医学伝習所址

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 227P 医学伝習所址

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部 「写真の開祖 上野彦馬」

227P — 医学伝習所址 文久元年(1861)8月養生所・医学所として、小島に開院した。
260P — 長崎市万才町・医学伝習所跡

■ 確認結果

「写真の開祖 上野彦馬」の、第2部解説編にある2枚の同じ小写真。「医学伝習所址」碑は、長崎奉行所西役所の地、万才町に設置されており、260Pの解説が正しい。
同碑は、現在、農林中央金庫設置「旧外浦町由来」に変わり、文中に医学伝習所があったと記している。
「改定郷土史事典42 長崎県」(石田 保著/昌平社発行)による説明は、次のとおり。

医学伝習所

安政(1857)4年8月、海軍伝習所の医官としてポンペが渡来した。幕医松本良順の二人を中心に医学の伝習所が形づくられていった。翌9月、長崎奉行所西役所の一室でポンペは医学の講義を始める。
聴講者は良順ら14名であった。翌日からポンペが作った講義時間表によって講義が進められ、物理学、化学、包帯学、解剖学、組織学、生理学、治療学、調剤学、内科学、外科学、眼科学の順で、時間があれば、法医学、医事法制、産科学をすることにしていた。
西役所の一室では狭くなったので、安政4年11月、大村町の高島秋帆邸内の一棟を借りて医学伝習所をそこへ移した。
同5年5月、中国経由で入国した米軍艦ミシシッピ号の船員にコレラ患者が発生した。この船は下田沖で吉田松陰らが密航しようとして乗りつけた船であるが、コレラは長崎から日本の西半分の地域に蔓延することになった。
ポンペは学生たちと共に日夜治療に当たり、奉行所を動かし、予防法を通達させた。 10月にいたりようやくコレラは衰えたが、江戸では数万の死者を出した。コレラ流行を機に、ポンペは医学伝習所の設立を幕府へ要請した。
安政6年8月、ポンペは死刑囚の死体解剖を実施した。これは奉行所の強硬な交渉によって許可されたもので、実習は西坂刑場で行われた。46名の学生が参加、うち女性1人、シーボルトの娘イネであった。この解剖は3日間、早朝から夕暮までかかった。
幕府がポンペの要請によって病院の設立を認めたのは安政6年のことであった。名称は「養生所」とし、場所は小島郷(長崎市西小島町)に決まった。
文久元(1861)年7月、小島養生所は完成した。病棟2棟(各8室)、隔離患者室、手術室、薬品機械類備付室、料理室、浴室、運動室などがあった。
ポンペは、後任のボードウィンが着任したので、文久2年9月、長崎を去った。日本滞在5年であったが、種痘の公認、梅毒検査、公娼制度廃止を唱えるなど多くの功績を残している。その門人たちは、すべてが明治の医学界を背負って立った人々である。
小島療養所は現在の長崎大学医学部の前身となった。

稲佐山南尾根から立岩権現岩へ縦走  2012年12月

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稲佐山南尾根から立岩権現岩へ縦走  2012年12月

2012年12月16日(日)晴れのち曇り。稲佐山南尾根から稲佐山(標高340.3m)・立岩権現岩へ縦走。みさき道歩会の例会。参加10人。本年最後の山行。
飽の浦公園9:40—飽の浦峠(入船が丘)10:10—南尾根岩10:51—稲佐山展望台
12:10 昼食 13:00—ドッグラン13:24—権現岩14:10—立岩神社 15:24(徒歩距離 約8km)

飽の浦公園から飽の浦峠(入船が丘)へ里道を上がる。廃屋が目立つ坂道。高部の道脇、昔の防火水槽後ろに陸軍省要塞標が残る。この見学もきょうの目的。
峠から稲佐山の南稜線へ登る。岩場が多く危険なコースだが、展望が良い。
「世界新三大夜景」に認定となった稲佐山山頂展望台の、リニューアルぶりを見に行き、広場で昼食。ハート石あり。テレビ塔も統合されすっきりし、歩道がプロムナードに整備されていた。

午後は大駐車場の方へ下り、ドッグランのところから、権現岩の縦走道へ入る。山頂から約1時間歩いて権現岩の上部に立つ。長崎港は見えなくなるが、長崎市街北部を一望する。遭難碑は長崎南稜山岳会の碑。危険なので早々に退散。
下の方には、ローソク岩やどんく岩と呼ばれる岩がある。西城山の立岩神社まで下って解散。
宮さんの参加ブログ記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/30383933.html

欧陽雲台の墓  長崎市東立神町

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欧陽雲台の墓  長崎市東立神町

長崎在住の有力唐人貿易商であって、輿福寺創建当時の代表的な壇越(檀家、檀那)の一人として有名な欧陽雲台(唐通事陽氏祖)の墓が、東立神墓地内にある。
現地説明板は次のとおり。

歐陽雲臺の墓について

歐陽雲臺を祖とする
正保参年(1646)友人萬國鼎拝贈
雲臺歐陽公之墓
孟冬吉旦孝男摠三郎孫 虎之助 摠太郎 泣血立
一、雲臺歐陽公 この人が何時渡来したかはつきりしない 譯統譜の唐年行司始之由緒につぎのようにある
一、慶長(1596)年中より住宅唐人之内唐年行司役被仰付候由愽承候得共 來暦相知れ不申候
一、寛永十二亥年(1635)榊原飛騨守仙石大和守様御在勤之節 住宅唐人之内 歐陽雲臺何王官銀七官張三官何八官陳奕山此の六人に唐年行司役被仰付候
右のように書かれているので長崎住宅唐人形成初期の有力者であつたのだろう 正徳五年(1615)成立の長崎図志によると興福寺は昔皆吉氏の廃宅であったのを元和(1615)の初め歐陽氏が買つてこれを別荘としたと書いてある また 後述するこゝ立神墓地も或るいは別荘の跡とも考えられる
相当の資産家であったと思われる資料は見当たらないが最初は貿易商人であったと
想像される
陽氏  過去帳は次のようになつている。
生保三年(1646)歳在丙戌孟冬十有五日
即世辰忌
開祖 福建省漳州府 歐陽雲臺公
寛政七年(1795) 乙卯十月十五日値百五十遠忌
命日は十五日である
この過去帳によつて 歐陽雲臺は
福建省漳州府の人であつた
平成七年十月参百五十遠忌資料収集 中村記

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 135P 立山立親館

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 135P 立山立親館

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 135P

243 — 立山立親館 明治30年(1897)頃撮影。

■ 確認結果

「写真の開祖 上野彦馬」は、立山「立親館」と解説しているが、長崎県会議事院兼迎賓館だった「交親館」が正しい。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による長崎県立長崎図書館の沿革は、次のとおり。現在の県立図書館建物は、1960年(昭和35年)建築。1968年(同43年)増築。

明治
1894年(明治27年) – 安中半三郎、香月薫平らによって長崎文庫が設立。
1909年(明治42年) – 小学校教員学力補充のため、長崎県回覧文庫を設立。
1912年(明治45年)6月1日 – 回覧文庫を基に、県立長崎図書館を創立。
・場所 – 長崎市新橋町(現:諏訪町)の県有家屋
・蔵書 – 2,400冊
・初年度利用者 – ひと月平均239名
大正
1915年(大正4年)8月10日 – 永山時英が初代専任館長に就任。
・11月25日 – 長崎市上西山町(現在地)に移転し、開館。
御大典(大正天皇即位)記念として、諏訪公園の交親館(県会議事院兼外賓接待所)を改修。書庫を増築。長崎文庫図書が寄贈される。
・11月28日 – 落成式を挙行。

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 130P 小菅造船所

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 130P 小菅造船所

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 130〜131P

227 — 小菅造船所 明治10年代(1880)撮影。フランス人、ワンサン・フロランの指導のもとに着工し、明治15年5月完成。エントツの建物はポンプ室。現在の三菱造船所。

目録番号:3863 立神ドック(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
この写真は、長崎市街地の長崎港を挟んで西岸の立神にある、三菱会社の立神ドックである。写真右側の海の向こうに東山手居留地が遠望できるが、東山手の丘の上にすでに活水学院の明治15年創建のラッセル館が見えている。明治10年(1877)代後期の写真である。目録番号4729(整理番号93-21)の写真は、ほぼ同じ角度から撮影した写真であるが、施設の整備状況からみて、こちらの写真が5年程経たものである。ドックハウスが完成し、ドックの周りにさまざまな施設が整備されている。ドックには修理のために、戦艦が入っている。立神ドックは明治7年(1874)、フランス人技師ワンサン・フロランの指導によって構築され、明治12年(1879)に竣工した。長さ135.7m、幅33.4m、深さ、11.6mの本格的なドックである。明治17年(1884)7月長崎造船局は三菱に払い下げられ民営になった。写真は明治20年(1887)代の、三菱会社に払い下げられた後の立神ドックを撮影した写真である。

■ 確認結果

「写真の開祖 上野彦馬」は、「小菅造船所」と解説しているが、目録番号:3863「立神ドック(1)」のとおり、「立神ドック」が正しい。
長崎港を挟んで、立神の対岸側が小菅であり、ソロバンドック(小菅修船場)がある。

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 122P 寺町晧台寺後山の墓地

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 122P 寺町晧台寺後山の墓地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 122P

212 — 寺町晧台寺後山の墓地 明治10年(1877)頃撮影。彦馬の墓所でもある。

目録番号:767 長崎の墓地(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
F.ベアトによる書き込みに1866年3月とあって、撮影者と時期が判明する。ベアトは長崎では墓地をよく撮影していたが、これは春徳寺墓地の一葉である。春徳寺は、もとトードス・オス・サントス(ポルトガル語で諸聖人の意)という永禄12年(1569)に創設された長崎最初のカトリック教会があった場所で、現在は県の史跡に指定されている。この教会が慶長19年(1614)に破壊されたあと、寛永17年(1640)にそれまで岩原郷にあった寺を移転して創建したという、臨済宗の寺院である。その墓地は、境内から裏山に広がり、そこには著名な「東海の墓」(県指定有形文化財)もある。現在は墓域が再整備されているため、画面の位置を特定することは難しいが、地形からすれば「東海の墓」の裏手あたりか思われる。左上の樹叢が長崎氏の城跡「城の古趾」に連なるのであろう。ベアトの別の一葉の解説では、春徳寺を「“SPRING VIRTUE” TEMPLE」とも訳していた。

■ 確認結果

撮影された長崎の墓地が、「写真の開祖 上野彦馬」では、寺町「晧台寺後山の墓地」、ベアトコレクションでは、夫婦川町「春徳寺墓地」と解説が異なっており、現地調査した。
双方が見落としているのは、目録番号:767「長崎の墓地(1)」を超高精細画像で見るとわかるが、墓地背後に大きな谷間の集落があり、上まで耕された山の稜線がうっすらと写っている。
どの山だろうか。確認が必要ではないか。
現地へ行っても、どっちもどっち。はっきりした確証が得られない。カメラがこのように立てたか、墓地の地形も問題となる。

私の感じでは、背後の稜線から鍛冶屋町「大光寺墓地」が、最も考えられる(写真6)。上野彦馬はベアトと大光寺を訪ねた写真が残る。このあたりから小島養生所方面も写している。
筑後町「福済寺墓地」は、少し違うようである(写真7)。
古写真左下に写る地蔵の列の道や、墓碑で明らかに読める「足巌良正居士」「圓徳院殿興岳永隆居士」が残っていないだろうか。撮影場所となった墓地の研究をお願いしたい。
ベアト撮影では、別の次の写真を長崎蛍茶屋の墓地と確認している。
https://misakimichi.com/archives/2829

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 118P 高島礦業所二子坑立坑 ほか

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 長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 118P 高島礦業所二子坑立坑 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 118〜121P

208 — 高島礦業所二子坑立坑、現在の三菱高島礦業所 明治初年撮影。
209 — 高島礦業所二子坑、石炭積込み桟橋、船は石炭積取り船、手前は坑内で使用する坑木 明治初年撮影。
210 — 高島二子坑、石炭積込み桟橋、右前方は沖之島 明治初年撮影。(掲載略)

目録番号:2415 高島炭鉱南洋井坑

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

■ 確認結果

長崎県立図書館に郷土資料として、「写真の開祖 上野彦馬」があった。産業能率短期大学出版部が昭和50年発行。上野一郎氏も監修。上野彦馬研究の第一級機関である。
古い写真集で、今ごろ取り上げるのはどうかと思うが、解説の疑問を数点、説明する。ほかの写真集が、この間違いをいつまでも引きずり出版されている。
地元長崎として困っているので、写真所蔵先日本大学芸術学部とも、早く本元において研究をお願いしたい。

この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3480
https://misakimichi.com/archives/2763
https://misakimichi.com/archives/1619

208「高島礦業所二子坑立坑」は、「南洋井坑」ではないか。
209「高島礦業所二子坑、石炭積込み桟橋」は、「尾浜坑の石炭積込み桟橋」ではないか。
210「高島二子坑、石炭積込み桟橋、右前方は沖之島」は、「北渓井坑」の石炭積込み桟橋「南風泊港」ではないか。したがって右前方は「飛島」、左後方が「沖之島」である。