練習用」タグアーカイブ

景観まちづくりトーク&ウォーク 「俵石城の縄張り構造と深堀氏」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

景観まちづくりトーク&ウォーク 「俵石城の縄張り構造と深堀氏」

かつて深堀地区の城山に存在した俵石城(たわらいしじょう)と深堀氏の関係性についての講演を聞き、実際に俵石城跡まで歩きます。
<期日>  2月24日(日)
<時間>  午前10時〜午後5時 ※講演は午前10時〜正午
<場所>  深堀地区公民館(深堀合同庁舎)
<講師>  木島孝之氏 九州大学大学院 助教・城郭研究者

「俵石城の縄張り構造と深堀氏」
九州大学の木島孝之先生が長崎市深堀にある俵石城について講演。ここ30年ほどの城郭研究では「縄張り研究」が盛んです。この研究の特徴は,城郭の縄張り(曲輪・堀・土塁・石垣等の土木物や建築物で構成される城郭のかたち)の構造に着目し,史料として活用する点にあります。この「遺跡から読み解く」手法は当たり前!と思われるかもしれませんが,城郭研究ではほとんどされてきませんでした。
講師の木島先生はこの視点から研究を行っている研究者です。木島先生は学生時代から文献を読み解くというよりは,あちこちの山城に行って発掘をしている!というスタイルでした。

2013年2月24日(日)快晴。景観まちづくりトーク&ウォーク「俵石城の縄張り構造と深堀氏」に参加した。資料概要は次のとおり。
〔1〕はじめに
〔2〕俵石城の縄張り構造
現存遺構の成立時期
・俵石城の創始は鎌倉中期頃とされるが、当城に限らず、当期の城郭の実態は全国的にも全く不明。
・戦国後期に出現する畝状堅堀群が存在。西海地域の城郭では最も発達した部類の石塁技術を持つ。
・織豊系の縄張り技術(枡形、食違虎口、横矢掛り、4mを越す高石垣、割肌・矢穴石垣、畿内系瓦など)がみられないー豊臣政権期以降の土木的な改修は特に行われていないと考えられる。
⇒俵石城の現存遺構の成立時期は、戦国後期ー16世紀後半(永禄〜天正期中期)とみるのが妥当。
〔2−1〕俵石城の縄張りの形態
①高山上に立地…戦国期城郭では比高300mのものは高山の部類に入る。
②地形に沿った楕円形状・単郭構造の曲輪…長辺300m・短辺100m
③石塁に曲輪が囲郭する。
④戦国期の在地系石垣技術…片岩積み。または荒割石。
高さは2.5m程度まで。高所はセットバック技法。
⑤曲輪内部の削平が甘く、自然形態を多分に残す。
⑥虎口は、技巧的なプランが発達せず、規模も小さい…単純な平入り虎口
⑦西海地方では数例しかみられない畝状堅堀群を使用…しかも堅堀相互の間隔が広い
タイプは希少。全国的にも、かなり巨大な幅と長さを持つ堅堀
〔2−2〕俵石城の縄張り構造からみえる戦国末期深堀氏の権力構造
〔松浦型プラン〕
〔2−3〕俵石城と朝鮮南沿岸部巨済島の城郭との類似性
〔3〕深堀鍋島氏の成立事情の再検討
〔4〕大配配分格深堀氏「私領」における江戸期の「御屋敷集落」

「俵石城縄張り図」では、8本の畝状堅堀群が表示されている。善長カトリック墓地下の山中に長さ100mくらいの横堀?を、私は以前から見ている。水路のような感じもするが、念のため確認をお願いしたい。(最後の2枚の写真のとおり)

長崎の古写真考 長崎手彩色古写真 お栄の桟橋?

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 お栄の桟橋?

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
a   783 Nagasaki Wharf

目録番号:3816 長崎稲佐海岸(3)
〔画像解説〕  超高精細画像
長崎港の湾奥の西岸では、稲佐地区が半島のように突き出ている。その最頂部から長崎市街地に向けて連絡船の航路があった。この写真は稲佐の先端から長崎市街地を遠望した写真である。撮影時期は、長崎市街の建物から判断して、明治20年(1887)代である。写真手前は稲佐の桟橋で、手前の石段の品格から見て、使用頻度の高い施設であることが分かる。木製の桟橋の先に、洗練された金属製の街灯が設置されている。対岸は長崎市街地の沿岸部である。中央の林が見えているところが長崎県庁である。その右に出島がある。写真の左側、船の向こう側は大波止から浦五島町である。この付近の沿岸部には、倉庫を構えた屋敷が立ち並んでいる。左の山は立山で、山裾に筑後町の寺院群が見える。

目録番号:5630 長崎稲佐海岸(5)    掲載略

目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋
〔画像解説〕
稲佐お栄(道永えい)の経営していた「ホテル・ヴェスナー(春)」とそこに登るための桟橋。ホテルは明治26年(1893) 11月に完成した。現在の旭町・浜崎水産アパートの場所で、崖地の下を道路が通っている。背後が稲佐山である。この写真から当時の地形とホテルの場所がよく分かる。写真下の桟橋が「お栄の桟橋」。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

「長崎手彩色古写真」aの中にある「783 Nagasaki Wharf」は、長崎大学データベースの目録番号:3816「長崎稲佐海岸(3)」ほかにあるとおり、稲佐崎の桟橋である。
この項は、本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1547

ただし、長崎大学データベースの目録番号:3816「長崎稲佐海岸(3)」の解説は、間違いであろう。長崎市街地へ通船があった志賀の波止は、まだ北側の入江ではないか。立山や山裾に筑後町の寺院群までは写っていない。左の山は彦山である。
これは、目録番号:5519「ホテル・ヴェスナーと桟橋」の方の解説が正しく、稲佐崎のいわゆる「お栄の桟橋」ではないか。

長崎の古写真考 長崎手彩色古写真 高鉾島?

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 高鉾島?

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
a   高鉾島?

目録番号:2922 高鉾島(14)
〔画像解説〕  超高精細画像
大型アルバムの1枚を剥がしたもので、キャプションにG42.TAKABOKO,(PAPPENBERG),NAGASAKIと印字されている。これは横浜の小川一真のアルバムからである。高鉾島の古写真は多いが、対岸の神ノ島側から撮影されたものは少ない。高鉾島は鎖国時代にキリシタンが処刑された殉教の島として外国人に知られていた。写真は、長崎市街の対岸にあたる稲佐側の神ノ島から高鉾島および現マリア観音前を写したものである。岬における海岸近傍の集落の様子がよく撮影されている。右側の海に張り付いた民家は風除けのためかすべて瓦葺きである。船は伝馬船であり、波を避けて内湾に係留されている。畑が海の傍まで切り開かれている。中央の民家は風当たりの強い岬の鼻に立てられ、階段には石段が積まれ、軒先には水甕と桶がみえる。縁側と戸口に干してあるのは穀物であろうか。このあたりは隠れキリシタンが住んだ集落で、「神」の地名が多い。背景右側は香焼島、遠景は長崎半島の山々である。目録番号4084(整理番号79-2)と同じアングルである。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

「長崎手彩色古写真」aの中にある1番目の写真。右下のキャプションがわからない。 長崎のどこかの島だろう。あとで載せる女神の小島ではないようだ。考えられるのは、長崎大学データベースの目録番号:2922「高鉾島(14)」にある風景である。

神の島から四郎ケ島へ行く途中の突端か、四郎ケ島へ渡る海道あたりからなら、撮影できそうな写真である。
島の大きさに疑問があるが、奥が「高鉾島」、右側へ突き出た岩が現在、聖マリア像が建つ「ドンク岩」と考えられないだろうか。島の背後に対岸の山が写っていないのは気になる。
しかし、これは違った。今から再調査を始め、記事は後日修正したい。 

長崎の古写真考 長崎古えはがき 杉山橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 杉山橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
中島川水車   Nakajima River, Nagasaki
古長崎101景   Nakajima River, Nagasaki
NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
a   No 238 Nakajima, Nagasaki
c   G100 NAKAJIMA-GAWA. NAGASAKI

目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)
〔画像解説〕  超高精細画像
長崎を代表する山、彦山(右側)・豊前坊(左側)を画面中央後ろに、左岸人家の手前のところに江戸時代の上水道として使用された倉田水樋の水源、常夜灯下側には日本三大聖堂の一つといわれた長崎聖堂(中島聖堂)、写真には見えないが、常夜灯左下側には、日本三大聖堂の一ついわれた長崎聖堂(中島聖堂)、常夜灯左上が上野彦馬邸(上野撮影局)に当たる。明治中期の銭屋川(中島川)の風景である。残念なことに、常夜灯は昭和57年(1982)の長崎大水害で流失してしまった。近くにある若宮神社の秋の大祭に奉納される「竹ン芸」は、境内に高さ10mの2本の青竹を立て、これに穴を開け横木を通し、狐の面を被った雄狐と雌狐に扮した二人の青年が竹によじ登り「つり下がり、大の字、さか立ち、逆さ降り」等の曲芸を「ローレンヒューヒューライローレン」の竹ン芸囃子にのって演じるものである。現在、長崎市の無形民俗文化財に指定されている。また、若宮神社は「古いお宮を若宮」と唄われ、長崎七不思議数え唄の一つに数えられている。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

「長崎古えはがき」及び「長崎手彩色古写真」の中にある中島川の白い木橋の4点は、長崎大学データベースの目録番号:3802「中島川と上野彦馬邸(5)」に写っている橋と同じであろう。
長崎歴史文化博物館郷土資料の古賀文庫「長崎橋梁台帳」によると、橋名はないが、「明治
24年2月落成 杉山徳三郎私設ニシテ木造」とある。

明治を築いた企業家杉山徳三郎氏の邸宅がこの前にあり、私費で架けたため地元では「杉山橋」と呼ばれた。杉山氏は田上2丁目の「徳三寺」も建てられた。
現在、鉄製の人道橋「紅葉橋」が架かっている場所にあったのが、「杉山橋」である。
「ナガジン」越中先生の話に、「紅葉橋は上野彦馬が愛人の名前をつけた」とあるが、詳しくわからない。

長崎の古写真考 長崎古えはがき 茂木ホテル

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 茂木ホテル

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
ホテル 茂木ホテル

目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)
〔画像解説〕
大正初期の茂木長崎ホテルの絵葉書写真。写真には茂木長崎ホテルの従業員が玄関で写されている。建物は和風寄席棟造り2階建て。2階の廊下には洋風のヴェランダがめぐらされている。外国人の客も多かった。

目録番号:5258 茂木長崎ホテル(2)  掲載略

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき ホテル「茂木ホテル」の中、上記2点は、潮見崎の方にあった「茂木長崎ホテル」である。茂木には2つのホテルがあった。若菜川河口、弁天崎の方にあった「茂木ホテル」(後のビーチホテル)とは、別のホテルである。

長崎大学データベースとも、混同し間違った解説が多い。朝日新聞「長崎今昔」は私が間違いを知らせ、その後、訂正記事があったが、朝日新聞デジタル版は訂正がない。
この項は、本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/3149
最後の写真が、潮見崎の方にあった「茂木長崎ホテル」跡地。高崎湯の左側となり、現在はアパートが建っている。

長崎の古写真考 長崎の写真師たち 対馬厳原

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎の写真師たち 対馬厳原

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎の写真師たち 
長崎古写真撮影者不明 対馬厳原

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎の写真師たち 長崎古写真撮影者不明「対馬厳原」は、厳原港東の浜の「立亀岩」を撮影している。
ミッキー氏ブログ「島暮らし満喫・・・民際交流の島 対馬 Tsushima」に、別の古写真が掲載され、記事は次のとおり。現在の写真も同ブログから。

厳原港のようす   (厳原町大手橋・明治末期〜大正時代か)
帆前船(運搬船)や漁船などが係留、停泊しているが、港内は風もなく、遠く矢来(堤防)にたたずむ人たちの話し声が聞こえてくるような静かな情景である。
立亀岩の元にもほとんどの人の手が加わっていない東の浜の原風景がしのばれる。構図もすばらしい。原版は絵はがきかと思われる。(原所有者不明、小松接写フィルムによる)

長崎の古写真考 長崎の写真師たち 立山から望む

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎の写真師たち 立山から望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎の写真師たち 
清河武安 立山から望む(仮称タイトル)

目録番号:6030 旧長崎奉行所と師範学校

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎の写真師たち 清河武安「立山から望む」(仮称タイトル)を取り上げたのは、長崎大学データベースの目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」と、撮影地を比べるため。撮影年代はもちろん異なる。
清河武安「立山から望む」の撮影地は、長崎市玉園町「永昌寺上の墓地から」で、寺の屋根と墓地が写る。同じ墓地上から、データベース目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」も、撮影しているという不可解な見解がある。

風頭山中腹に、坂本龍馬「亀山社中」建物が写っているとして、話題になった。朝日新聞、朝日選書、山川出版彦馬の世界に掲載された。この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2158
https://misakimichi.com/archives/3485  ほか

撮影年代が違うが、両方の作品を比べるとすぐわかる。データベース目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」の撮影地を、「永昌寺上の墓地から」とするのは、間違いであろう。
立ち並ぶ通りの民家が、寺と墓地になるとは考えられない。旧奉行所との距離感も違う。永昌寺まだ先の「聖福寺大雄宝殿背後の高台あたりから」撮影されたと思われる。
この古写真は、長崎歴史文化博物館に大きく展示している。博物館も自分たちの旧奉行所のことだから、撮影地は正しく確認してほしい。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがきの長崎全景の中に、「長崎彦山」もある。清河武安「立山から望む」とも、原版があったら、風頭山中腹に坂本龍馬「亀山社中」建物が、これにも鮮明に撮影されているのではないか。

長崎の古写真考 長崎古えはがき 長崎全景 長崎

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 長崎全景 長崎

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
長崎全景 長崎

目録番号:1965 山腹から望む港町
〔画像解説〕
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真が、1枚物やそれをアルバムにして販売されたのに対して、個人アルバムは貴重である。全て、鮮やかな彩色がされている。場所未詳。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき 長崎全景1枚目の「長崎」の撮影地は、田上峠の手前、小島を上がった旧茂木街道の道と合流する現在のバス停「弥生ヶ丘」あたりから、遠くに長崎港の一部と岩屋山を望んでいる。
長崎大学データベースでは、目録番号:1965「山腹から望む港町」に、同じような撮影地からの写真があり、左背後に稲佐山の稜線も写っている。

データベースでは〔撮影地域:神戸〕とし、場所未詳のまま。本ブログ次の記事で、この間違いは指摘しているので参照。  https://misakimichi.com/archives/2213
このたび、長崎古えはがき長崎全景に「長崎」とあったので、長崎を撮影した写真に間違いないことが確かめられた。

長崎の古写真考 長崎古えはがき そのほか

イメージ 1

イメージ 2

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき そのほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき
そのほか Garden Party at Nagasaki

目録番号: 2610 鴨川の床の夕涼み(3)
〔画像解説〕  超高精細画像
鴨川四条大橋西詰南側の床の上で夕涼みに興じる舞妓・芸妓を撮影する。舞妓・芸妓のうち、左側の2人は盃で酒を酌み交わし、右の2人は拳遊に興じている。床の上には行灯や煙草盆が置かれる。背後には鴨川東岸の町並みが続き、五条大橋が見える。写真は京都の観光絵葉書のために撮影されたものであろうか。玉村康三郎撮影。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「そのほか Garden Party at Nagasaki」は、長崎大学データベースの目録番号: 2610「鴨川の床の夕涼み(3)」のとおり、京都鴨川の床の夕涼みであろう。

長崎の古写真考 長崎古えはがき 長崎名所海岸の景 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 長崎名所海岸の景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
長崎名所 海岸の景
長崎海岸の景

目録番号:1818 和船(4)
〔画像解説〕
四角の帆一枚で走る和船。これは主として関西以西で使われたいさば船とおもわれる。運搬用に使用された。わりに大きな船。撮影場所は不明。

目録番号:6762 和船(13)  掲載略

目録番号:4533 和船(10)  掲載略

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「長崎名所 海岸の景」または「長崎海岸の景」は、同じ絵葉書だが、長崎大学データベースの目録番号:1818「和船(4)」ほかとも、同じ写真であることがわかるだろうか。同じ和船と場所を写し、どちらかが反転した写真なのである。

絵葉書に「(長崎名所)」とある以上、撮影場所は「長崎」と考えられる。
実際の撮影場所は、長崎のどこだろうか。茂木の若菜橋近くが状景が合う。河口には天草航路の長く突き出た波止場があり、そこから撮影できそうである。

背後の集落や山の景色は、目録番号:4533「和船(10)」の方が、手がかりとなる。 茂木若菜橋の風景を、同「長崎古えはがき」から参考のため掲げる。この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2843
https://misakimichi.com/archives/1531