長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1767 風頭からの港町 ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:1767 風頭からの港町
〔画像解説〕
上野彦馬の撮影による風頭山から望む長崎市街と長崎港。出島の横には中島川口に架けられていた大橋を見ることができる。当時、新地浦にはまだ海水が流入していた。出島側には西役所の遺構が見られ、旧県庁舎はまだ建てられていない。明治初年の写真。
〔画像解説〕 超高精細画像
風頭山から長崎市街地南部を撮影した写真である。17-2と同じ場所から同じ方向を撮影したものである。写真中央の中島川河口に新大橋が架けられているので、明治2年(1869)以降で、写真右の長崎県庁の場所に近代的な県庁舎が建てられていないので明治9年以前の写真である。梅香崎居留地が完成し、東山手からの外国人居留地の町並みは、外国人居留地に編入された新地を経て出島に繋がっている。写真左に、明治2年(1869)に新地が築き増しされた新しい護岸と銅座川の水面が見える。本籠町、広馬場、梅香崎の接点が鮮明に見える。東山手、梅香崎、新地、築町、出島にかけて、大規模な倉庫や商館が立ち並び、外国貿易の最前線であったことが伺える。県庁のある高台は、まだ近代化した官庁街になっていない。長崎市中心部の建物は、依然として伝統的な木造の建物である。中島川で区切られた町並みや、整然と並ぶ鍛冶屋町通りの家並みが見える。この写真は、目録番号4239(整理番号82-7)の写真と同じものであるが、彩色が異なる。
目録番号:5897 長崎市街と長崎港(5) 掲載略
〔画像解説〕
風頭山から長崎市中と港を展望したもの。左隅の新地蔵の付近は埋め立てが進み、新しい建物が建築中であるが、内側はまだ石垣がそのまま残っている。出島と出島橋、明治2年(1869)に架けられた新大橋の架かる築町には白い洋館が見える。明治4年から5年(1871〜2)頃の撮影。港の内には軍艦や船が停泊し、対岸には飽の浦の造船所、稲佐方面が展望される。
■ 確認結果
きょう2012年5月19日付朝日新聞長崎地域版”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「明治期の長崎市街中心部と長崎港 洋館と和風建築点在」
データベースでは、目録番号:1767「風頭からの港町」の作品。目録番号:5897「長崎市街と長崎港(5)」も、同じ写真である。
説明図は紙面が小さいから、そうなったかも知れないが、「新地」の位置は青線囲いの部分。ふつう新地蔵跡を考えるので、違和感がある。海岸側は築き増されているようで、もう少し左斜め下の中心に表示してもらえれば良い。
今回の新聞の解説では、「文明開化が始まった1873年に風頭から撮影された市街中心部と長崎港です。撮影者は不明です」となった。
この項は、本ブログの次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2725
資料によって、撮影者は「上野彦馬」あり、「内田九一」あり、「不詳」あり。撮影年代もバラバラ。上野一朗氏編「写真の開祖 上野彦馬 ー写真に見る幕末・明治ー」産業能率短期大学出版部発行に掲載されているらしいが、見る機会がない。
長崎歴史文化博物館で昨年6〜7月開催された、企画展「長崎・冩眞傳來」の目録では、〔撮影者:内田九一〕となっていた。
地元の大学や博物館である。地元の写真家「上野彦馬」の作品くらい、早急に正しく研究して、根拠をもって公表してもらいたい。記事や写真集、写真展のたびに見解が変わる。データベース上の解説でも食い違いがまま、一向に改善されないのも困ったことである。