月別アーカイブ: 2012年5月

長崎八景の風景  7 市瀬晴嵐

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長崎八景の風景  7 市瀬晴嵐

江戸時代の長崎名勝図絵の記述によると、「長崎八景」には2種類ある。ひとつは崇福寺住職の唐僧・道本編集版。そしてもうひとつ版画、大和屋版である。
長崎版画の版元は、江戸時代中期以来15名以上を数える。絵師を兼ねた版元は、大和屋の磯野文斎と梅香堂の可敬(かけい)、文錦堂の梅月(ばいげつ)などがいた。なかでも磯野文斎の版画が多い。
今回紹介する「長崎八景」は、長崎版画には珍しい長崎の風景を描いたもの。版画には「文斎堂上梓」あるいは「文彩堂」「大和屋由平板」「文斎發販」とある。(下記サイトから)

長崎Webマガジン”ナガジン”発見!長崎の歩き方 「越中先生と行く 長崎八景の世界〜江戸期の景勝地〜」から、同じ風景を訪ね、現在の写真を大きく写してきた。
越中先生の詳しい解説は、同サイトの次を参照。
http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken08031/index.html
長崎八景「7 市瀬晴嵐」の、現代版写真の撮影場所は、本河内1丁目の「一の瀬橋」近くからだが、蛍茶屋電車車庫屋上のRoyal Host駐車場から写した。橋手前の「光雲寺墓地」(寺は出来大工町)上部からも考えられるが、もう同じ光景が写せなかった。
「一の瀬川に架かる一の瀬橋、蛍茶屋(一の瀬茶屋)、前面の彦山、中腹の青銅(からかね)塔。見通しは悪くなったが、今も現存するものも多い。飛脚や釣り人、唐人らしい人達。旅の中継点ながらものどかな風景が描かれている。…」と解説している。

九州大学所蔵、永見徳太郎編集「長崎版画集」による九州大学デジタルアーカイブ「長崎八景」の解説は、次のとおり。
3 市瀬晴嵐   出版元 大和屋  年代 天保末〜弘化頃
「晴嵐」は晴れわたった日のかすみのこと。この絵には中島川に架かる一ノ瀬橋の周辺が描かれている。橋の右手にある蛍茶屋は、長崎を離れる旅人と別れの宴を開く場所であった。正面の山は彦山、左手の山は峨眉山である。   13.0×19.5cm

なお、「峨眉山」は、彦山のこと。版画中の「正面の山は峨眉山(彦山)、左手の山は豊前坊(飯盛山)である」と解説するのが正しいと思われる。

大川の鯉流し  長崎市為石町

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大川の鯉流し  長崎市為石町

八郎岳を源流とし、為石海岸で橘湾へそそぐ清流「大川」。栄上先の川岸に高島町為石浄水場がある。入口の田張橋のところに「鯉流し」があって、鯉のぼりが五月風に元気に泳いでいた。
”よみがえれ ふるさとの川・大川 ”がスローガン。川辺を大切に美しくする会・為石小学校区育成会・為石小学校区連合自治会が、毎年、実施しているようだ。
「みさき道」の鹿尾川渡り近くでも見ている。

長崎八景の風景  6 神崎帰帆

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長崎八景の風景  6 神崎帰帆

江戸時代の長崎名勝図絵の記述によると、「長崎八景」には2種類ある。ひとつは崇福寺住職の唐僧・道本編集版。そしてもうひとつ版画、大和屋版である。
長崎版画の版元は、江戸時代中期以来15名以上を数える。絵師を兼ねた版元は、大和屋の磯野文斎と梅香堂の可敬(かけい)、文錦堂の梅月(ばいげつ)などがいた。なかでも磯野文斎の版画が多い。
今回紹介する「長崎八景」は、長崎版画には珍しい長崎の風景を描いたもの。版画には「文斎堂上梓」あるいは「文彩堂」「大和屋由平板」「文斎發販」とある。(下記サイトから)

長崎Webマガジン”ナガジン”発見!長崎の歩き方 「越中先生と行く 長崎八景の世界〜江戸期の景勝地〜」から、同じ風景を訪ね、現在の写真を大きく写してきた。
越中先生の詳しい解説は、同サイトの次を参照。
http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken08031/index.html
長崎八景「6 神崎帰帆」の、現代版写真の撮影場所は、戸町1丁目の史跡「戸町番所跡」の中段付近。現在、アプローズ長崎南ベイサイドヒルズ壱番館など建っている下の坂段からと思われる。
「男神の下に神崎神社(こうざきじんじゃ)があり、航海の神として唐船に乗って来ていた唐人達の信仰も集めていたんですよ。唐船は、この神崎神社の前で船を泊めてお祈りしたそうですよ。…男神と女神は長崎港の一番狭くなった場所で、両側には海を監視する番所も置かれていました。…」と解説している。

九州大学所蔵、永見徳太郎編集「長崎版画集」による九州大学デジタルアーカイブ「長崎八景」の解説は、次のとおり。
2 神崎帰帆   出版元  ー   年代 天保末〜弘化頃
「帰帆」は故国や港に帰ること。この絵には波を蹴立てて入港する唐人船が描かれている。船全体が鮮やかに彩色され、左の沖には八郎嶽が薄墨の形で現されている。右側の海辺にある社は、金貸大明神であろう。   13.0×19.5cm

長崎八景の風景  5 愛宕暮雪

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長崎八景の風景  5 愛宕暮雪

江戸時代の長崎名勝図絵の記述によると、「長崎八景」には2種類ある。ひとつは崇福寺住職の唐僧・道本編集版。そしてもうひとつ版画、大和屋版である。
長崎版画の版元は、江戸時代中期以来15名以上を数える。絵師を兼ねた版元は、大和屋の磯野文斎と梅香堂の可敬(かけい)、文錦堂の梅月(ばいげつ)などがいた。なかでも磯野文斎の版画が多い。
今回紹介する「長崎八景」は、長崎版画には珍しい長崎の風景を描いたもの。版画には「文斎堂上梓」あるいは「文彩堂」「大和屋由平板」「文斎發販」とある。(下記サイトから)

長崎Webマガジン”ナガジン”発見!長崎の歩き方 「越中先生と行く 長崎八景の世界〜江戸期の景勝地〜」から、同じ風景を訪ね、現在の写真を大きく写してきた。
越中先生の詳しい解説は、同サイトの次を参照。
http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken08031/index.html
長崎八景「5 愛宕暮雪」の、現代版写真の撮影場所は、愛宕3丁目の前愛宕スポーツセンターの上あたり。現在、矢の平への新道が開通している。
愛宕山は、標高230m。「今も存在感ある姿で、長崎港を見下ろしているかのようだ。右側に見える帆柱は大波止、左手は当時唐船の碇泊地だった梅が崎。長崎港口に伊王島と香焼島と思われる島影も描かれている」と解説している。港外までは確認できない。

九州大学所蔵、永見徳太郎編集「長崎版画集」による九州大学デジタルアーカイブ「長崎八景」の解説は、次のとおり。
8 愛宕暮雪   出版元 大和屋  年代 天保末〜弘化頃
「暮雪」は夕暮れに降る雪、または夕暮れに見る雪景色のこと。長崎の町と港を見下ろす愛宕山の杉や枯木に雪が深くつもっている。長崎の港に船が一艘も走っていないのは珍しい。  
13.0×19.5cm

長崎八景の風景  4 大浦落雁

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長崎八景の風景  4 大浦落雁

江戸時代の長崎名勝図絵の記述によると、「長崎八景」には2種類ある。ひとつは崇福寺住職の唐僧・道本編集版。そしてもうひとつ版画、大和屋版である。
長崎版画の版元は、江戸時代中期以来15名以上を数える。絵師を兼ねた版元は、大和屋の磯野文斎と梅香堂の可敬(かけい)、文錦堂の梅月(ばいげつ)などがいた。なかでも磯野文斎の版画が多い。
今回紹介する「長崎八景」は、長崎版画には珍しい長崎の風景を描いたもの。版画には「文斎堂上梓」あるいは「文彩堂」「大和屋由平板」「文斎發販」とある。(下記サイトから)

長崎Webマガジン”ナガジン”発見!長崎の歩き方 「越中先生と行く 長崎八景の世界〜江戸期の景勝地〜」から、同じ風景を訪ね、現在の写真を大きく写してきた。
越中先生の詳しい解説は、同サイトの次を参照。
http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken08031/index.html
長崎八景「4 大浦落雁」の、現代版写真の撮影場所は、南山手町の大浦天主堂へ登る坂の入口「ANAクラウンプラザホテル 長崎グラバーヒル」(旧 長崎全日空ホテル グラバーヒル)前からである。
「…現在ホテル(全日空ホテルグラバーヒル)が建っている辺りが下り松があった場所ですよ。“松が枝町”という町名にだけ、この松が残っていますね。…ちなみに左の山は“どんの山”で右側は“星取山”。橋は現在石橋付近にあった木橋を描いている」と解説している。

九州大学所蔵、永見徳太郎編集「長崎版画集」による九州大学デジタルアーカイブ「長崎八景」の解説は、次のとおり。
7 大浦落雁   出版元 大和屋  年代 天保末〜弘化頃
「落雁」は池や沼などにおりたつ雁のこと。渡り鳥である雁は秋に北方より渡来し、春に北へ去る。静かな風景だが大浦は開国後に外国人居留地となり、一時殷賑を極めた。 13.0×19.5cm

なお、「下り松」と呼ばれた大松は、実際は現在のホテルの場所ではなく、もう少し南西側にある三菱重工南山手外人住宅の敷地内となった場所に生えていたとの指摘がある。
居留地造成前後の「下り松」の古写真が、次に掲載されているので参照していただきたい。
ブライアン・バークガフニ氏HP「NAGASAKI」
http://www.nfs.nias.ac.jp/page005.html
長崎大学附属図書館ボードインコレクションにあるベアト撮影写真
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/  目録番号: 792「長崎大浦外国人居留地」

長崎八景の風景  3 笠頭夜雨

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長崎八景の風景  3 笠頭夜雨

江戸時代の長崎名勝図絵の記述によると、「長崎八景」には2種類ある。ひとつは崇福寺住職の唐僧・道本編集版。そしてもうひとつ版画、大和屋版である。
長崎版画の版元は、江戸時代中期以来15名以上を数える。絵師を兼ねた版元は、大和屋の磯野文斎と梅香堂の可敬(かけい)、文錦堂の梅月(ばいげつ)などがいた。なかでも磯野文斎の版画が多い。
今回紹介する「長崎八景」は、長崎版画には珍しい長崎の風景を描いたもの。版画には「文斎堂上梓」あるいは「文彩堂」「大和屋由平板」「文斎發販」とある。(下記サイトから)

長崎Webマガジン”ナガジン”発見!長崎の歩き方 「越中先生と行く 長崎八景の世界〜江戸期の景勝地〜」から、同じ風景を訪ね、現在の写真を大きく写してきた。
越中先生の詳しい解説は、同サイトの次を参照。
http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken08031/index.html
長崎八景「3 笠風頭夜雨」の、現代版写真の撮影場所は、伊良林3丁目の風頭公園内「風頭山展望台」からである。
「…(風頭山は)文人墨客は好んで笠頭という字を使っている。…それにしても昔は風頭からこんなふうに海を見渡せたとは…さぞ絶景だったに違いない」と解説している。

大学所蔵、永見徳太郎編集「長崎版画集」による九州大学デジタルアーカイブ「長崎八景」の解説は、次のとおり。
5 笠頭夜雨   出版元 大和屋  年代 天保末〜弘化頃
「夜雨(やう・よさめ)」は夜に降る雨のこと。この絵には薄暗い空からのはげしい雨と笠頭山の大松が描かれている。「唐寺」とあるのは崇福寺のことで、赤い山門が黒く現されている。正面の山は稲佐山である。海には、オランダ船・唐船・和船が碇泊している。  13.0×19.5cm

長崎八景の風景  2 安禅晩鐘

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長崎八景の風景  2 安禅晩鐘

江戸時代の長崎名勝図絵の記述によると、「長崎八景」には2種類ある。ひとつは崇福寺住職の唐僧・道本編集版。そしてもうひとつ版画、大和屋版である。
長崎版画の版元は、江戸時代中期以来15名以上を数える。絵師を兼ねた版元は、大和屋の磯野文斎と梅香堂の可敬(かけい)、文錦堂の梅月(ばいげつ)などがいた。なかでも磯野文斎の版画が多い。
今回紹介する「長崎八景」は、長崎版画には珍しい長崎の風景を描いたもの。版画には「文斎堂上梓」あるいは「文彩堂」「大和屋由平板」「文斎發販」とある。(下記サイトから)

長崎Webマガジン”ナガジン”発見!長崎の歩き方 「越中先生と行く 長崎八景の世界〜江戸期の景勝地〜」から、同じ風景を訪ね、現在の写真を大きく写してきた。
越中先生の詳しい解説は、同サイトの次を参照。
http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken08031/index.html
長崎八景「2 安禅晩鐘」の、現代版写真の撮影場所は、上西山町「諏訪神社」である。境内左側から長坂とクスノキの巨木を主に撮影している。
「版画全体に描かれているのは長崎市民の氏神様である諏訪神社で、安禅寺という寺院に関わるものは、わずか左下方に見える本堂と鐘楼が描かれているのみだ」という解説である。

大学所蔵、永見徳太郎編集「長崎版画集」による九州大学デジタルアーカイブ「長崎八景」の解説は、次のとおり。
6 安禅晩鐘   出版元 大和屋  年代 天保末〜弘化頃
「晩鐘」は夕方にならす寺院・教会などの鐘のこと。安禅寺の鐘は左隅に見え、朱から青へと変化している玉園山・諏訪神社が巧みに描き出されている。安禅寺は承応1(1652)年に建てられた天台宗の寺で、明治初年頃に廃寺となった。現在その敷地は長崎公園となっている。
13.0×19.5cm

長崎八景の風景  1 立山秋月

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長崎八景の風景  1 立山秋月

江戸時代の長崎名勝図絵の記述によると、「長崎八景」には2種類ある。ひとつは崇福寺住職の唐僧・道本編集版。そしてもうひとつ版画、大和屋版である。
長崎版画の版元は、江戸時代中期以来15名以上を数える。絵師を兼ねた版元は、大和屋の磯野文斎と梅香堂の可敬(かけい)、文錦堂の梅月(ばいげつ)などがいた。なかでも磯野文斎の版画が多い。
今回紹介する「長崎八景」は、長崎版画には珍しい長崎の風景を描いたもの。版画には「文斎堂上梓」あるいは「文彩堂」「大和屋由平板」「文斎發販」とある。(下記サイトから)

長崎Webマガジン”ナガジン”発見!長崎の歩き方 「越中先生と行く 長崎八景の世界〜江戸期の景勝地〜」から、同じ風景を訪ね、現在の写真を大きく写してきた。
越中先生の詳しい解説は、同サイトの次を参照。
http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken08031/index.html
長崎八景「1 立山秋月」の、現代版写真の撮影場所は、奉行所の高台とあるが、はっきりした説明がない。立山2丁目「立山」バス停すぐ下の墓地からの撮影と思われる。長崎港には「帆船まつり」のため、日本丸など入港していた。
「…これは立山の秋月ではなく、立山から眺めた秋の月が美しい、という意味ですね。芭蕉十哲の一人、向井去来も“たふとさ(尊さ)を 京でかたるも 諏訪の月”と詠んでいます。立山やお諏訪さんから眺める月は当時から美しいと評判だったんですね。…」と解説している。

大学所蔵、永見徳太郎編集「長崎版画集」による九州大学デジタルアーカイブ「長崎八景」の解説は、次のとおり。
1 立山秋月  出版元 不 明  年代 天保末〜弘化頃
「秋月」は秋の夜の月のこと。港にはオランダ船や唐船が浮かび、手前の松の大木がくっきりとして絵全体が引きしめられている。空と海の鮮やかな藍は西洋絵の具のプロシアン・ブルーを使ったのではないだろうか。  13.0×19.5cm

多良山系大花山のシャクナゲ鑑賞と藩境塚調査  2012年5月

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多良山系大花山のシャクナゲ鑑賞と藩境塚調査  2012年5月

2012年5月4日(金 みどりの日)晴。多良山系大花山(標高875m)のシャクナゲ鑑賞と藩境塚調査。参加7人。みさき道歩会の例会。4月30日が雨のため延期して実施。
富川渓谷9:10発ー大カツラ9:55ー大山神社10:20ー広域基幹林道上(12:25着 昼食 13:00発)ー大花山13:40ー横峰越15:02ー広域基幹林道ー富川渓谷17:30着
(徒歩距離 約15km)

長崎を車1台で出発。諫早市富川渓谷駐車場へ駐車。9:10頃から歩き出す。大雄寺入口の諫早名木イロハカエデや渓谷の岩に刻まれた五百羅漢を見学。良く見ると人面岩があった。渓谷では2人がすぐ滑り、渕に落ちるところだった。富川橋まで上りカツラの巨木も見学。
少し戻り、高峰展望台の鞍部を越すと、大山神社へ出る。林道を突っ切りながら登って行くと、広域基幹林道と出合う。矢印の標識によりまだ真直ぐ登って行き、途中の農道草場で昼食。

最後の2つのピークを越すと、やっと植林地から雑木林の快適な道となり、大花山の山頂に着いた。展望が初めて開らけ、シャクナゲ越しに鳥兜山・郡岳が見えた。
二合半岳への分岐まで来ると、雲がかかった経ヶ岳が望める。このルート、シャクナゲをまだ期待していたが、昔に比べると数が少ない。

大花山から横峰越までは、縦走路に諫早・大村藩が築いた藩境塚のオンパレード。「大村郷村記」が記す。すべて四角の塚で、舫塚であろう。丹念に写して行ったが、数が多く途中で止めた。15基以上はある。立石の上部に+と刻んでいるのも、塚の代わりと思われる。最近の図根三角点や補点の石柱もあった。

大花山から1時間かかって横峰越へ到着。諫早少年自然の家へ下山路があり、下ると広域基幹林道へ出る。富川渓谷へ戻るため林道を西にテクテク歩くが遠い。午前の通過地点まで戻り、大山神社・富川渓谷へ下った。
富川渓谷から大花山へのルートは、昔は雑木林の中の道で、急な登りはなく快適だったはずだが、植林や林道により荒れてきている。経験者・健脚向きコース。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29586288.html

大久保山「地理局測點」標石の地中埋石などの調査  上西氏HPから

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大久保山「地理局測點」標石の地中埋石などの調査  上西氏HPから

京都市在住の日本測量史を研究されている上西勝也氏が、2012年4月5日〜6日、長崎に来られた。HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史(旧題:三角点の探訪)」を制作されている。
地図をつくるための測量の歴史とともに、探訪した測量の標石や遺跡をはじめ測量や地図に関する話題を広く紹介している。

今回は、2006年(平成18)2月に続く2度目の調査来崎。主な目的は、魚見岳台場跡から大久保山への登山道途中に残る明治9年5月「地理局測點」標石の基盤石と地中埋石の調査、星取山のアメリカ隊金星太陽面通過観測の地遺跡確認、それと五島市栄町に建立されている伊能忠敬天測之地の記念碑探訪であった。

4月5日の長崎市内は、私が車で案内し、現地へ同行した。そのほか南山手にある1等水準点、神の島にある陸軍標石など案内した。四郎ケ島台場跡も行った。
詳しい調査結果は、長崎のこれまでの記事に追加し、上記のとおり同HPで報告されているので、今回の関係分を紹介する。後ろの調査状況写真は、私の撮影である。